2026年7月19日 主日礼拝「主は一人も置き去りにされない」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇145篇8〜9節
讃 美 讃美歌12「恵み豊けき主を」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇32篇(新聖歌 交読文11)
讃 美 讃美歌93「御神の恵みを」
プレイズ「赦すためです」
聖書朗読 民数記12章9〜16節
説 教 「主は一人も置き去りにされない」
讃 美 讃美歌262「十字架のもとぞ」
献 金 プレイズ「主イエスの十字架の血で」
感謝祈祷 讃美歌547「いまささぐる」
報 告
今週の聖句 民数記12章16節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記12章9〜16節
説教題
「主は一人も置き去りにされない」
今週の聖句
それから民はハツェロテを旅立ち、パランの荒野に宿営した。
民数記12章16節
説教「主は一人も置き去りにされない」
民数記12章9〜16節
はじめに
皆さんは、自分の親に置き去りにされたことがありますか。実は私にはあります。私がまだ乳飲み子であった頃に、母が自分の実家に兄、姉、私と3人の小さな子どもを連れて遊びに行った帰り、なぜか私だけ置き去りにされてしまいました。兄と姉が後部座席から運転席の母に、一生懸命「弟がいない」と何度も言っても、母はその言葉を信じないで「大丈夫、大丈夫」と、帰り道を急ぎ、真っ直ぐ前だけを見て車を走らせたそうです。随分進んだところで後部座席を見ると、本当に私がいないことに気付き、慌てて実家に引き返してみると、玄関先で私を抱いた母の兄嫁が立ち尽くしていたそうです。もちろん、私にはその記憶がありません。今でも皆が集まると、笑い話のようにその時の話題が出ることがあります。兄と姉にとっては、強烈なインパクトのあった出来事として、記憶に残っているようです。
それはともかく、例えば、小さな子どもと一緒に歩いていると、子どもが転んでしまうことがあります。元気よく走っていたかと思ったら、石につまずいたり、段差に足を取られたりして転んでしまう。そして痛みよりも驚きの方が大きいのでしょう、大きな声で泣き出します。もし急いでいる時なら、「ほら、早く立ちなさい」と言いたくなるかもしれません。しかし多くの親はそうしません。立ち止まります。子どものところへ行きます。「大丈夫?」と声を掛けます。場合によっては抱き起こし、涙をぬぐい、手を握って、そしてまた一緒に歩き始めます。子どもが転んだからといって、「先に行くから後から追い付いて来なさい」とは言わないのです。なぜでしょうか。親にとって大切なのは、目的地に着くことだけではないからです。愛する子どもと一緒に歩き、一緒に目的地に着くことの方が大切だからです。
今日の聖書箇所には、そのような神さまのお心を見ることができます。
ここまで民数記を読み進めてきて、私たちはずいぶん厳しい場面を見てきました。タブエラでは民がつぶやきました。キブロテ・ハ・タアワでは欲望に支配されました。そして前回学んだ12章では、ミリアムとアロンがモーセに逆らいました。
失敗ばかりです。不信仰ばかりです。反抗ばかりです。
しかし今日の箇所は、そのような厳しい出来事の中に差し込む一筋の光のような箇所です。
神は罪を見過ごされません。しかし罪人を見捨てられもしません。
神はミリアムを懲らしめられました。しかし置き去りにはされませんでした。
そしてイスラエルの民もまた、ミリアムを置き去りにしなかったのです。
今日は説教題にあるとおり、「主は一人も置き去りにされない」ということをご一緒に見ていきたいと思います。
聖なる神は罪を見過ごされない
まず9節を見ましょう。
12章9節 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
非常に重い言葉です。
前回学びましたように、ミリアムとアロンはモーセに対して不満を抱き、外国人の妻のことでモーセを非難しました。しかし問題はモーセの外国人の妻ではありませんでした。問題は彼らの心でした。
彼らはこう言いました。「主はただモーセとだけ語られたのか。われわれとも話されたのではないか」と。その言葉の背後には妬みがありました。高ぶりがありました。神が立てられた指導者に対する反発がありました。ミリアムとアロンは、モーセに不満をぶつけているように見えました。しかし本当は、モーセを立てられた主のご計画に不満を抱いていたのです。
彼らはモーセに逆らっているつもりだったかもしれません。しかし主から見れば、それは主がお立てになった秩序に逆らうことでした。彼らの問題はモーセへの不満ではありませんでした。モーセをその立場に置かれた主への不満だったのです。ですから主は怒られました。
ここで特に心に留まるのは、「主は去って行かれた」という言葉です。とても悲しい言葉です。もちろん神がどこか遠くへ行ってしまったという意味ではありません。
また、続く10節には、「雲が天幕の上から離れ去ると」とあります。これは10章で見た、旅立ちの合図としての雲とは違うでしょう。主が幕屋を覆う雲から雲の柱の中にあって降って来られ、ミリアムとアロンを裁かれ、その宣告を終えられると、その場を離れられた。そして再び雲が本来の位置へ戻った。そのような場面と考えられます。
しかし私たちはここで考えさせられます。
聖書において最も恐ろしいことは何でしょうか。病気でしょうか。貧しさでしょうか。失敗でしょうか。
そうではありません。神との交わりを失うことです。
アダムとエバもそうでした。彼らは罪を犯した後、神の御顔を避けて木の間に隠れました。そして最終的に園から追放されました。本当の悲劇は、豊かな園を失ったことではありません。神との親しい交わりを失ったことでした。
罪とは神に背を向けることです。神から離れようとすることです。ですから罪というのは、当然、必ず神との交わりを壊します。そのことが次の10節で象徴的に示されます。
12章10節 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアトに冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。
ツァラアトは単なる病気ではありません。ツァラアトに冒された者は汚れている者とされ、共同体から隔離されました。宿営の外に出されました。礼拝共同体から離れなければなりませんでした。つまりミリアムの姿は、罪が人間にもたらす結果を象徴しているのです。
罪は神との交わりを壊します。罪は人との交わりも壊します。そして罪は私たちを孤立させます。
今日の私たちも同じです。誰かをねたむ。誰かを見下す。誰かの悪口を言う。神よりも自分の考えを優先する。そういう罪は、気が付かないうちに私たちの心を神から遠ざけていきます。自分の心が神から遠ざかってしまっていることに気付かないのです。そして気付いた時には、神に背を向け、共同体にも背を向け、自分勝手な道を随分と進んでしまっていて、神との交わり、また人との交わりも壊れてしまっているのです。孤立してしまっているのです。そして個人ばかりでなく、共同体全体もまた傷つき、壊れてしまっているのです。
神は愛のお方です。しかし同時に聖なるお方です。ですから共同体の中の罪を軽く扱われません。見過ごされません。ここに神の聖さがあります。
感謝なことに、今日の箇所はそこで終わりません。神の怒りで終わらないのです。神の裁きで終わらないのです。ここから私たちは、さらに大きな神の恵みを見ることになります。
神は罪人の回復を求めておられる
今日の箇所は神の怒りや裁きだけを語ってはいません。ここには回復への道も示されています。
10節の後半を見ると、
「アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。」とあります。アロンはそこで初めて、自分たちがどれほど重大な罪を犯したのかを悟りました。
そして11節でこう言います。
12章11節 アロンはモーセに言った。「わが主よ。どうか、私たちが愚かにも陥ってしまった罪の罰を、私たちに負わせないでください。
ここで注目したいのは、アロンの「私たちが」という言葉です。
アロンは、「ミリアムが悪かった」とは言いません。「姉が勝手に言い出したことです」とも言いません。「私は巻き込まれただけです」とも言いません。彼は、「私たちが愚かなことをして罪を犯しました」と言うのです。
ここにアロンの真実な悔い改めがあります。罪を犯した人を見つけて責任を押し付けるのではなく、自分の罪として受け止める姿です。
考えてみると、これは簡単なことではありません。私たちは問題が起こると、「あの人が悪い」「あの人の責任だ」と言いたくなります。これもアダムとエバの、相手に責任を転嫁しようとする姿を思い起こすのではないでしょうか。
しかしイエス・キリストの十字架によって贖われた者たちが集められる教会とは、誰か一人を悪者にして安心する場所ではありません。互いのために祈り合い、支え合い、回復を願う共同体です。もし兄弟姉妹が罪を犯したなら。もし兄弟姉妹が倒れたなら、「私は関係ない」ではなく、「私も十分同じ罪を犯し得る者だ」と考える。そして共に主の前にへりくだる。その罪を自分の罪として主の御前に告白し、悔い改める。そのような群れでありたいと思います。
そこに御霊による一致があると思います。本当の愛と義が溢れます。そしてそこに喜びや平安が満ちるでしょう。
神がキリストの教会に求めておられる一致というのは、悪口を言う人と一緒になって悪口を言う。そのような肉の思いによる一致ではないのです。
それは偽物の一致です。偽物の愛と義です。それはいずれ共同体を分裂させるからです。
本当の一致とは、御霊による一致です。本物の愛と義による一致です。アロンはまさにその姿を示しています。
そしてアロンはさらに、ミリアムのために執り成しを願います。しかし彼が願った相手はモーセでした。本当の裁き主は神です。それなのにアロンは、「わが主よ」とモーセに願っています。なぜでしょうか。それはつい先ほど、主ご自身が、「彼はわたしの全家を通じて忠実な者」「彼とは、わたしは口と口で語る」と語られたからです。アロンはようやく、自分が逆らっていた相手が誰であったのかを理解したのでしょう。そして、「モーセだけが神の前に執り成すことができる」と知ったのです。
そこで13節。今日の箇所の中心とも言える御言葉です。
12章13節 モーセは主に叫んだ。「神よ、どうか彼女を癒やしてください。」
驚くことに、この祈りはヘブル語ではわずか5つの語です。「אֵ֕ל נָ֛א רְפָ֥א נָ֖א לָֽהּ」(エール ナー レファー ナー ラー)「おお、神よ。どうか癒やしてください。どうか彼女を。」とても短く、無骨な祈りです。しかし何と力強い祈りでしょうか。
私たちは祈りというと、長く祈ることや、上手に祈ることを考えてしまうことがあります。しかし神が見ておられるのは祈りの長さではありません。その祈りの中に愛と信仰があるかどうかです。
モーセは自分を傷つけた姉のために祈りました。言い訳もしません。恨みも言いません。自分の正しさも主張しません。説教もしません。仕返しもしません。ただ、「おお、神よ。どうか癒やしてください。どうか彼女を。」と祈るのです。
この短い祈りの中に、モーセの柔和さと愛が凝縮されています。ここに12章3節の、「モーセという人は地の上のだれにもまさって柔和であった」という言葉の具体的な姿を見ることができます。
本当に柔和な人とは、自分を傷つけた人の回復を願う人なのです。
この祈りを読んでいると、私は十字架の主イエスを思い起こします。主イエスもまた、自分を十字架につける人々のために祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。」ギリシャ語ですと、たった3語です。
それは決して余裕のある祈りではありませんでした。十字架の激しい苦しみの中で、魂の底から絞り出された祈りだったことでしょう。それこそ真実な祈りでした。それでも主は、ご自分を苦しめる者たちのために祈られたのです。
モーセの5つの単語の祈りは、そのキリストの姿を指し示しているように思います。
そして私たちにはこのような、モーセよりも偉大な執り成し手がおられるのです。そのお方が今も父なる神の右に座し、私たちのために執り成してくださっているのです。ですから私たちは希望を持てるのです。
ここで少し立ち止まって考えてみたいと思います。
イスラエルは今どこにいるのでしょうか。彼らはまだ目的地に着いていません。パランの荒野へ向かう旅の途中です。民数記10章33節によれば、主は彼らのために「休息の場所」を探して先立って進んでおられました。ハツェロテもまた、その旅路の途中にある宿営地の一つでした。つまり、この出来事は約束の地への前進の途中で起きた出来事なのです。
ところが、その途中でつぶやきが起こり、貪りが起こり、反抗が起こりました。主は前へ進もうとしておられるのに、民は何度も立ち止まってしまいます。
私たちも同じではないでしょうか。
主は教会のかしらとして先頭に立ち、ご計画をもって教会を導いておられます。しかし私たちは、その行進に仕えるどころか、不平や不満、ねたみや高ぶりによって、その歩みを妨げてしまうことがあります。そのような私たちを、主は諦めて置き去りにされるでしょうか。
主は一人も置き去りにされない
モーセが祈ったからといって、ミリアムはその場ですぐ癒やされたわけではありませんでした。14節で主はこう言われます。
12章14節 しかし主はモーセに言われた。「もし彼女の父が彼女の顔に唾したら、彼女は七日間、恥をかかされることにならないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後で彼女は戻ることができる。」
少し厳しい言葉に聞こえるかもしれません。しかしここで主が教えておられるのは、罪は決して軽いものではないということです。
赦しはあります。回復もあります。しかし罪には訓練が伴います。神は愛のお方ですが、同時に聖なるお方、義なるお方でもあるからです。
ミリアムは七日間、宿営の外に出されました。そして興味深いことに、ツァラアトから回復した人は、すぐに共同体へ戻れたわけではありませんでした。
レビ記14章を見ると、祭司による確認を受け、一定期間観察され、さらに清めの儀式と献げ物を経て、正式に共同体へ戻されます。
そこには神の御心が表れています。
神は罪や汚れを軽く扱われません。しかし同時に、失われた者を確実に回復させようとしておられるのです。追い出すことが目的ではありません。回復が目的なのです。
実はこれは福音そのものです。
私たちも罪によって神から遠く離れていました。神との交わりを失っていました。しかしキリストは十字架で血を流してくださいました。その血によって私たちはきよめられ、神との交わりへ、そして神の家族の交わりへ回復されたのです。
ヘブル人への手紙10章20節からです。
【ヘブル人への手紙】
10章20節 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道(本当に私たちを生かす神との交わり、神の家族の交わりへの回復の道)を開いてくださいました。
10章21節 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
10章22節 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
ミリアムは宿営の外に出されました。しかしキリストは、ご自身が宿営の外で苦しみを受けることによって、私たちを神の家へ戻してくださいました。
キリストは私たちを赦すだけではありません。私たちを神のもとへ、神の家族の中へ連れ戻してくださるのです。
そして民数記12章15節。
12章15節 それでミリアムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリアムが戻るまで旅立たなかった。
私はここが今日の箇所で最も心温まる御言葉だと思っています。
「民はミリアムが宿営に帰るまで旅立たなかった。」
なんと美しい御言葉でしょうか。
イスラエルは約束の地へ向かう旅の途中でした。本来なら進みたいはずです。
急ぎたいはずです。しかし誰もミリアムを置いて行かなかったのです。
そして主もまた、旅立ちを命じられませんでした。
民は待ちました。
主も待たれました。
ミリアムが帰って来るのを待ったのです。
考えてみれば、これはとても不思議なことです。ミリアムは被害者ではありません。罪を犯した側です。問題を起こした側です。自分で蒔いた種です。それでも置き去りにはされませんでした。
ここに神の心があります。
主は一人の罪人を置き去りにされないのです。
おわりに
12章16節 それから民はハツェロテを旅立ち、パランの荒野に宿営した。
短い一節です。しかし私はこの一節がとても好きです。なぜなら、ここには希望があるからです。
イスラエルは再び歩き始めました。旅が再開されたのです。失敗で終わらなかったのです。
ここまで私たちは民数記の中で、つぶやきを見てきました。貪欲を見てきました。高ぶりを見てきました。反抗を見てきました。
しかし神の物語は、失敗で終わらないのです。回復で終わるのです。恵みで終わるのです。
私たちも同じではないでしょうか。
私たちも何度も転びます。失敗します。後悔します。自分が嫌になることもあります。「あんなことを言わなければよかった。」「あんな態度を取らなければよかった。」「あの時もっと主に従えばよかった。」そう思うことがあります。
しかし主は、転んだ子どもを置いて先へ行ってしまう父親ではありません。立ち止まってくださいます。手を差し伸べてくださいます。抱き起こしてくださいます。そしてこう言ってくださるのです。
「さあ、一緒に行こう。」
ミリアムが宿営に帰るまで、主は民を前進させませんでした。主は一人の回復を待たれたのです。
それは今日も変わりません。
主は私たちを見捨てられません。置き去りにもされません。
そして私たちには、モーセよりも偉大な執り成し手、イエス・キリストがおられます。この主によって赦され、この主によって回復され、この主によって再び歩み始めることができるのです。
ですから私たちも信仰をもって安心して主のもとへ帰りましょう。そして互いにキリストの愛にとどまり、待ち合い、支え合い、祈り合いながら、天の御国という約束の地を目指して歩んでいきたいと思います。
【祈り】
天におられるイエス・キリストの父、そして私たちの父なる神さま。本朝のみことばを感謝いたします。
私たちはミリアムの姿の中に、自分自身の姿を見る者です。あなたが与えてくださった恵みを忘れ、不平を口にし、ねたみを抱き、あなたがお立てになった秩序に不満を抱き、知らず知らずのうちに、あなたに逆らってしまう弱い者です。
そのような私たちを、あなたは聖なるお方として戒められます。しかし同時に、見捨てることなく、置き去りにすることなく、回復へと導いてくださることを感謝いたします。
ミリアムが宿営の外に出された時、民は彼女を残して先へ進むことはありませんでした。あなたは彼女が戻るまで待ってくださいました。
私たちもまた、多くの失敗と罪によって、立ち止まり、倒れ、道を見失うことがあります。それでもあなたは、私たちを見放されません。キリストの執り成しによって、もう一度立ち上がらせ、あなたの民の交わりの中へ戻し、再び共に歩ませてくださいます。
主イエス・キリストの尊い執り成しを感謝いたします。
十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださった主が、今も天において私たちのために執り成しておられることを覚え、深い慰めと希望を与えられます。
どうか私たちも、人を責める者ではなく執り成す者としてください。傷つけられた時にも祈る者としてください。裁くことよりも回復を願う者としてください。教会が互いを見捨てることなく、待ち、支え、励まし合う群れとなりますように。
主よ、あなたは今も先頭に立ってご自身の教会を導いておられます。どうか私たちが、つぶやきや不満によってその歩みを妨げる者ではなく、感謝と喜びをもって従う者とならせてください。
今日も新しい恵みをいただいた者として、再び立ち上がり、あなたが備えてくださる休息の場所を目指して、希望をもって歩み続けることができますように。
私たちを愛し、決して見捨てることなく、最後まで導いてくださる主に感謝し、尊い主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

