2026年2月22日 主日礼拝「約束の地に入ることができる秘訣」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇31篇23〜24節
賛 美 新聖歌221「ああ主の瞳」
新聖歌233「驚くばかりの」
讃 美 讃美歌84「神にたより」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇27篇(新聖歌 交読文9)
讃 美 讃美歌280「わが身ののぞみは」
聖書朗読 民数記2章1〜34節
説 教 「約束の地に入ることができる秘訣」
讃 美 讃美歌380「たてよ、いざたて」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 民数記2章34節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記2章1〜34節
説教題
「約束の地に入ることができる秘訣」
今週の聖句
イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、それぞれその氏族ごと、一族ごとに進んで行った。
民数記2章34節
説教「約束の地に入ることができる秘訣」
民数記2章1〜34節
はじめに
民数記は2章に入り、1章に続いて2章においても、神の民が約束の地を目指す旅に出るための準備がなされて行きます。そして2章の終わりに、いよいよ約束の地を目指す旅の出発が記されています。
1章では、神の命により人口調査が行われました。神の偉大なみわざによって出エジプト(罪に満ちた世、奴隷状態からの解放)が果たされ、過ぎ越しという決定的な出来事によって神の民とされた者は、一人ひとりが神の選びによって召され、一人ひとりが神に覚えられている幸いな者、恵まれた者であることを覚えさせ、さらに戦いに出ることができる20歳以上の男子が登録されました。それは約束の地を目指す旅には様々な激しい戦いがあるからです。しかしそこではレビ人は数えられませんでした。レビ人には彼らの資質のゆえに特別な使命が与えられたからです。そのレビ人に与えられた使命を通して、神は愛とあわれみに満ちておられるお方だけれども、やはりどこまでも聖なるお方、権威あるお方、恐れられるべきお方であることについても、神の民は改めて確認させられたところです。
神が立てられた秩序、組織
そして民数記は2章に入り、ここではレビ人以外の部族が会見の天幕を中心にしてどこに宿営するのかについての指示と、また荒野を進んで行く時の部族ごとの順番の指示が神によってなされています。
ここから神が神の民に教えられることは、彼らが約束の地を目指す1つの集団として行動するためには秩序や整えられた組織が必要であること。民全体で2〜300万人という大集団が、1人ももれずに約束の地に入ることができるためには、秩序であるとか、組織であるとかが必要であり、それに従順に従うことの必要性を覚えさせられるのです。
現代の私たちの風潮では、これは忘れられがちなもの、軽蔑されがちなものなのではないでしょうか。今日の私たちの世界では、会社でも、学校でも、また教会でさえも、ヒエラルキー(階級組織、ピラミッド型の上下関係)が嫌われ、また破壊されています。自由、平等、それこそ素晴らしいとされています。神は箴言を通して、しもべが主人を見下げる、あるいは立場が逆転して横柄に振る舞うことは、社会の秩序が崩れ、耐えがたい状況だとして嘆いておられます(箴3021-23)。しかし考えてみると、人間の共同体というのは、家族や国に至るまで、何らかの秩序、組織、何らかの役割分担、決断する人とそれに従う人を必要とするものなのではないでしょうか。まったく平等だ、自由だと謳う若い企業などであっても、必ずそこに組織があり、序列とか微妙なヒエラルキー(階層構造、ピラミッド型の上下関係)が見えてきて、またそれを発達させて行くものだと思います。
組織とかヒエラルキーとか、指導者の権威を嫌い、認めようとしない。素直に従おうとしない。疑ったり、文句を言ったり、実際に逆らうこともしてしまう。そこで神の民でさえも忘れがちなのは、次のみことばではないでしょうか。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます」(ロマ131-2)。もちろん、盲目的に従うのではないことは、ローマ書の講解で学んだところです。
神に選ばれ、神に召され、幸いな神の民とされ、約束の地を目指し、危険な荒野のようなこの世を旅する私たちこそ、神によって立てられている権威やヒエラルキー(階級組織、ピラミッド型の上下関係)を軽んじてはならないこと、それをはっきりとさせておくこと、従順に従うことが民数記2章で教えられるのです。そしてそれを覚えなければなりません。それは私たちに窮屈な思いをさせたり、悲しい思いをさせたり、苦しめたりするためではありません。確実に約束の地に入ることができるためにです。この世のそういったものに縛られるのは嫌ですが、神の縛りというのは強固な守りです。愛です。あわれみです。ですから、私たちに与えられている自由というのは、混沌だとか、無秩序だとか、無法状態だとか、曖昧だとか、そのようなものからはっきりと区別されなければなりません。
イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは贖われました。神のもの、神の子とまでしていただきました。イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちのすべての罪は赦されました。罪の奴隷から解放され、自由にされました。しかし、神の民が約束の地を目指す旅の中で異教の民に神の栄光をあらわし、また約束の地を目指す旅を成し遂げるためには、神が立てられた秩序、組織、権威をはっきりとさせ、それに従うことが重要であることが、ここ民数記2章には示されているのです。
2章1節 主はモーセとアロンに告げられた。
2章2節 「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の周りに、距離をおいて宿営しなければならない。
こうして始まる民数記2章には、続けて誰がどこに置かれるか。誰がどの順番で荒野の旅を進んで行くかが主によって命じられています。3部族ごと4つのグループに分けられており、会見の天幕を中心にして東西南北に分かれて宿営するように命じられています。そのグループ分けや荒野を進む順番というのはとても複雑に見えます。決して生まれた順番通りではありません。生んだ母親別かというと、完全にはそうではないようです。しかし親しい者同士が近くに置かれているようにも見えます。これもまた無意味な争いが起こらないようにするための神のご配慮なのかもしれませんし、やはりすべてにおいて高い神の御心、ご計画があるのです。
旗じるしとは
2章2節 「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。
ここに「旗じるし」とあります。ユダヤの伝説によると、それは文字通り、旗に何かの紋章のようなものが入ったものだったようです。その紋章がどのようなものであるかは記されておらず、これもまたユダヤの伝説によると、エゼキエル書に記されるエゼキエルの幻の中の4つの生き物の顔、そして旗の色は大祭司の胸当てにはめ込まれた12部族の宝石の色だとされています。実際のところは分かりません。
そして「旗じるし」と訳されているヘブル語は、「旗に書いて目印にする紋章」の他に「奇跡、神業、兆候、誓約」という意味があります。また「(はっきりと掲げた)行動の目標」という意味があります。これらのことを思い巡らせる時に私が思い起こしたのは、創世記49章に記されているヤコブの遺言(預言)です。今日は全部を読みませんが、創世記49章を開いて、見ながらお聞きください。
ここにはそれぞれの子どもに対する遺言(預言)がされています。良いことも悪いことも言われています。多くが悪いことです。しかし、18節で突然「主よ、私はあなたの救いを待ち望みます」とヤコブが求めていますが、主によって救われ、贖われ、そして神の息が吹き入れられ、つまり聖霊が注がれる時、良いものも悪いものもすべてが聖くされ、神のものとされるのです。神によって用いられるのです。神がそれを通して奇跡、みわざをなさるのです。ヤコブはそれを求めているのでしょう。
第1グループ——ユダ、イッサカル、ゼブルン
第1グループはユダ、イッサカル、ゼブルン。彼らはレアに生まれた子たちです。この第1グループは、会見の天幕の東側に宿営します。東は太陽が上る方角であり、当時は最も重要な方向と考えられていました。そして荒野を進んで行くときにはこのグループが先頭になります。ですから、第1グループの「旗」となるユダ部族は、全部族の先頭に立ちます。ユダについては「獅子」と言われています。獅子は力、威厳、大胆不敵、難攻不落などを備えた姿を表現しています。そしてこのユダ部族は王族となることが預言されています。すべての王権、権威が与えられる。この「王権」というのは、羊飼いの杖を表す語で、リーダーシップ、権威、支配を象徴しています。そしてこのユダ部族からダビデ王が出て、さらには真の王であるイエス・キリストが出て、イエス・キリストがなされる神業、みわざまでもが預言されています。その第1グループのユダの旗じるしの下には、他にイッサカル部族とゼブルン部族がひかえます。イッサカルについてヤコブは「たくましいろば」と預言しました。ろばと言えば、真の王としてエルサレムに入城された際にイエス様が乗られたのがろばでした。またろばは古くから柔和、平和、謙遜、忍耐の象徴とされてきました。進んで戦いに出ることを好まず、安定を好むのでしょうか。しかし肩には重荷を背負わされるのです。またイッサカル族は学問、法解釈、そして「時を理解する知恵」を持つ部族として知られていました。ですから、先頭に立って王のように勇みよく進んで行くユダ部族の重責を共に負い、また良い意味でのストッパー役としての役割の資質(生まれつきの性質)が備えられていたのかもしれません。ゼブルンはどうでしょうか。なんだか他国との交渉役、交渉上手の印象が与えられるような気がします。またカナン人との戦いにおいては、忠誠心の高い勇敢な戦士として貢献しました。この賜物もまた先頭グループに求められている賜物、資質のように思います。第1グループの旗じるし(はっきりと掲げた行動目標)、彼らがすべての行動において常に誓約すべきことは、正しい権威をもって、正しくリーダーシップをとるということでしょう。
第2グループ——ルベン、シメオン、ガド
第2グループはルベン、シメオン、ガド。そしてルベン部族が第2グループの旗となります。第2グループは会見の天幕の南側に宿営し、荒野を進んで行くときには2番目になります。そしてこの2番目のグループに続いて進むのは、会見の天幕を運搬するレビ人の宿営です。第2グループには、イスラエルの最も重要な会見の天幕を、他国の攻撃や接触などから守るためのグループとも言えるでしょう。第2グループの旗となるルベンはヤコブの長子で、威厳、力強さでは他の兄弟たちよりも勝っていました。しかし奔放な彼は罪を犯し、長子の権利を失ってしまい、宿営では南側に、荒野を進んで行くときには2番目に置かれてしまいました。人の目には「後退」のように見られてしまうのかもしれませんが、しかし神はこのことにおいても神の全能とあわれみによって奇跡、神業を行われるのです。悔い改めの心、謙遜さを身に着けたルベンは、それこそ「2番目」の役割にふさわしい者として備えられたのではないでしょうか。その第2グループのルベンの「旗じるし」の下には、他にシメオン部族とガド部族がひかえます。シメオンは前回のレビの所で学んだとおり、レビと同じく残虐性、気性の荒さ、何事も見過ごすことができない性分、実直で頑固、正義に対する強い信念がありました。それらの性分に神の息がかかり、神のものとされるならば、それこそイスラエルの最も重要な会見の天幕を守るためのグループにふさわしい人材となるのではないでしょうか。ガドについては、「襲う者が襲うが、彼は、その者たちのかかとを襲う」と預言されています。彼らは自らの身を挺してまでも何とかして守ろうとする防衛能力と、それ故の勇敢な戦士の資質を持つ部族なのでしょう。彼らも2番目のグループ、会見の天幕を運搬するレビ人の宿営の前を進んで行くのです。第2グループの旗じるし(はっきりと掲げた行動目標)、彼らがすべての行動において常に誓約すべきことは、常に神への感謝と謙遜をもって神と共同体を守るということではないでしょうか。
第3グループ——エフライム、マナセ、ベニヤミン
第3グループはエフライム、マナセ、ベニヤミン。そしてエフライム部族が第3グループの旗となります。第3グループは会見の天幕の西側に宿営し、荒野を進んで行くときにはレビ人の宿営の後を行きます。エフライムとマナセはヨセフの子です。そのヨセフに対する預言的な性格ははっきりしていません。しかし歴代誌第一5章1-2節では、「ルベンの長子の権利がヨセフの子に与えられた」と記されています。またヤコブの預言では「そこから、イスラエルの岩である牧者が出る」と言われています。長子の権利がどのように伝わっていったのか聖書には直接の言及はありませんが、民の指導者として選ばれた人物に目を留めてみると、後にモーセの後継者となるヨシュア、さらには士師の時代にイスラエルに初めて王が立てられた際に重要な役割を果たしたサムエルがエフライム部族から出ていることが分かります。荒野の旅では、彼らを輩出した(輩出する)彼らが、モーセの背後からまるで後見人(背後にいて、その世話をし助ける人)のような形で従っていきました。そのような役割が神から任され、そして期待されていたのでしょう。マナセについてですが、マナセ族は歴史の中で他民族の中に紛れながらも、長年にわたりユダヤ人としてのアイデンティティを保ち続けたグループとして知られています。また聖書的・伝承的に彼らは「議論する性質」を受け継いでいると言われています。そのような彼らにも、神はその置かれた場所にあってその賜物をもっての奉仕が任され、そして期待されていたのでしょう。第3グループの旗じるし(はっきりと掲げた行動目標)、彼らがすべての行動において常に誓約すべきことは、背後から後見人(背後にいて、その世話をし助ける人)のような形で従い助けるということでしょう。
第4グループ——ダン、アシェル、ナフタリ
第4グループはダン、アシェル、ナフタリ。そしてダンが第3グループの旗となります。第3グループは会見の天幕の北側に宿営し、荒野を進んで行くときには最後となります。北側というのは東側の左にあり、それは最も重要性が低い方角とされています。日本語でも「しんがり」と言い、列の最後尾、またスポーツなどの競技において最下位をあらわす語です。しかし「しんがり」というのはもともと、軍隊が撤退する際に最後尾で敵を食い止め、味方を守る重要な部隊、またはその役割のことを言いました。まさに創世記49章17節の預言のとおりではないでしょうか。また「ダンは自分の民を、イスラエルの部族の一つとしてさばく」ともあります。最後尾から全体を見渡して、すべての善し悪しをさばく冷静で確かな霊的な目を持つようにということでしょうか。アシェルについては、預言からは何だか食事係が任されているような印象を受けます。しかし真に王を養うものは、食べ物ではなく神のことばです。彼らには神のみことばを豊かに蓄え、王を養い力を与えるという役割が任され、そして期待されていたのではないでしょうか。そして最後に「ナフタリは放たれた雌鹿。美しい子鹿を産む」と預言されています。「美しい子鹿を産む」とありますが、ここは「美しいことばを出す」とも訳せます。美しいことばとは何でしょうか。やはり神のみことば、神の御心、神のご計画、神の約束のことではないでしょうか。神のみことばこそ、神の民にとってなくてはならないものです。あるいはまた、時にかなった慰めの言葉でしょうか。そのようなナフタリが北側に、そして最後尾に置かれている。これは「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです」(Ⅰコリ1223)を思い起こさせるのではないでしょうか。そして彼らは最後の砦。これが第4グループの旗じるし(はっきりと掲げた行動目標)、彼らがすべての行動において常に誓約すべきことなのだと思います。
旗じるしを見上げて
このように神はイスラエルの部族を4つのグループに分け、すべての部族、そのすべての人々をそれぞれの所に配置されました。組織し、秩序を与えられ、そしてそれぞれの役割を与えられたのです。神が備えられたそれぞれの資質を神が祝福し、それを良い賜物として用いられ、それぞれにふさわしい、そして1つの共同体全体に必要な役割を与えられました。そこから、現在の神の民である教会も同じく、それぞれの賜物に応じて与えられている役割があることを覚えるのです。先頭に立って危険の最前線に立ち、道を切り開くような人。寄り添いながら働きを支え助ける人。時には良い意味でのストッパーとなる人。力あるわざが出来なくとも、背後から見守りつつ、様々な必要を満たしたり、人の目には留まらないような小さな奉仕をもって群れ全体を守り支える人。さばく心がある。しかしさばける心をもって全体の善し悪しに心を留め、時には心を痛めつつとりなし祈る人。耳の痛い忠告をする人。普段は決して目立たないけれども、いざという群れの危機の時にはそれを見極め、最前線に立つ人。日頃からみことばを蓄え、最後の砦のように、必要な時にはそっとみことばを指し示し慰め励ます人。決して優劣ではありません。すべてが必要で、すべてが尊い働きです。神の民の共同体は、そのようにして互いに協力し合うことで、信仰の歩みを前進させて行くのです。パウロはそれを1つのからだとしてたとえました。
決して優劣ではない。すべてが等しく必要で、すべてが等しく尊い働き。しかし、やはりそこには秩序というものが必要なのです。人間の共同体は、家族という小さな共同体から、国とか世界という大きな共同体に至るまで、何らかの秩序、組織、何らかの役割分担、何らかのヒエラルキー(階層構造)を必要とするのです。そして神の民の共同体すべての中心に「主の臨在」があることは言うまでもありません。宿営するにしても、荒野を前進して行くにしても、その中心には常に神の臨在を示す会見の天幕があるのです。主の臨在が全体の要。そのような秩序、組織、ヒエラルキーは神の知恵。サタンの悪しき勢力の攻撃を退け、勝利して約束の地に入るための秘訣を示しているのです。その秘訣というのはつまり、自由の身とされながらも、その自由をはき違えずに、神が求められる秩序を保ち、神が立てられた権威、ヒエラルキー(階層構造)に従順に従い、自分が置かれている所で自由に喜んで自分に与えられている賜物を神に聖めていただき、神に喜ばれるように正しく用い、自分の役目を果たして行くということです。
また神は4つのグループそれぞれに旗じるしを立てられ、自分の一族の旗じるしのもとに宿営し、旗じるしを見上げて荒野の旅を進んで行くように命じられました。「旗じるし」。それは紋章であり、また「(はっきりと掲げた)行動の目標」でもあります。全ての行動において常に誓約すべきこと。自分はどこに立つのか、その立ち位置をはっきりとさせるものです。神の民は旗ごとに宿営し、そして進みました。この旗がなければ、荒野を安全に進めなかったことでしょう。彼らが無事にカナンに入ることができるのは、各宿営の旗じるしによって、皆が秩序を守ったからです。とどまるにしても、進むにしても、常に旗を見上げ、神がそれぞれに任されている働き、またそれぞれの行動の目標を常に覚えつつ、荒野の旅を進んで行くのです。神の臨在を中心に、秩序をもって一致して歩んで行くのです。私たちは、イスラエルが会見の天幕を中心に宿営し、秩序を保ちながら進んだように、人生の中心に神を迎えて、神の宮である教会を中心に生活するのです。教会のかしらであるイエス・キリストを頂点とした秩序あるヒエラルキー(階層構造)に従順に、協力して、一致して、悪の勢力の脅威を退け、この世にあって神の栄光をあらわし、そして天の御国に入れられる祝福をいただくのです。
2章34節 イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、それぞれその氏族ごと、一族ごとに進んで行った。
自分が置かれた場所に文句を言った人がいたのでしょうか。いませんでした。ここに熱心でかつ従順で、よく組織され、約束の地に入る際に神の聖なる戦いに参加する備えができた人々という印象が与えられます。またここに、神が民のただ中にいる限り、約束の地へ入るのは目前であるという、高まる期待が与えられます。しかし民数記を読み進めて行くならば、神の民イスラエルは秩序乱し、権威に逆らい、聖い神を侮り逆らい、約束の地に入る時が遠のき、またほとんどの第一世代が荒野で滅んでしまったことに気付かされます。
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリ1011-12)。民数記2章には、実に荒野のような世で私たちがどのように生きるべきか。また約束の地に入ることができる秘訣が示されているのです。

