2026年9月6日 主日礼拝「荒野の向こうを語られる神」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇100篇
讃 美 讃美歌8「きよきみつかいよ」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇96篇(新聖歌 交読文30)
讃 美 讃美歌521「イエスよ心に」
「父の神の真実は」
聖書朗読 民数記15章1〜21節
説 教 「荒野の向こうを語られる神」
応答賛美 讃美歌387「御神のことばを」
聖餐式 讃美歌207「主イエスよ、心」
献 金 「忘れないで」
感謝祈祷 讃美歌547「いまささぐる」
報 告
今週の聖句 民数記15章2節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記15章1〜21節
説教題
「荒野の向こうを語られる神」
今週の聖句
わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り……
民数記15章2節
説教「荒野の向こうを語られる神」
民数記15章1〜21節
はじめに——目の前の現実に、心を奪われる
目の前の現実というものは、私たちの心を簡単に支配してしまうものだと思います。
物事がうまく行っている時には、
「本当に神は生きておられる。」
「神様、感謝します。」
「神様、あなたを愛します。」
「主は本当に恵み深いお方です。」
そんなふうに、心から喜んで告白することができます。
ところが、状況が悪くなってくるとどうでしょうか。
祈っているのに何も変わらない。
思ったように道が開かれない。
次から次へと問題が起こってくる。
すると、心の奥から、こんな言葉が出てきます。
「本当に神はおられるのだろうか。」
「神様、本当に私を愛しておられるのですか。」
「どうして何もしてくださらないのですか。」
昨日まで「神様、あなたを愛します」と言っていたその口で、今日は「神様、あなたは私を愛しておられるのですか」と問い始める。
目の前の現実には、それほど私たちの心を動かす力があります。
そして、心を動かすものは、やがて私たちの歩む方向まで動かしていきます。
主の恵みに心を向ければ、感謝しながら主の方へ歩いていく。
けれども、恐れや不安ばかりに心を奪われれば、その恐れが語る方向へ歩き始めてしまう。
ですから、何に心を向けるのかということは、とても大切なのです。
イスラエルの民はどうだったでしょう。
彼らはエジプトから救い出されました。紅海を渡りました。荒野では天からマナをいただきました。岩から水を飲みました。主が生きておられること。主がともにいてくださること。主が必要を備えてくださること。何度も何度も経験しました。
ところが、約束の地を目の前にして、巨人を見た。城壁に囲まれた町を見た。すると突然、自分たちにとって都合の悪い現実の方が、神様よりも大きく見えてしまったのです。
問題は、荒野があることではないと思います。荒野しか見えなくなってしまうことです。
そもそも、私たちが生きているこの世そのものが、ある意味では荒野の旅のようなものではないでしょうか。
もちろん、喜びもあります。恵みもあります。楽しいこともあります。
しかし同時に、思いどおりにならないことの多い旅です。
思いがけない出来事が起こる。
計画どおりにならない。
人間関係に悩む。
歳を重ねれば体も弱っていく。
お金の心配もある。
家族の心配もある。
仕事や学業のこと。
教会のこれからのこと。
自分自身の罪や失敗に苦しむこともある。
長く祈っているのに、何も変わっていないように見えることもあります。
いろいろな困難を抱えながら、思いどおりにはならないこの世を歩いていく。それが、私たちの荒野の旅なのだと思います。
では、そのような旅の中で、私たちは何によって今日を生きていくのでしょうか。
今日の民数記15章には、荒野のただ中にいる民に語られた、驚くような主の御言葉が記されています。
それでも、主は語ってくださった
前回、私たちは14章の最後を見ました。
イスラエルの民は、主が「行きなさい」と言われた時には行こうとしませんでした。ところが今度は、主が「上って行ってはならない」と言われた時に、自分たちの判断で上って行きました。
「今度こそ、私たちは主が言われた場所に行きます。」一見すると従順になったように見えます。しかしそれは、主が今語っておられる御言葉への従順ではありませんでした。
自分たちで、自分たちの失敗を取り返そうとしたのです。
その時、主の契約の箱も、モーセも、宿営から動きませんでした。彼らだけが山へ上って行き、そして敗れました。
勝利をもたらしてくださる主を置き去りにして、勝利だけを取りに行ってしまった。
祝福してくださる主を置き去りにして、祝福だけを取りに行ってしまった。
その結果は敗北でした。
14章は、そこで終わります。
もし私たちが初めて民数記を読んでいて、そこでページをめくるとしたら、15章には何が書いてあると思うでしょうか。さらに厳しい裁きの言葉でしょうか。「あなたがたは、どこまでわたしに逆らうのか。」そう言われても仕方のない人たちでした。
しかし15章1節です。
15章1節 主はモーセにこう告げられた。
私は、この一文だけでもすごいことだと思います。主は、まだ語ってくださったのです。まだ語ってくださるのです。
あれだけ主に逆ら、主を信じなかった民です。主の約束を疑い、つい先ほどまで、主を置き去りにした民です。それでも主は、イスラエルの宿営から沈黙して立ち去られませんでした。
そして2節です。
15章2節 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、」
えっ。そう思いませんか。「あなたがたが、その地に入る時。」
主よ、今、誰の未来を語っておられるのですか。「あなたがた」とは私たちのことですか。でも、私たちは荒野で死ぬのでしょう。私たちの子どもたちは入れる。しかし私たちは入れない。では私たちは、これから何をすれば良いのでしょうか。ただ荒野へ出て行って、さまよって、一人、また一人と死んでいく日を待つだけなのでしょうか。もう私たちの人生には、何の意味もないのでしょうか…。
いろいろな思いが、彼らの心の中を行き巡ったことでしょう。しかし、そのような彼らの前で、主はもう未来の話を始めておられるのです。
「わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り」と。
神は、絶望の中にいる者を、さらに絶望へ追い込むことを喜ばれるお方ではありません。
もちろん、罪を罪ではないとは言われません。聖なる神です。正しい裁きをなさる神です。
しかし同時に、その神は、あわれみに富み、赦し、恵みを与え、倒れた者をもう一度立ち上がらせてくださる神でもあります。
だからこそ、罪を指摘し、裁きを語られる。
しかし裁きを語って終わられない。その先に、望みのことばを語ってくださる。
それが、今日ここで私たちが仰いでいる神なのです。
赦された後にも、荒野は残る
ここで一つ、大切なことがあります。
この親世代は、神に赦されなかったのでしょうか。
そうではありません。
14章20節で、モーセの執り成しに対して主は、はっきり言われました。
「あなたのことばどおり、わたしは赦す。」
主は赦してくださいました。
けれども、その直後に厳しい裁きも語られました。
彼らは約束の地には入ることができない。つまり、赦されたからといって、罪によって生じた結果がすべて消えてしまうわけではありません。
これは私たちにもあります。
罪を告白した。神様に赦された。だからといって、壊してしまったものが全部元通りになるとは限りません。
取り返せない失敗もあります。やり直すことのできない過去もあります。
「あの時、こうしていれば。」そう思っても、その時には戻れません。
しかし、今日の御言葉は大切なことを教えてくれます。
神は、失敗した後の人生を無意味にはされないのです。
イスラエルの親世代は、約束の地には入れません。しかし、主は彼らをそこで捨ててしまわれたのではありません。主を置き去りにした彼らを、主は荒野に置き去りにはされませんでした。もう一度、御言葉を聞かせてくださる。未来を語ってくださる。
彼ら自身は、その完成を見ることができないかもしれない。しかし、神の約束は終わっていない。子どもたちは約束の地に入る。だから親世代には、まだすることがあるのです。神の約束を信じることができる。荒野で主を礼拝することができる。そして、自分たちが神から聞いた望みのことばを、今度は子どもたちに語ることができるのです。
「私たちは失敗した。」それは語らなければならないでしょう。
しかし、それだけを語るのではありません。
「でも、主は真実だった。」
「私たちは主を信じなかった。でも主は、私たちを見捨てなかった。」
「私たちはあの地には入れない。でも、あなたがたには未来がある。」
「主が、あなたがたをあの地に導き入れてくださる。」
そう語るのです。
神が彼らに望みのことばを語ってくださった。だから今度は、彼らも神とともに望みのことばを語っていく。
私たちは、自分だけが祝福を受けて終わるために召されているのではありません。
先の世代から主の真実の証しを受け取る。
主が与えてくださる祝福を受け継ぐ。
そして、それを次の世代へ手渡していく。私たちは、そのためにも召されています。
今はマナなのに、主は小麦粉を語られる
そして3節から、不思議なほど細かな規定が始まります。
牛を献げる時はどうする。雄羊ならどうする。子羊ならどうする。
小麦粉をどれだけ。油をどれだけ。ぶどう酒をどれだけ。
私たちはここを読みながら、「なぜ今、こんな細かな話をされるのだろう。」と思うかもしれません。でも、よく考えてみると、ここには驚くような慰めがあります。
彼らが今いるのは荒野です。そして今、彼らが食べているのはマナです。自分たちの畑で小麦を育て、小麦を収穫し、粉をひき、その粉でパンを焼いているわけではありません。今、彼らには小麦粉がないのです。そして、ぶどう畑もない。オリーブ畑もない。ところが主は、小麦粉の話をされる。油の話をされる。ぶどう酒の話をされる。
17節からは、さらにこう言われます。
15章17節 主はモーセにこう告げられた。
15章18節 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたを導き入れようとする地にあなたがたが入り、その地のパンを食べるようになったら……
私は、ここに神様の深い慰めを見るのです。
神様は、「いつか良いことがあるから、元気を出しなさい。」というような、漠然とした励ましをしておられるのではありません。神は、彼らがその地に住んでいるところまで語ってくださる。雨が降る。種を蒔く。穀物が育つ。収穫する。粉をひく。パンを焼く。ぶどうが実る。油が得られる。そして家族で、その地の食べ物をいただく。今、目の前には荒野しかありません。けれども主には、その荒野の向こうにある食卓が見えているのです。
荒野だけを見せておかれない神
少し、この時のイスラエルの人々の姿を想像してみたいと思います。
親世代の状況は厳しいものでした。荒野へ戻る。約束の地を目の前にしながら、そこから離れていく。そして、自分たちの世代は荒野で生涯を終える。子どもたちは、そのすべてを見ることになります。
聖書は、子どもたちがその時、何を感じていたのかまでは記していません。しかし、これから何年も荒野を歩き、親の世代が一人ずつ倒れていく姿を見ることになる。
「本当に私たちは、あの地に入れるのだろうか。」
「この荒野は、本当に終わるのだろうか。」
そう不安になっても、何も不思議ではないと思います。
親世代は絶望しかねない。子ども世代も恐れを抱きかねない。しかし神は、彼らに荒野だけを見せておかれません。
今、生きておられる主が、今も生きて働く御言葉によって、彼らの目を荒野の向こうへ向けてくださるのです。
「あなたがたは、あの地で穀物を収穫する。」
「パンを食べる。」
「ぶどう酒を献げる。」
そして、収穫の喜びを主とともに分かち合う日が来る。その日を期待させてくださるのです。
私たちには、望みのことばが必要です。人は、望みのことばがなければ、目の前にある荒野だけを見て絶望してしまうからです。
ですから神は、望みのことばを語ってくださいます。
そして、その望みのことばを聞いた者が、今度は隣にいる人へ、次の世代へ、望みを語っていくのです。
状況の声か、主の御言葉か
13章を思い出してください。斥候たちは言いました。「あの地は、そこに住む者を食い尽くす地だ。」ところが15章で主は言われます。「その地の食べ物を食べるようになったら。」
正反対です。
恐れは言う。「あの地がお前たちを食い尽くす。」
神は言われる。「あなたがたが、あの地の実りを食べる。」
状況は言います。「もう終わりだ。」
神は言われる。「あなたがたがその地に入る時。」
状況は言います。「見渡す限り荒野だ。」
神は言われる。「そこで小麦を収穫する。」
状況は言います「食い尽くされる。」
神は言われる。「あなたがたは、そこで食べる。」
さあ、ここで問われます。私たちは、いったいどちらのことばを信じて歩くのでしょうか。もっと言えば、どちらのことばを、自分のこれからを決めることばとして聞くのでしょうか。
目に見える現実が、「もう終わりだ。」と言う。その言葉に従って、希望を捨てるのでしょうか。
自分の失敗が、「もう遅い。」と言う。その言葉に従って、立ち上がることをやめるのでしょうか。
恐れが、「これから先、何も良いことはない。」と言う。その言葉に従って、一歩も進まなくなるのでしょうか。
それとも、生ける主が語られる御言葉を、「これが私のこれからを決めることばだ。」と受け取るのでしょうか。
あなたは、いったいどちらのことばを信じて歩くのでしょうか。
「わたしは生きている」と言われる主
私たちは少し前に、民数記14章の、「わたしは生きている。」という御言葉を聞きました。
あの時、申し上げました。「わたしは生きている」というのは、主がご自身のいのちにかけて宣言される、非常に厳粛な誓いの言葉です。
言ってみれば、「わたしのいのちにかけて。」ということです。
どうしても信じてほしい。絶対に嘘ではない。それくらい本気なのだ。
神が、「わたしは生きている。」「わたしのいのちにかけて。」と言われる。
それは、「これは絶対に軽く聞いてはならない。」「わたしが語ったことは、必ずそのとおりになる。」という、これ以上にないほど厳粛な宣言です。
その生きておられる主が、今、もう一度語っておられるのです。
「わたしがあなたがたに与えて住まわせる地に、あなたがたが入り、……」
誰が言っているのでしょう。生ける主です。「わたしは生きている。」と、ご自身のいのちにかけて語られた主です。だから信じるのです。状況がそう見えるからではありません。自分が先のことを予測できるからでもありません。主が、そう言われるからです。
主が、私の耳元で語っておられるように
皆さんにも、そのような経験はないでしょうか。先が見えなかった時。どうしたら良いのか分からなかった時。何度も読んできた聖書の御言葉なのに、ある時、不思議なほど鮮やかに心に入ってきた。「これは今の私に語られている。」そう思わされた経験です。
私自身、献身へと導かれていった時のことを、今でもよく覚えています。
献身の確信が与えられる少し前、一か月、二か月ほどの間だったと思います。主日礼拝で語られる御言葉は、初めて知った御言葉ではありません。けれども、その時は違ったのです。まるで主が、私のすぐ耳元で、私に直接語りかけておられるように、御言葉が鮮やかに迫ってきました。
心が震えました。いつも歌っていた讃美歌を歌っているだけなのに、涙が自然に流れてきました。
今思えば、御言葉そのものが変わったのではありません。同じ御言葉です。けれども、生きておられる主が、聖霊によって、その生きた御言葉を今の私に聞かせてくださったのだと思います。
そして、「主がそう言われるなら。」と思わされた。
その御言葉に押し出されるように、私は歩き始めました。
皆さんにも、ないでしょうか。状況は何も変わっていない。問題もまだそこにある。それでも、
「主がそう言われるなら、もう少し歩いてみよう。」
「主がそう言われたと信じて、もう一歩歩いてみよう。」
と思えたことはないでしょうか。
少し思い出してみてください。
あの時、あなたを支えた御言葉は何だったでしょう。
そして今、振り返ってみるとどうでしょう。
あの時には未来だったものの中を、今すでに歩いているということはないでしょうか。
「あの時、この先どうなるのだろうと思っていた。でも、今日私はここにいる。」
「あの時、一人だと思っていた。でも必要な人が与えられた。」
「あの時、道が全く見えなかった。でも振り返ると、一歩ずつ導かれてきた。」
「あの時には、まさかこんな備えがあるとは思っていなかった。」
もちろん、私たちは聖書の御言葉を、自分の思いどおりの未来を保証する言葉に変えてはいけません。
「この御言葉をいただいたから、この病気は必ず治る。」
「この御言葉をいただいたから、この仕事は必ず成功する。」
そのように、自分の願いを神の約束にしてしまうことはできません。
地上では、私たちの願った通りにならないこともあります。最後まで答えの分からないこともあります。しかし、それでも言えるのです。
「ここまで主が支えてくださった。」
「ここまで主は私を捨てなかった。」
「私は何度も疑ったけれど、主は真実でいてくださった。」
そして、ここまで真実でいてくださった主ならば、最後まで真実でいてくださる。そう信じることができます。
恵まれたから、献げる
17節からは、初物の規定が語られます。
15章19節 その地のパンを食べるようになったら、あなたがたは主に奉納物を献げなければならない。
「最初のパン生地を、主に献げなさい。」
私は小さい頃、仏壇に最初のものを供える習慣のある家庭で育ちました。朝、炊きたてのご飯ができると、まず最初に仏壇へ供える。祖母は、新しい牛乳パックを開けると、最初の一杯を仏壇に供えていました。私も、それを特別不思議なことだとは思わずに育ちました。母が買ってきた牛乳パックを、自分が最初に開けたなら、私は迷わず最初の一杯を仏壇に供えていたのです。ですから、「最初のものを神に献げる」という行為そのものには、私はあまり違和感がありません。
しかし、聖書が教える初物には大切な意味があります。
まず神が与えてくださるのです。
神がその地へ導き入れる。神が雨を与える。神が作物を実らせる。そして民が、その恵みをいただく。その後で、「これは、私が自分の力だけで手に入れたものではありません。」と告白して、最初のものを主に献げる。
つまり、献げたから恵まれるのではありません。恵まれたから献げるのです。「主よ、これはあなたがくださったものです。」そう告白するのです。
私たちは、物事がうまく行っている時ほど、かえってこのことを忘れやすいのかもしれません。社会人なら、「自分が働いて、この給料を得た。と思うかもしれません。学生なら、「自分が勉強したから、この学校に入れた。」「自分が努力したから、この結果を得た。」と思うかもしれません。
もちろん、一生懸命働くことは大切です。
一生懸命学ぶことも大切です。
努力することも大切です。
でも、その働く力は誰からいただいたのでしょう。
学ぶことのできる力は。
その大学で学ぶことのできる環境は。
学費を支えてくれるものは。
その仕事に出会えたことは。
支えてくれた人は。
その機会は。
いったい誰が与えてくださったのでしょう。
そして何より、今日ここで、主を礼拝する者として生かされていることは。
全部、自分一人で勝ち取ったのでしょうか。
若い皆さんにも、ぜひ考えてほしいと思います。自分が頑張ったことを否定する必要はありません。でも、一度立ち止まって、「これは、誰からいただいたものなのだろう。」と考えてみてください。
初物を献げることは、「これは恵みだった。」と、もう一度気づく礼拝でもあったのではないでしょうか。
神が、彼らの礼拝を喜んでくださる
そして、この箇所では何度も、「芳しい香り」という言葉が繰り返されます。主に芳しい香りを献げる。
神が語っておられる未来は、「あなたがたはカナンで豊かに暮らせる。」というだけではありません。もっと大切な未来があります。
彼らはそこで、主を礼拝するのです。
昨日まで主につぶやき、主を信じず、主を置き去りにした民です。
その彼らに、神は、「やがてあなたがたは、わたしに芳しい香りを献げる。」と語ってくださる。
彼らは神が喜んで受け入れてくださる礼拝を献げる民になる。
そして神が、彼らの礼拝を喜んで受け入れてくださるのです。
昨日まで主に逆らっていた人たちです。それでも神は、「もうお前たちの礼拝など受け取らない。」とは言われない。もう一度、ご自分との交わりに招いてくださる。
なんという回復でしょう。
神が回復してくださるのは、生活だけではありません。畑だけではない。食卓だけでもない。何よりも神との交わりそのものを回復してくださるのです。
荒野の向こうにあるのは、単なる豊かさではありません。神とともに喜ぶ生活です。祝福を与えてくださる神とともに、神の祝福を喜ぶ生活です。収穫を喜び、「主よ、あなたが与えてくださいました。」と献げ、その礼拝を神ご自身が喜んで受け入れてくださる。そんな未来を、主は今、荒野にいる民に語ってくださっているのです。
望みのことばを、次の世代へ
そして、もう一度親世代のことを考えたいと思います。
彼ら自身は、約束の地には入れません。しかし、子どもたちは入る。ならば、その子どもたちが荒野を見て恐れている時、親は何を語るのでしょう。自分の失敗だけでしょうか。「私たちは失敗した。だから、お前たちは私たちのようになるな。」もちろん、それも必要かもしれません。
しかし、それだけではありません。神から聞いた望みのことばを語るのです。
「この荒野は最後ではない。」
「主が言われた。あなたがたは、あの地に入る。」
「今はマナを食べている。でも、いつかお前たちは、自分たちで収穫した小麦からパンを焼く。」
「ぶどう畑を持つ。」
「主に初物を献げる。」
「そして主を礼拝する。」
自分にはその日を見ることができないかもしれない。それでも語る。なぜなら、神がそう語ってくださったからです。
神が私たちに望みを語ってくださる。そして私たちは、その神とともに望みを語る者とされる。これが信仰継承なのではないでしょうか。
私たちの礼拝も、今ここにいる私たちだけのためのものではありません。次の世代が、「主は真実なお方なのだ。」と知るための礼拝でもあります。
だから、「自分が気持ちよく礼拝できるか。」だけを考えるのではない。
「自分の好きな御言葉か。自分の好きな賛美か。」だけでもない。
また、若い人たちの好みに何でも合わせれば良い、ということでもありません。
大切なのは、主が喜んで受け入れてくださる礼拝を、世代を越えてともに献げることです。そして、その礼拝の中で、生きておられる主の御言葉を、ただ音として聞いて終わるのではなく、今、自分に語られている生きた御言葉として、ともに理解し、受け取り、自分のものとしていく。その御言葉を、生きる力にしていく。ここも、とても大切なことだと思います。
昔から大切に歌われてきた賛美にも、受け継ぐべき素晴らしい信仰があります。一方で、歌っている言葉の意味が分からず、ただ音だけが過ぎていくなら、次の世代に信仰を手渡していることにはならないでしょう。
反対に、分かりやすければ何でも良いということでもありません。
大切なのは、世代を越えて、「何を歌っているのか。」「何を信じているのか。」
「今、主は私たちに何を語っておられるのか。」それをともに理解し、ともに信じ、ともに生きることです。次世代に礼拝を合わせるというよりも、次世代とともに、生ける主を礼拝していく。そして、「この主は真実だった。」と手渡していく。それが、親世代の大切な務めなのだと思います。
旅の途中にも、主は語ってくださる
けれども、こう思う方もいるでしょう。
「最後には御国がある。それは分かります。でも、そこまでの人生はどうなるのでしょう。」
確かに、私たちに与えられている究極の望みは、キリストにある復活と神の国です。けれども神様は、「最後に御国へ連れて行くから、それまでは自分で何とかしなさい。」とは言われません。目的地を約束してくださる主は、目的地まで私たちを放っておかれる主ではありません。目的地へ向かう途中で、私たちを置き去りにされる主でもありません。旅の途中にも、御言葉をくださいます。
旅の途中で、また失敗してしまうこともあるでしょう。恐れてしまうこともある。疑ってしまうこともある。立ち止まってしまうこともある。それでも主は語ってくださいます。「恐れるな。」「わたしはあなたとともにいる。」「あなたを見放さない。」「わたしの恵みはあなたに十分である。」その時その時に必要な確かな御言葉を、聖霊が思い起こさせてくださる。そして今日の一歩を歩かせてくださいます。
時には、目の前の必要も備えてくださるでしょう。道を開いてくださることもあるでしょう。祈っていたことについて、「ああ、主はここまで導いてくださった。」と、この地上で答えを見ることもあるでしょう。その一つ一つを感謝して受け取りたいと思います。
しかし、それが最後の望みではありません。この地上で、すべての問題が解決するわけではありません。病が治らないこともあります。願った道が開かれないこともあります。涙を流したまま終わる問題もあります。それでも、決して失われない約束がある。
キリストは死からよみがえられました。そしてキリストにある者も、よみがえります。主は再び来られる。神の国は完成する。涙も、死も、悲しみも、叫び声も、苦しみもない日が来る。それが、私たちの荒野の向こうにある究極の約束です。
だから、今日までの小さな恵みも、「良かった、今回も何とかなった。」だけで終わらせない。ここまで真実でいてくださった主なら、最後まで真実でいてくださる。そう、顔を上げるのです。
聖餐――荒野のただ中に置かれた未来の食卓
そして今日は、聖餐式があります。
イスラエルの民は、まだ約束の地に入っていません。まだ穀物を収穫していません。まだパンを焼いていません。まだぶどう酒を造っていません。今、食べているのはマナです。それなのに神は、パンの話をされました。ぶどう酒の話をされました。「その地の食べ物を食べるようになったら。」彼らは、まだ食べていない約束の地のパンについて聞かされたのです。
そして私たちの前にも今日、パンと杯が置かれます。聖餐は、まず私たちを過去へ向かわせます。私たちのために裂かれたキリストのからだ。私たちのために流されたキリストの血。私たちの救いは、すでに十字架によって成し遂げられました。
しかし、聖餐は過去だけを見るものではありません。
聖書は言います。
「あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」
「主が来られるまで。」聖餐には未来があります。
今日、私たちはこのパンと杯をいただきながら、まだ目で見ていない御国の食卓を、先取りして味わうのです。今はまだ荒野です。この世の旅は、なかなか思いどおりにはいきません。まだ荒野です。けれども、荒野が最後ではありません。
今日、主は私たちの前にパンと杯を置いて、「この先には食卓がある。」と語ってくださいます。
イスラエルに、「あなたがたは、その地の食べ物を食べる。」と語られた主が、私たちにも約束してくださっています。やがて主とともに、御国の食卓につく日が来る。だから私たちは、顔を上げることができるのです。
おわりに――荒野が、最後ではない
目の前の現実は、私たちの心を簡単に支配します。
そして荒野は、私たちに語りかけます。
「もう無理だ。」
「もう遅い。」
「何も変わらない。」
「これから先に、良いことなど何もない。」
しかし、その言葉に従って、自分のこれからを決めてはいけません。
生ける主は、別のことを語ってくださいます。まだ荒野なのに、「あなたがたがその地に入る時。」と語ってくださる。
まだマナを食べているのに、小麦粉を語ってくださる。
まだ何も実っていないのに、収穫を語ってくださる。
まだパンを食べていないのに、食卓を語ってくださる。
そして、昨日まで主に背いていた民に、「あなたがたは、わたしが喜んで受け入れる礼拝を献げる民になる。」という未来を語ってくださる。
主は、絶望する者を放っておかれません。私たちには、望みのことばが必要です。だから神は、望みのことばを語ってくださいます。
そして、その御言葉によって立ち上がらせていただいた私たちもまた、神とともに望みを語る者とされるのです。子どもたちに。次の世代に。今、隣でうつむいている人に。「荒野が最後ではない。」と。
思い出してください。あの時、あなたを支えた御言葉は何だったでしょう。そして、あの時には未来だったものが、今すでに恵みとなってはいないでしょうか。
ここまで真実でいてくださった主を見てください。その主は、これからも真実です。
私たちには、まだ旅があります。荒野を歩かなければならない日もあるでしょう。旅の途中で、また失敗してしまう日もあるでしょう。でも、行き先は分かっています。そして、一人で歩くのでもありません。生ける主がともにおられます。「わたしは生きている。」主は、ご自身のいのちにかけてそう語られました。
その生ける主が、今日も語ってくださいます。
だから、顔を上げましょう。
荒野ばかりを見続けてはいけません。目に見える現実の声だけで、自分のこれからを決めてはいけません。
主が語られる御言葉によって、これからを歩んでいきましょう。
主がそう言われるなら、もう一歩、歩いてみましょう。
主がそう約束してくださったと信じて、今日の一歩を歩いていきましょう。
そして、自分だけでその望みを抱えているのではなく、「主は真実だ。」「荒野が最後ではない。」と、望みのことばを語っていきましょう。
まもなく私たちは、聖餐のパンと杯をいただきます。まだ見ていない御国の食卓を、今日、先取りして味わいます。今はマナかもしれません。まだ荒野かもしれません。けれども主は、荒野の向こうを語ってくださっています。ですから、顔を上げて歩いていきましょう。
荒野は、最後ではありません。主が生きておられるからです。そして、生ける主が語られた約束は、必ず成し遂げられるからです。
【祈り】
天の父なる神様。
私たちは、目の前の現実に心を奪われ、あなたよりも問題の方を大きく見てしまいます。どうか、そのような私たちをあわれみ、赦してください。
それでも私たちを置き去りにせず、荒野の中でなお御言葉を語ってくださることを感謝します。
主よ、私たちには望みのことばが必要です。荒野しか見えなくなる時に、荒野の向こうを語ってください。ここまで真実でいてくださったあなたを信じて、今日の一歩を歩ませてください。
また、私たちもあなたとともに、子どもたちや次の世代、希望を失いかけている人々に、「主は真実です。荒野が最後ではありません」と語る者としてください。
これから聖餐にあずかります。十字架にかかり、よみがえられた主イエスを覚え、このパンと杯をいただきながら、やがて主とともに囲む御国の食卓へと、私たちの目を上げてください。
私たちの主、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

