2026年3月8日 主日礼拝「いのちを生かす神のことばに聞き従おう」

前  奏  黙祷
賛  美  新聖歌236「あだに世をすごし」
      新聖歌243「罪人たちのために」
招  詞  ヨハネの黙⽰録21章25〜27節
讃  美  讃美歌16「いときよきみかみよ」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇139篇(新聖歌 交読⽂44)
讃  美  讃美歌320「主よ、みもとに」
聖書朗読  民数記4章1〜20節
説  教  「いのちを生かす神のことばに聞き従おう」
讃  美  讃美歌501「⽣命のみことば」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 民数記4章20節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記4章1〜20節

説教題

「いのちを生かす神のことばに聞き従おう」

今週の聖句

彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死ぬことのないようにするためである。

民数記4章20節

説教「いのちを生かす神のことばに聞き従おう」

民数記4章1〜20節

はじめに

今朝はいつもよりも少し遅い時間に家を出たのですが、空が少しずつ明るくなり始めていました。今朝は綺麗なドーン・パープル(夜明けの紫色の空)でした。これは胎児が生まれるときに感じる色だと言われています。ユーミン(松任谷由実)が言っていました。またそれは人生の始まり、希望を象徴しているのだそうです。このドーンパープルが、私のいつもの朝の出勤時間に見られるようになると、「あぁ、今年も受難日、そしてイースターが近づいて来たなぁ」と、そう思わされます。

さて、「神を恐れる」とは何でしょうか。私たちは以前の民数記1章47〜54節から「神の聖さ」について学びました。そして礼拝が終わって、ある姉妹から「先生、今日の説教はちょっと恐かったです」と言われたのですが、それは神を信じる者にとって正しい敬虔な反応だと思います。

それで、私たちが実際に敬虔に神を恐れるというのは、どういうことなのでしょうか。それは、みことばに忠実に聞き従うことではないでしょうか。神が「○○しなさい」と言われたことは一生懸命する。神が「○○してはいけない」と言われたら絶対にしない。「礼拝を守りなさい」と言われたら、何としても礼拝を守ろうとする。「食べてはだめ」と言われたら、絶対に食べない。それがまことに神を恐れ、実際に恐れていることになるのではないでしょうか。

なぜ神はご自身の聖さをあらわし、そしてご自身を恐れさせ、みことばに忠実に聞き従うようにされるのでしょう。それは神が私たちの父となってくださっており、私たちを神の子としてくださっているからです。

昨日、梱包されたシャワーブースのキットが届き、会堂の後ろの方にシャワーブースに取り付けるガラスの扉を、割れないように梱包されたまま寝かせて置いておきました。中身を知らない息子が近くでわちゃわちゃしているものですから、つい大声で「それガラス! 近づくな!」と注意しました。すると息子は一言「短気」と私に対して文句を言いながらも、危険を察知してか、ガラスから遠ざかりました。私が息子を厳しく叱り注意したのは、大切な中身を壊さないようにであり、また究極的には息子自身がガラスが刺さったりして死んでしまわないためでした。同じように父なる神は、神の子とされている私たちに対して、厳しく叱ったり注意を与えたりなさいますが、それは本当に大切なものを守るため、またわが子が死んでしまわないためです。何度か申し上げておりますが、聖書が言う「生きている、死んでいる」というのは、肉体的な命であると同時に、霊的ないのちのことも言っています。神を恐れず、それゆえにみことばに聞き従わないということには、まことにいのちを失う危険があるのです。そして神は絶対にいのちを失って欲しくないのです。

旧約時代の神は恐ろしい神だとよく言われますが、ある意味その通りでしょう。旧約(古い契約)は「みことば(契約・律法)を守るなら祝福、守らなければ呪い」だからです。しかしそこに愛はないのでしょうか。やはりあるのです。わが子のいのちを何としても守ろうとする、もの凄い親の愛があるのです。そのもの凄い愛が、神がご自身の御子イエス・キリストを世に降らせ、新約(新しい契約)の時代となり、イエス・キリストが福音を宣べ伝えられ、その愛を明らかにされたのです。聖い神の究極の愛のあらわれが、十字架と復活でした。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ロマ58)。

30歳以上、50歳までのすべての者

今朝は民数記4章に入り、ここにはレビ族の中のケハテ族について語られています。レビ族はゲルション族、ケハテ族、メラリ族の3氏族からなるもので、それぞれに幕屋に仕えるための役割が与えられていました。それは3章で語られています。3氏族それぞれの働きは異なるのですが、いずれも神の臨在がある幕屋を維持し、運搬するなど、どれも欠かせない働きでした。そして今日の箇所では、3氏族の中の1つ、ケハテ族に焦点が当てられて語られています。

3章で神は、レビ人は生後1ヵ月以上のすべての男子を登録するように命じられました。それは彼らが生まれながらにして聖別されていた(神のものとして取り分けられていた)ということです。そして4章では、そのレビ人が実際に幕屋で仕えることができるのは、30歳から50歳までの「すべての者」であると命じられています。30歳になれば、すべての者が一人残らず幕屋に仕えることができ、またすべての人が幕屋に仕えるようにと神に召される、神に呼び出されるというわけです。

ところで、同じ民数記8章24節では、レビ人の任務をする者の年齢は25歳以上。そして50歳からは奉仕の務めから退くようにと命じられています。これはおそらく25歳から見習いを始め、30歳からその務めに着き、50歳からは退いて指導する側に回ることを意味しているものと思われます。重要な聖なる幕屋の任務、それは幕屋の維持や運搬、設置ですが、そのためにはその奉仕に耐え得る体力が必要であったこと。しかし20代では経験や知識が不足している(いわゆる若造、未熟者)。その知識というのは「知恵」であり、知恵というのは第一に「神を恐れること」です。幕屋の任務にふさわしい者は、単に力に溢れ、情熱に溢れているだけではだめで、正しい信仰、知識(知恵)、つまり神を恐れる信仰、神と神のみことばに対する信仰。そのための十分な訓練のための時間や経験なども必要であったのでしょう。

そのレビ人の幼子たちはどのように育てられ、また育ったのだろうかと考えさせられます。親たちの神に対する敬虔な恐れをもって、神のみことばに従順に聞き従い、間違いなく忠実になされる奉仕の姿。また幼い頃からの教育を通して、彼らに課せられた奉仕の重要性や責任感。それがいかに光栄で名誉なことか。そして同時に神への恐れというものを、見て、聞いて、肌で感じて学び取っていたのではないでしょうか。早く親たちのように光栄で誇り高い任務に当たりたいと願う子どももいたでしょう。その子の親はレビ人として素晴らしい信仰者だと思います。しかし中には嫌だ、そんな任務には当たりたくないと思っていた子どももいたでしょうか。これは私にとって、主に対して申し訳なく思い、反省しきりです。昨日は息子にこう言われてしまいました。「パパは牧師になってから、ため息ばかりついている」と。「あ〜」と思いました。私は牧師になったからため息ばかりついているわけではないのですが、そのように見せてしまっているのは良くないと思います。もっと恵みによって課せられている奉仕を光栄で名誉なこととして、喜んで忠実に仕える姿を見せなければいけないなぁと悔い改めさせられた次第です。

主は、ご自分が選び聖別された者には、その人が自覚していようがしていまいが、実は不思議な方法で、私たちの思いをはるかに越えたご計画と方法をもってきちんと訓練や教育を様々な経験を通して与えておられ、その時が来たならば一人残らず、すべての人を奉仕に召されるのです。そしてその奉仕はどのような奉仕であっても、まことに光栄で名誉な奉仕です。この章ではケハテ族が取り上げられていますが、これまで見て来たとおり、神の民、神の子らにはそれぞれの位置や役割、奉仕が神によってバランス良く、秩序をもって割り振られていました。そしてすべての奉仕は、聖なる神が常にともにおられ、約束の地を目指す旅をするにふさわしい群れとなるため、群れのすべての人のいのちを守るための奉仕でした。

ちなみに、今日の本文の中に、誰が、どの部族が、またどの奉仕が優れているとか劣っているかなどという言及はありません。ケハテ族の奉仕が取り上げられている今日の本文では、どちらかというと危険と関係があるのです。見たり触れたりするならば殺されてしまうほど、危険なまでの神の聖さ、神への恐れと関係があるのです。

あかしの箱の運搬

4節ではケハテ族の会見の天幕での奉仕について記されています。それは「最も聖なるものに関わること」だと言及されています。彼らの会見の天幕での任務は、幕屋の中に置く用具、すなわち、あかしの箱、臨在の机、燭台、香壇などです。そのあかしの箱をはじめとする幕屋の中の用具の運搬が彼らに任されていました。神の雲の柱が動くとき、イスラエルの子らはそれに従って移動するのですが、このときケハテ族は任されたものを運搬します。それは「最も聖なるものに関わること」。非常に光栄で名誉な仕事でした。しかし同時に、非常に恐ろしい任務でもありました。

5節からはあかしの箱の運搬法について記されています。会見の天幕の奉仕の中で、特にあかしの箱(さとしの箱、契約の箱、神の箱、主の箱とも呼ばれる)は重要で、それは神の御座であり、神はその箱につけられている宥めの蓋をご自身の足台とされると言われます。「足台」というのは、おもに「神の支配」と「神の臨在(神がそこにおられる)」を象徴する表現です。神が人間と出会ってくださる「地上で最も聖なる場所」を意味するものです。そしてその、神が人間と出会ってくださる「地上で最も聖なる場所」では、大祭司によって罪の贖いのための血が振りかけてられていました。

移動の際、祭司たちはあかしの箱を、幕と覆いでおおわなければなりません。まず、至聖所の仕切りの垂れ幕、続いてじゅごんの皮、最後に真っ青の布でおおいます。特別に美しく製作された仕切りの垂れ幕は、厚みがあって重たかったようです。ですから、すべての覆いを合わせると非常に重かったことでしょう。しかしケハテ族は、不平を言わずに神の命令、指示どおりに肩に担いで運びました。単に肉体的な力だけではなく、信仰の成熟や豊かな経験、人格、そして知識(神を恐れる知恵)が彼らに備えられていたことがここで分かるのではないでしょうか。

ところで、祭司たちがおおいをすることで、ケハテ族があかしの箱に直接ふれることも、見ることもなく運ぶことができました。それで彼らが死なずに済んだのです。しかし後の時代になると、あかしの箱は人目に触れるものとなり、またそのまま運ばれるようになりました。それは良いことなのか、悪いことなのか。皆さんはどう思われるでしょうか。あかしの箱。宥めの蓋。神が人間と出会ってくださる地上で最も聖なる場所。そこでは大祭司が罪の贖いのための血が振りかけてられていた。何重にも覆い隠されていたこのあかしの箱が、後に人目に触れるものとなりました。本来は、「最も聖なるもの」を見て生きている者はいなかったのに…。あかしの箱が人目に触れるものとなった。それは神の人間に対する愛とあわれみによるものであり、恵みのあらわれではないでしょうか。

神はシナイ山においてモーセにご自身についてこう言われました。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である」(出346-7)。まことに神は恵み深く、あわれみ深く、怒るのに遅いお方。赦されるお方。しかし神は永遠の昔から少しも変わらずにまことに聖いお方であり、人に侮られるようなお方ではない恐れられるべきお方だということが、あのウザの事件を通しても私たちに明らかに示されたのではないかと思うのです。この大切にされ守られるべき真理が壊されることがないように、また壊した本人が死んでしまうことがないように、神はここに厳しい警告と注意を示されたのでしょう。

臨在の机、燭台、金の祭壇(香壇)の運搬

7節から12節は、臨在の机、燭台、金の祭壇(香をたく壇)の運搬方法についてです。祭司たちは、臨在の机も、青色の布を広げておおいます。その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のための瓶を載せ、常供のパンを置いた後、再び緋色の撚り糸の布でそれらをおおいます。最後に、じゅごんの皮の覆いでもう一度おおいました。それを担ぎ棒で運びます。

続いて燭台の運搬法についてです。まず、青色の布で燭台とともしび皿、芯切りばさみ、芯取り皿、油のためのすべての器具をおおいます。それをじゅごんの皮の覆いでおおい、担ぎ台に載せて運びます。

金の祭壇は青色の布でおおい、それをじゅごんの皮の覆いでおおって担ぎ棒で担いで運びます。

残りの「聖所で務めに用いる器具」も、まず青色の布の中に入れ、それをじゅごんの皮の覆いでおおい、担ぎ台に載せて担いで運びました。

祭壇の運搬

13〜14節では、庭の全焼のささげ物の祭壇の運搬も、ケハテ族の責務であったことが分かります。その手順として、まず祭壇から灰を除いた後、その上に紫色の布を広げます。続いてその布の上に祭壇で用いる備品、火皿、肉刺し、十能、鉢を載せます。それをじゅごんの皮の覆いでおおったら、担ぎ棒で担いで運びます。

このように、アロンの指導の下、祭司たちが会見の天幕のすべての器具を覆いでおおい、ケハテ族が担いで運びました。

器具の運搬時の注意事項

そして、15、16節では、神がこのように聖所と聖所のすべての用具をおおうべき理由を語られます。それは、ケハテ族が聖なるものに触れて死ぬことがないようにするため、触れるどころか、聖なるものを見て死ぬことがないためでした。これは17〜20節でも繰り返し記され、強調されています。

ケハテ族のための注意事項

4章17節      主はモーセとアロンにこう告げられた。
4章18節      あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。
4章19節      あなたがたは彼らに次のようにして、彼らが最も聖なるものに近づくときに、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが入って行き、彼らにそれぞれの奉仕と、運ぶ物を指定しなければならない。
4章20節      彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死ぬことのないようにするためである。」

たとえレビ人であっても、最も聖なるものに触れたり見たりするなら死ぬことになる。ですから、ケハテ族がレビ人のうちから絶えることがないように、祭司たちが聖なるものを何重にもおおうのです。そして適切な指示を与える。それからケハテ族が運ぶ。当然ながら、梱包し指示を与える側にもみことばに対する恐れと忠実さが求められます。奉仕者のいのちを守るために。

ケハテ族にとっても、最も聖なるものに関する責任を任されることは、尊い務めでした。目立つ、やりがいのある仕事でした。しかし彼らは、誇りを持つことはあっても高ぶることはできないのです。聖なる神に近く仕えるために、モーセとアロンが告げる主の定め、主が命じられること、主のみことばに注意深く聞き、聞くだけではなく、誰よりも誠実に、誰よりも徹底して、決して自分の分を越えずに従う必要がありました。

いのちを生かす神のことばに聞き従う

ここまで見て来ましたが、改めて考えてみましょう。それぞれの聖なる物をどのように包んで、どのように運ぶのか。私たちはそれを知る必要があるのでしょうか。また、包んだ物を動かす方法など知らなくても、実際にこの現代において信仰生活を送って行くのに問題はないように思われるかもしれません。神がこれらのことを聖書に記録された理由は何なのでしょうか。

その理由こそが、聖なる神に近く仕える私たちこそが、そのことにおいて高慢にならず、私たちこそが聖なる神を恐れ、身を低くして主のみことばに注意深く聞き、徹底して主のみことばに正しく従うことです。私たちが神の愛、あわれみ、恵みに対して高慢になり、神への恐れを失い、越えてはならない境界を越え、してはならないということをしてしまい、しなさいと言われることをしないで死んでしまうことがないために。これはケハテ族だけのことではありません。すべてのイスラエルの諸部族も、人間が神に取って代わろうとする時、つまり神を無視し、みことばに不従順になり、神の定められた秩序を無視し、権威に逆らい、自分勝手に生きる時に、危険と死の対象となってしまうのです。それはこの後のイスラエルの民の荒野の旅を見て行く時に明らかになります。そしてパウロはそれを「終わりの時を生きる私たちに対する教訓だ」と言っています。イスラエルの民の真ん中で、レビ人たちが聖なる神を恐れ、聖なる神のみことばに忠実に、神の幕屋に仕える奉仕の姿は、神の聖さ、恐れられるべき神、みことばに聞き従うことの重要性。みことばに従順に、忠実に聞き従うことにより、個人、氏族、部族、そして群れ全体のいのちを守るのだということを、民全体に、また私たちに知らしめるものでした。

また、聖なる神に近く仕えるケハテ族には、それがついうっかりであれ、あるいは知っていながらであれ、むやみに聖なるものを見たり触れたりして死ぬことがないようにするために、神はモーセとアロンにみことばを与え、モーセとアロンはそれを彼らに教えたのです。それは彼らを束縛するためではなく、いのちを守るための神のあわれみでした。同じように、神は私たちがついうっかりであれ、あるいは知っていながらわざとであれ、私たちのいのちを生かす神のみことばに背き、大切ないのちを失ってしまうことがないように、神を恐れ、神のみことばにしっかりと聞き、またそれを徹底して従うことの必要性をここに示してくださっているのです。それもまた、私たちを束縛するためではなく、私たちのいのちを守るための神の愛とあわれみです。

それにこの「危険」について、私たちがはっきりと覚えておかなければならないのは、イスラエルのただ中に聖なる神がおられること、それゆえの死の脅威があるというのは、モーセが神の愛と恵みを信頼して必死に訴えかけたとりなしの祈りの結果だということです。金の子牛事件で、神の民が神に対して罪を犯し、神が神の民から離れ去ろうとした時に、モーセは神がともにおられなければ、危険な荒野の旅は絶対に無理だとして、神の愛とあわれみと約束に訴えかけ、必至にとりなし祈り、「主よ、見捨てないでください。ともにいてください。守ってください。導いてください」とすがりついて祈り、神はついに譲歩され、神の方から歩み寄ってくださり、イスラエルのただ中に臨在してくださったのです。この地上で最も聖なる場所、神の臨在、幕屋が、神の赦しによって神の民の真ん中に置かれたのです。その結果、聖なる神の恐ろしさ、死の脅威がイスラエルのただ中にあるのです。つまり、神が非常に危険な重荷を彼らに一方的に負わせたのではなく、人間の側が求め、そして神のあわれみと譲歩によるものなのです。だったら求めた側は、もっと感謝して、へりくだって、神を喜んで恐れ、神に喜んで仕え、神のみことばに喜んで従順に聞き従うのではないでしょうか。危険であるかもしれない。しかし神が彼らの中にいることによってのみ、彼らには未来があるのです。守りと導きがあるのです。旅の終わりがあるのです。

今一度覚えたいと思います。私たちはレビ人として神の働きを担うように召された者たちであることを。肩に担ぎ、重荷を負うために召された者たちであることを。神に近く仕え、神のための働きはまことに栄光あるものですが、決して簡単ではありません。それは重い荷物を負わされた苦難の道かもしれません。涙の道かもしれません。しかしイエス様は、ご自分について来たいと思うなら、自分の十字架を負ってついて来なさいと言われたではありませんか。

では、私たちが神の働きを担うためには、どうすれば良いのでしょうか。

神はケハテ族のうち、会見の天幕での奉仕をすることのできる30歳以上50歳までのすべての者の頭数を調べるように命じられました。他の氏族、ゲルション族とメラリ族も、30歳以上50歳までの者だけが会見の天幕での仕事をすることができました。これは神に近く仕える者とされている者は、単に肉体的な力や溢れんばかりの情熱だけではなく、信仰の成熟や豊かな経験、人格、知識も備えられていなければならないということでしょう。教会の様々な働きも、力や勇気や情熱だけではなく、成熟した信仰、豊かな経験、それは赦しの経験の積み重ねでしょう。何度も経験する神のあわれみ、赦しの経験の積み重ねによって練られた品性、謙遜を身につけ、神をまことに恐れるという真の知識、知恵を基盤、土台とするべきではないでしょうか。そして私たちは、神の働きを担うときには、神への敬虔な恐れをもって、ただ神のみことばどおりに、神の方法に従って行わなければなりません。神のみことばは、私たちを殺すものではなく、死から守るもの、いのちを与えるものです。神のみことばを愛し、見つめ、注意深く聞き、そして従う者とさせていただくのです。

より確かな恵み

もう一つ、ここで私たちが教えられることがあります。

ケハテ族の奉仕者は、祭司によってあかしの箱や聖なるものに覆いがかけられることによっていのちが守られました。祭司によってあかしの箱や聖なるものに覆いがかけられることによって、神に最も近付き、神に仕えることができました。そして、今の私たちにはより確かな恵みがあります。

「おおう」と訳されているヘブル語は、他に「身を包む、衣服を着せる、着飾る、隠すという意味を持ちます。これを聞いて思い起こされるみことば、神の約束は「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(ガラ327)というみことばでしょう。私たちが今、こうして神に近づき、神を礼拝し、神と親しく交わることが許され、神に守られ、神の祝福をいただくことができるのは、ひとえにイエス・キリストの恵みによるのです。イエス・キリストによっておおわれることによって、神が人間と出会ってくださる地上で最も聖なる場所に立つことができるのです。聖霊が私たちのうちに住まわれているのです。私たち自身が地上で最も聖なる場所とされているのです。この恵み、幸い、信じられるでしょうか。

今、神が私たちのただ中にいてくださる。私たちとともにいてくださるのは、大祭司イエス・キリストによる必死のとりなしの結果です。そして神の御子であられるイエス・キリストご自身が、私たちの贖いとなってくださった。この地上で最も聖なる場所において、ご自身の肉体を割かれ、いのちそのものである血を注がれたゆえに、私たちの罪が赦され、神の怒りが宥められ、仕切りの幕、隔ての壁は取り除かれ、まことに聖であるがゆえに危険な神に近く仕えることができる者とされている。神と親しく交わることが許されている。神が私たちの内に住まわれる。しかしやはり忘れてはならないのは、私たちにとって神は愛であり、あわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代にまで保ち、咎と背きと罪を赦すお方。それは間違いない事実ですが、しかし同時に、まことに聖であり、罰すべき者を必ず罰する恐れられるべきお方であるという重要な真理を忘れてはならないのです(出346-7)。ですから私たちがなおのこと覚えておくべきことは、私たちが死なないためには、神を無視しないこと。神を恐れ自分勝手に生きないこと。神を恐れ分を越えないこと。それはつまり、みことばに注意深く聞き従うことです。神のみことば、神の命令、戒め、また約束が、私たちを生かすのです。神のみことばが私たちを生かすいのちなのです。私たちのいのちを生かす神のみことばに聞き従い、時に聞き従うことに辛さを覚えとしても落胆せず、最後まで諦めずに耐えて、祝福の地、約束の地、神の国に至る者とならせていただきましょう。永遠のいのちに与らせていただきましょう。父なる神は、神の子とされている私たちのいのちがこの地上でも守られ、この地上の旅路においても永遠のいのちに生きることを心から望まれています。よろめきながら、迷いながら、傷つきそうになりながらご自身のもとに向かって来る私たちを、何とか無事に迎えようと、約束の地、天から目を注ぎ、聖霊で満たし、時にかなったみことばを与えてくださる。その大きな愛、深いあわれみ、それゆえの厳しさ、恐ろしさなのです。今朝、私たちは本当に守られるべき大切な真理を覚えたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す