2026年5月24日 主日礼拝「キリストの証人となるために」

前  奏  黙祷
讃  美  新聖歌132「ペンテコステの日に」
      新聖歌409「燃ゆる御霊よ」
招  詞  ヨエル書2章28〜29節
讃  美  讃美歌67「よろずのもの」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇121篇(新聖歌 交読文38)
讃  美  讃美歌499「みたまよくだりて」
聖書朗読  使徒の働き 1章6〜14節、2章1〜4節
説  教  「キリストの証人となるために」
讃  美  讃美歌498「あぁみたまよ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 使徒の働き 1章8節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

使徒の働き 1章6〜14節、2章1〜4節

説教題

「キリストの証人となるために」

今週の聖句

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

使徒の働き1章8節

説教「キリストの証人となるために」

使徒の働き1章6〜14節、2章1〜4節

聖霊によるのでなければ

皆さんも町の集会や会社の会議などに出席されることがあると思います。そのような場にいると、私は時折、不思議な違和感を覚えることがあります。

教会では何かを始める前に祈り、終わる時にも感謝の祈りをささげます。会議であっても集まりであっても、まず神の前に心を静めて祈ることから始めます。しかし世の中の集まりでは、そのような祈りはありません。以前はそれが当たり前でしたが、今では祈りのない集まりに出ると、どこか落ち着かない気持ちになるのです。そのような時、自分も曲がりなりにもクリスチャンとして歩ませていただいているのだなと感じます。そしてそれは神の恵みだと感謝するのです。

そのように感謝しながらも、最近私は改めて思わされることがありました。それは、やはり職場でのことなのですが、人を心から愛し、心から赦すことは本当に難しいということです。自分を傷つけた人を赦すこと。理解してもらえなかった人を赦すこと。仕事ができない人に対して心の内に湧き出てくる愛とは真逆の悪い思いや態度。そのような私が、皆の前で「イエスは主です」と言うことができるのだろうか。

私の好きな聖歌の一つに「心から願うのは」という歌があります。

「心から願うのは 主のようになること
同情に満ちあふれ 愛に富み 優しく
迷う人見いだして 主のもとに導く
主のように 主のように きよくしてください」

この歌詞を口ずさむたびに、パウロの言葉を思い出します。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか」(ロマ724)。

主のようになりたい。もっと愛したい。もっと赦したい。そう願いながらも、自分自身の弱さや罪深さを思い知らされるのです。
しかし、この賛美には続きがあります。

「主の御霊 主の愛を 祈る間に満たして
御住まいにふさわしい 宮としてください」

ここに大きな慰めがあります。隣人を愛すること。人を赦すこと。主を証しすること。それは人間の力によるのではありません。まさに神のみわざです。聖霊によるのでなければできないことです。

本日はペンテコステ礼拝です。私たちは改めて聖霊降臨の出来事を覚えたいと思います。そして聖霊によって教会が誕生したこと、また私たち自身も聖霊によって生かされていることを覚えながら、みことばに聞いてまいりたいと思います。

主の昇天と約束

使徒の働き1章には、イエス様が昇天される直前の出来事が記されています。

イエス様は十字架で死なれました。しかし三日目によみがえられました。そしてよみがえられた後、40日にわたり弟子たちの前に現れ、ご自分が確かに生きておられることを示されました。弟子たちは復活の主と共に過ごしながら、神の国について教えを受けていました。それは弟子たちがイエス様の復活と神の国の証人となるためでした。

そしてイエス様は弟子たちに命じられました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」ところが弟子たちは、まだ神の国を十分理解していませんでした。彼らは尋ねます。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」。第3版では「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と。

彼らが考えていたのは政治的な回復でした。ローマ帝国の支配から解放され、イスラエルが再び栄光を取り戻すことを期待していたのです。それは当時のユダヤ人たちの一般的な願いでもありました。長年支配され、苦しめられてきたのですから、そのような期待を抱くこと自体は不思議ではありません。しかし神の国とは、そのような地上的な国家の回復ではありませんでした。神は敵を滅ぼすことによってではなく、キリストの十字架と復活によって世界を、地の果てまでのすべての人々を救おうとしておられたのです。

弟子たちは復活の主に出会ってなお、まだ十分には理解していませんでした。しかしイエス様は彼らを叱責されません。彼らの関心を別の方向へ向けられました。これから弟子たちが進むべき新しい方向を示されました。

「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。」そして続けて言われます。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

主が弟子たちに与えた使命は、人間の力や知恵による国家再建ではありませんでした。聖霊の力による福音宣教でした。聖霊の力によって地の果てまで、世界中の人々にキリストを証しすることでした。

イエス様はこれまで弟子たちとともに歩まれ、導いてこられました。しかしこれからは弟子たち自身が立ち上がる時です。主は彼らを信頼し、ご自身の働きを委ねようとしておられました。地上でのイエス様の働きは何だったでしょうか。弟子養育を学ばれた方はご存知でしょう。イエス様は会堂や野外で神の教えや愛、そして正しい生き方について教えました。福音を伝えました。病気や患いを癒やしました。それらの働きを弟子たちに委ねられたのです。そして主は約束されました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」そしてこの約束の後、主は天へと上げられました。

弟子たちはその姿を見上げ続けました。すると御使いが現れます。「どうして天を見上げて立っているのですか。」弟子たちは立ち止まるためではなく、遣わされるために召されたのです。

使徒の働きに入ると、彼らは「弟子」ではなく「使徒」と呼ばれるようになります。使徒とはギリシャ語で「ἀπόστολος・アポストロス」です。「遣わされた者」という意味です。弟子たちは今や学ぶ者から、福音を携えて遣わされる者へと変えられたのです。弟子たちは新しい歩みへと進み始めたのです。

聖霊を待ち望む祈り

使徒たちはオリーブ山からエルサレムへ戻りました。距離にしておよそ900メートルです。

1章13節      彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

そこは彼ら11人の弟子たちにとって忘れることのできない場所でした。最後の晩餐が行われた場所です。イエス様の十字架を前に、誰が一番偉いかと争った場所です。主を裏切る者がいると言われ、弟子たちがお互いを疑った場所です。十字架の後には、ユダヤ人を恐れて戸を閉ざした場所でもありました。後悔と恐れに満たされていた場所でした。

しかし同時に、復活の主が現れてくださった場所でもありました。平安を語り、神の国を教えてくださった場所でもありました。

そこに集まった弟子たちは決して完全な人々ではありません。ペテロは1ヶ月半ほど前に忘れられない大失敗をしました。他の弟子たちも逃げ去りました。トマスはキリストの復活を疑いました。しかし彼らは同じ場所に集まりました。

そして祈りました。何をすればよいのか分からなかったのかもしれません。けれど一つだけ分かっていたことがあります。それは、自分たちは主の約束を待たなければならないのだということでした。主の約束に依り頼み、それを待つことしかできない。それしかない。だから彼らは祈りました。

1章14節      彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

彼らはただひたすらに祈りに専念し、祈りに打ち込みました。そこには悪霊や病気を治してもらった女性たち、7つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、その他多くの女性たちがいました。またイエス様の母マリアもいました。彼女たちはイエス様の伝道生活のごく初期から主に仕え、さらにイエス様の復活の朝、真っ先にイエス様の墓に行き、そこでイエス様にお目にかかっていました。その彼女たちの証言を、かつて弟子たちはたわごとのように思い、信じずに退けてしまいました。それでも彼女たちは、弟子の群れにとどまり仕えていたのです。

ですから彼女たちこそ、常に変わらない気持ちでイエス様を信じ、仕えて来た人たちでした。その彼女たちは、イエス様がこの世を去られた後も、イエス様の命令を受けてとどまり、心を一つにして祈っていました。私ははじめ、弟子たちの祈りの輪に彼女たちが加わったように思っていましたが、実は多くの失敗によって自我が砕かれた弟子たちの方が、彼女たちの信仰に引っ張られ、祈りの輪に加えられたのかもしれないと思うようになりました。

他にも、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンなどのイエス様の兄弟たちも祈りの輪に加わっていました。彼らは最初、イエス様を正しく理解することができませんでしたが、十字架と復活の後にイエス様を信じるようになり、弟子たちの群れの中に加わるようになったのです。その中でも、ヤコブはやがてエルサレムの教会の指導者として活躍するようになります。

いずれにしても、彼らが皆、ペンテコステを前にして心を一つにして祈り会をもっていたということは、凄いこと、素晴らしいことだと言わざるを得ません。「心を一つにして」、つまり「心を合わせて」祈ったというのは、キリストを裏切った者も、疑った者も、頑固だった者も、それらをすべて知る者たちも、その心が変えられて初めてできることではないでしょうか。悔い改め、また赦し赦されて。そして私たちの心を本当に変えることができるのは、神のみです。父、御子、聖霊なる神のみです。

聖霊を受ける

使徒の働き2章に入ります。

五旬節の日、弟子たちは同じ場所に集まり、心を一つにして祈りに専念していました。すると突然、天から激しい風のような響きが起こり、座っていた家全体に響き渡りました。また、炎のような舌が一人ひとりの上に現れ、とどまりました。その時、弟子たちは聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めました。これがペンテコステ、聖霊降臨の出来事です。

イエス様が十字架にかけられ復活されてから50日目、弟子たちは聖霊を受けました。この聖霊降臨は偶然の出来事ではありません。ここにも神のご計画、御心がありました。

弟子たちが聖霊を受けたのは、イエス様が天に上られてから10日後でした。しかし初めから10日と分かっていたわけではありませんでした。「間もなく」と言われ、弟子たちの中にはせいぜい2〜3日後と考えていた者もいたかもしれません。それが4日たっても5日たっても、何事も起こらないのです。その間に主の復活の朝を覚える日曜日もありました。けれどこの日にも特に変わったことがありませんでした。これは信仰の試される期間でもあったのではないでしょうか。しかし、とにかく彼らは祈りに打ち込みました。新改訳第3版では「祈りに専念していた」と訳されています。これは直訳すると「祈りに忙しくしていた」となります。祈りを後回しにして他のことに忙しくしていたのではなく、祈りに忙しくて他のことを後回しにしていたのです。

また、ペンテコステの日が来たら全員が自動的に聖霊を受けたわけではありませんでした。イエス様の言葉を信じて、約束の御霊を心を1つに合わせてひたすら待っていた人たちの上だけに注がれたのです。弟子たちは主の約束を信じ、心を一つに合わせ、ひたすらに祈って待ち望んでいました。その信仰と従順が、聖霊降臨の条件だったのです。

ところで、ペンテコステを前にして、使徒たちにはまだ聖霊は全く注がれていなかったのでしょうか。使徒の働き1章2節には、すでに復活のイエス様が「聖霊によって命じ」ておられたことが記されています。ペンテコステ以前にも、弟子たちはすでに聖霊の働きの中で変えられつつありました。またすべてのイエス様を信じる者も、悔い改めて主を信じる、誰かを赦し赦されるというという心の変化にあたっては、間違いなく神の御力と聖霊を受けてのことです。またかつてイエス様は弟子たちに息(霊)を吹きかけて(注いで)から後、「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハ2022)。

そこで改めて厳しく問われることは、聖霊を注がれることと、聖霊を本当に自分のものとして受けることはまた別物であるということです。

私たちにとって神の国は、およそ2000年前にイエス・キリストがこの世に来られた時にすでに到来しました。五旬節も2000回以上祝っています。しかしもし、聖霊が注がれているのに、私たちがそれを自分のものとして受けていないとすれば、皆が一緒に集まって、心を1つにして祈り、約束を信じて待ち望むことが欠けているのです。後のエルサレム教会のリーダーとなった主の兄弟ヤコブも言っています。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからだ」(ヤコ42)と。教会に集まり、礼拝し、心を合わせて祈ることによって、聖霊は私たちの内に臨み、私たちを変え、用いられるのです。

聖霊を受ける時

聖霊が降り、それを受ける時についても考えてみたいと思います。

聖霊が降るのは突然のようです。また「降る」(ルカ322他)と言われるとおり、それは地上からではなく天からです。たとえば、数時間にわたって賛美し、悪く言ってしまえば賛美に酔いしれ、そのうえで力強いメッセージを聞き、自分の心が聖霊に満たされたような気持ちになり、一時的に憎しみや苦しみを忘れ、人を赦したような気になり、ただ神の恵みだけがすべてになってしまうような状態となる。それはそれで素晴らしい体験でしょうが、しかしはたしてそれは本当に聖霊が降ったことだと言えるのでしょうか。それは突然でもなければ、天からでもないからです。私たちは気をつけなければなりません。一時的なもの、感情的なものはすぐに取り去られてしまうのです。

しかし聖霊は降り、聖霊は臨まれ、そしてとどまるのです。聖霊が降る、聖霊が臨まれる、聖霊を受ける、聖霊が1人ひとりにとどまるというのは、実際に聖霊の力が、父の約束を待つすべての人に、しかも1人ひとりに与えられるということです。与えられるのですから、受ける側は求めなければなりません。

聖霊の力

聖霊が臨むことによって与えられるその「力」とは何でしょうか。言うまでもなくキリストの証人となるための力です。

神は宣教を進めるにあたって、人の証言を用いて進めるのが最も効果的であると考えられたのでしょう。証人は事実を証言しますが、この事実というものほど説得力を持つものはないからです。その事実とは何を指しているのか。言うまでもなくイエス・キリストに起こった出来事。すなわち十字架と復活の事実。そして弟子たちはこの歴史的な出来事の目撃者でした。体験者でした。そしてキリストの弟子とされている私たちも同じです。私たちも同様に、日々の体験や信仰生活を通して、キリストの証人として生きることが求められています。

パウロは教えます。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリ123)。

迫害や困難の中で、恐れずに「イエスは主です」と証しするのは容易ではありません。しかし聖霊の力があるからこそ、私たちは真実な証人となり、主を証しすることができるのです。

「イエスは主です」と独り言のように言うのは容易いでしょう。しかし迫害が激しい世で、世の人々に向かって、何も恐れずに「イエスは主です」と証することは決して容易ではありません。自分自身が順風満帆ではない状況の中で、それでも「イエスは主です」と人に証することは決して容易なことではないでしょう。自信がない、馬鹿にされるのではないかという恐れ、あるいは恥ずかしさを覚えるかもしれません。しかし私たちは証人として、イエス・キリストを通して自分自身の上に起こった出来事を、ありのまま証言するのです。神は私たちの正直なその証言を用いられ、ご自身の宣教計画、福音の拡大、神の国の完成のご計画を進められるのです。

神の宣教計画、福音の拡大の順序もまた重要です。主は「エルサレム」から始めるようにと指示されました。エルサレムは弟子たちにとって決して居心地の良いところではなかったはずです。様々なつまずきや失敗をした苦い経験の場でした。またそうした失態を知っている人々も多い所です。しかし、そういう場でこそまず名誉挽回することが、伝道にとっては大切なのでしょう。名誉挽回と言っても、自分自身の名誉ではなく、皆が良く知っている自分の様々なつまずきや失敗、苦い経験、失態を通してあらわされた神の素晴らしいみわざ。このような自分に注がれる神の愛、キリストの十字架と復活、悔い改めに導かれ変えられた自分を、まず身近な人に証していく。それが福音宣教の拡大の始まりとなるのです。何もいきなり海を渡って宣教に出よとは言われていません。そのように言われることもあるかもしれませんが、まずは身近な人に。

しかし身近な人にありのままを証することこそ、生やさしいものではありません。そうであるからこそ「いと高き所から力を着せられる」必要があるのではないでしょうか。そんな私たちに主が約束してくださったのは、最高の贈り物、聖霊の力です。

また別の面から見て、人間には珍しい事件を目撃した時に、それを言いふらしたいというような報道欲求があるのではないでしょうか。もし当時の使徒たちがSNSというツールを手にしていたら、神の御子が人となって地上に来られ、教えと福音宣教と癒やしのわざをし、十字架の上で贖いの死を遂げ、しかも死人の中から復活されたというような、前代未聞の大事件に接した弟子たちは、すぐに発信したのではないでしょうか。しかし、色々な損得や利害がからむ人間社会の中では、中傷や迫害が起これば証人は簡単に口を閉ざしますし、偽証もします。都合の悪いことは省略し始めます。証言を少しだけ、あるいは大幅に変更してしまうでしょう。「罪の報酬は死である」と配信したのに、悪いコメントが入ると次の配信で「死の報酬は死かもしれない」としてしまったらどうでしょうか。「あなたは必ず死ぬ」というのを「死ぬかもしれない」と薄めてしまったらどうなるでしょう。そのような証言は、相手の救いではなく、結果的に死を招いてしまうことになります。神に使命を託された使徒たちには、誤り無く忠実な証人となることが絶対に必要でした。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして…わたしの証人となります」のは、そのためでした。

聖霊は助け主、慰め主

聖霊は「もう1人の助け主」「慰め主」とも呼ばれます。その力は、私たちを支え、励まし、慰め、そして導くものです。例え困難や不安があっても、聖霊が私たちの内に臨むことで、心は平安と力に満たされます。

どこかでお話ししたと思いますが、「慰め」という語は、「大きく息をつかせる(深呼吸させて落ち着かせる)、労をねぎらう、いたわる、励ます」という意味の語です。イエス様はこの慰め主なる聖霊を送ってくださいました。

これもどこかでお話ししましたが、聖霊は天の故郷の親から送られる仕送りのようなものだと言ったら主に叱られるでしょうか。親から離れ、苦労や不足を覚えながらも奮闘している子を覚えて、親がお金や食料品を子に送る。子はその仕送りを受け取ることによって慰められる。荷をほどき、中を覗き、そこに込められている親の愛によって子は慰められ、また頑張ろうという気持ちが起こる。そうであって欲しいと親は願うものです。

私の妻は、別に頼まれてもいないのに、夕飯のおかずを離れて暮らす息子に食べさせたいと、少し多めに作っては冷凍しています。これを受け取って、食べて、元気に頑張って欲しいという親の愛や願いも込めているのでしょう。しかしその仕送りも、必要ないと息子が受け取り拒否してしまっては無駄になってしまいます。息子の力にもなりません。それでも親は送り続けるものなのかもしれませんね。

心を一つにして祈る教会

イエス様は天に上られました。しかし私たちをひとり残されたのではありません。父なる神から約束の聖霊を受けて、慰め主なる御霊を私たちに送ってくださいました。

弟子たちは主の約束のことばを信じ、心を合わせて祈りながら、その時を待ち望みました。そしてペンテコステの日、聖霊は彼らの上に豊かに臨まれたのです。もし私たちが今、「聖霊の働きを実感できない」「主の力に乏しい」と感じることがあるなら、まず主の前に集まり、心を合わせて祈る者となりたいと思います。主は約束された御霊を求める者を決して退けられません。

ペンテコステの日に集まっていた人々は、決して完全な人たちではありませんでした。主を裏切った者もいました。疑った者もいました。頑固だった者もいました。また、そのすべてを知っている者たちもいました。しかし彼らは、人知れず静かで温かな風のように注がれていた聖霊によって導かれ、悔い改め、赦し赦されて、一つとなって祈りました。その祈りのただ中に突然、しるしのように激しい風が吹いてきて、聖霊が一人ひとりの上にとどまり、そこから宣教する主の教会が誕生したのです。

私たちの教会もまた、そのような教会でありたいと願います。礼拝と祈りを何よりも大切にし、互いに愛し合い、赦し合いながら、心を合わせて主を待ち望む教会です。そして聖霊に満たされ、聖霊の力によってキリストの真実な証人として歩む教会です。

主が私たち一人ひとりを用いてくださり、教会を用いてくださり、この地において福音の光を輝かせてくださいますようにと願います。自分自身の身の上に起こった主のすばらしいみわざと救いの恵みを、真実に証しし続ける教会として歩ませていただこうではありませんか。聖霊によるのでなければできないその働きを、主が私たちのうちに成し遂げてくださることを信じて、心から祈り求め、そして共に歩んでまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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