2016年2月21日 主日礼拝「壁を打ち破って」

本日の聖書箇所

使徒の働き8章1~8節

説教題

「壁を打ち破って」

今週の聖句

「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなることでしょう。」

詩篇19篇13節
 
訳してみましょう。
1773 All creation is an outstretched finger pointing, toward God.
(すべての創造物は、神を指し示している。)
1774 Christian’s life is the window through which others can see Jesus.
(クリスチャンの生活は、それを通して他の人がイエス様に会うことができる窓である。)
 
説教メモ
少し復習しましょう。
クリスチャンになったということは、イエス様を救い主として信じたということです。そしてクリスチャンはそこから「弟子道」を歩んで行きます。
その「弟子道」とは

  • 神さまを最大限に愛すること。
  • 自分の十字架を負うこと。
  • 生涯キリストに従うこと。

です。そして私たちはさらに、周囲の人たちの模範とならなければならないということを申し上げました。
私たちは神さまに選ばれた者たちです。多勢の中から選ばれているのです。選ばれた者たちによって建て上げられている教会がどうしてもしなければならなこと。それは「福音を証ししていく、伝道」です。
先週になりますが、先に救われた私たちは周囲の人たちに対し、偉ぶることなく、やさしく接していくべきであることを学びました。それは、イエス様ご自身がそのようにされたからです。
今日学ぶことは、使徒の働き8章1~8節までのところからです。大きなタイトルでは「伝道」となります。
使徒の働き8章に至るまでに様々なことがありました。ペンテコステの時に聖霊が降りました。使徒たちはこの時、初めて心から「よみがえったイエス様」を受け入れることができました。ペテロはじめ弟子たちは、イエス様が十字架に架けられる時に逃げてしまいました。ペテロは官邸の庭でイエス様を否定しました。そのような人たちに聖霊が与えられたとき力を得ました。大胆に福音を語りました。すると、

その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(使徒2:41)

3000人がクリスチャンとなったと記されています。
エルサレムに教会がどんどん増えていきました。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(使徒2:46-47)

この箇所の少し前には次のようなクリスチャンの生活が記されています。

信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。(使徒2:44-45)

共産主義顔負けの生活ですね。そんな中、ある事件も起こりました。アナニヤとサッピラによってです。

ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(使徒5:1-2)

二人は自分たちの土地を売った代金を「これが全てです。」と偽りを言って、使徒たちの足もとに置きました。そこに二人の傲慢さがあったのではないでしょうか。その結果は後に続けて記されているとおりです。裁かれています。
さらに教会は大きくなっていきます。すると使徒たちはすべての信者たちの必要に応じきれなくなってきました。食事の分配も使徒たちが担っていたのですが、それではいけないということで、

そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにしますそして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒6:2~4)

使徒たちは祈りとみことばの奉仕に専念できるよう、評判の良い、聖霊に満たされた7人を選び食事の分配の仕事にあたらせることにしました。

この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。(使徒6:5-6)

その中にステパノとピリポがいました。
次の使徒の働き7章に行きますと、そのステパノが石を投げつけられて殺されてしまいます。
さらに本日の聖書箇所である8章に進みますと、ピリポが中心として書かれています。ピリポはサマリヤの町に下って行き、そこでキリストを宣べ伝えました。

ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。(使徒8:5)

場面は「サマリヤ」です。ソロモンが死んだ後、イスラエル国家は南北に分裂しました。南は「南ユダ」、北は「北イスラエル」です。南ユダはダビデの家系を引き継いでおり、割と敬虔な王たちが立てられました。しかし北イスラエルは違いました。神さまに従わない悪い王たちが立てられました。そんな北イスラエルは、やがてアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。それから150年ほど経ちますと、南ユダもバビロンによって滅ぼされてしまいます。両国とも敵国に滅ぼされてしまうのですが、決定的に違っていた点がありました。

  • 南ユダがバビロンに捕囚として連れて行かれた時は、ユダヤ人は揃って連れて行かれました。
  • 北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされた時は、北イスラエルの有能な人たちだけが連れて行かれ、その他の民衆は北イスラエルに残されていました。さらに、他民族の民を北イスラエルに連れて来て住まわせました。

このような中で、北イスラエルは「雑婚」によってユダヤ人の純血さが無くなって行きました。そのような人たちは「サマリヤ人」と呼ばれました。サマリヤ人たちは純血ではなかったために、ユダヤ人はサマリヤ人を見下しており、普段から付き合いがありませんでした。
そんなサマリヤに対して、イエス様はこのように仰っています。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

まずはユダヤ、エルサレム、そしてさらにサマリヤの全土に福音が宣べ伝えられなければならないと仰いました。
本日の聖書箇所の使徒の働き8章に戻りますが、使徒たちは、なぜサマリヤに出かけて行ったのでしょうか。

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。(使徒8:1)

使徒たちは、自ら進んでサマリヤへ伝道に出かけたわけではないのです。ここを見ると、エルサレムの教会、クリスチャンたちは迫害されました。そして仕方なく、ある者たちはユダヤ地方に、ある者たちはサマリヤの地方に散らされて行ったのです。この地方の伝道は、迫害といった思わぬ悪い事態によって始められました。
その中心人物はピリポという弟子でした。

ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。(使徒8:5)

ユダヤ人にとって、エルサレム近郊での生活は「落ちつける場所」でした。そこでの生活が快適なものだったのです。しかし、その心地よい場所から迫害という自分たちがまるで望まない悪い事態によって追い出されたのです。その追い出された場所で、福音は伝えられました。
先程も触れましたが、エルサレムとサマリヤの間には目に見えない壁がありました。お互いの行き来がありませんでした。ところが使徒8章では、迫害によって強制的にサマリヤに行かざるを得なくなったのです。
「壁」があります。それはなかなか乗り越えるのに困難なものです。本朝の聖書箇所で見るならば、その乗り越えるのに困難な壁を乗り越えられたのは、なんと「迫害」によってでした。自らが進んで、喜んで乗り越えたのではないのです。仕方なく乗り越えたのです。その乗り越えた先で、福音は広がりました。サマリヤ伝道が始まり、多くの人々が救われました。
クリスチャンが、私たちがどうしてもしなければならない、私たちにしか出来ない「伝道」のために進んで行くとき、主はすべての壁を打ち砕いてくださいます。そのことを是非おぼえたください。
そこにはどんな壁があるでしょうか。困難な壁もあるでしょう。人それぞれ、その人その人の乗り越えなければならない壁があるかと思います。しかしその壁を、主は思いもよらないかたちで打ち砕き、その先に導いてくださいます。その時、主は私たちとともにおられます。日本には迫害のようなものはあまりありませんが、やはり私たちには乗り越えていかなければならない伝道の壁がおありかと思います。家族の中で、地域社会の中で、職場で・・・。その中で私たちが日曜日に教会に行く時に反対が起こるかもしれません。そのような事態の中で、私たちは静かに主に訊ねましょう。主はその祈りに答えてくださるでしょう。
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詩篇19篇を開いてください。
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(1)
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。(2)
話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。(3)
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。(4)
太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。(5)
その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(6)
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。(7)
主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(8)
主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。(9)
それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。(10)
また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。(11)
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。(12)
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。(13)
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(14)
この詩篇は3つに分割できます。

  • 1~6節…神さまが創造された天地万物が神さまのわざを語り伝えている。
  • 7~11節…神さまのおことばがそれを物語っている。
  • 12~14節…祈りのことば。

詩篇19篇を通して、私が今朝申し上げたいことは、「神さまの救いは、すべての人に及ぶのだ。」ということです。
このことは、2015年12月27日の礼拝でこのことを語りました。
すべての人に福音を」と題してメッセージしました。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Ⅱペテロ3:9)

神さまはすべての人々が悔い改め、救われることを願っておられます。なぜなら、人はみな神さまの似姿に創造されているからです。しかし現実にはすべての人々が悔い改め、救われているわけではありません。詩篇19篇も、すべての人が救われるために、という思いの中にあると言っても過言ではないでしょう。
羽鳥明先生は次のようにお証ししています。
ある時、19人の少年たちと共に山に登りました。ところが道に迷い、いつの間にか日は暮れ、真っ暗な夜となってしまいました。少年たちの中には恐ろしさのあまり泣き叫ぶ子もおり、一行はパニック状態となりました。その時、羽鳥先生の心に「朝は必ず来る。太陽は必ず昇る。そうしたら道ははっきりする。」という単純な真理が湧いてきました。一行は穴を掘り寒さをしのぎ、夜明けを待ちました。やがて夜は明け、周囲が明るくなってみると、下っていくべき道はそこからすぐ近くにあることが分かりました。
朝になると必ず太陽は昇ります。太陽については、次の聖書箇所にも記されています。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

太陽は、すべての人々に公平です。神さまは良い人にも、罪人にも、挫折した人にも、太陽を昇らせてくださいます。太陽は輝くのです。そのように悔い改めて信じる者を公平に救われるのです。
もうひとつ、太陽は罪の暗闇を追い払い、人間の虚しさや悲しみを癒してくれるものとして記されています。

しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。(マラキ4:2)

これらは自然界を通して神さまが私たちに語られていることです。(詩篇19編1~6節)
また、神さまは聖書のおことばを通しても語られます(詩篇19編7~11節)。聖書は私たち一人一人に神さまが語りかけてくださっているものです。私たちはそのことをわきまえ、聖書のおことばを、時には厳しいおことばもありますが、自分自身にあてはめて生きて行く時に、私たちの人生は変化します。詩篇19編7~11節のような変化が起こります。
続いて祈りのことばが記されています(詩篇19編12~14節)。ここでの「隠れている罪」とは何でしょうか。それは自分が意識していない、気づいていない罪です。さらに今週の聖句でも取り上げております「傲慢の罪」から守られるようにという祈りが出てきます。何年クリスチャンとして生きていようが、私たちは気をつけて聖書を読みましょう。神さまの導きは、過去の経験からではありません。神さまの導きは聖書からのみあります。私たちの指針は聖書なのです。荒野でのモーセの失敗を思い出してください。それは二度登場する、神さまが民の不平不満に対し、岩から水を湧き出させる場面です。二度目にモーセは過去の経験にたより、神さまのおことばに完全に従いませんでした。神さまからの命令に過去の経験を付けくわえ、失敗してしまったのです。これはモーセの「傲慢の罪」です。ここから私たちは学ぶべきです。私たちはその都度その都度、神さまがどういう導きを与えてくださるかを気をつけて聖書から得て行かなければなりません。その時、私たちの経験はまるで役に立ちません。むしろそのことにより私たちは罪を犯してしまうでしょう。それは「傲慢の罪」です。その傲慢の罪からお守りください、と詩篇の記者は祈っています。神さまは私たち一人ひとりの良心に訴えかけ、お語りくださいます。みことばは、弱くて自分勝手な私たちに対して、聖書を通して語ってくださいます。その神さまの愛がこの詩篇にあらわされています。このことをぜひ、汲み取っていただきたいと思います。

ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Ⅱペテロ3:9)

ぜひこのことをおぼえてください。
私たちは、自分の前に立ちはだかっている壁に対しては何も心配することはありません。神さまが共に歩み、乗り越えさせてくださいます。たとえそれがどんなに小さな困難であってもです。どんなに大きな困難であってもです。それを神さまにお願いし、共に進んで行く時に、それは乗り越えることができます。その壁を越えた時、私たちが望んだ場所ではないところに導かれるかもしれません。しかしそこで伝道は導かれ、福音を語ることをゆるされるでしょう。そのようにして福音は前進していくでしょう。クリスチャンとしてそのことをぜひおぼえてください。

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