2026年7月12日 主日礼拝「柔和な者を主は守られる」
礼拝前賛美 新聖歌42「ほむべきかな」
聖歌88「若草の牧場より」
前 奏 黙祷
招 詞 ヨハネの福音書14章6節
讃 美 讃美歌67「よろずのもの」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 マタイの福音書5章(新聖歌 交読文51)
讃 美 讃美歌324「主イエスは救いを」
プレイズ「主は良いお方」
聖書朗読 民数記12章1〜8節
説 教 「柔和な者を主は守られる」
讃 美 讃美歌502「いともかしこし」
新聖歌382「心から願うのは」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書5章5節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記12章1〜8節
説教題
「柔和な者を主は守られる」
今週の聖句
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
マタイの福音書5章5節
説教「柔和な者を主は守られる」
民数記12章1〜8節
はじめに
私たちの心には、なぜか権威に逆らいたいという思いが生じることがあります。上に立つ人から何かを言われると、その内容がもっともであっても、一言文句を言いたくなる。「どうしてあの人に言われなければならないのか」と反発してしまう。教会の中でさえ、特に霊的に燃えている若い新任牧師が赴任した教会などでは、意外とこのような密かな反発が起こってしまい、悩む牧師も少なくないと聞きます。これは、私たちの内にある罪の性質の一つなのでしょう。
しかし一方で、この世の権威もまた、罪によって壊れています。権威を自分の利益のために使い、弱い者を支配し、傷つけることがあります。ですから、「権威に従う」とは、何も考えず、どのような命令にも従うという意味ではありません。神に逆らうことを命じられるなら、「人に従うより、神に従うべきです」と答えなければなりません。
けれども、本来、神が定められた権威とは、独裁でも威圧でもありません。そこには、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実が現れるはずです。神の支配とは、人を押さえつけることではなく、人を支え、配慮し、守り、養い、正しい道へ導くことだからです。
聖書はこう語ります。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」(ローマ13章1節)
もちろん、地上の権威は完全ではありません。しかし神は、秩序と平和を保ち、人々を守るために、家庭にも、社会にも、学校にも、教会にも、リーダーを立てられ、そして権威を与えられます。そして私たち皆、主によって召され、それぞれの所に立てられている霊的なリーダーであることも覚えなければなりません。
今日の民数記12章では、神が立てられたモーセに対して、思いがけないところから反発が起こります。それは敵からではなく、イスラエルの民からでもなく、最も身近にいた姉ミリアムと兄アロンから起こりました。
これまでの歩み
イスラエルの民は、シナイの荒野を出発し、約束の地に向かって歩き始めました。しかし彼らの信仰はまだ幼く、まるで乳飲み子のようでした。主の愛と恵みに守られながらも、すぐに泣き、不平を言い、欲しがりました。
民が主に対して激しく不平を言うと、主の火が宿営の端をなめ尽くしました。民がモーセに向かって叫び、モーセが主に祈ると、その火は消えました。
ところが今度は、「肉が食べたい」と泣き始めました。主は群れのリーダーであるモーセに、「乳母が乳飲み子を抱くように、この民をあなたの胸に抱き、約束の地に連れて行きなさい」と言われていました。しかし、その責任はモーセにとってあまりにも重く、彼は「どうか私を殺してください」と訴えるほどでした。
すると主は70人の長老を立て、モーセとともに民の重荷を負う者とされました。また、宿営に残っていたエルダデとメダデにも同じ霊を注がれました。主は、重荷に押しつぶされそうになっていたモーセに、必要な助け手を与えてくださったのです。
一方、民が求めた肉も与えられましたが、それは懲らしめとなりました。その場所は「キブロテ・ハ・タアワ」、すなわち「欲望の墓」と呼ばれました。
そして今日、民数記12章に入ります。
嫉妬は正しい批判の姿を取って現れる
12章1節 そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。
今度は、モーセとともに指導者的立場にあった兄姉が、弟モーセに反抗し始めました。乳飲み子が少し成長し、いわゆる「イヤイヤ期」に入ったようにも見えます。しかし、これは単なる成長過程として片づけられる問題ではありませんでした。
ミリアムの名が先に記され、後に彼女だけが重い懲らしめを受けることから、彼女が批判を主導したのでしょう。アロンには周囲に流されやすい一面がありました。かつて民に求められるまま金の子牛を造り、ここでもミリアムに同調しました。
誰かに合わせることが、いつも柔和なのではありません。何も言わずに従うことが、いつも謙遜なのでもありません。罪に加担するなら、それは柔和でも謙遜でもないのです。
ここで「クシュ人の妻」が誰であったのかについては、いくつかの解釈があります。ツィポラのことだとも、別の妻だとも考えられています。しかし聖書は明らかにしていませんから、断定することはできません。
ただ一つ明らかなのは、主ご自身は、この結婚を罪として問題にしておられないということです。少なくとも、彼女の民族や出身を問題にはしておられません。神は人を外側によってえこひいきされるお方ではなく、すべての人を救いへ招いておられます。ですから私たちも、神が招いておられる人を、先入観や違いによって退けることなく、柔和と謙遜をもって愛し、主の御許へ導く者でありたいと思います。
続いて2節です。
12章2節 「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」
ここに彼らの本音が現れています。表面上は妻のことを批判していました。しかし心の奥にあったのは、「なぜモーセだけが特別なのか」「私たちも神に用いられているではないか」という思いでした。本当の問題は、モーセの妻ではなく、モーセに対する嫉妬だったのです。
嫉妬は、しばしば正しい批判の姿を取って現れます。
「私は間違いを指摘しているだけです。」
「教会のためを思って言っているのです。」
「みんなのことを考えているのです。」
そのような正しそうな言葉の裏に、「どうしてあの人だけが認められるのか」「なぜ私ではないのか」という思いが隠れていることがあります。
嫉妬は相手の欠点を探し、小さな失敗を大きく取り上げ、本来問題ではないことまで問題にします。そして周囲の人を巻き込み、共同体の秩序を壊します。
ミリアムもアロンも、信仰のない人ではありませんでした。ミリアムは、幼いモーセの命を救うために用いられ、また「女預言者」と呼ばれた人です。アロンも、口の重いモーセを助ける者として立てられ、後には大祭司となりました。
二人とも、主に用いられた大切な人たちです。しかし、主に用いられているという自覚が、いつの間にか高慢に変わることがあります。「自分も特別だ」「自分も同じ立場に立てる」という思いが、感謝ではなく嫉妬へと変わってしまったのでしょう。
私たちも注意しなければなりません。他の人に与えられた賜物、働き、評価を見て、心が騒ぐことはないでしょうか。そのような時の私たちは、相手に不満を抱いているようで、実は神に不満を抱いています。なぜなら、それぞれに賜物と務め、権威を与えておられるのは神だからです。
ミリアムにはミリアムの務めがありました。アロンにはアロンの務めがありました。モーセにはモーセにしか担えない務めがありました。そのように私たちも、他の人の場所に立つ必要はありません。他の人の賜物を持つ必要もありません。神が自分に委ねてくださった場所で、自分に委ねてくださった賜物を用いて、忠実に仕えればよいのです。
柔和な人は自分で自分を守ろうとしない
2節の最後に、短いけれども重要な言葉があります。
「主はこれを聞かれた。」
主は、私たちが口にする言葉を聞いておられます。人には聞かれていないと思う言葉も、小さな不満も、人の評判を傷つける言葉も、主は聞いておられます。
それと同時に、主は非難を受ける人の痛みもご存じです。誤解された時、事実でないことを言われた時、一生懸命に仕えているのに動機を疑われた時、そのすべてを主は見ておられます。
3節には、こうあります。
12章3節 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。
これは今日の中心となる言葉です。
モーセには反論する材料がたくさんありました。「誰がエジプトの王の前に立ったのか」「誰が民の罪のために命をかけて祈ったのか」「誰がこの民の不平を受け止めてきたのか」と言うこともできました。しかし彼は、自分の立場を守るために争わず、相手を言い負かそうともせず、権威を振りかざしませんでした。
なぜでしょうか。
モーセは、自分を立てたのが主であることを知っていたからです。自分で立候補して指導者になったのではありません。主が呼び、主が遣わし、主が必要な力を与え、ここまで導いてくださったのです。だからモーセは、自分で自分を守る必要がありませんでした。自分を立ててくださった主が、自分を守ってくださると信じることができたのです。
聖書が言う柔和とは、単におとなしいことではありません。何も言えない弱さでも、ただ我慢することでもありません。
柔和とは、力を持ちながら、その力を自分のために乱用しないことです。行動できても、怒りに任せて行動しない。言い返すことができても、相手を傷つけるために言葉を使わない。権威を持っていても、自分を守るために振りかざさない。そして、自分の正しさも立場も将来も、神の御手に委ねることです。ですから、柔和な人とは、決して弱い人ではありません。神を隠れ家とし、神に信頼している強い人なのです。
もちろん、必要な説明をすることが間違いなのではありません。誤解を解くために事実を語るべき場合もあります。しかし大切なのは、何に支配されて語るかです。欲望に支配されるのか。怒りや悔しさに支配されるのか。それとも主に信頼し、平和を求め、相手の救いさえ願いながら語るのか。
柔和とは、何も語らないことそのものではありません。神に信頼し、自分の力を神のみこころに従って用いることなのです。
主ご自身が忠実なしもべを弁護される
4節には、こうあります。
12章4節 主は突然、モーセとアロンとミリアムに、「あなたがた三人は会見の天幕のところへ出よ」と言われた。
「突然」とあります。別訳では「直ちに」です。事態が共同体全体に広がる前に、主は介入されました。
モーセは自分を弁護しませんでした。しかし、主がモーセを弁護されました。
3人が会見の天幕に出ると、主は雲の柱のうちに降りて来られ、アロンとミリアムに言われました。
12章6節 主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。
主は、ミリアムとアロンにも語られたことを否定しておられません。彼らも主に用いられていました。
しかし続けて言われます。
12章7節 だが、わたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。
リーダーであるモーセには、神から特別な務めが委ねられていました。ここで主は、モーセを「わたしのしもべ」と呼ばれます。
モーセはイスラエルの王でも、所有者でもありません。彼は主のしもべです。権威を持っていましたが、それは自分のものではなく、主から預けられたものでした。自分の思い通りに民を動かすためではなく、主のみこころに従い、民を守り、養い、導くための権威でした。
そして主は、「彼はわたしの全家を通じて忠実な者」と言われました。
モーセが完全だったという意味ではありません。彼にも弱さがあり、恐れがあり、疲れ果て、死を願うことさえありました。しかし、その弱さを抱えながらも、主から委ねられた務めから逃げず、主の家のために仕え続けました。民が罪を犯した時には、自分の命をかけてとりなし、民が滅ぼされそうになった時には、自分だけが助かる道を選ばず、民とともに立ちました。
主は、その忠実さを見ておられました。
人は外側しか見ることができません。一つの失敗を見て、その人のすべてを判断することがあります。しかし主は、その人がどれほど祈り、涙を流し、人に知られないところで耐え、主に従おうとしてきたかをご存じです。
人が認めなくても、主はご存じです。
人が誤解しても、主はご存じです。
人が忘れても、主は忘れられません。
主はさらに言われます。
12章8節 彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている。
「口と口で語る」とは、モーセと主との特別な親しさを表しています。主はモーセに、曖昧ではなく、明らかにみこころを示されました。それにもかかわらず、ミリアムとアロンはモーセを非難しました。
主は言われます。
12章8節 なぜあなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れず、非難するのか。」
彼らはモーセを、ただの弟として見ていたのでしょう。しかし主は、「わたしのしもべ」と呼ばれました。
また世の人々は、私たちのことをただの人として見ているでしょう。しかし主は、私たちのことを「わたしのしもべ」と呼ばれるのです。
これは、指導者として立てられているこの私を、世の人々は尊敬すべきだとか、絶対化すべきだという意味ではありません。間違いがあれば、聖書に従って正されなければなりません。しかし誰かが、嫉妬や不満から、神が委ねておられる務めを軽んじるなら、その人だけでなく、立てられた神を軽んじることになります。
私たちは指導者を偶像化してはなりません。自分を偶像化してはなりません。同時に、簡単に侮ってもなりません。
そして指導する側も忘れてはなりません。つまり私たちは忘れてはならないのです。主が守られるのは、権威を振りかざす人でも、自分を絶対化する人でもありません。主の家に忠実に仕え、柔和に歩むしもべを、主は守ってくださるのです。
柔和な者は地を受け継ぐ
ここでの柔和なモーセの姿は、やがて来られるイエス・キリストを指し示しています。
モーセは主の全家に忠実なしもべでした。しかしキリストは、その家の主人であり、御子であられます。
モーセは柔和でした。しかしイエス様は、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われました。イエス様こそ、まことに柔和なお方です。
イエス様は人々から誤解され、悪霊につかれていると言われ、神を冒涜していると非難されました。偽りの証人を立てられ、罪がないのに有罪とされ、十字架につけられました。「神の子なら、十字架から降りて来い」とあざけられました。しかしイエス様には、十字架から降りる力がありました。天の軍勢を呼ぶこともできました。それでも、その力を自分を救うためには用いられませんでした。私たちを救うために、十字架にとどまられたのです。
これが真の柔和です。
力がないから何もしないのではありません。力を持っておられるのに、愛のためにその力を抑え、父なる神のみこころに従われたのです。
イエス様は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。
私たちは、このイエス様によって救われました。神に逆らい、自分が自分の主人であるかのように生きてきた私たちを、イエス様は見捨てられませんでした。乳飲み子を抱くように私たちを抱き、みことばによって養い、天の御国へ導いてくださっています。
そして今、私たちも家庭で、職場で、学校で、教会で、誰かに仕える場所を与えられています。立場や肩書きがなくても、私たちは誰かに影響を与えています。モーセのように主と人とに仕えるしもべとされ、リーダー(導く者)とされています。私たちは「サーバント・リーダー」なのです。サーバント・リーダーというのは、権力で組織を支配するのではなく、まず奉仕者として支援し、成長させ、彼らが目標達成できるように導くリーダーシップの形です。
ですから私たちに主が求めておられるのは、権威を振りかざすことでも、自分の正しさを証明し続けることでもありません。御霊の実を結び、柔和に、忠実に仕えることです。そして遣わされている所で、人々を主の御許に、約束の地である天の御国に導くことです。
その中で、人から理解されないこともあるでしょう。誤解され、良いことをしているのに悪く言われることもあるでしょう。その時、すぐに怒り、自分で自分を守ろうとするのではなく、主に委ねる者でありたいと思います。主に委ねることができるからです。
なぜなら、
主はすべてを聞いておられるからです。
主はすべてを見ておられるからです。
主は忠実なしもべを忘れられません。必要な時には、直ちに主ご自身が立ち上がり、弁護してくださるからです。
そして、イエス様は言われました。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
柔和な者は、何も得られずに終わるのではありません。自分の権利を主張しなければ、すべてを奪われるのでもありません。主ご自身が、その人の受けるべきものを与えてくださいます。柔和な者は地を受け継ぎ、神の国を受け継ぐのですす。
私たちは恐れる必要はありません。私たちを召された主の手は、決して短くありません。御子をさえ惜しまずに与えてくださった神が、私たちに必要なものを与えないはずがありません。終わりまで必ず守り、導き、報いてくださいます。
ですから私たちは、自分の力で自分を守ろうとするのではなく、主を隠れ家としましょう。嫉妬によって人を引きずり下ろすのではなく、他の人に与えられた賜物を喜びましょう。自分に与えられた場所で、忠実に仕えましょう。
そしてそれぞれが遣わされている世の人々の間で、イエス様のように、柔和でへりくだった者とされることを願いましょう。まだ信仰を知らない人、私たちに逆らう人、理解してくれない人をも愛し、みことばによって養い、まことの父である神の御許へ導く者でありたいと思います。それはモーセがあれほどまでに苦しんだ、辛い道かもしれません。しかし、何度も言いますが、主はすべてを聞いておられ、見ておられ、忘れてはおられません。
愛であり、義である主は言われます。
「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。」「あなたはわたしを信頼し、『燃える炭火を彼の頭上に積んで上げなさい』、ただ親切にしてあげなさい。」「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ1219-21)と言われる主の御声を聞いています。
日々、主を礼拝し、十字架の恵みを覚え、信仰を新しくしていただきましょう。そして主に信頼しながら、それぞれの場所で柔和に、忠実に仕え、主の栄光を現してまいりましょう。
【祈り】
天の父なる神様。
今日も、あなたのみことばを通して、私たちの心を照らしてくださったことを感謝いたします。
私たちの内には、人と比べ、人を妬み、人の欠点を探し、その人を引きずり下ろそうとする罪があります。また、自分が誤解された時、批判された時には、怒りに任せて言い返し、自分の正しさを証明しようとしてしまいます。
どうか、私たちを憐れみ、赦してください。
他の人に与えられた賜物と務めを喜び、あなたが私たち一人ひとりに与えてくださった場所で、忠実に仕える者としてください。
地上のだれにもまさって柔和であったモーセのように、そして何よりも、心の柔和でへりくだったイエス様のように、私たちを造り変えてください。
人から誤解される時にも、あなたが聞いておられることを信じさせてください。
人から悪く言われる時にも、あなたがすべてをご存じであることを覚えさせてください。
自分で自分を守ろうとするのではなく、正しくさばかれるあなたにすべてを委ねる信仰をお与えください。
家庭で、職場で、学校で、教会で、私たちに委ねられている人々を、支配するのではなく、愛し、支え、配慮し、養い、あなたの御許へと導くことができますように。
私たちを召されたあなたの御手は、決して短くないことを信じます。
柔和な者を守り、地を受け継がせてくださる主に信頼して、今週もそれぞれの場所へと遣わされてまいります。
私たちの救い主、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

