2026年5月10日 主日礼拝「感謝のいけにえを神に献げよ」

前  奏  黙祷
賛  美  新聖歌156「われは主にありて」
      新聖歌198「GOD BLESS YOU」
招  詞  詩篇68篇3〜4節
讃  美  讃美歌7「主のみいつと」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇50篇(新聖歌 交読文18)
讃  美  讃美歌12「めぐみゆたけき主を」
聖書朗読  民数記7章10〜89節
説  教  「感謝のいけにえを神に献げよ」
讃  美  讃美歌534「ほむべきかな」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 詩篇107篇21節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記7章10〜89節

説教題

「感謝のいけにえを神に献げよ」

今週の聖句

主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。

詩篇107篇21節

説教「感謝のいけにえを神に献げよ」

民数記 7章10〜89節

必要を満たしてくださる恵み

先週の金曜日、仕事に少し疲れを覚え、気持ちも沈みがちだった私に、一つの嬉しい出来事がありました。私の職場に、60代の新人の方が入って来られたのです。仕事帰りに駐車場まで一緒に歩きながら話していた時、私が教会の牧師をしていることをお伝えすると、その方は「実は自分もクリスチャンなんです」と言われました。そして採用面接の際、「何としても日曜日だけは休ませてください」とお願いしたところ、それが認められたと喜んでおられたのです。私は思わず、「実は私も同じなんです」と言いました。そして二人で、「これは本当にすごいことですね。神さまの守りと恵みですね」と、神への感謝を分かち合いました。

そもそも、私自身が今の仕事に就くことができたこと自体、神の最善のタイミングによる導きであり、守りであり、恵みでした。教会の奉仕の妨げにならない仕事はないだろうかと探していた時、たまたまポストに入っていたホテルのオープニングスタッフ募集のチラシを見つけたのです。しかしそこには、「土日祝に勤務できる方」とはっきり書かれていました。それでも、とにかく応募してみようと思いました。面接の際、自分が教会の牧師であること、そして土曜日と日曜日はどうしても休ませてほしいことを正直にお話ししました。すると驚いたことに、快く了承してくださり、無事採用となったのです。しかも牧師という仕事を尊重してくださり、色々と優遇してくれました。実は、この仕事が決まっていなかったなら、私は今ここに立っていなかったかもしれません。本当に神のあわれみであり、守りであり、備えであり、恵みでした。本当に感謝でした。

しかし、2024年以降、インバウンド需要や観光客の増加によってホテル業界全体が非常に忙しくなり、毎日のように続く残業に次第に疲れ果ててしまいました。いつの間にか、あれほど感謝していたはずなのに、不平不満が心に湧き上がって来るようになったのです。その思いを神にぶつけてしまいました。そして辞めさせてくれとも。その祈りは聞かれませんでしたが、別の道が備えられました。なぜか会社も残業の多い状況を見かねて、ついに責任を共に担ってくださる方を採用してくださいました。その方が先ほどの「実は自分もクリスチャンなんです」と言われた方です。その方は以前、長野市内でも大きなホテルで同じような仕事をしておられたそうです。おかげで、私の負担も残業も減っていくでしょう。教会の奉仕への影響も少しは軽くなるでしょう。そして何より、その方がクリスチャンだったということは、私にとって大きな励ましであり、恵みでした。仕事帰りには、「二人でホール担当の日は、ホールに賛美歌を流しましょう」「いいですね!」と語り合い、共に喜びました。そのように、私は先日、神から大きな励ましと恵みをいただいたのです。その感謝を忘れずにいたいと思います。

今朝、皆さんもまた、それぞれにこの一週間を振り返り、与えられた恵みを覚えながら、感謝をもってこの礼拝に集われたことと思いますが、いかがでしょうか。

改めて、「恵み」とは、受ける資格のない者に与えられる神からの賜物です。私たちの救いも恵みです。そして神は、私たちの日々の歩みの中にも、感謝すべき出来事を備えてくださいます。これもまた恵みなのです。

しかし私たちは、与えられた時にはあれほど感動し、喜んでいた恵みを、時が経つにつれて当たり前のもののように受け止めてしまいます。そして感謝を失っていくのです。感謝を失うだけではなく、少しでも苦しみや困難に直面すると、すぐに不平不満が心に湧き上がって来ます。まるで荒野を旅していたイスラエルの民のように、私たちもまた、そのことを繰り返してしまう者たちなのです。

それでも神は、私たちが過去に受けた恵みを思い起こし、今与えられている恵みを覚え、さらに将来与えられる恵みを信仰によって数えながら歩むことを願っておられます。そして、その感謝を、自発的なささげ物を通して表すことを望まれ、また命じておられるのです。

けれども、神が本当に求めておられるのは、ささげ物そのものではありません。私たちの心です。神への感謝に満ちた心です。そのようなささげ物、つまり礼拝を、主なる神は喜び、受け入れてくださるのです。

今朝の交読文においても、私たちは神のみことばを聞きました。

「聞けわが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ わたしはあなたを戒めよう。わたしは神 あなたの神である。あなたのいけにえのことであなたを責めるのではない。あなたの全焼のささげ物はいつもわたしの前にある。わたしはあなたの家から雄牛を 囲いから雄やぎを取ろうとしているのではない。森のすべての獣はわたしのもの。千の丘の家畜らも。わたしは山の鳥も残らず知っている。野に群がるものたちもわたしのもとにいる。たとえ飢えてもわたしはあなたに言わない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食べ雄やぎの血を飲むだろうか。感謝のいけにえを神に献げよ。あなたの誓いをいと高き神に果たせ。苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる」(詩507-15)。

神は、私たちから何かを取り上げようとしておられるのではありません。すべてはもともと神のもので、神には何の不足もないからです。そうではなく、神は私たちが恵みを覚え、感謝をもって神の御前に進み出ることを願っておられるのです。

同じささげ物を1人ずつ12日間

今朝与えられましたみことばは、民数記7章10節から89節までです。非常に長い箇所ですが、見てお気づきのように、83節までほとんど同じ内容が繰り返されています。各部族の族長たちが献げたささげ物の内容が、名前だけを変えながら12回も記されているのです。もし要点だけを書こうと思えば、「十二部族の族長たちが同じささげ物を献げた」と数節で済んだはずです。それなのに、なぜ聖書は、これほどまでに同じ記述を繰り返しているのでしょうか。

前回の箇所で、イスラエルの族長たちは祭壇奉献のために、自発的にささげ物を献げました。覆いのある台車6台と雄牛12頭を主に献げ、神はそれを受け入れ、レビ人たちの奉仕のために用いられました。

そして今日の箇所です。

7章10節      祭壇に油注ぎが行われた日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物を献げた。族長たちが自分たちのささげ物を祭壇の前に近づけたとき、
7章11節      主はモーセに言われた。「族長たちは一日に一人ずつの割合で、祭壇奉献のために彼らのささげ物を献げなければならない。」

イスラエルの民は、台車やそれを引くための雄牛だけではなく、自分たちのささげ物(レビ記において神が定められたささげ物の数)を自発的に用意して主の前に進み出ました。それは神への忠誠をあらわす「穀物のささげ物」。神への全き献身をあらわす「全焼のささげ物」。神に対して知らずに、あるいは故意に犯してしまったけれども自発的に告白した罪を赦していただくための「罪のきよめのささげ物」、そして神と和解させていただいたものが、神と神の深い恵みや親切に対する感謝をあらし、また神との交わりが回復されたことを表す「交わりのいけにえ」でした。12部族の族長たちがそれらを献げようと近づいたその時、神はモーセにこう命じられました。「族長たちは、一日に一人ずつの割合で、祭壇奉献のために彼らのささげ物を献げなければならない。」原文では、「一日に一人の族長だ、一日に一人の族長だ」と繰り返されており、「1日に1人ずつ」が強調されています。つまり神は、1つの部族が献げる姿(礼拝の姿)を、他の部族が見守るようにされたのです。

12部族には、それぞれ違いがあったはずです。人数も違えば、豊かさも違ったでしょう。力のある部族もあれば、そうではない部族もあったはずです。しかし神は、すべての部族に同じささげ物を、1日に1部族が献げるよう命じられるのです。

豊かな部族が献げる時、その部族はきっと主の豊かな祝福を喜んだことでしょう。それほどでもない部族はそれを見てどう思ったのか。妬んだのでしょうか。羨ましく思ったでしょうか。自分を惨めに思ったのでしょうか。きっとそうではないでしょう。各部族を代表する族長たちが、一日一人ずつ主の前に進み出て、自分たちの部族に与えられた救いの恵みと赦し、神との交わりの回復の感謝を惜しみなく献げていく姿。献身していく姿。主の御前にひれ伏す姿。そこから立ち上がり晴れやかで誇らしげな表情を見せる姿。それを見守るようにして礼拝に加わり、代表の族長と同じ表情を見せる同部族の者たち。その主を礼拝する者たちの姿を他の部族が見守りながら、「私たちも同じ神の恵みに与っている」「与った」「与ることができる」と喜びを分かち合ったのではないでしょうか。自分たちも同じ神の民とされているのだという誇らしい気持ち、大丈夫だという気持ちが沸き起こってきたのかもしれません。もしかすると礼拝の後、それぞれの家族の中で「主は凄いね」とか、「主の恵みに感謝だね」と語り合っていたのかもしれません。互いの祝福を自分のことのように喜び、神への感謝を分かち合う。それが同じ恵みに等しく与っている神の民の交わりというものです。

同じささげ物を、同じ方法で献げる。だからこそ彼らは、同じ救い、同じ恵みを共に味わうことができたのです。神は、人と人との比較をご覧になるのではありません。「誰が多く献げたか」「誰が目立っているか」を見られるのではないのです。神が見ておられるのは、一人ひとりの心です。恵みに対する同じ感謝の心です。

私たちもまた、それぞれが神から与えられた恵みに応えて、同じ感謝をもって献げていく者です。他の人の感謝や奉仕の姿を見る時、「あの人はすごい」「あの人は恵まれている」と距離を置くのではなく、「私も同じ恵みに与っている」と自分を誇り、喜びを共にする者でありたいと思います。私たちは皆、同じキリストの十字架によって救われました。同じ神の民とされ、同じキリストのからだの一部とされています。同じ神に養われ、守られ、生かされているのです。だからこそ私たちは、同じ心で神を賛美し、同じ心で祈り、同じ心で奉仕を献げていきたいと思います。そのようにして、キリストのからだである教会は、一致し、建て上げられていくのでしょう。そして私たちの礼拝もまた、1人ひとりが積極的にすすんで礼拝に参加し、積極的に身を献げ、神の民としての一致と喜び、そして誇りを味わう場でありたいと思います。

献げる順序

12部族の族長たちがささげ物を献げた順番にも意味がありました。それは無作為ではありませんでした。我先にと競い合ったのでもなく、遠慮し合って譲り合ったのでもありません。民数記2章に記されているように、神が定められた宿営の順番に従って、秩序正しく奉献が行われたのです。幕屋を中心として四方に宿営する各部族が、神の定められた秩序の中で順番に礼拝を献げていきました。神はその順番は指示されていません。ですから「一日に一人ずつの割合で」という命令には、神の民として一致して歩むための訓練があったのだと思います。これからイスラエルは、荒野の旅へと進んでいきます。そこには多くの困難や戦いが待っていました。そのような旅を続けていくためには、自分勝手ではなく、神のみこころに従う秩序と自制、そして一致が必要だったのです。

実際、イスラエルの歴史を振り返ると、部族間の争いが何度も起こっています。創世記では、ヤコブの息子たちがヨセフを妬み嫌ったことに始まる部族間の嫉妬と争いがあちらこちらに見られます。それは単なる家族間の不和をはるかに超えるものとなってしまいました。その後も、部族間の対立は繰り返され、やがて国は南北に分裂します。エフライムを中心とする北王国イスラエルと、ユダを中心とする南王国ユダは争い合うようになりました。バビロン捕囚からの帰還後も、エルサレムと神殿において、どのグループが指導権を握るか、イスラエル内部のグループで激しい争いがありました。本来、同じ神の民として愛し合い、助け合うべき者たちが、互いに傷つけ合ってしまうという歴史が、今現在に至るまで繰り返されてきました。そのような神の民の歴史を思う時、この民数記7章の光景はとても印象的です。そこには競争ではなく、一致があります。比較ではなく、感謝があります。

また、神を礼拝することにおいては、皆が平等の立場であることをも示しているように思います。どの部族も宿営の中心にある幕屋から等距離でした。どの部族も完全に同じささげ物を幕屋に献げました。神の救いと恵みに関して、「自分たちの方が特別だ」と誇れる部族は一つもありませんでした。神の前では、すべての部族が等しく扱われていたのです。12部族のささげ物の記述が1つも省かれることなく、退屈なまでに記されているのは、神がそのことを私たちに示しておられるからだと思うのです。

「自分はできる」「私にはできない」、「自分の方がより多く献げている」「献げていない」。私たちは私たちの目に見えることで、いつも人と比較してしまうことがあるかもしれません。それぞれが違った人生を歩み、救われた経緯も違う。年齢も性別も違う。出来ることも出来ないことも違う。賜物や性格も、献げる奉仕の内容も異なるでしょう。しかし神の御目には、すべてが等しいものとされているのです。神は、そのすべてをご存じの上で、私たち一人ひとりを愛し、受け入れてくださっています。そしてその神が見ておられるのは、ただ私たちの心です。恵みに対する感謝の心なのです。同じ神を信じ、同じキリストの十字架のみわざによって救われ、同じ神の民の一員、同じ神の子、おなじキリストのからだとされている、その恵みに対する感謝の心です。私たちは同じ心、同じ感謝の心をもって神に賛美し、祈り、奉仕を献げてまいりたいと思います。再度言いますが、私たちは礼拝を通して神の民、神の子、キリストのからだとされていることの一致と喜び、誇りを味わうことができればとても幸いだと思います。

幕屋で献げられたささげ物の総数

12部族のささげ物の記録は、一つも省略されることなく、同じ内容が退屈なまでに繰り返し記されました。人の目には「同じことの繰り返し」に見えても、神は一人ひとりのささげ物を覚えておられるのです。感謝の心を喜ばれ受け入れてくださっています。一つとして軽く扱われてはいません。

それは私たちの礼拝も同じです。私たちはそれぞれ、小さな祈りを献げ、小さな奉仕をし、小さな献金を献げているかもしれません。しかし、その一つひとつを主は覚えていてくださいます。その一つ一つに込められた感謝を、主は決して見逃されることなく、しっかりと数えられ、またそれを忘れられてはおられないのです。

そして84節以降では、それまで各部族ごとに記されていたささげ物の総計が改めて記されています。銀の皿十二、銀の鉢十二、金のひしゃく十二。そして多くの家畜や穀物のささげ物。その合計がまとめられているのです。何度も言うようですが、最初から合計だけを書けば簡単だったはずです。しかし神は、まず一部族ずつ丁寧に記させ、その後で全体をまとめて記させました。そこには大切な意味があるのではないでしょうか。

つまり、神の民はそれぞれが個人として主の前に立ちながら、同時に一つの民として礼拝を献げている、ということです。私たちも礼拝の中で、それぞれが賛美し、祈り、献金を献げます。しかし同時に、教会全体として一つの礼拝を神に献げているのです。そして、そのどちらも主は喜んで受け入れてくださいます。

神に献げられたささげ物

それにしても、改めて思わされるのは、イスラエルの民がこれほど多くのささげ物を自発的に献げたということです。

彼らはこれから荒野へと旅立とうとしていました。そこには戦いもあり、困難もあり、不安もあったはずです。普通なら、人はそのような時、自分のために備えを蓄えようとするのではないでしょうか。食糧や財産、安心材料をできるだけ手元に残しておこうとするものです。しかしイスラエルの民は、多くのものを主に献げました。それは彼らの中に、「神だけに依り頼む」という信仰があったからでしょう。出エジプトの出来事を通して、彼らは学んでいたのです。「主が救ってくださった」「主がここまで導いてくださった」「主だけが私たちを養い、満たしてくださる」ということを。だから彼らは、不安よりも感謝を選びました。自分の力ではなく、神の恵みに信頼したのです。

改めて、彼らが献げたささげ物の内容を見てみたいと思います。

穀物のささげ物は、粉に砕かれた小麦でした。それは、自我が砕かれ、主に従う心を表していました。

全焼のささげ物は、すべてを焼き尽くして献げるささげ物でした。自分自身を完全に神に献げる献身を意味しています。

罪のきよめのささげ物は、罪の赦しと回復を求めるものでした。

そして交わりのいけにえは、神との和解と、神の恵みに対する感謝を表すささげ物でした。

ここで興味深いのは、交わりのいけにえの数が、他のささげ物よりも圧倒的に多いということです。つまり神は、神の民に対して、「何よりも感謝に生きる者であれ」と教えておられるのです。

私たちはどうでしょうか。日々の生活の中で、感謝よりも不平不満の方が多くなってはいないでしょうか。「足りない」「大変だ」「どうして自分ばかり」と、そのような思いに心が支配されてしまうことがあります。しかし、本当は感謝すべきことの方が、はるかに多いのではないでしょうか。ですから私たちは今、感謝するべきことを数えるべきだと思います。

私たちの信仰は、「どれだけ頑張ったか」で決まるのではありません。「どれだけ奉仕したか」「どれだけ献金したか」「どれだけ立派に生きたか」で評価されるのだとしたら、私たちは誰も喜びを持つことができません。そうではなく、神は私たちの心をご覧になるのです。

神は、私たちの内に感謝があふれることを喜ばれるお方です。そして不思議なことに、神は私たちに恵みを与え、その恵みの一部を献げるよう求められますが、献げたものを通して、また私たちを満たしてくださるのです。そのようにして私たちを感謝する者へ造り変えてくださるのです。そして感謝する時、神と私たちとの関係は深められていきます。感謝の心そのものが、私たちの信仰を成長させていくのです。

神が私たちのために備えてくださったものを、感謝と喜びをもって受け取っていく時、私たちの信仰は養われていきます。「あの時、主が助けてくださった」「あの時、主が励ましてくださった」「苦しい時にも、主は共にいてくださった」
「私は忘れられていなかった」そのように、一つひとつの恵みを思い返していく時、私たちは改めて、神が生きて働いておられることを知るのです。

そのような神との交わりの積み重ねを通して、私たちの信仰は成長していきます。私たちは、自分の力によって成長するのではありません。神の恵みによって成長させられていくのです。だからこそ私たちは、もっと恵みに目を留める者でありたいと思います。足りないものではなく、すでに与えられているもの、これから与えられるものを信仰によって感謝して数える者でありたいのです。「こんなこともしていただいた」「あんなことも守られていた」「主は今もこんな私と共にいてくださる」。そのように主の恵みを数える時、私たちの内には自然と感謝が生まれてきます。そして感謝は、さらに神への信頼を深め、神との関係を深めていくのです。

会見の天幕でみことばを聞くモーセ

最後に89節を見ます。

7章89節      モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「宥めの蓋」の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。

すべてのささげ物が献げられ、感謝が献げられた後、モーセは会見の天幕に入りました。それは、主と語るためでした。そしてモーセは、そこで主の御声を聞いたのです。

ここに、とても大切なことが示されているように思います。感謝と礼拝は、幸いな神との交わりへと私たちを導く、ということです。

モーセは民の仲裁者として、民の願いや祈りを主に申し上げたことでしょう。そして主は、そのモーセに語りかけられました。その内容はここには記されていません。しかし、その後の荒野の旅路を見る時、私たちは主がどのようなお方であるかを知ることができます。ここでモーセに語られた神の約束を知ることげできます。

イスラエルの民は、何度も失敗しました。不平不満を言い、逆らい、つまずきました。しかしそれでも主は、彼らを見捨てられませんでした。それでも赦し、あわれみ、それでも主は彼らとともに住まわれ、彼らとともに歩み続けてくださったのです。つまり、感謝が献げられたその時、主はモーセを通して、神の民全体を祝福しておられたのです。

ですから私たちもまた、日々、主の恵みを覚えて感謝しつつ歩みたいと思います。もちろん、私たちは祝福というと、物質的な満たしや健康、問題の解決などを思い浮かべることが多いかもしれません。それらも確かに神からの恵みです。しかし、最も大きな祝福は何でしょうか。それは、神とともに生きることです。神との親しい交わりの中に生かされることです。そのために、イエス・キリストは十字架にかかられ、そしてよみがえられました。私たちを神と和解させ、神の子として生きる者とするためです。すべては恵みによるのです。

ですから私たちは、もっと恵みに目を向け、恵みを数え、与えられている一つひとつに、これから与えられる一つ一つに、信仰をもって神に感謝して歩んでまいりたいと思います。そして一人ひとりが主の御前に進み出て、感謝と賛美、そして献身して行く中で、神の語りかけを聞き、神の約束によって励まされ、成長していく者でありたいと思います。また、他の人の感謝や賛美、献身の姿を見て、それを自分のことのように喜び、誇りに思い、感謝できる者でありたいと思います。そのようにして、主の恵みを分かち合いながら、一つ心となって、約束の地である天の御国を、ともに目指して歩んでまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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