2026年9月9日 水曜日祈祷会「礼拝が終わるところから」
聖書箇所
歴代誌第二 7章
「礼拝が終わるところから」
この7章の前半は、とても華やかな場面です。
ソロモンが祈り終えると、天から火が下って、全焼のささげ物といけにえを焼き尽くしました。そして、主の栄光が宮に満ちました。
イスラエルの民はそれを見て、地にひれ伏して主を礼拝しました。
「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
そう言って主をほめたたえます。
たくさんのいけにえが献げられ、祭司たちが立ち、レビ人たちが楽器を奏でます。そして民は、大きな喜びの中で祭りを祝いました。
本当に素晴らしい礼拝だったと思います。
そして10節を見ると、祭りを終えた民は、それぞれ自分の家へ帰っていきました。
第七の月の二十三日に、彼は民をそれぞれの天幕に帰らせた。彼らは、主がダビデとソロモンとその民イスラエルに下さった恵みを喜び、心満たされていた。
歴代誌 第二 7章10節
みんな、本当に恵まれて帰っていったのです。
ところが、その後の12節になると、雰囲気が変わります。
その夜、主はソロモンに現れ、彼に言われた。
歴代誌 第二 7章12a節
ここでいう「その夜」が、祭りが終わったその日の夜であったとまでは本文から断定できません。
けれども、私はこの「夜」という言葉に、前半とは対照的な静けさを感じます。
大勢の民はいません。
音楽も聞こえてきません。
天から火が下るような出来事もありません。
ただ、夜の静けさの中で、主がソロモンに語られるのです。
私はここを読みながら、礼拝やバイブルキャンプのことを思いました。
キャンプでは、みんなで楽しい時間を過ごします。賛美を歌います。御言葉を聞いて、心が燃やされることもあります。
「神様ってすばらしいな。」
「もっと主を信じたい。」
「これからも主について行きたい。」
そんな思いで、本当に喜んで家に帰る。
礼拝もそうです。
みんなで賛美し、一緒に祈り、御言葉を聞いて励まされる。
けれども、やがて礼拝は終わります。
キャンプも終わります。
そして家に帰ります。
一人になります。
そこから、またいつもの日常が始まります。
すると、あの時の感動が少しずつ薄れていくことがあります。
キャンプではあんなに喜んでいたのに。
礼拝ではあんなに主が近く感じられたのに。
月曜日になったら、いつもの生活が始まる。
いつもの悩みがある。
いつもの自分がいる。
そして時には、「本当に主は私とともにおられるのだろうか。」そんなことを思うこともあるのではないでしょうか。
でも、今日の箇所を読んでいて思わされるのです。
静けさは、主がおられなくなったしるしではありません。
むしろ、群衆の中では聞けなかった主の御声に、静かに耳を傾ける時にもなり得るのです。
祭りの後、主はソロモンに語られました。
その夜、主はソロモンに現れ、彼に言われた。「わたしはあなたの祈りを聞き、この場所をわたしにいけにえを献げる宮として選んだ。
歴代誌 第二 7章12節
そして17節では、
もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、
歴代誌 第二 7章17節
と語られます。
祭りがどれほど盛大だったか。
神殿がどれほど立派だったか。
それだけではありません。
祭りが終わった後、あなた自身がわたしの前をどう歩むのか。
主はそこを見ておられるのです。
私はここに、とても大切なことがあると思います。
礼拝でどれほど感動したか。
キャンプでどれほど心が燃えたか。
もちろん、それは素晴らしい恵みです。
けれども信仰は、そこで終わるのではありません。
礼拝が終わるところから、主とともに歩む新しい日常が始まるのです。
そして、あの時の感動が薄れてきた時こそ、静かに主と向き合ってみる。
「主よ、私は今、何を一番の喜びにしているでしょうか。」
「私は、あなたご自身を喜んでいるでしょうか。」
「主よ、今の私に何を語っておられるのでしょうか。」
そうやって、一人静かに御言葉を開き、祈り、主の御声に耳を傾ける。
祭りの喜びが静けさに変わった時、主ご自身を喜びとして、約束に信頼して歩み始める。
それが、祭りの後の信仰なのではないかと思います。
そして、この歴代誌を最初に読んだ人たちのことを考えると、この御言葉はさらに深く響いたのではないでしょうか。
彼らは、捕囚から帰ってきた人々でした。
彼らがこの7章を読むと、そこには昔のイスラエルの栄光が書かれています。
天から火が下った。
主の栄光が神殿に満ちた。
大勢の民が喜んだ。
ソロモンという王がいた。
けれども、自分たちの現実を見ると、同じではありません。
神殿は再建されました。
礼拝も再開されました。
けれども、ソロモンの時代のような栄光はありません。
第二神殿の奉献の記事を読んでも、ソロモンの神殿の時のように、天から火が下ったとか、主の栄光が宮に満ちたとは記されていません。
ですから彼らの心には、
「本当に主は、まだ私たちとともにおられるのだろうか。」
そんな問いもあったのではないかと思います。
けれども彼らが7章14節以下を読む時、別のことにも気づかされたでしょう。
14節にはこうあります。
わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。
歴代誌 第二 7章14節
そして19節以下には、もし主を捨て、ほかの神々に仕えるなら、この地から取り除かれ、この宮さえ投げ捨てられるという厳しい警告が続きます。
帰還民はこれを読んで、
「そんなことが本当に起こるのだろうか。」とは思わなかったでしょう。
なぜなら、本当に起こったからです。
神殿は壊されました。
国を失いました。
民は捕囚となりました。
主が警告されたことは、本当でした。
しかし、それだけではありません。
今、その御言葉を読んでいる彼ら自身が、エルサレムに帰ってきているのです。
主は彼らを終わりにはされませんでした。
ですから彼らは、もう一つのことも思い知らされたのではないでしょうか。
主のあわれみも、本当だった。
主の警告は真実だった。
そして主の赦しも、主のあわれみも真実だった。
だったら、これからについても、この主の御言葉を信頼してよい。
目の前に昔のような栄光が見えなくても、主はおられる。
私は、この帰還民の問いは、私たちの問いでもあると思います。
「主は本当に私とともにおられるのだろうか。」
そのように思う時があります。
祈っても何も感じない。
御言葉を読んでも、心が燃えるようなことがない。
「あのキャンプの時は良かった。」
「あの礼拝の時は恵まれた。」
過去を振り返って、そう思う。
でも、あの時私たちを喜ばせてくださった主は、あの場所に置いてきたのではありません。
主は今日もおられます。
家に帰ってもおられる。
学校にもおられる。
職場にもおられる。
いつもの教会にもおられる。
私たちが強く感じているからおられるのではありません。
主が約束しておられるからです。
ですから、感動が薄れてきた時、私たちはあわててもう一度強い感動を求めなくてもよいのだと思います。
むしろ、その時こそ静かに主と向き合う。
御言葉を開く。
祈る。
そして、「主よ、あなたはここにもおられるのですね。」と、主がおられることを知っていく。
「感じる」ことから、もう一歩深く、「知る」信仰へと導かれていく。
静けさは、主がおられなくなったしるしではありません。
静けさの中にも主はおられます。
そして、その静けさの中で、「あなたは、わたしの前をどう歩むのか。」
そう主が語ってくださる。
礼拝は終わります。
キャンプも終わります。
祭りも終わります。
でも、主との歩みは終わりません。
むしろ、そこから始まります。
礼拝が終わるところから、主とともに歩む新しい日常が始まる。
祭りの喜びが静けさに変わった時、主ご自身を私たちの喜びとして、主の約束を信じて歩んでいきたいと思います。
そして感動が薄れてきた時こそ、静かに主と向き合いましょう。
主の語りかけに耳を傾けましょう。
そして知っていきたいのです。
「主はここにもおられる。」
今日も、この主とともに、それぞれの日常へと歩み出していきたいと思います。

