2016年2月28日 主日礼拝「最後の晩餐」

本日の聖書箇所
マタイの福音書26章17〜29節
説教題
「最後の晩餐」
今週の聖句
「これはわたしのからです。……これはわたしの契約の血です。」
(マタイ26章26〜28節)
 
訳してみましょう。
1775 Those who know Jesus are never alone.
(イエス様を知っている人は、決して一人ぼっちではありません。)
1776 Gone my transgressions, and now I am free…all because Jesus was wounded for me.—W.G.Ovens
(私のそむきの罪は過ぎ去り、今私は自由です。すべてイエス様が私のために傷つかれたからです。)
 
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説教メモ
今日から5週間は、イエス様が十字架に向かわれ歩まれたところを見てまいります。
そして、今年のイースターは3月27日です。その日はイエス様のよみがえりのところを見てまいります。
本朝は「最後の晩餐」のところを見てまいりましょう。
イエス様は様々な奇跡をなさいましたが、そのたびごとに「誰にも知らせるな。」とおっしゃいました。それは、ご自分の時、十字架の時がまだ来ていないために、あまり騒がれたくないというお考えがあったからです。
しかし、本朝の場面に至りますと、いよいよその時が来たのだということをおっしゃっています。

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネ13:1)

「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので」神さまが定められたその時が来たのだということを自覚されています。その中で最後の晩餐が行われていきます。
マタイの福音書26章17〜29節は、3つに分けることができます。

  1. 過越の食事の用意のこと
  2. ユダの裏切り
  3. 過越の食事

イエス様が公生涯において、弟子たちと過越の食事をともにするのは、これで3回目になります。過去の2回は福音書に記されていません。
過越の食事は、ユダヤ人にとってとても大切なことでした。
その起源は出エジプト記12章1〜14節をご参照ください。
約400年に渡ってエジブトの王パロの奴隷であったイスラエルの民が、エジプトから解放される時が来ました。当時のエジプトは世界最強の軍隊を持ち、パロを絶対専制君主とする国家でした。その絶大な力を誇るエジプトからイスラエルの民を救い出すために神が取られた方法は、エジプトの地のすべての初子を打つというさばきでした。神さまは、父祖の家ごとに傷のない羊をほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱とかもいに、それをつけた家々にいる初子は、滅びのわざわいが起らないとしました。そして14節「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」と主が語られました。これが過越の祭りの起源です。
神さまの教えは、「あなたがたはそのことを決して忘れてはいけない。」ということでした。なので、ユダヤ人たちは代々この祭りを守ることにより、子々孫々に伝え教えられてきました。今でもユダヤ人は過越の祭を守っています。
過越の食事に必要なものは、焼いた羊の肉、種(イースト菌)を入れないパン、そして苦菜です。
この食事の用意をどこでしたら良いのかと、弟子たちはイエス様にたずねました。すると

イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。』と言っておられる。」と言いなさい。(マタイ26:18)

このように指示を出され、弟子たちは言いつけられたとおりに過越の食事の用意をしました。そして

夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。(マタイ26:20)

過越の食事が始まりました。
続く21節からは、ユダの裏切りのことが記されています。

みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」(マタイ26:21)

弟子たちは驚き、悲しみました。

「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:22〜24)

この時点でイエス様は誰が裏切るか知っていました。

すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。(マタイ26:25)

「いや、そうだ。」イエス様がおっしゃったこのおことばは、ユダ以外の弟子たちには聞こえなかったのではないでしょうか。ユダも、まさか自分ではないだろうと思っていたのでしょう。ところが「おまえだ。」と言われたのです。ユダはこの後、立ってその場を去って行きます。
ユダが裏切るには、布石がありました。

そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。《すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。(マタイ26:14〜16)

ユダはすでに銀貨30枚を手にしていました。そしてイエスを引き渡す機会をねらっていたのです。
それなのに、なぜ「主よ。まさか私のことではないでしょう。」と言ったのでしょうか。サタンの企みは実に巧妙です。ユダ自信もまさか自分ではないだろうと思っていたことに違いないと思います。ユダは誘惑され、罪に陥れられてしまったのです。
ここでユダが言っている気になる箇所があります。他の弟子たちはみな「主よ。まさか私のことではないでしょう。」と言っているのに対し、ユダだけは「先生。まさか私のことではないでしょう。」と言っています。
イエス様との関係が明らかにされる瞬間は、やがて全ての人が迎えるものですが、その時主より「あなたを知らない。」と言われない人は幸いです。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:26〜28)

これは、過去2回の過越の食事の時には語られなかったことです。これで最後の食事、最後の過越の食事ということで、このことを言われました。

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マタイ26:29)

天国での再会のときまで、ぶどうの実で造った物を飲むことはないとおっしゃっています。
福音書は4つあります。その中の、マタイ、マルコ、ルカの3福音書は「共観福音書」と呼ばれています。
ユダヤのカレンダーではニサンの月(第一の月・正月)があります。その14日の午後に子羊をほふり過越の祭を行いました。日没後、つまり日付が変わった15日に、過越の食事という順番になります。ユダヤのカレンダーは日没から新しい一日が始まるからです。ただ、ヨハネの福音書を見ると、この最後の晩餐が行われたのは、過越の祭の前だと言っています。

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネ13:1)

ここが他の共観福音書と異なる点ですが、さほど大きな違いではないでしょう。
ところで、最後の晩餐の場面の絵画や彫刻などご覧になったことがあるかと思います。そのシーンはまさに「主よ。まさか私のことではないでしょう。」と弟子たちがたずねたそのシーンです。
ユダが裏切って出て行った後、イエス様は聖餐の式を定められました。聖餐式は、私たちの教会で執り行われる聖礼典のうちの1つです。
私たちは聖餐式にあずかるたびに、イエス様の十字架を思い起こします。イエス様が十字架にかかられ死なれたということは、なんだったのでしょうか?
なんで死なれたのでしょうか。
死そのものはなぜ存在するのでしょうか。それは「罪が支払う報酬が死」だからです。私たちが「救われている」というのは、「罪から救われている」ということです。イエス様が十字架で死なれたのは、罪に対して死なれたのです。そのことだけを見ると「敗北」です。十字架上でイエス様が死なれた時、一番喜んだのはサタンでしょう。しかし、イエス様は3日目に復活されました。サタンの喜びもつかの間、死に勝利されたのです。

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3:15)

これは「原福音」と呼ばれるところです。アダムとエバが罪を犯し、この世に罪が入り込んだ瞬間から、神さまはこの約束を用意してくださいました。
サタンに対し、神さまがおっしゃられたことです。
「わたし」とは神さま、「おまえ」とはサタン、「女の子孫・彼」とはイエス・キリストです。サタンは彼のかかとにかみつき、一瞬の勝利を得たように見えますが、イエス・キリストはサタンの頭を踏み砕きます。完全な破壊、つまり全滅させます。サタンの全面的な敗北となるのです。
主は私たちの罪の解決のために十字架に架かられました。私たちは十字架の血により贖われた者たちです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

私はいつも「十字架」を思うとき、このみことばを思い起こします。
私たちひとりひとりがこの証をもって、この世でまだ救われていない多くの魂に福音を宣べ伝える者となれるよう、勇気、力を祈り求めてまいりましょう。
次週以降はさらに十字架へ歩まれるまでを見てまいります。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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