2024年3月24日 主日礼拝「私たちはぶどう園の農夫」

礼拝式順序

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇118篇26〜29節
讃  美  讃美歌13「こころのよろこび」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌140「いのちのいのちに」
聖書朗読  マタイの福音書21章33〜46節
説  教  「私たちはぶどう園の農夫」
讃  美  讃美歌355「主をあおぎみれば」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書21章42b節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書21章33〜46節

説教題

「私たちはぶどう園の農夫」

今週の聖句

『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』

マタイの福音書21章42b節

説教「私たちはぶどう園の農夫」

マタイの福音書21章33〜46節

皆さんは人生に一度は、誰かに雇われたことがあると思います。私の中では、多分テレビドラマのイメージなのかもしれませんが、立派な大企業の一般社員などは、なかなか会長とか社長にお目にかかれない、どこか雲の上の存在のようなイメージがありますがどうなのでしょうか。実際、私が今働かせていただいている会社の社長は、雇用契約書に記されている名前と、その方が女性であることしか知りません。もちろん顔も知りません。どのような声でどのようにお話しになるのか、どのような性格なのか全く知りません。けれども仕事をしていて、女性ならではの(と言ってしまうと、今の時代アウトなのかもしれませんが…)社員に対する細やかな配慮が感じられるところがあります。しかし女性ならではの細かなところでの仕事上のルールなど厳しさも感じられるところもあります。良くも悪くも社長に対するイメージが膨らむのですが、まぁ恐らく優しいだけではないでしょう。社長が遠い存在だと思い、好き勝手なことを言っておりますが…。私が社長のことを遠い存在だと思っているのと同じように、社長は私のような1従業員のことなどご存知ないでしょうし、この話題が本人の耳に入ることは恐らくないと思いますが、先日は「覆面調査」なるものの結果がいきなり壁に大きく貼られていて驚きました。どうやら本社から遣わされた方が、お忍びでチェックし、後日その結果がいきなり高札のように掲げられたというわけです。「壁に耳あり、障子に目あり」ではないですが、気をつけなければならないなと思います。普段から負い目に感じることをしなければ良いだけの話しです。雇っていただいている恵み、心からの感謝をもって、喜んで仕えていれば良いのでしょうが、そこは罪人。恵みや感謝を忘れ、会社に対する反発、こんなにきつい仕事をしているのだから、もっと給料上げろとか言う不平不満はつきもの。もし覆面調査員が誰だか分かっていたら、評価を恐れつつも、どこかで「何様のつもりだ」とばかりに嫌な態度を取ってしまっていたかもしれません。もしそれが社長の耳に入ったら。恐らく優しいだけではない社長。「仏の顔も三度まで」(反省なく同じ過ちを繰り返すと、仏〈神?〉のように寛容な人も怒るないし見放すであろうというもの)、「堪忍袋の緒が切れた」(怒りを抑えて我慢を重ねて来たが、もうこれ以上我慢できなくなることのたとえ)、そのようになってしまうこともあり得るのかもしれません。

「何の話しだよ」みたいなお話しをしてしまいましたが、今日の箇所には、たとえとして「雇われたことの恵みと感謝を忘れた人の結末」が記されています。それは、この世で民を正しく導くことを神から期待され委ねられた祭司長たちとパリサイ人たちに対して語られました。彼らはまさに、神の目に、主から受けた恵みと主に対する感謝を忘れ、高慢に(自分が優れていると思い上がって、相手を見下すこと)、そして傲慢に(相手を見下し、無礼な態度をとること)振る舞う者の姿そのものに映る者たちでした。そのような彼らに対するイエス様の預言であることを覚えつつ、見てまいりましょう。

21章33節    もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。

前回のところでは、ぶどう園の2人の息子のたとえが語られました。それは指導者たちの神に対する不従順が扱われました。今回は「もう一つのたとえ」として、指導者たちは神に対する不従順どころか、神に敵対しているとして語られます。神に従順に仕えていると思っていた彼らが、実は不従順であると、それどころか神に敵対しているといきなり高札を掲げるように語られるのですから大変です。

今回のたとえでは、旧約聖書の詩篇やイザヤ書でもおなじみですが、ぶどう園はイスラエル、その主人は神を表しています。イザヤ書にはこのように記されています。「彼(神)は“そこ”を掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り(つまり収穫を期待して準備万端)、ぶどうがなるのを心待ちにしていた」(イザ52)。“そこ”と記されているところに聖書の奥深さを感じさせますが、皆さんにとって今、“そこ”とはどこだと感じられるでしょうか。神は皆さんの今の“そこ”で語られます。

獣から守るために巡らした垣、盗人や火事などを見張るために建てたやぐら、ぶどうを絞るための踏み場は、このぶどう園に対する主人の大きな期待を物語っているようです。しかし、ぶどう園の管理を任された農夫たちは、どこまでのその期待を裏切るのです。農夫たちとは、ぶどうの世話をして立派に実を結ばせ、その収穫を主人に納める者です。このたとえの主人と農夫(小作農)の雇用関係というのは、当時一般的でしたし、それは今も職業は違えど同じでしょう。その農夫たちは、何もかも整えられた良いぶどう園で働けるというチャンスを得ただけでした。また、彼らがその役割や仕事を任されたのも、すべて主人の恵みでした。そこに主人の召し(招待)があったのです。神がその環境を作り、神が彼らに務めを委ねられたのです。新しいぶどう園はぶどうが収穫できるまでに4年を要したと言われていますが、その間、農夫たちはどのような働きをしていたのでしょうか。楽しいばかりではない、日照りの中、寒さの中、雨風の中、辛く厳しい中を通らされてこともあったでしょう。様々な中を通らされ、最初は従順だった彼らの心は変わってしまったのでしょうか。恵みであり、楽しく喜びに満ちた労働が、いつの間にか違ってしまったのかもしれません。

ぶどう園はいよいよ収穫の時が近づきました。

21章34節    収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。

「収穫」と訳されている語ですが、これは「実」また「結果」を表す語です。収穫(実、結果)は農夫たちに課せられるものです。前回のたとえに続くここでは、神の民に要求される神への従順を表しています。農夫たちは従順に収穫し、従順に主人に納めなければなりません。

その実(結果)を見る時が近づいたために、主人はそれを受け取ろうと自分のしもべたちを農夫たちのところに遣わしました。しかし農夫たちは収穫を渡さないどころか、そのしもべたちを打ちたたいたり、殺したり、石打ちにしてしまうのです。主人に対する不従順どころか、敵対、反逆するのです。家の主人、つまり神の御心を伝えるしもべ預言者たちを3度までもひどい目に遭わせてしまいました。

21章35節    ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。
21章36節    主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。

この世のことわざは「仏の顔も三度まで」ですが、聖書が記すこの主人は、すぐに農夫たちを滅ぼそうとはされずに、再び何度も悔い改めの機会を与えられるのです。ところがどうでしょう。農夫たちの悪はさらに激しくなりました。しかしこの主人は、自分が派遣したしもべたちがこんなにもひどい目に遭っても、それでも忍耐深くしもべたちを送り、最後には自分の愛する息子まで送るのです。

これが何をたとえているかもうお分かりでしょう。旧約のユダヤの民は、神が遣わされた預言者たちを何度も何人も打ち殺しました。恵みによって選ばれ、神の民とされた彼らには、必要なものはすべて神から与えられること、また神の永遠の約束が与えられていました。その神の民としての生活の基準とする律法(ルール)、神の民のいのちを守るための律法が恵みによって与えられました。そのようにして、神はご自身の民を祝福されたのです。しかし、彼らは神が恵みによって与えてくださった律法(ルール)を破って神に逆らい、悔い改めて実を結びなさいと言われる神のことばを告げるために遣わされた預言者たちを追い払い、殺害するという悪まで犯したのです。仏の顔は三度までかもしれませんが、神は忍耐され、それでもご自分の民を愛し、それでもご自分の民を悔い改めに導こう、そして悔い改めたなら赦そうと、救おうと、祝福しようと、忍耐深く預言者たちを遣わし、最後にはご自分の息子、愛するひとり子、イエス・キリストまでこの世に送られたのです。

21章37節    その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。

「その後」と訳された語は、「最後に」とも訳せる語です。また「敬う」という語は、良く使われる尊敬ではなく、難しいのですが「尊敬する」と「振り向く」という同時に2つの意味を持つ語で、つまりこれは、心に深く結びついた行為、悔い改めて尊敬するということを表しています。ギリシア語の小難しいところですが、イエス様はとても重要なことを言われています。主人(神)は期待されているのです。前に遣わしたしもべたち(預言者たち)に対してとった態度や行為を心から悔い改めて、息子(イエス・キリスト)を尊敬してくれることを、神は切実に願っておられる。イエス様はそのことをここで言われているのです。どうして神はこのことを切実に願われるのでしょうか。彼らがこのままだと、神は彼らを罰しなければならないからです。

21章38節    すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。

21章39節    そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。

農夫たちはぶどう園の主人の財産目当てに、息子をぶどう園の外に追い出して殺害してしまう。イエス様はご自分が殺されてしまう息子であること、そして息子を殺してしまう農夫たちがあなたがたであると、祭司長たちやパリサイ人たちに教えておられます。

イスラエルを立てて愛され、支え配慮され、常に顧みられる方は神であり、農夫たちにたとえられた指導者たちは、神のぶどう園のようなイスラエルを任されて管理監督し、良い実を結ばせる責任を任されただけ。しかもそれは恵みでした。それなのに、民を導く指導者たちは、イスラエルを自分の所有物のように考えてしまっていました。考えるようになってしまった。そして、神殿とイスラエルの民に対する自分たちの宗教的、政治的、経済的の優位な立場、権利、権威、そのようなものを決して奪われまいと、主人の息子にたとえられたイエス・キリストを十字架につけてしまうのです。それが神に対する反逆であることを、このたとえは明確にしています。そしてそれが神に対する反逆であることに、神に忠実に仕えていると思っている彼らは気づいていないのです。

息子は死んでしまう。しかし父は遠くにいても生きている。息子を殺してしまえばぶどう園を自分たちのものとすることができるという農夫たちの考えは、あまりにも安易で浅はかなものであったと言えるでしょう。

21章40節    ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」
21章41節    彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」

「収穫の時が近づいた」「その後(最後に)」「ぶどう園の主人が帰って来たら」それらをよく考えてみるならば、それは終末の時を指しているとして解釈すべきことが分かります。

イエス様はこの農夫たちをどうすべきかを、農夫たちにたとえられた祭司長たちとパリサイ人たちに尋ねました。皮肉にも彼らは見事正解を答えるのです。しかし彼らは自分たちが農夫たちにたとえられたことを悟れずに、「彼らを殺し、ぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう」と答えました。

そうです。そのとおりなのです。その時になると、主人は悔い改めず神に反逆する農夫たちを処罰する。悪者どもを情け容赦なく滅ぼす。神は愛なるお方、恵みの神ではありますが、いつまでも忍耐されるわけではないのです。世の終わりの時が来ようとしている。最後に御子まで遣わされたのは、もう後がないということです。

「収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たち」とは誰か。主人に従順な農夫たち。以前の預言者たちに対する態度や行為、自らの罪を心から悔い改め、最後に主人が遣わした息子を、心を伴って愛し、尊敬し、受け入れる農夫たち。43節にある「神の国の実を結ぶ民」に、ぶどう園、神の園、神の国、天の御国は与えられるのです。

イエス様は指導者たちの正解の答えを引き出し、すぐに続けて言われました。彼らが自ら言った正解、結末について、彼らもよく知っているはずの詩篇を引用して語られました。

21章42節    イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』

詩篇118篇は、周囲の国々に脅かされていたイスラエルが自分たちの国、神の国を建て上げようとする中で危機にあって、力強く頼りがいがあるように見える人間を、自分たちを救ってくれる者として頼りにするのではなく、人々が捨ててしまうような石、実はそれは霊である主であり、主に対する信仰なのですが、まさに人というのは、自分が救われるためには信仰よりも目に見えるものに頼ってしまう者です。そうではなく、主こそ要の石である。主に対する信仰こそ神の国を建てるのに最も重要なものであることを歌うものです。

要の石がどのようなものであるかご存知でしょうか。この会堂の構造を見ると良く分かるのですが、この会堂は木造建築ですが、石造建築においてあの頂点に据えられる石のことを要の石と呼ばれます。その役割は、木造建築で言うところの大黒柱です。構造上、家全体の圧力を一手に担い、家全体を支え立てるものです。

この時、まだイエス様は指導者たちに殺されてはいませんでしたが、指導者たちの中にはすでにイエス様を何としても殺して排除してしまおうという恐ろしくも強い思いがありました。ですから彼らが良く知っている詩篇の引用から、彼らは悟り始めたのでしょう。あなたがたから退けられるご自分こそ、神の救いの計画の完成者であるとイエス様が言われていることを。彼らが自分を立て、自分を救うために排除し喜ぶ、邪魔な石、つまずきの石ようなイエス・キリストが、実は彼らを真に立てる、彼らの真の救いが完成されるためにはなくてはならない石、重要人物であった。人々が「十字架につけろ!」と罪に定めたイエス・キリストが、実は「十字架につけろ!」と叫ぶ人々の罪をその身に負われ、十字架に架けられ死なれ、「十字架につけろ!」と叫ぶ者たちの罪、神への反逆の罪を一身に背負い、本来神に罰せられ滅ぼされるべき罪人の身代わりとなって神に罰せられた。これは主がなさったこと。主が永遠のご計画をもって成し遂げられること。それは私たちの目には不思議なこと。不思議だけれども、不思議だからこそどうしても信仰が必要なのです。

そしてついにイエス様は核心を突かれます。

21章43節    ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。

「ですから、わたしはあなたがたに言っておきます」。救い主の厳粛なおことばです。

直前にイエス様が葉っぱばかり立派に繁っていながら実を結んでいないいちじくの木を枯らせましたが、良い実を結ばない、良い結果が望めない彼らからぶどう園、自分たちのものであると考えたイスラエル、神の国は取り去られ、主に対する信仰によって良い実を結ぶ、神が望まれる良い結果を伴う者たちに神の国が与えられる。たとえで息子が殺されたように、石(わたし・イエス・キリスト)は捨てられるであろう。しかし、神がその石を要の石とされるのである。つまり、殺された息子(わたし・イエス・キリスト)は神によってよみがえらされ、よみがえった息子はぶどう園、イスラエル、神の国をあなたがたから取り戻すであろう。これは預言です。そしてこの預言は成就しましたし、成就します。イエス・キリストは間もなく彼らと群衆によって十字架に架けられ、捨てられ、殺されます。しかしよみがえられます。イエス・キリストはよみがえられ、ぶどう園、イスラエル、神の国、要の石となったイエス・キリストを土台にして建てられて広くなる神の国に対する管理監督責任を、神の国の実を結ぶ民、信仰によって主人に従順な農夫たち、以前の預言者たちに対する態度や行為、自らの罪を心から悔い改め、最後に主人が遣わした息子を、心を伴って愛し、尊敬し、受け入れる農夫たち。罪を悔い改め、罪の身代わりとなられたイエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、神に赦され永遠のいのちを得るという愛と義の神が望まれる実を結ぶ者、「神の国の実を結ぶ民」に、ぶどう園、神の国、天の御国は委ねられ、与えられるのです。

「ですから、わたしはあなたがたに言っておきます」。厳粛な救い主のおことばは続きます。

21章44節    また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」

最後にイエス様は、神の選ばれた石、ご自分を拒む者たちを粉々に砕いて押しつぶすと警告されました。「この石の上に落ちる」「この石が上に落ちる」というのは、ユダヤ的な表現なのでしょうか、人がこの石、つまりイエス・キリストにどのように応答するかによって、結果がまったく違ったものになってしまうということを警告するものです。救いの土台となる石が、救いの土台となる石を頑なに受け入れなければその人に滅びをもたらすという警告です。逆に応答の仕方によって石は落ちる人を救うものともなり、また石を衝撃吸収材のように柔軟に受け入れるならばその人は滅びを免れるという福音となるのです。

21章45節    祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちについて話しておられることに気づいた。
21章46節    それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。

ようやく祭司長たちとパリサイ人たちは、そのたとえが自分たちのことだと気づき、イエス様を捕らえようとしましたが、群衆を恐れました。この時はまだ、群衆はイエス様を預言者と認めていました。しかしこの後、それでもイエス様に対する頑なな態度を悔い改めずに、警告を福音と捉えられずに、何としてもイエス様を排除し、自分たちの立場や権利を死守しようとする彼らは、この群衆を説き伏せて「十字架につけろ!」と叫ばせるのです。どのように説き伏せたのでしょうか。しかしイエス様の予告はこのようにして実現に向かって行きます。

私たちは私たちの主イエス・キリストを、私たちの要の石と受け入れているでしょうか、それとも捨てているでしょうか。そこに私たちの霊的ないのちが掛かっています。救われるのか、それとも押しつぶされ粉々に砕かれるのか。

ユダヤ人によってイエス・キリストは捨てられ、十字架にかけられ殺されましたが、父なる神はイエス・キリストを要の石としてよみがえらせ、新しい建物を建てられました。新しい霊的イスラエルという、神のみこころをなす、神の御心の実を結ぶための教会を立てられたのです。教会の、私たちのかしらはイエス・キリストであり、神の民とされた教会、私たちはイエス・キリストに終わりまで従うのです。神の民とされた教会、私たちがもし過去のイスラエルの民のように主に従わず、逆らい、主に頑なな態度をとり続けるならば、「堪忍袋の緒が切れる」、同じように責められることになります。私たちを責められることは、私たちを愛してくださっている父なる神の御心ではありません。私たちは兄弟姉妹とともに、十字架にかけられ、そこに神の深い愛が示されるイエス・キリストを仰ぎ見つつ、どこまでも主に従い、葉っぱばかり繁らせるのではなく、主が喜ばれる豊かな実を結ぶように、主が喜ばれる良い結果に至るように歩んでまいりましょう。また、神が恵みによって与えてくださったぶどう園での働き、神の国の良き管理者として証しをし、世話をし、世の人々を救いへと導いて行く。そのようにして神の愛に応え、神に収穫を納める、栄光を帰してまいりたいと思います。

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