2016年3月13日 主日礼拝「不当な裁判」

本日の聖書箇所

マタイの福音書26章57節〜27章31節

説教題

「不当な裁判」

今週の聖句

「キリストは、罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」

ペテロの手紙第一2章22節
 
訳してみましょう
1779 If you give in to God, you won’t cave in to sin.
(もしあなたが神にささげるならば、あなたは罪に屈服することはないでしょう。)
1780 We poison the well when we don’t think well of God’s goodness.
(私たちが神の良くしてくださったことを良く考えないならば、私たちは井戸を汚染します。)
 
20121106_134914説教メモ
私たちは人々に誤解されることがあります。誤解され、一方的に悪く思われてしまう。そんなとき、みなさんはどうされますか?ご自身の潔白を証明するために、あらゆる努力をすると思います。しかし、本朝の箇所では、イエス様はそのようになさいませんでした。裁判の間中、何の申し開きもしませんでした。本朝はイエス様のそんな態度から学んでいきたいと思います。
3つのこと

  1. ユダヤ人による裁判
  2. ペテロとユダ
  3. ローマ側による裁判

 
イエス様はゲッセマネの園で捕えられました。そして裁判にかけられました。そのユダヤ人の権威ある者たちによる宗教的な裁判は不当なものでした。さらに、ローマの権威者によって審議の妥当性がはかられました。聖書をみると、その裁判は名ばかりのもので、真実が曲げられたものであったことが読み取れます。ご自分が創造されたこの世、そして人間の手によって神ご自身が裁かれたのです。この時点で、だれもかれもイエス様が神であられることを忘れてしまっていました。これが人間の根本的な罪深い状態ではないでしょうか。
今週の聖句にもありますとおり、イエス様は神の子であって、罪を犯されたことはありませんでした。
イエス様は私たちの模範です。特に苦しみの中にあっての模範は、私たちはそこから学ぶことが多いと思います。イエス様はことばにも行いにも罪は犯しませんでした。それゆえに神さまは、一人子イエス・キリストを愛されました。イエス様は神さまに愛されていながらも、この世にあって苦しみや悲しみの中を通られるイエス様の姿を私たちは見ています。

ユダヤ人による裁判

人を死刑にすることはそう簡単なことではありません。厳粛な裁判が必要です。
当時のイスラエルは律法があり、法治国家だったこともあり、裁判が行われました。ローマの支配下ではありましたが、宗教的な裁判はユダヤ人に権威が与えられていました。そこでまず、ユダヤ人による宗教的な裁判が行われました。
聖書を読んでいきますと、裁判は全部で6回行われました。ユダヤ人による裁判が3回、ローマ側による裁判が3回です。

イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。(マタイ26:57)

当時の大祭司はカヤパでした。しかし勢力を維持していたのはカヤパではなく、前の大祭司であり、義父のアンナスでした。そしてアンナスが非公式の1回目の裁判を行いました。(ヨハネ18:12〜24)
それに次いでカヤパとサンヘドリンの議員による2回目の裁判が行われました。それは非常に簡単な略式な告訴でした。その内容は「神を冒涜した罪がある」でした。

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。」(マタイ26:64)

「あなたの言うとおりです。」これを直訳すると「あなたがそう言った」という意味なります。つまり、「わたしはそのような言い方はしないけれども、あなたの言うことは否定しない。」とイエス様はおっしゃいました。
不当な裁判となる一つの理由、それは、この裁判が「夜中に行われた」ということです。それは当時では考えられないことでした。
さらに3回目の裁判は、夜明けとともに議会を招集して行われました。これもおかしなことなのです。さらに、逮捕されて即刻裁判が行われるということもあり得ない不当ことでした。しかしサンヘドリンの議会はその逮捕後即裁判を決定し、神を冒涜する罪の裁判を行いました。
ご存知のようにサンヘドリンとは「七十人議会」と呼ばれるユダヤでは最高権威の組織でした。ユダヤの最高裁判所です。そこではすべての宗教的、神学的な裁判が行われていました。その最高裁判所で行われたイエス様の裁判は、正式な手続きを欠いた不当な裁判でした。夜中の逮捕、夜中の裁判、そして死刑が予測される評決は裁判と同じ日にはできないという法律もありました。通常の裁判は、最初の裁判から3日後に正式な評決が下されることになっていたのです。さらに判決は70人の議員の一番若い者から年長へと順番に有罪、無罪の投票をしていくことになっていました。しかしここでのイエス様に対する判決には、そのような一連の正式な流れを欠いていました。このように、ユダヤ側による裁判は、当時のしきたりにも従っていない、本当に不当な裁判だったことが分かります。
そんな不当な裁判の中、イエス様はどうされてたのでしょう。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:7)

彼は口を開きませんでした。イエス様は口を開きませんでした。このイザヤの預言が成就したのです。
「あなたは誰であるのか?」という問いかけに対し、いのちの危険を冒してまでもはっきりとお答えになりました。

しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」(マタイ26:63)
イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。」(マタイ26:64)

サンヘドリンの議員たちはここで「イエスが神の子キリストである」のか、「神を冒涜する罪人である」のかの二者択一を迫られました。そして後者を選んだのでした。
議員70人のうち、68人はイエス様が神の子キリストであることを認めませんでした。しかし残りの二人はイエス様を信じていました。福音書をみるとそれが分かります。密かにイエス様を信じていた人たち、それは「ニコデモ」と「アリマタヤのヨセフ」です。しかし彼らを含めた議員たちは、不当な裁判によりイエス様を神を冒涜する者であると決定づけてしまいました。
 

ペテロとユダ(マタイ26:69〜27:10)

ここには「ペテロの躓(つまず)き」と「ユダの後悔」が記されています。
ペテロは自分の言葉の訛(なま)りから、イエス様の弟子達の仲間ではないかと疑われ窮地に立たされました。

ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。(マタイ26:69〜75)

ペテロはイエス様をのろいをかけて否定しました。そしてすぐに自分の失敗に気づきました。ペテロは激しく泣きました。それは「悔い改めの涙」でした。ペテロはイエス様を否認することを通し、人間の罪深さを悟り、本当の悔い改めへと導かれました。
ペテロとユダの違いがここにあります。
ペテロに対して、イエス様はこのようにおっしゃっていました。

「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

ペテロは十二弟子たちのなかで最も責任のある立場でした。ですからイエス様はペテロにこのことを託しました。
ペテロだけを責めることはできません。他の十人の弟子たちもみな、イエス様を見捨てて逃げてしまったのですから。
ペテロは立ち直りました。そして復活の主に出会い、ペテロは用いられていくことになります。
ペンテコステの日、ペテロは立って大声で演説をしました。

そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。(使徒2:14)

そして次のように叫び、人々にその罪を迫ったのです。

あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。(使徒2:23)

ペテロはこの時、自分の裏切りを思いながら語っていたのだと思います。
「あなたがたが十字架につけたのだ。ーーそこに私もいたのだ。」主は私たち一人ひとりの罪のために十字架に架かって死んでくださったのだ。このように語りたかったのではないでしょうか。
4福音書はすべてペテロの失敗の記事を記しています。そのことから察するに、ペテロは自分の失敗を人々に語っていたのではないでしょうか。特にルカは多くの人への取材をもとに福音書を書いています。ルカはペテロの口から直接そのことを聞いたのではないかと思います。
ペテロが語ったメッセージは、自分もイエス様を十字架にかけた一人なのだと告白するメッセージだったのだと思います。
大変な過ちを犯してしまったけれども、神さまは赦してくださいました。さらに、立ち直った者の立場から他の人を励ます者として用いられるようになりました。
さて、ユダはどうだったのでしょうか。
ユダは失敗の後に、後悔し、自殺をしてしまいました。ユダは自分が予想していなかった方向にことが進んで行くのを目の当たりにしました。ユダの想像以上のことが起こり、ユダ自身驚いていたと思います。ユダはイエス様を売って手にした銀貨30枚を返そうとしましたが、祭司たちは受け取りませんでした。ユダは仕方なく神殿の中に投げ捨てました。ユダは自分がしたことを後悔しました。しかし、ユダは後悔しただけで、悔い改めてはいませんでした。イエス様はユダに対し、ペテロと同じ悔い改めを求められていたのにもかかわらず、彼は、ただ自分がしたことを後悔しただけでした。悔い改めていたならば、きっと主の赦しがあったことでしょう。
ここがペテロとユダの違いです。
 

ローマ側の裁判(マタイ27:11〜26)

当時のユダヤは、政治的にローマの支配下にありました。ローマ兵がいつもカイザリヤに駐屯していました。カイザリヤとは、ローマが作った地中海に面した都市です。エルサレムからは少し離れていましたが、ピラトはこの時、カイザリヤからエルサレムに来ていました。そして彼は総督としてローマから派遣されていたので、裁判ではローマ側の代表となりました。
当時ユダヤはローマの支配下にあるという状況にあったので、人を死刑にすることはできませんでした。ですからサンヘドリンの議会は、イエス様を死刑に処するためにはどうしてもパレスチナの行政長官であった総督ピラトの元に送ることが必要だったのです。この時、ピラトの官邸が近くにあり、ピラトはその官邸に滞在していました。そしてピラトは裁判の席につきました。
ユダヤの宗教家たちは、イエス様の死罪を獲得するために、様々な偽証をしました。しかしその証拠は見つかりませんでした。そのような状況ですから、ピラトはイエス様の無罪を認めざるを得ませんでした。

そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わ たしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」(ヨハネ18:37〜38)

ピラトはイエス様に問われました。イエス様は答えました。

「そのとおりです。」

このおことばは、前述のカヤパに対する返答と同じものです。「わたしはそのような言い方はしないけれども、あなたの言うことは否定しない。」
イエス様は神の国の王ではありましたが、この地上での王ではありませんでした。
ピラトはイエス様がガリラヤの出身であることが分かると、ピラトはその判決をヘロデに委ねることにしました。ヘロデとはガリラヤを統治していた者ですが、この時ちょうどエルサレムに来ていました。ヘロデは夜中に起こされ、彼の邸宅において二度目の裁判が行われました。しかし、ヘロデはイエス様の判決をくだすことができずに、もう一度ピラトのもとに送り返しました。ヘロデもまたイエス様の罪を認めることができなかったからです。
そしてイエス様はピラトのもとに送り返され、三度目の裁判が行われました。

ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」(ルカ23:13〜16)

当時のしきたりにより過越の祭りの最後には「恩赦」という、一人の罪人を赦すというものがあり、ピラトはその特権を手にしていました。
ピラトは群衆がこの恩赦をイエス様に与えるだろうという希望的観測がありました。ですから祭りの最後の恩赦を利用して、イエス様を釈放しようと努力しました。しかし、群衆の勢いに押し切られ、ピラトは無実のイエス様を十字架の刑に引き渡してしまいました。ピラトは自分の身かわいさによる判決です。もしここで「イエスは無実だ」ということになれば、祭司長たちに扇動された群衆たちによる暴動が起こると予想されました。暴動が起こってしまうとピラトの総督としての立場は苦しいものになってしまいます。ピラトは仕方なく、イエス様の死刑を確定してしまったのです。ピラトの弱さの表れです。
私たち一人ひとり自分の内に、ピラトが犯したような罪がないでしょうか?
正しいと分かっていながらも、他の声に押し流されて間違ったことをしてしまうことがないでしょうか。
または群衆が犯したような罪はないでしょうか?
自分の意思を度外視し、他の人皆がそう言っているからと、自分も賛同してしまう。そういったことはないでしょうか?
さらにまた、権力者たちが犯したような罪はないでしょうか?
私たちの周りには様々な声が聞こえてきます。世間の声、自分の声などです。その中に神さまのかすかに聞こえる声があります。
私たちはどのようにしたら、神さまの声を、本当の正しさを選びとり、それを実行することができるのでしょうか。どのような判断をしてきたのか、また判断していくのでしょうか。
そのことを自分のうちに自問してください。
ペテロは復活の主とお会いし、立ち直ることができました。全部お見通しのイエス様は、ペテロを立ち直らせてくださり、さらに指導者に立ててくださいました。そこにはあわれみがありました。

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