2016年3月20日 主日礼拝「十字架の上で」

本日の聖書箇所

ルカの福音書23章26〜56節

説教題

「十字架の上で」

今週の聖句

…「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」…

(ルカの福音書23:34)
 
訳してみましょう
1781 To ease another’s burden, help to carry it.
(他の人の重荷を軽くするために、それを運ぶのを助けなさい。)
1782 Feeding your faith will starve your doubts.
(あなたの信仰を養うことは、あなたの疑いを飢えさせます―疑いを無くします。)
 
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説教メモ
冒頭に次のみことばを見てみましょう。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)

ここで「十字架のことば」とありますが、本朝取り上げますイエス様が十字架の上で語られたおことばのことばかりを指すのではありません。パウロはコリントの人々に「十字架のことばは」と書いていますが、これは「福音全体」を指して語っています。「イエス様を通して語られた福音は」ということだと思います。
本朝はその中で最も大切な、イエス様が十字架の上で語られた意義深いいくつかのおことばを中心に見てまいりたいと思います。
本朝の聖書箇所(ルカの福音書23章26~56節)もいくつかに分けてみることができます。

  1. 十字架のもとに佇む女たち(23:26~31)
  2. 二人の犯罪人に対するおことば(23:32~43)
  3. 応答する人たち、イエス様の遺体を引き取ったヨセフやニコデモなど、そういった人たちのこと(23:44~56)

 
今日の聖書箇所には、クレネ人シモン、大勢の民衆、嘆き悲しむ女たちの姿、二人の犯罪人、十字架刑を執行した人たち、指導者たち、ローマ兵たちが登場します。
私たちはこの登場人物のどれに属するでしょうか? 少し考えてみてください。
 

1.十字架のもとに佇む女たち

彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。(ルカ23:26)

クレネ人シモンという人物が突然登場します。そしてただ祭りに訪れていただけのはずの彼は、イエス様の十字を強制的に負わされ、そして運ばせられました。このシモンという男は幸いな人物です。主の十字架を代わってかついであげられたのですから。こんなかたちで救い主と出会ったのですが、聖書に彼の名前が記され、教会の歴史に名を残していることから、後にこのシモンは救われたのだと思います。イエス様を信じる者へと変えられていったのではないかと推測します。
イエス様の背負った十字架ですが、当時の書物を見てみると、縦の木はすでに刑場であるゴルゴタの丘に立てられていました。イエス様は十字架の横木だけを背負われました。ゴルゴタの丘に続く道は、「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」と呼ばれ、約800mの曲がりくねった比較的なだらかな坂道です。その道をイエス様は十字架の横木を背負わされ歩かれました。イエス様は前夜から一睡もしていません。疲れきっていました。しかも鞭に打たれ痛めつけられていました。苦しみと衰弱状態にあったことは明らかです。そこで仕方なく、通りがかりのクレネ人・シモンに十字架の横木を代わりに背負わせたのはそのためでした。
エルサレムの女たちも、イエス様の苦しみを嘆き悲しみながら、あとをついて行きました。その女性たちにイエス様はおことばをかけられました。

しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『上妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」(ルカ23:28~31)

イエス様は、わたしのことよりも自分たちのことを心配しなさい、エルサレムはやがてローマ軍によって破壊され、滅ぼされるのだから。このことはAD70年に実際起こりました。イエス様はそれを先取りされたかのように、ここでおっしゃっています。
当時の歴史を見てみると、それはとても悲惨な状態でした。ローマの兵隊たちはユダヤ人たちを「兵糧(ひょうろう)攻め」にしました。つまり、食物のルートをすべて断ったのです。ユダヤ人たちはしばらくは生きながらえたものの、やがて当然、飢餓状態になりました。餓死する者たちが大勢出ました。女たちは、子どもたちから食糧を奪い、さらには子どもたちの肉を食べ血を飲むといった、本当に悲惨な状況となったのです。イエス様が預言されたことが、このように実際に起こりました。

彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。(ルカ23:31)

もしローマの権威が、生木である無実なわたし(イエス様)にそのようなことをするなら、枯れ木であるユダヤ人たちにはもっとひどいことをするだろうと、イエス様は言われました。
 

2.二人の犯罪人に対するおことば

それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ53:12)

イザヤの預言がここにあります。この預言のとおりになりました。
イエス様が十字架を背負って登った丘は「どくろの丘・ゴルゴタ(アラム語)・カルバリー(英語)」と呼ばれていました。地形がガイコツに似ていたからだと言われています。
その不気味な形をしたどくろの丘で、イ午前9時頃から午後3時頃まで、約6時間ものあいだイエス様は十字架に磔にされていました。
その6時間の間に、イエス様は7つのおことばを語られました。これはあとで見てまいります。そのうちのいくつかを、ルカはこの福音書に記しています。

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。(ルカ23:32~38)

イエス様の他に、二人の犯罪人も十字架に架けられました。

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。(ルカ23:39)

ひとりの犯罪人は「おまえが本当に神の子ならば、自分を救ってみろ。そして俺たちも救ってみろ」と、イエス様をののしりました。しかし、それを聞いていたもうひとりの罪人は言いました。

ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:40~41)

この犯罪人は、もうひとりの犯罪人をたしなめてこのように言いました。イエス様のことが分かったのです。そしてイエス様に次のように言いました。

 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

「こんな罪人である私が、あの時あなたの隣りにいたということを、どうか思い出してください。それだけで良いのです・・・。」犯罪人はこのように言うのが精一杯だったようです。ところが彼の思いとはかけ離れた恵みのおことばを、イエス様はその犯罪人に対して語られました。

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

この犯罪人はこの時、救われたと思います。
十字架を前にして、弟子たちはみな逃げてしまいました。そんな状況の中で、同じ十字架に架けられていた一人の犯罪人が救われたということは、イエス様にとってもひとつの慰めとなったのではないでしょうか。
 

3.応答する人たち

さて、「今週の聖句」として、ルカの福音書23章34節としました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

このおことばは、イエス様が十字架上で語られた7つのおことばの、一番最初のおことばです。彼らとは誰でしょうか。具体的にはご自身を十字架に架けた人たちを指しています。
このおことばで、私ははっとさせられ、ひとつの聖書のみことばが思い起こされました。

どうか、隠れている私の罪をお赦しください。(詩篇19:12)

自分が気づいていない罪からもお赦しくださいと、詩篇の記者は祈っています。
ローマの兵隊たちは、自分たちがどんなに悪いことをしているのか、つまり、自分が犯している罪が分かっていませんでした。イエス様を十字架につけた人々はローマ兵だけではありません。群衆もみな、イエス様を「十字架につけろ!」と求めました。十字架を取り巻くすべての人たちは、自分がどんな罪を犯しているのか、自分たちが罪人であることに気づいていませんでした。そんな人たちのために、イエス様は父なる神さまに赦しを求めたのです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

イエス様は死なれる直前に、息も絶え絶えになられたその時に、このように祈られたのです。まさにこの世に来られた救い主の姿です。

そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。(ルカ23:44~45)

神殿の幕が真っ二つに裂けました。これはとても重要な意味を持っています。
神殿の構造を思い起こしてください。人々は罪のいけにえなど、様々ないけにえを携えて祭司のもとに来ます。祭司はそれを神殿で受け取ります。そして神殿の前でいけにえを屠(ほふ)り、全焼のいけにえをささげました。そして動物の血を皿に取り、祭司はそれを神殿にまきました。聖所は、聖所と至聖所の二つに分けられていました。聖所と至聖所とは幕で仕切られていました。その幕を開けて中に入ることが出来たのは、年に一度、祭司だけに許されていたことでした。つまり、普通の人はやたらと至聖所に入ることが許されていませんでした。大祭司が民の代表として、年に一度だけ入ることが許されていた、その隔ての幕が裂けたのです。これは、分け隔てがなくなったということです。恐れ多くも、誰でも神さまに近づくことが許された、そんな意味があるのです。
さらに、イエス様は午後の3時頃、絶命されましたが、午後の3時というのは、神殿でいけにえをささげる時刻でした。つまり、神殿でいけにえをささげる午後の3時に、イエス様は十字架上で死なれ、神殿の幕が真っ二つに裂けたのです。
イエス様の贖罪が暗示されているようです。
これらの出来事を見ていた人たちの中に、イエス様に何かを感じた人たちがいました。

この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。(ルカ23:47)

百人隊長はイエス様が無罪であると認めました。さらにマタイやマルコは、この百人隊長がイエス様が神の子であると認めたと記しています。

イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。(ルカ23:49~50)

最後に「アリマタヤのヨセフ」が登場します。
議員とは、不当な裁判をおこなったサンヘドリンの七十人議会を構成する人たちのことです。その中にヨセフという人がいました。そして彼はひそかにイエス様を信じていました。いわゆる当時の「隠れキリシタン」でした。七十人議会でイエス様を信じていることが知られると、苦しい立場になることは分かっていたので、公にはしませんでしたが、イエス様を信じていました。もうひとり「ニコデモ」という人もいました。ルカは彼のことを記していません。

この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。(ルカ23:51)

前回学びました「不当な裁判」の席に、この正しい人、アリマタヤのヨセフとニコデモは同席していませんでした。
神の国の到来を待ち望んでいたアリマタヤのヨセフは、大変な勇気をもってピラトのもとに行き、イエス様の死体の引き渡しを願い出ました。そして誰も葬ったことのない自分の墓をイエス様にささげ、イエス様の死体をその墓におさめました。金曜日の夕方のことです。すでに安息日が始まろうとしていました。安息日にできる行動は、律法により限られていました。
当時のしきたりからして、十字架という極刑に科せられた犯罪人が、立派な墓に葬られることなど考えられないことでした。でもアリマタヤのヨセフの勇気によって、イエス様は当時としては最高レベルの墓に納められました。

ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、(ルカ23:55~56)

続きは次週に見てまいりますが、ここまでで、多くの登場人物が現れました。
冒頭にも申しましたとおり、私たちはこの登場人物のどれに属するでしょうか? 少し考えてみてください。
 

十字架上7つのことば

4つの福音書を総合して見てみますと、イエス様は十字架上で7つのおことばを語られていることが分かります。
前半の3つのおことばは、十字架の非常な苦しみの中で発せられた、周囲の人々に対する執り成しのことばでした。
そして後半は、ご自分の使命にかかわること、また、ご自分の父なる神さまへの語りかけです。福音書によって多少の違いはありますが、ルカの福音書に記されていることは、それを優先して今日は見てみたいと思います。

  1. 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
    イエス様の執り成しの最たるものは、自らの罪をまだ自覚していない罪人たちに対する執り成しの祈りをなさったということです。自分のしていることが罪だと分かっていない人たちに対する執り成しです。「わたしは義人を招くためでなく、罪人を招くために来たのだ」とイエス様はおっしゃいました。私たちもまた、気づかぬうちに罪を犯し続けている、そんな存在です。そうした私たちのためにイエス様は祈りを持って十字架で死んでくださいました。
  2. 「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」「そこに、あなたの母がいます。」(ヨハネ19:26~27)
    十字架のもとに佇んでいた母マリヤと、愛弟子のヨハネに対するおことばでした。救い主の母となるという大きな祝福を受けたはずの母、マリヤは覚悟はしていたものの、息子であるイエス様が残酷な死に方をされるその一部始終を目の当たりにすることになります。母として本当に耐えられないことでしょう。そのマリヤへの慰めのおことばでした。
  3. 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
    二人の強盗のうちの一人は、死の直前の決断により救いの約束をされました。
  4. 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
    人間の罪を全身で引き受けられたイエス様が、確かに神から見捨てられた。それほど間違いなく私たちの罪の責任を負ってくださったということです。神さまは100%聖いお方です。その神さまが罪人である私たちをそのまま受け入れることはできません。罪の解決がなされなければなりません。それゆえに、ひとり子であられるイエス様をこの地上に送ってくださいました。イエス様は100%神として、100%人として様々な苦しみを経験されました。人としてのイエス様は、なぜこのような苦しみを受けなければならないのだと思いました。ゲッセマネの園で苦しみもだえながら祈られたではないですか。しかし、人類の贖いのために来たのだという使命を考えた時に「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」と祈りなおされました。イエス様は間違いなく聖い方です。その100%聖い「人」にしか、罪の身代わりとはなれませんでした。イエス様は100%神であると同時に、100%「人」としてこの世に降ってこられました。そして、イエス様はその使命に最後まで従われました。
  5. 「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)
    肉体的な渇き以上に、私たち人間のご自分に対する応答に「渇いて」おられます。人間の罪を背負って死なれようとしておられる方が、私たちの応答に渇いておられました。私たちの正しい応答とはなんでしょうか。それは「あなたの死は、確かに私たちの罪の身代わりです。私はあなたを信じます。」との応答です。この応答をすべての人ができるならば幸いです。でも、イエス様は「わたしは渇く」とおっしゃいました。
  6. 「完了した」(ヨハネ19:30)
    昔の訳では「すべてが終わった」となっています。「終わった」いうと敗北を感じます。ですから最近の訳では「完了した、完成した。」と言いかえられています。十字架によってすべての人が救われるための、神さまの側でなされるすべてのわざが、ここで完了した、完成したとおっしゃられました。私たちの罪からの救いは、ここで完了、完成しました。
  7. 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
    私たちの罪の贖いのためのすべてのわざを終えられたイエス様は、父なる神さまにご自身の霊をゆだねられ、静かに息を引き取られました。これ以上の苦しみから解放されたイエス様の姿がここにあります。

この十字架上での7つのことばは、ぜひ皆さん、覚えてください。
これらは私たちに命を与えることばです。
冒頭に引用しましたⅠコリントにあるとおりです。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)

 
最後に、もう一度皆さんに問います。
十字架をとりまく何人かの登場人物がいます。
クレネ人シモン、大勢の民衆、嘆き悲しむ女たち、二人の犯罪人、十字架の刑を執行した指導者をはじめ多くの人たち、兵士たち・・・。
私たちはこれらの登場人物の誰に属しているでしょうか。あるいは自分は全く関係ない存在だと思われるでしょうか。
私たちは十字架のイエス様を前にして、どのような態度をとっていくのでしょうか。
今日は棕櫚の日曜日、そして受難週がはじまります。このとき、いまいちど静かに自らをかえりみてみましょう。

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