2016年7月10日 主日礼拝「シナイ再契約」

本日の聖書箇所

出エジプト記34章

説教題

「シナイ再契約」

今週の聖句

あなたがたはわたしが、あなたがたの神、主であることを知るようになる。

(出エジプト記16章12b節)
 
訳してみましょう
1809 Good fathers reflect the heavenly Father.
(よい父親は、神聖な父を反映する。)
1810 If I am ready to die, I am ready to live.
(もし私が死ぬ用意ができているならば、私は生きる用意ができている。)
 
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説教メモ

先週は「金の子牛」についてお話ししました。なぜ金の子牛になったのでしょうか。今日の聖書箇所から言えば、「うなじのこわい民」であったので、仕方がなかったのかなと思います。直前には、ユダヤ人にモーセを通して「十戒」が与えられました。

こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。
(出エジプト31:18)

それからすぐに、恐らく一ヶ月も二ヶ月もしないうちに、イスラエルの民は金の子牛を鋳て神さまに反逆をしました。それを知ったモーセは、せっかく神さまからいただいた十戒が刻まれた石板を叩き割ってしまいました。モーセは神さまが直接その指で書いてくださった大切な板を割ってしまうほどに、心から怒りました。壊された石の板2枚はどうなったのでしょうか。
 

1.神の顕現とモーセの祷り

出エジプト記33章12〜23節に、モーセの執り成しの祷りが記されています。

今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。
(出エジプト33:13)

一人の遣いがイスラエルを先導するというだけでは不安で、神さまに「この民はあなたがお選びになった民ではないですか」と訴えました。すると神さまは、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」とおっしゃいました。そして幕屋を建てなさいと命じられます。モーセは主のご臨在こそが、イスラエルの民と他の民との違いではないでしょうか、と問いますと、神さまは「そうだ」とおっしゃいました。幕屋に神さまのご臨在とご栄光があらわされるとの約束でした。
私たちクリスチャンとそうでない方々との隔てるものは何でしょうか。違いとは何でしょうか。この世にあってその隔て、違いとは、「神さまが共にいてくださる」ということです。私たちには神さまが共にいてくださる。なんと素晴らしいことではないでしょうか。
34章に入ります。
モーセは新たに石板2枚を持って、たった一人、再び山に登りました。それが神さまのご命令でした。神さまは再契約のためにモーセの前をお通りになりました。契約の当事者であられる神さまは、まずご自身の性格を明らかにされました。それは7つ記されています。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
(出エジプト34:7)

特に特筆すべきことは、「恵みとまこと」です。
モーセは通り過ぎようとされる神さまに祈り求めます。

「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」
(出エジプト34:9)

モーセは自分たち、イスラエルの民を「うなじのこわい民」と言い、その民共にいて進んでくださるように願っています。
うなじのこわい。他の言葉で言うならば「強情」でしょう。少なからず私たちも強情な者たちです。「強情」とはどのようなものなのでしょうか。牛が御者(ぎょしゃ)の言うことをなかなか聞かず、行くべき方向に行かないことです。その場から動こうともしない時さえあります。
モーセはイスラエルの民をそのような民だと言っています。
続く34章10〜28節には、「再契約」のことが記されています。
 

2.シナイ再契約

次に神さまは、民がこれから何をすべきかを明らかにされました。民の誰も経験したことのないような奇しいこと(10節)、それは荒野で民を守り、養い、約束の地での戦いを勝利に導かれることを指しています。
この約束は、主イエスの贖いのゆえに、主の民である私たちも体験できることであります。
神さまは再契約の中で、さらに具体的なことを仰っています。これから約束の地に入る、そこにいるエモリ人、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、イスラエルの民の前から追い払う。そこで注意が与えられます。

あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。
いや、あなたがたは彼らの祭壇を取りこわし、彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。
(出エジプト34:12〜13)

カナンの地は偶像礼拝に満ちていました。その偶像を打ち砕くように命じられました。

あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。
(出エジプト34:14)

神さまの他に神々はいません。しかしこの世の人間は神さま以外のものを拝んでしまう。それが偶像礼拝です。私たちが信じる神さまは「ねたむ神」なのです。
皆さんはどのような時にねたみますか?
一般的にねたみとは、「他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む」ことです。しかし神さまのねたみとはそれとは違います。それは夫婦関係において良く分かります。愛し合っている夫婦の片方が、もし他の誰かに思いが向いていくならば、そこで人はある感情がわき起こってくるのではないでしょうか。「自分はこれほどあなたを愛しているのに!」と。
神さまはご自分の民を「こういう民であって欲しい」と願われながらこれまで進んで来られたのです。それなのにその民が神さま以外の他の神々、偶像に心が移っていくならば、神さまがねたまれるということが、皆さんにもお分かりになるのではないでしょうか。

あなたはその地の住民と契約を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。(出エジプト34:15)

これは、異邦人のしきたりに従ってはならないということです。

あなたがその娘たちをあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。(出エジプト34:16)

つまり、他民族との結婚を禁じています。
パウロはコリント人への手紙第二において、「未信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」と言っています。クリスチャンはクリスチャン同士で結婚する。日本ではとても難しいのが現状です。しかし、そのことを祈り求めていくべきでしょう。例えば未信者とのお付き合いが始まったとしたならば、相手がクリスチャンとなるように導き、それから結婚する。それは新しく信仰の友を得ることにもなりますから、とても素晴らしいことです。
神さまは、細かなところまで再契約の中で言われています。

あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。(出エジプト34:17)

金の子牛事件を思い起こしてください。
鋳物など人間の手で作られたものばかりでなく、自然界の何ものをも神としてはなりません。

あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたように、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。あなたがアビブの月にエジプトを出たからである。(出エジプト34:18)

ここでは「過越の祭」を守るように言われています。

最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。
ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。
(出エジプト34:19〜20)
あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。(出エジプト34:21)

ここでは安息日のことが言われています。
いかなる時も、どんなに忙しい時でも、7日目は安息日として守らなければなりません。

小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行なわなければならない。
(出エジプト34:22)

2つのことが書かれています。
「七週の祭り」これはペンテコステのことです。「収穫祭」はその年最後の収穫祭のことで、仮庵の祭りです。「過越の祭り」「ペンテコステ」「仮庵の祭り」。これはイスラエルの「三大祭り」となりますので、ぜひ覚えておいてください。
これは神さまとの契約を思い起こすために定められました。過越の祭りを守ることの意味を、もう一度思い起こしてください。
これらの取り決めが再契約に含められました。
何度も申しますが、イスラエルの民は430年というエジプトでの生活において、すっかりエジプト化してしまいました。偶像化してしまいました。偶像がなければ神さまが分からない。だから金の子牛を作ってしまったのです。そうではないのです。目には見えないまことの神さまだけが、神さまなのです。

あなたがたはわたしが、あなたがたの神、主であることを知るようになる。
(出エジプト記16章12b節)

このことの一端として神さまは十戒を与え、再契約をしてくださいました。
今の時代に生きる私たちも日々聖書を読み、クリスチャンであるということはどういうことなのか、それを示されながら生きていきます。決して卒業などありません。一生涯、私たちは聖書から学んでいかなければなりません。聖書は一字一句、間違いなく読んでください。聖書は何を言っているのか。正しく理解できるように努力してください。真剣に聖書に取り組んでください。

あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎをその母の乳で煮てはならない。
(出エジプト34:26)

その土地で最初に収穫された最上のものを主の家に持って行くことが言われています。その後に続く「子やぎをその母の乳で煮てはならない。」この意味は何なのでしょうか。
これは前後の文脈から見て、祭りの礼拝儀式にかかわる決まり事であることは明らかです。ここは料理の教科書ではなく、祭りのいけにえのつくりかたの定めです。子やぎをその母やぎの乳で煮る。これは当時のカナンにおける偶像崇拝のいけにえ調理法でした。そのような異教的慣例に対しての反対なのです。
 

3.光を放つモーセの顔

34章29〜35節に入ります。
シナイ山から降りて来たモーセの顔は、神さまの栄光を反映して光り輝いていました。彼はイスラエルの民を呼び寄せて、主がシナイ山で告げられたことをことごとく彼らに命じました。ここには記されていませんが、イスラエルの民はそれを聞いて、喜んで受け入れたのでしょう。
このようにしてシナイ再契約は完全に結ばれました。神の住まわれる聖所「幕屋」の建設がこれから始まります。
モーセが人々と接する時には顔に覆いをしました。そして神さまと話すときは顔の覆いははずしていました。

このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。
そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(Ⅱコリント3:12〜18)

顔の覆いとは、ユダヤ人が新しい契約「イエス様」に心を向けないで、古い契約「モーセ律法」を間違った枠組みで捕らえ続けている状態です。
一方、人がキリストに向くなら、その覆いは取り除かれ、モーセのように神の栄光を反映するばかりでなく、キリストと同じかたちに変えられていくことが語られています。
モーセに与えられた輝き以上のものが、私たちに与えられているとは、信じられないような恵みであります。

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