2016年9月11日 主日礼拝「神のご計画」オンギジャンイコンサート

本日の聖書箇所

黙示録20章11~14節

説教題

「神のご計画」

今週の聖句

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

黙示録20章15節
訳してみましょう
1827 God’s faithfulness extends for all generations.
(神の忠実さはすべての世代に広がっている。)
1828 Let’s thank God for the countless blessings.
(数え切れないほどの祝福を神に感謝しよう。)
 

2016-09-11-10-39-17

オンギジャンイ宣教団のみなさんによるコンサートが行われました


説教メモ
私の手元には二冊の聖書があります。中には66巻がおさめられています。
この教会は「長野聖書教会」と言います。聖書という言葉が入っています。聖書を教える教会と言ったら良いのでしょうか。日本には「聖書」と名が付く教会がいくつもありますが、そのような名前を見たら、ここは聖書を教える教会なんだな、ということが分かります。私たちは聖書66巻が、神さまから与えられた書物であるとして読んだり、またお話ししたりしています。
この世には数え切れないほどの本が出ています。しかし、世界的に見て、どの時代でもベストセラーは聖書であると言われています。毎年一番売れるのが聖書なのです。聖書は現在、1600以上の言語で訳されています。あとほんのわずかで、地球上のすべての民族が、すべての言語で聖書を読めるようになります。その時が聖書が約束していますが、「福音がすべての国々に語られて、終わりが来る」とありますから、その時が終わりの時なのだと思っています。
今日の礼拝では、オンギジャンイ宣教団のみなさんの素晴らしい賛美がありました。ですから私に与えられている時間はほんのわずかです。その時間で聖書のお話しをします。聖書の最初の「創世記」から、聖書の最後の「黙示録」まで、聖書は何を言っているのかをお話しします。
この世の中にあって、私は聖書が最高の書物であると思っています。聖書はヘブル語の原語で「ビブリオ」という言葉が使われています。そこから英語の「バイブル」という語ができました。ビブリオとは「書かれたもの」という意味です。それがつまり聖書です。
エッセンスだけを申し上げます。
創世記1章27節をご覧ください。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
(創世記1:27)

先ほどの証しの中でも「神さまは私たちを、ご自身の似姿に造られた」とおっしゃっていました。みなさんは進化論で育ったかと思います。ですから進化論が当たり前のようにお思いかと思いますが、あくまで「論」でありまして、私たちクリスチャンは「創造論」というものを信じております。つまり、聖書の一番最初に「初めに、神が天と地を創造した。」と記されているとおり、神さまがこの天地万物を創造したのだという、創造論というものを信じております。ところがそうでない人は「進化論」を信じています。どちらも「論」であり、確立されていません。ですから、進化論が当たり前のように大手を振ってこの世を歩いていることには疑問を感じます。
みなさんは、動物と人間とを比べた時、似ているところがたくさんあると思うことはないでしょうか。しかし、神さまが私たち人間をご自身に似た姿に造られたとうことは、そういった意味での似姿ではないのです。あくまで「神さまのご性格に似たもの」として私たちは造られているのです。その中で一番大切なことは、人間には「信じる力がある」ということです。私は猿の研究者ではないですが、猿に信仰心があるなどとは聞いたことがありません。猿も他の被造物(造られた物)にも、信じるという思いはないと思います。それは人間だけに与えられた「神さまの似姿」なのだと思います。私たちは信じる思いがあります。
本朝はコンサートを聴きに来てくださった、クリスチャンでない方もおられるかと思います。先ほど十字架の証しがあり、また賛美も聴かせてくださいましたが、たとえクリスチャンでなくても、信じる思いはあるのではないでしょうか。何かにすがりたい、何かを信じたい。そう思うことは、人類一般の普遍的なことだと思います。ただその対象が間違ったものであったりします。しかしそれは、真理を知らされていない人にとっては仕方のないことだと思います。ですから第一に、神さまが私たちを愛して、ご自身の似姿に似た者として私たちを創造されたのだということを捉えておいてください。
神さまは私たちを、神さまとの交わりを豊かに持つようにという大いなる目的のもとに私たちを創造されました。ところが私たちの先祖であるアダムとエバが罪を犯し、神さまからの栄誉を受けられなくなってしまいました。それを聖書はローマ人への手紙で次のように言っています。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ローマ3:23~24)

他の言葉でいうならば、「人はみな、罪人である」ということです。そして同じローマ人への手紙6章には次のように書かれています。

罪から来る報酬は死です。
(ローマ6:23)

報酬というのは、働きに対して必ず与えられる報いです。罪の働きに対して、必ず与えられる報いとは「死」なのです。罪の結果として「死」が存在するのだと、死の存在について、聖書だけがそのように教えています。そして、その問題は解決しなければなりません。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
(エペソ2:1~2)

これが人間の状態です。罪のゆえに私たちは、神さまから離されて死んでいた者です。霊的に死んでいた者です。
そのために、イエス・キリストはこの世に来られました。この世に来られ、素晴らしい奇跡や癒しを行い、弟子たちを訓練し、人々を教えました。しかし挙げ句の果てには、ユダヤの指導者たちに妬まれ、十字架に追いやられ、十字架で死なれました。確かに十字架で死なれましたが、三日目によみがえり、天に帰っていきました。私たちが信じているキリストは、一度死にましたが三日目によみがえられました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。
(ヘブル9:27)

罪の解決がなければ、みな死ぬことになると言っています。そして、死んだ後にさばきがあるのだと言っています。
そして、「死」には二通りあります。一つは「肉体の死」。これは誰でも経験することです。けれども、イエス・キリストを信じて生まれ変わった者には、新しい「霊のいのち」が与えられています。霊のいのちとは「永遠のいのち」です。なので「第二の死はない」と黙示録20章は言っています。ここで「第二の死」があるのだということが分かります。
「第一の復活」という表現もあります。これは先週もお話ししました。

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
(黙示録20:11~14)

この箇所を一言で申しますならば、「イエス・キリストを信じなかった者は滅びる」ということです。白い御座の前に立たされ、さばきをうけて救われるのではなく、火の池に投げ込まれてしまうのです。
「白い御座のさばき」は、クリスチャンにはありません。これはイエス・キリストを信じていない人に対するさばきなのです。
その中で不思議に思うことがあります。「いのちの書」という語が二箇所に出てきています。
いのちの書というのは、私たちがいつ十字架のイエス様を自分の救い主として受け入れたかが記されているものです。その日にちと名前が書いてあるのです。いのちの書に名が記されている人はクリスチャンです。
いのちの書が開かれてそこに皆さんの名前があるならば、これは非常に感謝なことです。
名前を記すのはどなたでしょうか。
それは神さまです。
だれもいのちの書を見た者はありません。聖書は色々な原語に訳されていますから誰でも読めます。しかしいのちの書は神さまが持っておられ、神さまが記録しておられるものです。それは誰も見ることができません。しかし確かにあります。
天に行った時、クリスチャンの名前は記されています。ところが信じなかった人の名前は、いのちの書に書かれていないのです。
他の書物、数々の書物が開かれたと先ほどの黙示録の中で見ました。そこにはその人の生前に行った数々のことが記されています。死んだ人々はこれらの書物に書きしるされていることに従って、自分の行いに応じてさばかれます。
良い行いをしたことが沢山記されているからと言って救われるのではありません。人間として道徳的に、あるいは社会的に立派な生涯を終えた人でも、ただ一点、イエス・キリストを私の救い主であると信じなかった人の名は、このいのちの書に名前が記されません。
ですから私はいつも口を酸っぱくして申し上げています。
「今、生きているあいだに、イエス・キリストをご自分の救い主であると信じてください。」
心で信じれば良いのです。
「心に信じて義と認められる」と聖書の確かな約束があります。信じた証しとして、できれば公にその信仰を告白していただきたいのです。少なくとも牧師や宣教師の耳元でささやいてください。その人はその時、名前がいのちの書に書き記されるのです。白い御座のさばきもなくなります。
聖書の中には「キリストのさばき」という表現もあります。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
(Ⅱコリント5:10)

これはさばきと書いてありますが、「報いを受けるさばき」なのです。
私たちがこの地上で、イエス様を救い主と信じた以外に、どのような歩みをしたかということが天に記されています。
その各自肉体にあってした行為に応じて報いを受ける。これがクリスチャンのさばきです。良い行い、立派な歩みに対しての報いを受けるのです。イエス様からご褒美を戴けるのです。そのことをクリスチャンである方には覚えておいていただきたいと思います。
今日、初めて聖書のお話しを聞いた方もおられるかと思います。何回聞いたとか、そういった問題ではありません。なぜなら、100回聞いても信じない人はいるからです。
しかし、聖書を通して、いかに神さまは私たち一人ひとりを愛してくださっているか、私たちが自分の罪を悔い改めて救いに至ることを望んでおられるかということをお分かりいただけたでしょうか。
そのことを少しは信じてみたいと思われる方は、是非、心に信じてください。
心で信じて義と認められるわけですから、今日、信じてください。今日という日には、明日はないかもしれません。
「今が救いの時だ」と聖書には書かれています。信じたいと思った時がその時です。
今日初めて聖書のことばを聞いたとおっしゃる方も、どうぞ心の中で信じていただきたいと思います。「私の救い主となってくださりありがとうございます」と心の中でつぶやいてください。神さまは救ってくださいます。
その瞬間に、いのちの書にあなたの名前は記されます。

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