2026年3月1日 主日礼拝「聖くされた神の子どもとして生きよう」

前  奏  黙祷
賛  美  新聖歌89「神は独り子を」
      新聖歌218「汚れと辱との」
招  詞  詩篇32篇1〜6a節
讃  美  讃美歌11「あめつちにまさる」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   ヨハネの手紙第一4章(新聖歌 交読文59)
讃  美  讃美歌87A「めぐみのひかりは」
聖書朗読  民数記3章1〜13節
説  教  「聖くされた神の子どもとして生きよう」
讃  美  讃美歌332「主はいのちを」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌206「主のきよきつくえより」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 民数記3章4a節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記3章1〜13節

説教題

「聖くされた神の子どもとして生きよう」

今週の聖句

ナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ。

民数記3章4a節

説教「聖くされた神の子どもとして生きよう」

民数記3章1〜13節

○油注ぎの意味とは何でしょうか。それは誰によるものでしょうか。
○【資格なしに・זוּר(ズゥル)】
○【系図(תּוֹלְדָהトゥルダー)】

はじめに

私たちは受難節を過ごしています。受難節を10日ほど過ごし、3月に入り、イエス・キリストの十字架、そして復活を記念するイースター(今年は4月5日)へと向かっています。

前回は民数記2章1〜34節を通して、神の民が約束の地に入ることができる秘訣」について見ました。そのことを通して、神の民とされている私たちが、私たちに約束されている天の御国、神の国に入ることができる秘訣として、罪の奴隷から解放され、自由の身とされた私たちであっても、神が定められた秩序を守り、組織(神が立てられたすべての権威)を軽く見ず、混乱を避け、それぞれの「旗じるし」をかかげ、協調性を保ちつつ、なお最高権威者である聖なる主を恐れつつ、そして主のみことばに従順に、荒野のようなこの世の旅路を歩いて行くのだということを覚えました。

民数記は3章に入り、ここでも神の聖さ、そして秩序について語られていると思うのですが、今日のところではどちらかと言うと、共同体や組織においてというよりは、個人においてが語られているように思います。

祭司の系図

3章1節        これは、主がシナイ山でモーセと語られたときの、アロンとモーセの系図である。

ここに祭司の系図が記されるのですが、2節からのアロンの系図にも、神は聖さと秩序を重んじられる方であることが分かります。

3章2節        アロンの息子たちの名は、長子ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。
3章3節        これらはアロンの息子たちの名で、彼らは油注がれて祭司職に任じられた祭司であった。
3章4節        ナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ。彼らには子がいなかった。それでエルアザルとイタマルが父アロンの生存中から祭司として仕えた。

3節に「油そそがれて」とあります。「油をそそぐ」というのは、旧約聖書において神がある人をある務め、任務へと立てること、任職することを表しています。そして同じ3節に「任じられた」とありますが、ここの原語であるヘブル語を直訳すると「手を満たした」となります。手を満たすというのは、両手を器のようにして差し出して、そこに誰かが油をそそいで満たすということではないでしょうか。その誰かというのは、明らかに神です。神が両手を器のようにして差し出させ、神がそこに油をそそがれ、特別な「祭司職」という任務へと立てられた、任職されたのです。つまり、それはすべて神によるということ。ただ恵みによるのだということです。任職される者はただ油注がれる神を信じ、自分の手を神に、神のために差し出すだけなのです。

そして油というのは、しばしば聖霊の象徴として聖書に出て来ます。例えばマタイの福音書25章1節からの「賢い娘と愚かな娘の例え」にあるように。イエス様はご自身の再臨が近い終わりの時を、主によって、恵みによって注がれた油、聖霊に満たされ、聖霊の力によって、恵みによって任職されたその任務に忠実に生きることを教えてくださいました。

ところで先日、現在洗礼の学びをしているのですが、その中で「イエス様を信じた瞬間に聖霊が注がれる」ということを一緒に学びました。イエス様を信じた瞬間に。それははっきりといつなのかは私たちには分かりません。しかしこのことについてもイエス様が教えてくださいました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」(ヨハ38)。イエス・キリストを信じて恐る恐るかもしれない、信じ切れていないのかも知れない。しかし神を信じて救いを求めてすがる両手を神に向けた瞬間に聖霊が注がれる。その時がいつだったのか私たちには予測不能であり、ただ全知全能の神の一方的な恵みのみであるのです。イエス・キリストを信じた瞬間に油注がれる。同時にある特別な任務へと立てられる。その時も、そのことも私たちには予測不能であり、ただ神の力と一方的な恵みのみであるということです。

ただ神の恵みによってのみ任職された「祭司」という特別な職務でした。アロンには4人の息子がいて、アロンに次いで大祭司になる人は、予定どおりであればナダブでしたが、アロンの長子であったナダブと次男のアビフはその恵みを忘れ、高慢になり、異なる火を献げたために懲らしめを受けて、子もないままに死んでしまいました。祭司が神にいけにえを献げる時は、神の定められた方法や順序に従って全焼のささげ物を祭壇の上に置き、火で焼かなければなりませんでした。しかしナダブとアビフは、聖なる神を侮り、主の前に異なる火でいけにえを献げて神の聖さを損ない、悲惨な最期を遂げてしまいました。主の前に異なる火を献げた。この異なる火というのは何でしょうか。聖い霊、心によるものではなく、汚れた肉の思いによるものだったのでしょう。

以前学んだコリント人への手紙第一ではこのように言われました。「もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。……みからだをわきまえないで(十字架にあらわされた主の愛とあわれみ、恵みを覚えずに肉の思いによって)食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです」(Ⅰコリ1127,29)と。ここで「ふさわしくない仕方」というのは「ふさわしくない態度で」ということであることを学びました。当時のコリント教会では、愛餐会の中で聖餐式が執り行われていました。コリント教会には霊的ではない肉的なヒエラルキー(階級組織、ピラミッド型の上下関係)がありました。ほんのわずかな富裕層、富裕層を狙う中間層、そして構成メンバーのほとんどを占める貧しい人たち、そのほとんどが奴隷でした。そこで富裕層が幅をきかせ、中間層の人たちは貧しい人たちを追いやり、良い席に富裕層を座らせ、次に自分たちが座り、持ち寄ったご馳走を先に食べてしまったりなどして、貧しい人たちを顧みることなく、かえってなおざりにしていました。それがふさわしくない態度とされました。人とか教会は高慢になってさらに高い地位に昇ろうとする肉の思い、野望を抱くときに堕落するのです。

彼らは神の聖さを無視しました。神の立てられた秩序を無視しました。ナダブとアビフも祭司、そしていずれ大祭司となる立場にあって高慢になり、同じ罪を犯してしまったのでしょう。このアロンの息子の死に関する記述というのは、特別に神の民とされ、約束の地を目指すことができる幸いな者とされたイスラエルの宿営に漂う明るくて楽天的、楽観的な雰囲気の中に立ちこめる不吉な雲。私たちの心をチクッと刺す戒めの棘のような感じがします。

系図

ここまでどちらかというと、祭司の「系図」の中にある厳しさの面を見て来ましたが、もう一方の面にはやはり「恵み」の面もあります。こちらも絶対に忘れてはならない重要な面です。

「系図」という同じ語が聖書の一番初めに出て来るのは、実は創世記2章4節です。「これは、天と地が創造されたときの【経緯】である」(創24)。「経緯」と訳されています。神は世界のすべてを創造された時、すべての秩序をも創造されたことは言うまでもありません。そして「系図、経緯」というのは、個人的に当てはめるならば、その人の経歴とかすべての行動歴とかでしょう。神は私たち一人ひとりの言動をすべてご存知で、それらすべてがある神の書物に記録されていることも聖書(黙示録など)にはっきりと示されています。私たちそれぞれの系図、経緯はどのようなものでしょうか。それはマタイの福音書、あるいはルカの福音書にある系図でも明らかなように、そこには本来、系図には記されない女性の名が記されています。決して誇ることができない罪人も記されています。姦淫の罪を犯したユダ。その相手であるタマル。元々真の神を知らず異教の神に仕え、神に背いて生きて来た異邦人女性のラハブやルツ。不倫、偽証、殺人の罪を重ねてしまったダビデ。その相手である名前さえも記されない女性。しかし神はそのような者をも用いられ、ご自身の聖い目的を果たされました。すべての人の救いをついに成し遂げられたのです。神はそのすべての人を選ばれ、すべての経緯を聖められ、ご自身のものとして聖別され、ご自身の聖い目的のために用いることができるお方です。その人を恵みによって選び、その人がただ差し出した両手に油をいっぱいに注ぎ、特別な任務に立たせられるのです。それは本当に恵みなのです。ですから私たちには何も誇れるところはありません。私たちを高慢にするものは何一つないのです。

レビ部族の職務と資格

5節からはレビ部族の職務と資格について語られます。レビ族は神によって神の民の中から特別に選ばれ、資格が与えられ、特別な務め、任務へと立てられました。ここにも主の油注ぎがあったということです。彼らも油注がれた者たちでした。

レビ族の務めとは何でしょうか。それは大きく4つに分けられると思います。

①祭司の補助
レビ族はアロンの下で祭司を補助する者、及び力を貸したり手助けをする者として選ばれ、任職されました(6-7節)。具体的に彼らは屠られた動物の血を入れ物に受け取り、祭司に渡す務めが任されていました(Ⅱ歴3016)。また常供のささげ物のいけにえは、祭司が手を置いて屠った後、皮をはいで切り分けるのですが、その前の準備はレビ人が行いました(Ⅱ歴3514)。

ここで少し横道にずれますが、受難節を過ごしている中で、私がとても興味深いなと思ったのが、イエス・キリストが十字架に架けられる前、イエス・キリストを鞭打ちにしたのは誰かということ。また衣に血が染み込み、染み込んだ血が渇き皮膚に密着し、その衣ともどもイエス・キリストの皮を剥いだのは誰かということ。十字架に架け、神の小羊を屠ったのは誰か。直接手を下したわけではなかったかもしれませんが、その中心的な役割を果たしたのがアロンの子エルアザルの子孫、大祭司ツァドクでした。前準備、力を貸したり手助けをした者たちは祭司一族、レビ族だった。彼らは恵みによって油注がれ、恵みによって特別な任務に立たせられたにもかかわらず、高慢になり、高い地位に昇ろうとする野望を抱き、堕落し、自分たちの既得権を守るためにイエス・キリストを捕らえて裁判をしました(ヨハ1813,24)。彼らを立てられた方は神でしたが、彼らは高慢になり、神の御子をさばくという罪を犯してしまったのです。恵みによって油注がれ、祭司とされている私たちにとっても、とても考えさせられるところではないでしょうか。

②民のいけにえを助ける
彼らには民がいけにえを献げるのを助ける任務がありました。民がいけにえとささげ物を献げる際には、レビ人が彼らを助けたり手伝ったりしました(7節)。

③会見の天幕の管理及び運搬
彼らには会見の天幕の管理及び運搬が任されていました。祭司の下で会見の天幕を掃除したり、修繕したり、消耗品を補充したりしました。

④神殿での音楽
彼らには神殿での音楽が任されていました。そして後の神殿では、奏楽と聖歌隊を任されました(Ⅰ歴1516,22、Ⅱ歴512,76、ネヘ128)。

これらのレビ族、レビ人の任務、任職を思う時、そのすべてが私たち一人ひとりに当てはまるものではないでしょうか。ここからも、私たちはまことに霊的レビ族、レビ人であること。そしてそれは主の油注ぎによるものであることを思わされるのです。

資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない

10節には「資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない」とあります。「これ」というのは、祭司やレビ人に与えられている幸いな任務、奉仕のことでしょう。そしてその任務や奉仕に携わることができる資格というのは何でしょうか。それは主に油注がれるということです。主に油注がれなければ、まったく聖であられ、近づくならば殺されてしまうほどのお方に近づくことはできないのです。しかし私たちは、救い主イエス・キリストを信じた瞬間に油注がれている者たちです。聖い者とされ、聖い神に近付き、聖い神に仕え、聖い神と親しく交わり、聖い全能なる神に祈ることが赦されている、その資格が恵みによって与えられているという、本当に幸いな者たちです。そのことを覚え、心からへりくだり感謝したいものです。

「資格がない」(זוּרズゥル)という語もとても興味深いものです。その元々の意味として、「別の場所、別の人から来る得体の知れない者」という意味があります。私たちは以前はまことに「得体の知れない者」でした。しかし神だけは、得体の知れない私たちのすべてをご存知で、その上で選んでくださり、イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださり、その瞬間に油を注ぎ特別で幸いな任務を与えてくださいました。すべてが恵みです。あわれみです。

また他に「資格がない」(זוּרズゥル)には「唐箕(とうみ)」という意味もあります。それは風力を利用して籾や玄米から籾殻、藁くず、ごみを選別する手回し式の伝統的な農具のことです。まことに私たちは以前は風に吹き飛ばされるべき籾殻、言葉は悪いですが、ごみくずのような者でした。籾殻のように中身がなく、それなのに自分は自由だと風にのって自由に飛び回っていました。時代の風、世の風潮に乗って吹き飛ばされ、神のもとから遠ざかってしまっていた、実はみじめな者、そして神の目から見るならば、まことに罪人だったのです。そんな私たちを神はあわれみ、神は選ばれ、ただイエス・キリストのゆえに聖められ、神のものとされ、油注がれ、聖霊によって御霊の実を結び、中身のある人間にしていただき、資格が与えられた。神と人とに仕えることができる資格が与えられた。神と親しく交わることができる資格が与えられた。そして天の御国、神の国に入る資格が与えられたのです。もう部外者、アウトサイダーではないのです。それどころか、聖別された中心的な神の子とされているのです。ここにまったく相応しくない私たちが、神に見いだされ、神に選ばれ、イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、信じた瞬間に聖霊が注がれ、油注がれ、ただ恵みによって私たちは主のものとされている、幸いな者とされていることへの大きな喜び、感謝を覚えさせられるのです。しかし同時に、私たちが注意すべきことも覚えさせられるのです。

レビ人と長子の聖別

11節からはレビ人と長子の聖別について語られます。

3章11節      主はモーセに告げられた。
3章12節      「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。
3章13節      長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」

ここで「聖別」と訳されているヘブル語を通して、改めて何度も言われている「聖別」や「聖い者とされている」ことの意味について考えたいと思います。このヘブル語から分かることは、「聖別、聖い者とされている」には2つの意味があるということです。1つはこれまで何度も言われてきた「神のものとしてこの世から特別に取り分けられたもの。そしてもう1つは、はやり「聖い」というだけあり、そのイメージ通り倫理的や道徳的に完全に正しい状態として存在することです。私たちはイエス・キリストを通して聖い者とされた、されていると言いますが、そこにある2つの意味を覚えておくことが重要だと思います。

神は、イスラエルの子らがエジプトから脱出した日の夜、イスラエルの子らと家畜にいたすすべての長子を「聖別」し、ご自分のものとされました。過ぎ越しの出来事です。そして出エジプト記13章11〜16節にはこのようにあります。「主が、あなたとあなたの父祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに与えられるとき、最初に胎を開くものはみな、主のものとして献げなければならない。家畜から生まれ、あなたのものとなるすべての初子のうち、雄は主のものである。ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、首を折らなければならない。また、あなたの子どもたちのうち、男子の初子はみな、贖わなければならない。後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋ねるときは、こう言いなさい。『主が力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオが頑なになって、私たちを解放しなかったとき、主はエジプトの地の長子をみな、人の長子から家畜の初子に至るまで殺された。それゆえ私は、最初に胎を開く雄をみな、いけにえとして主に献げ、私の子どもたちの長子をみな贖うのだ。』このことは手の上のしるしとなり、あなたの額の上の記章となる。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから導き出されたからである」。

人間であれ、家畜であれ、すべての男子の初子は神に献げなければならない。それは最初に生まれた男子の子ども、もしくは動物を殺すことを命じるものです。大切な長子を殺すこと。それが聖である神の第一目的だったのでしょうか。しかし神は愛とあわれみに満ちておられる神ではなかったでしょうか。その神の第一目的は、本当に長子を殺すことだったのでしょうか。

私たちが荒野を旅し、約束の地に入り、約束の地を受け継ぐまで、私たちの手のわざも、私たちのすべての考えも、すべて「まことに聖なる主を恐れる」ことから始まるのだ。「主を恐れることは知識(知恵)の始まり」(箴17)。それは主を恐れることは当たり前のこと。また神の偉大さを認め尊敬し、自らが神に造られ、神に覚えられ、神に選ばれ、神に聖い者とされ、神に油注がれたた存在であることをわきまえる謙遜な態度が、この世の荒野を旅し、約束の地に入ることができるまことの土台となること。その道中で、自分を偉大だと勘違いすることなく、神の恵みによって「聖く」されていることを覚え、神を第一とすることによって、様々なこの世の誘惑、サタンの惑わしから守られる。しかし主を恐れない無知な者は、神を侮り、破局を迎えてしまうことになる。「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる」。レビ人は主の幕屋の周りに宿営し、警護して聖なる神の臨在を守っていました。祭司と神の幕屋とすべての民と礼拝に仕えていました。やがてレビ人は約束の地に入ると、レビ族以外の12部族ごとに割り当てられた地に散らされ、そこでレビ人として変わらずに奉仕していました。レビ人の存在というのは、民の間にあって聖であり恵み深い偉大なる主の存在を民に示し、聖なる主を恐れさせ、自らを謙遜にし、そして民を約束の地へと確実に導く存在として立てられているのです。

そのレビ人は、15節になりますが、主の命により生後1ヵ月以上のすべての男子が登録されました。彼らは生まれながらにして聖別されていたということです。クリスチャンとして生まれたての人も、成長の途中にある人も、成熟していてもやはり自信が持てない人も、一人ひとりがすでに神の目には、他のものとは別のもの、神のものとして区分されている者。また、倫理的道徳的に完全な状態で存在する者として見られ、今いる場所に立たされているのです。神は「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである」「わたしが油を注いだ」と言われます(レビ2026)。だから私たちは聖くなければなりません。しかしそれは、ただ恵みによってです。イエス・キリストを通しての聖さ。イエス・キリストの十字架によるすべての罪からの赦しによる聖めによってです。このような「資格なし」の者。籾殻のように中身がなく、それなのに自分は自由だと風にのって自由に飛び回っていた。時代の風、世の風潮に乗って吹き飛ばされ、神のもとから遠ざかってしまっていた、実はみじめな者。神の目から見るならば、まことに罪人だった。そんな私たちを神はあわれみ、神は選ばれ、ただイエス・キリストのゆえに聖められ、神のものとされ、油注がれ、聖霊によって御霊の実を結び、中身のある人間にしていただき、資格が与えられた。神と人とに仕えることができる資格が与えられた。神と親しく交わることができる資格が与えられた。そして天の御国、神の国に入る資格が与えられたのです。もう部外者、アウトサイダーではない。それどころか、神に最も近い者とされているのです。聖くされた神の子とされているのです。

私たちは神の民であるだけでなく、祭司として、レビ人としての務めが委ねられています。そして祭司やレビ人に課せられた責任の厳粛さの中心は「主に従う」ことでした。何度も申しますが、私たちの罪や汚れ、弱さは主イエス・キリストによって赦され、聖められ、もはやさばきを恐れることなく大胆に主に近づくことができる者とされています。恐れずに神と民に仕えることができる者とされています。恵みです。感謝です。しかし、私たちに与えられている責任の厳粛さは失われていません。その中心は主を恐れ、主に従うことです。

ふさわしくない仕方で

この後、私たちは聖餐式に与りますが、コリント人への手紙では聖餐式においてこのように言われました。「もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」(Ⅰコリ1127)と。そして「仕方」というのは「態度」ということでした。逆に言うと、私たちの神に対する態度というのは、私たちの「仕方」に表れるのでしょう。主の十字架の恵みを覚える聖餐式を通して、今一度、私たちの神に対する態度、奉仕に対する態度、どのような仕方がふさわしいのか、深く思い巡らせてみていただきたいと思います。そしてただ恵みによって聖くされたレビ人として、荒野のようなこの世にあって世の人々の間に住み、神の聖さをあらわしてまいりましょう。神が定められた秩序を守り、組織(神が立てられたすべての権威)を軽く見ず、混乱を避け、それぞれの「旗じるし」をかかげ、協調性を保ちつつ、なお最高権威者である聖なる主を恐れつつ、そして主のみことばに従順に、荒野のようなこの世の旅路を進み行き、主と隣人とに仕え、必ず約束の地に入らせていただきましょう。

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