2015年11月22日 主日礼拝「タラントのたとえ」
本日の聖書箇所
マタイの福音書25章14〜30節
説教題
「タラントのたとえ」
今週の聖句
「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」
マタイの福音書25章29節
訳してみましょう
1747 God always performs what He promises.
(神は常に、神が約束されることを実行します。)
1748 To be rich in God is better than to be rich in goods.
(神において豊かであることは、物において豊かになることよりも良い。)
説教メモ
●タラントは与えられている
24章45節ごを覧ください。
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。」(マタイ24:45)
「忠実な思慮深いしもべ」とあります。
「思慮深さ」については先週学びました(2015年11月15日主日礼拝「十人の娘のたとえ」)。
本朝学ぶ、もうひとつの「忠実さ」については、タラントのたとえが詳しく私たちに教えています。
そこには、忠実なしもべと怠惰なしもべとが対比されて記されています。
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」(マタイ25:14-15)
私たちが忠実なクリスチャンでいるために、自分の持っているものが「主からの大切な預かり物」であることを認識しましょう。
メディアでは多くの「タレント」が活躍しています。
この「タレント」は、「特別な才能を持つ人」という意味で使われていることが多いと思います。
本来の意味は、「主人が自分の財産を預ける」ことです。
その預けるものは、それぞれの能力に応じて渡されるものです。
預けられたタラントと能力とは「ひとつ」です。
「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」(マタイ25:18)
1タラントを預かったしもべは、能力がありながらその能力を発揮できませんでした。
後に1タラントは取り上げられ、さらに外の暗闇に追い出されてしまいます。
1タラントも、能力もともに奪われてしまいました。
つまり、タラントも能力も同じものです。
能力というものは数値で表すことができません。
ですから、「忠実さ、怠惰さ」といった能力を数値的に分かりやすく比較できるように、ここではタラントという通貨単位を用いてたとえられています。
さて、私たちには目に見える賜物だけが主からの預かり物であると考えてはいけません。
私たちの中には色々な能力があります。
さらに「体験」、「境遇」など、一切がすべて主が私たちに委ねられておられるものです。
それらは私たちの「タラント・財産」となり、私たちはその「管理者」であり、主人が帰って来た時には「決算報告」をしなければならないものです。
タラントについて考えてみましょう。
1タラント=6000デナリです。
1デナリは1日分の賃金に当たります。
今の時代、一般の日給は大学卒の正社員でおよそ1万円と言われています。
つまり、なんと1タラントとは6000日分、24年分の賃金となります。
5タラントを預かった人はいったい何年分になるでしょう!
その人はそのくらいの価値がある、もの凄いものが預けられていたのです。
ここではお金に換算されていますが、先程も申しましたとおり、神さまが私たちにゆだねておられるタラントとは「能力」、「体験」、「境遇」などの一切を主が私たちに委ねられておられるものです。
それらを私たちは皆、それぞれ持っているのです。
神さまはこれほどまでに私たちに預けておられるのです。
ですから、自分で自分のことを「小さき者」と言うのは控えるべきでしょう。
●タラントは用いるために与えられている
小さな教会と言われる人数の少ない教会では、一人ひとりの奉仕が多いです。
それだけ一人ひとりがそれぞれのタラントを活かす機会が多く、さらに恵みも多いのです。
「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。モーセは神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』」(出エジプト3:10)
出エジプト記では、モーセは神さまの召しがあった時、最初はそれを断りました。
尻込みをしたのです。
そのとき神さまはおっしゃいました。
「主は彼に仰せられた。『あなたの手にあるそれは何か。』」(出エジプト4:2)
モーセは自分の手に「杖」を持っているのに気づきました。
神さまはそのモーセが持っていた「杖」を用いてしるしと不思議を行わせました。
それでも納得いかないモーセはさらに
「私は口が重く、舌が重いのです。」(出エジプト4:10)
と尻込みをしています。
すると主は、
「『誰が人に口をつけたのか。誰が口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。』」(創世記4:11)
あなたの手にある杖、あなたの持つ口、耳や目、それで十分だとおっしゃいました。
私たちが主の御用を遂行するとき、すでに与えられているもので十分なのです。
決して、魔法の杖が必要なわけではありません。
雄弁な口、千里眼など必要ないのです。
私たちひとりひとりに預けられているタラントで十分なのです。
そしてそのタラントは、通貨単位で表せばもの凄い価値あるものなのです。
さらに私たちは、預けられているタラントを他人と比較するべきではありません。
主は私たちが最も良い主の財産の運用ができるよう、最も適当と思われる比率で一人ひとりに分配されているのです。
私たち一人ひとりが取るべき態度はどのようでしょうか。
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Ⅰコリント12:26-27)
自分を卑下することなく、他人を羨むことなく、神さまから委ねられたものを正しく評価し、その責任を自覚していくこと。
これが「忠実さ」の最も大切な前提となります。
再三申しますが、神さまが私たちにゆだねておられるタラントとは「能力」、「体験」、「境遇」などの一切を主が私たちに委ねられておられるものです。
●ますます豊かになる
「良い忠実なしもべ」とは、どのようなしもべでしょうか。
「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:19-23)
ここで「忠実」と訳されたことばは「信用できる、信頼できる」ということです。
しもべの忠実度は、どれだけ誠実に財産を運用したかにかかっています。
つまり、私たちに預けられている主の財産を、私たちがどれだけ誠実に運用するかにかかっています。
決して額の問題ではありません。
その証拠に、5タラントもうけた者にも、2タラントもうけた者にも、主人(神さま)はまったく同じことばで彼らを褒めておられます。
「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:21、23)
神さまはこつこつと働く忠実さを喜ばれます。
使徒の働き5章に、アナニヤとサッピラという人物が登場します。
「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」(使徒5:1)
二人は莫大なお金を教会に献金しましたが、そこに「これが全部だ」という偽りがありました。
そこに彼らの不忠実さがありました。
対比的に使徒の働き9章にタビタという女性が登場します。
彼女はお金を持っていませんでしたが、人々を思いやる心がありました。
地味ではありましたが、誠実に自分の能力を運用し、結果的に神さまはそれを喜ばれました。
ですから、「忠実さとは、仕事の量ではなく、その人のあり方であり、能力の用い方」です。
忠実なしもべに与えられる報いはなんでしょうか。
それは、「さらに多くのものを管理させるようになる」という報いです。
『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、「私はあなたにたくさんの物を任せよう。」主人の喜びをともに喜んでくれ。』
これが天国の報いとなります。
「まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」(マタイ24:47)
「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」(黙示録2:26)
神の御国はもともと神さまが支配されるところです。
そこでは私たちにはそれぞれ働くべきことがあります。
天国はただ、楽しく遊んで暮らせるところではないということも覚えてください。
全財産が任され、全世界を管理するわざに参加するという、忙しい職場です。
天国がこの地上での働き、職場の延長であるなら、私たちの地上での態度も変わってくると思います。
- 一方では思慮深い5人の娘のような「待つ姿勢」
- 一方では忠実なしもべのような「働く姿勢」
私たちの地上での正しい態度を教えてくれます。
今の私たちの勤労は、後の栄光の勤労の予備練習であると考えられます。
「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」(ルカ16:10-11)
イエス様はこのようにおっしゃいました。
私たちが不正の富(この世の富)に対して忠実でなかったら、どうして主はまことの富をお任せになるでしょうか。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:56-58)
私たちの地上での労苦は、主にあって無駄ではないのです。
毎日毎日の労働は、無駄ではないのです。
また、「労苦」と訳されたことばは、「商売をする、仕事をする」と同じ意味合いのことばが用いられています。
「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。』」(黙示録14:13)
「彼らの行ないは彼らについて行く」に注目してください。
主から預けられたタラントを管理・運用していくという地上での労苦・働きは、死においてもむなしいものとはなりません。
天の御国に入る時にも「ついて来る」のです。
パウロが言った「無駄ではない労苦」となるのです。
私たちの今の労苦は、天国に携えていく「持参金」のようなものでしょう。
今、私たちが預かっている「タラント」。
たとえそれが1タラントであっても、5タラントであっても、小さなことへの忠実はそのまま天国での大きなことへの忠実に対するテストとなります。
与えられているタラントを、私たちが忠実に用いていく理由がここにあります。
マタイの福音書25章24〜30節には、悪い態度のしもべが描かれています。
その悪い態度とは、預けられたタラントを正しく管理・運用しなかった「怠惰」な態度です。
「怠惰」とはなんでしょうか。
- しりごみをする
- 臆病である
- ためらう
「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』」(マタイ25:24-25)
この態度を主は「悪い態度」として記しておられます。
それは「悪いことだ」と主はおっしゃっているのです。
わたしたちはこれらの理由によって、与えられたタラントを土の中に隠しておいてはいけないのです。
最後の審判でも、主は「悪いしもべだ」とおっしゃるかもしれません。
「自分の仕事をなまける者は、滅びをもたらす者の兄弟である。」(箴言18:9)
委ねられた仕事を怠る者は、滅ぼす者の兄弟なのです。
どんな動機からにしても、尻込みすることなく全力をふるって用いる。
結果の額面がプラスであるとか、マイナスであるとか、またそれがいくらだったのかなどということには言及なさいません。
ご自身が委ねられたタラントを、いかに忠実に活用したか、あるいは怠ったかによって主は私たちを評価されるのです。
もう一度、悪いしもべの態度を見てみましょう。
「だいぶ時が経ってから」とあります。
長い期間、主人は留守をしていました。
その間、「不忠実なしもべ」は、「忠実なしもべ」のそれぞれの儲け方、働き方を見ていたことでしょう。
それなのに、その人は自分の態度に反省することなく、まったく努力をしなかったようです。
主の帰りは遅いのです。
先週の10人の娘の話からも学んだことは、「賢い・思慮深い娘」と「おろかな・思慮浅い娘」の「ふるいわけのための時」だったということ。
本朝のこのタラントのたとえから学ぶもう一つのことは、主人の帰りが遅れ、それを待つ時が「怠惰な者を悔い改めさせるための、恵みの時」だったということです。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)
今は恵みの時です。
私たちは預けられたタラントを、しっかりと管理運用していくべきでしょう。
反省すべきところはあるでしょうか?
「『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。』」(マタイ25:24-25)
不忠実なしもべは、このように尻込みして、臆病になって、あれこれと屁理屈ともとれる理由をのべて預かったタラントを運用しませんでした。
ところで、麦の畑の主人は自身では種を蒔かず、使用人を使って種まきをし手入れをさせ、最終的に収穫をさせる。
そしてしもべは脱穀をし、ふるい分け、麦だけを集め主人のものとする。
これは主人としもべとの関係において当然のことではないでしょうか。
しもべであるからには、主人のために働かなければなりません。
さらに不忠実な悪いしもべには「自分がしもべであることに対して」不満がありました。
自分が主人になりたいという思いがあったのです。
なので主人に文句を言い、主人のお金だから自分が働いて増やさなくても良いだろう、といった消極的な態度をとったのです。
反対に忠実な良いしもべは、主人のための働きに対して不平不満を言わず、よろこんで働きました。
そして、
「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:21、23)
と、主の喜びに招かれました。
しもべとして忠実な働きの根本にあるのは「主のしもべとされていることに対しての喜び」です。
自分の働きによって主人が喜んでくれる。そしてその喜びをわが事のように喜ぶこと。
さらに喜びの働きに参加しようとする心。
それらが私たちの忠実さ、勤勉さに相当するのです。
主から委ねられた能力、持ち物、時間の管理に忠実であるかどうかは、主のしもべとされていることに対しての喜びにかかっています。
私たちクリスチャンの目的は「神さまの栄光を表す」「神さまとともに喜ぶ」ことです。
終末のとき、主のご栄光が現れることを喜びとするクリスチャンは、主のために大胆にタラントを生かして用いることができるのです。
次の聖書箇所をご一緒に声に出して読みましょう。
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」(Ⅰペテロ4:7-11)
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