2026年4月12日 主日礼拝「復活されたイエスに出会おう」
前 奏 黙祷
賛 美 韓日讃頌歌155「栄えあれ死に勝ちて」
新聖歌257「キリストは生きておられる」
招 詞 詩篇100篇1〜5節
讃 美 讃美歌1「神のちからを」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 ヨハネの福音書14章(新聖歌 交読⽂54)
讃 美 讃美歌68「父なる御神に」
聖書朗読 ヨハネの福音書20章11〜23節
説 教 「復活されたイエスに出会おう」
讃 美 讃美歌153「わがたましいよ、きけ」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ヨハネの福音書20章21節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
ヨハネの福音書20章11〜23節
説教題
「復活されたイエスに出会おう」
今週の聖句
「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
ヨハネの福音書20章21節
説教「復活されたイエスに出会おう」
ヨハネの福音書20章11〜23節
息子の旅立ち
先週の金曜日、息子は大学の入学式を迎え、正式に京都での新生活が始まりました。皆さんも経験がおありだと思いますが、ずっと一緒に生活していた1人がいなくなるというのは、やはり寂しいものですね。息子の場合、芸大を目指し1年間は浪人生活で、毎日教会の会堂をお借りしてホルンの練習をしていました。私も毎日2階で仕事をしていましたから、それこそ四六時中一緒だったわけです。いつもホルンの大きな音が聞こえていて、ちょっと聞こえなくなったなと思って2階の窓から覗いてみると、思うようにうまく吹けないことに落ち込んだりイライラしたり、もうだめだとふて腐れて床に仰向けに寝転がっていたり。そうかと思うと、2階の私の所に来ては「もうだめだ。もうやめる」だの、「スタバに連れて行け、気分転換にドライブに連れて行け」だの、あーだこーだと喋りまくるのです。落ち込んでイライラしている時は、励ましてみてもそれを素直に受け入れようともしない。私に対する不満や文句を思いっ切りぶつけて来る。その言葉はとてもキツイもので、私も人知れず傷ついていたわけです。ですから私としては時として煩わしく、うっとうしく思う毎日で、時には「あっち行け!」などと言いましたが、いざ息子がいなくなってみると寂しく感じます。またすぐに会えると分かっていても、LINEなどでいつでも言葉のやりとりはできるし、スマホ越しですが顔を見て話すこともできる。それが分かっていても、やはり寂しく悲しく感じます。情けなく思いますが、それが親心というものではないでしょうか。
いよいよ旅立ちの日、車で長野駅まで送ったのですが、その道中で思わず涙が出てしまいました。そんな私を察してか、息子は「パパ、いい加減、子離れしな」と一言。ああ、これから息子とは、今までとは違った形で関わっていかなければならないのだと思わされました。それから教会に戻りドアを開けると、もちろん息子の姿はなく、いつも聞こえていたホルンの音も聞こえませんでした。少し薄暗い会堂に立つと、片付けるのを忘れてしまったのでしょう、ポツンと譜面台が立てられたままになっていました。それを見て、頑張っていた息子の姿が思い出されました。真冬でも遠慮してストーブの火力を一番小さくして、一生懸命練習していたっけ。本当に合格できるのだろうかと、不安や孤独と戦っていたっけ。泣いていたな。ストレスであんなに太っちゃって。あちらこちらに息子の痕跡やら傷跡やらが残っていました。一緒にいた時は本当にうるさくて、煩わしくて、うっとうしく感じることもありましたが、その時に心の底から思ったのは、「本当に頑張ったな。本当に良くやったな。偉かったな」という親馬鹿かもしれない思いと、そんな息子を十分に愛してあげられなかった、褒めてあげられなかった自分に対する反省でした。
そんなことから、ヨハネの福音書にある「イエスは、彼らを最後まで(極みまで)愛された」(ヨハ131)のみことばを思い起こしました。また、使徒の働き1章3節を思い起こしました。そこには「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた」とあります。すべての罪を背負い、傷つけられ、十字架につけられ苦しまれ、死なれ、そしてよみがえられたイエス様は、ご自分が愛する弟子たちとの未来においての再会をご存じの上で、また弟子たちを独り立ちさせ、「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいるから」、「いつでもわたしと会える」と約束されるイエス様は、この時、弟子たちに対してはどのような思いでおられたのだろうかと思います。ひいては、私たち1人ひとりをお選びになり、出会ってくださり、救ってくださり、そして召し、それぞれの所へと遣わされ、未来においての再会を約束してくださっているイエス様は、私たちに対してはどのような思いでおられるのでしょうか。
2人の御使い
20章1節 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
20章2節 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
そのように、空っぽの墓のニュースを弟子たちに伝えたマリアは、再び墓にやって来ました。2人の弟子が墓から去っても、マリアはなおそこにとどまっていました。帰らなかったのではなく、帰れなかったのでしょう。イエス様とのこれまでと同じ関わり方をなくしては生きていけないマリアでした。彼女は声を上げて泣いていました。泣きながらからだをかがめて墓の中をのぞき込みました。
20章12節 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20章13節 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
御使いの質問にマリアは「どこに主を置いたのか、私には分かりません」と答えました。これは2節のところで2人の弟子に言ったこととほとんど同じです。2節から10節の間に、“イエスが愛された弟子”は墓の中に入ってイエス様の復活を信じたのですが、マリアはそうではありませんでした。イエス様は確かによみがえられたのに、マリアは生きておられるイエス様を死人の中に捜していたのです。マリアの中でイエス様は、いまだ十字架につけられ死なれたままでした。それでマリアは悲しみのあまり、彼女に質問を投げかけたのが御使いであることにも気付けませんでした。
ラボニ
20章14節 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
目の前にいるのが御使いであることに気付かなかったマリアは、自分の後ろに立っていたのがイエス様であることにも気付きませんでした。なぜ気付かなかったのでしょうか。復活のからだが以前マリアが見ていた姿かたちとは多少違っていたためでしょうか。そうかもしれません。黙示録を見るとイエス様の口からは鋭い両刃の剣が出ているらしいです。あるいは、自分なりのイエス像(私の思い描くイエス様はこのようなお方)が邪魔をしていたのかもしれません。皆さんも西洋画で描かれる白人のイエス様がイエス様だと思い込んでいたら、もしかしたら目の前におられる方がイエス様だと気付かないかもしれません。何よりも死んだ人がよみがえるなんてありえないという考えにとらわれていて、「あの方は死んでしまったのだ」とがっかりした気持ちが、マリアの目を塞いでしまっていたのでしょう。
イエス様はマリアに言われました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」。マリアはイエス様のことを園の管理人だと思って、「管理人様、あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取りますから」とお願いをしました。マリアはイエス様のからだを取り戻したいと思ったのです。遺体を取り戻し、死んだイエス様にすがりついて、悲しんで泣きたかったのでしょうか。死んだイエス様のからだに香料を塗るなどしてお仕えしたかったのでしょうか。それは「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならない(必ずよみがえる)という聖書を、まだ理解していなかった」(209)からです。イエス様もそう言われたことを本当には信じていなかったからです。
それにしても、御使いにしてもイエス様にしても、マリアがなぜ泣いているのか、誰を捜しているのかは百も承知のはずです。それなのになぜそう問われたのでしょうか。そう問うことによって、「もう泣かなくても良いのですよ。もう泣く必要はなくなったのですよ。目を開いてわたしを見なさい」と優しく語りかけられたのではないでしょうか。優しい御声を聞かせられたのではないでしょうか。それなのにマリアは悲しみのあまりでしょうか、パニック状態だったのでしょうか、その声の主を園の管理人だと思い込み、イエス様だと気付く様子もない。この状況が神の御心であることに気付く様子もない。それでイエス様はマリアの名前を呼びます。それはどのような響きをもってマリアに聞こえたのでしょう。
20章16節 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
よみがえられたイエス様を目の前にしていながら、イエス様のからだを捜しているマリアに対して、イエス様はマリアの名前を呼ばれます。15節と16節の声の主(ぬし)は同じでした。しかしマリアは自分の名を呼ぶのを聞いて、やっとイエス様だと分かったのです。ヨハネは同じヨハネの福音書の中でこのように言っています。「羊は羊飼いの声を知っており、羊飼いは羊の名前を呼ぶ」(103-4)のだと。
当時の羊飼いと羊の関係はとても親しいものでした。羊飼いは多数の群れの中でも、1匹1匹を名前で呼びました。名前を付けているくらいなので、それぞれの特徴を理解していました。迷子になった羊を捜し出し、群れに連れ戻す際にも名前を呼び続けました。夜になると囲いに入れられるのですが、その囲いは誰の所有というわけではなく、色々な羊飼いの羊が混じって入れられ夜を過ごしました。そして朝になって囲いを出る時には、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いについていくのだそうです。
ここから聖書は何を教えているのでしょうか。それは常日頃からイエス様との関係を大切にしておくことが必要だということです。考えてみると、神と出会う人は皆、個人なのです。そしてその時、名前が呼ばれるのです。「アブラハム、アブラハム」、「モーセ、モーセ」、「サウロ、サウロ」、「アナニアよ」、「ペテロよ」、そして「アリア」。
そして羊にしても人間にしても、どうやら目で見る姿ではなく、自分の名前を呼ぶ声でそれが主であることに気付くようです。どのような響きであれ、名前を呼ばれ、自分そのものが主の御前に召喚されるのです。聖書の中でも名前というのはその人そのものを表すものです。隠しようのないみにくさも汚さも足りなさも、すべてありのままの自分で主の御前に進み出るように命じられるのです。招かれるのです。そして名前を呼ばれ、ハッとして「主よ、しもべはここにおります」と、1人の人間として神の御前に立たされるのです。1人になる時はじめて神とその人との交わりが生まれて来るのであって、大勢の人がいるところでは、神との本当の交わりはありません。黙想(デボーション)や密室の祈りの重要さが分かります。ですからこの礼拝においても、ともに神を礼拝し賛美する中で、やはり1人ひとりが神に名前を呼ばれ、1人ひとりが個人的に神にお目にかかり、1人一人が神との個人的な交わりやお取り扱いをいただかなければ、本当に神を知り、また何よりも本当の自分自身を知り、そして神に自分を知って頂くことはできないのでしょう。神はすべてをご存知ですが、あえて質問をされるのです。マリアはそのような主との1対1の交わりをしていたからこそ、「マリアよ」というその声を覚えていたのです。そのような神との、またイエス様との交わりを持っていると、困難や行き詰まりの時にも、イエス様からの語りかけを聞くことができるのです。神の御心が見えるのです。
行って伝えなさい
20章17節 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
イエス様はこの後、弟子たちのところに現れて、トマスに彼の指と手でご自分のからだだと確かめるように言われますが、マリアに対しては、まだ父のもとに上っていないので、ご自分にすがりついていてはいけないと言われます。すがりつくなとは言われません。すがりついて“いては”いけないと言われるのです。ですからご自分に触れることを禁止されたのではありません。すがりついて喜ぶマリアに、イエス様はこの喜びをマリア個人のものとして独占するのではなく、この喜びの知らせを他の者にも告げなさいと言われるのです。
「すがりつく」と訳されている語は、もともとだた「触れる」だけの意味の語です。それをどうして「すがりつく」と訳したのでしょうか。イエス様は触れるだけで病を癒やされました。しかし人がイエス様に触れるというのは、助けを求めてすがりつくものでしょう。12年の間長血をわずらっていた女の人が、イエス様のうしろから近づいて、その衣の房に触れました。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからです(マタ920-21)。マリアのうちにも、助けを求めてすがりつくという気持ちがあったのを、主はご存知でした。しかしイエス様は「わたしにいつまでもすがりついていてはいけない」と言った後、行くように言われました。弟子たちのところに行ってご自分のことばを伝えるようにと言われました。そのことばとは何でしょう。「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」。
マリアは知りました。これからは、今までと違った形でイエス様と関わっていかなければならないのだと。今までは寝食をともにし、いつでもイエス様が見えたし、話ができたし、お世話もできた。時には文句を言ったり、叱られたりもした。しかしこれからは、今までと違った形でイエス様と関わって行かなければならないのです。イエス様は天に上られ、神の右の座に着かれ、人の目には一時見えなくなるかもしれない。しかし「いつもともにおられる」。離れてみてはじめて分かることもあるのです。姿形がここになくても、変わらない愛が注がれ、守りがあるのだ。祈りがあるのだ。親しい関係はなくならないのだ。マリアはそのことを学ぶ必要がありました。
20章18節 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
よみがえられたイエス様を「ラボニ(先生)」と呼んだマリアは、ここでは「主」と呼びました。「主・κύριος」は主人、所有者という意味の語です。私の主人、まことの所有者、つまり神。マリアのイエス様との親しい関係は変わりありませんが、マリアとイエス様との関わり方が変化しました。イエス様にとっては良い意味での子離れ。そしてマリアにとっても良い意味での親離れでしょう。
弟子たちと会われるイエス
マリアは弟子たちに喜びの知らせを伝えました。喜びの知らせとはもちろんイエス様がよみがえられたことであり、またイエス様が弟子たちに伝えるようにいわれたことば、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」です。
主は「わたしの父だけではない、あなたがたの父である方」と言われる。「わたしの神だけではない、あなたがたの神である方」と仰ってくださる。大きな失敗をし、またし続けている弟子たちにとっては、なんと大きな赦しのことばであり、慰めのことばであり、励ましのことばではないでしょうか。しかしそのことばをマリアから聞いただけでは、弟子たちの恐れは取り去られませんでした。
20章19節 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
その日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸を閉め、身を隠していました。イエス様の次は自分たちが捕らえられて殺されると思っていたのです。ですからイエス様が復活されたという知らせが届いても、彼らの心の不安と恐れは取り除かれませんでした。その知らせは自分たちの恐れを取り除く力にはなっていませんでした。墓が空っぽであるのも、何か敵対者の策略ではないかとさえ思われました。
そのような彼らの真ん中に、「平安があなたがたにあるように」とユダヤ人が日常のあいさつに用いたことばをもって、イエス様がご自分を現されました。しかし弟子たちにはイエス様の「平安があなたがたにあるように」ということばには、あいさつ以上のものがありました。イエス様はご自分に対して誠実でなかった弟子たちを厳しく叱ることをせず、恐れていた弟子たちに平安を伝えられたのです。十字架につけられる前と同じように、イエス様はよみがえられた後も彼らを最後まで、極みまで愛されたのです。
20章20節 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
主は恐怖に震えていた弟子たちに「平安があるように」と言われ、それから釘打たれた両手と、槍で刺し通された脇腹を見せ、ご自分がよみがえったことを確認させました。弟子たちは主を見て喜びました。いきなり喜べたのでしょうか。恐らく自分の名前が呼ばれるような衝撃を受け、悲しんだのでしょう。後悔したでしょう。自分を恥じたのではないでしょうか。しかし弟子たちは十字架の傷跡が残る正真正銘のイエス様を見て、悲しみが喜びへと変えられていきました。
そして主は弟子たち、また私たちにご自分の傷ついた手と脇腹を見せることによって、弟子たちや私たち1人ひとりに、どんな傷跡があるのかと尋ねられるのではないでしょうか。裏切り、否定、不信仰、罪を犯してしまった自分。しかしそのような後悔や悲しみというのは、弟子たちにとってはイエス・キリストを信じ従おうとするがゆえに味わう苦難でしょう。傷跡でしょう。自分の至らなさを思い、砕かれ傷ついた心。主はそれをさげすまれないのです。信仰のゆえに、イエス様を愛するがゆえにこの世にあって戦いがある。苦難がある。傷跡がある。そして後悔がある。時には主を疑ってしまい、主に逆らい、文句を言ってしまったかもしれない。そのような傷もある。しかしそれらは全部、イエス様の真の弟子であることを示す傷でもあるのです。主はそのすべてを見ていてくださっており、知ってくださっておられます。叱責されるのではなく、「頑張った。良くやった。あなたはわたしの真の子だ」と認めてくださっている。
そしてよみがえられた主は、私たちに対して良い意味で子離れをしてくださり、私たちに対しても良い意味での親離れを求められ、私たちがいつまでも主にすがりついているのではなく、自分だけの助けを主に求めるのではなく、成長し、身に着けたものをもってそれぞれの所へと私たち1人ひとりを遣わされるのです。しかし、やはり主と私たち1人ひとりとの親密な関係には変わりがないのです。「世のおわりまで、いつもあなたがたとともにいる」のです。肉体は離れていても、わたしの心、わたしの霊はそばにいるよということでしょう。そして私たちに聖霊を注がれ、聖霊で満たし、愛と力で満たしてくださるのです。十字架にまで従うことができる愛と力で満たしてくださるのです。「父なる神がイエス様を遣わされたように、私たちも遣わされる」のです。
20章21節 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20章22節 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20章23節 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
イエス様の復活は、私たちに喜びや慰めを与えると同時に、使命をも与えられるものです。その使命とは、私たちが聖霊に満たされて、地の果てまで福音を伝えるというものです。私たちを通して、主イエス・キリストの十字架と復活を証する。復活を証する人生。苦難がありながらも、パウロのように死に瀕するような肉体的な苦難がありながらも、霊的な苦難がありながらも、それでもよみがえられた主を信じ、主とともに、確かな希望を持って明るく元気に生きていること。愛と赦しを惜しみなく隣人に注いで行くこと。それこそが主にとっても、私たちにとっても、素晴らしい主の復活を証する人生となるのです。
ところが実際にはそのようになってはいない。イエス様がこの私のために十字架につけられ死んでくださったことは百も承知している。神がそのひとり子を賜うほどに私を愛して下さったこともよく知っている。しかし、それが私の信仰生活にとって少しも力になってこない。例えば、私は人の足を洗っていくというような心の底から自分を無にして人に仕えるという生活ができない。例えば、息子に自分に対する文句を言われたらムカついて、赦すどころが大人げなく反撃に出てしまう。それもこれも、聖霊を受けていないから。いや、受けているのに、跳ね返してしまっているからでしょう。自分の信仰、自分の力でやっていけるとの勘違い。大学進学のために一人暮らしを始めた子どもが、自分は完全に自立したと勘違いし、親の愛や愛による仕送りを跳ね返してしまったら生きていけないように、私たちには父なる神の愛と力が必要なのです。仕送りが必要なのです。ですから主は、もうひとりの助け主である聖霊を送られ、聖霊で満たし、聖霊を通して愛と力を注いでくださる。その愛と力によって、私たちに託された使命を果たしていくことができるのです。
それでは、聖霊に満たされるためにはどうしたら良いのでしょうか。それは私たちの中にある汚れたもの(罪や負い目など)を捨てなければなりません。そうでなければ聖霊で満たされることはできず、御霊の実を実らせることはできません。少し前に民数記から学んだように、神は聖なるお方であり、罪とは共存されないからです。
しかし、私たちが罪や負い目を悔い改める時、やはり傷跡がうずくのです。しかし覚えておきたいのは、先ほども申しましたとおり、その傷跡は信仰ゆえの傷跡であり、主のまことの弟子、神の子とされていることを示す傷でもあること。主の御前に進み出て、主に名前を呼ばれ、主の前にすべてをさらけ出して悔い改める時、主はそれを認めてくださっている。「頑張った。良くやった。あなたは本当の弟子、まことのわたしの子である」と。
イエス・キリストの復活は、私たちの人生途上においてどのような意味を持つのか。それは墓を破られた主、すでに世に勝たれた主が私たちとともにいてくださるがゆえに、私たちがどんなに希望のない中に置かれても、そこに閉じ込められることはないということです。墓の前で泣いていたマリアは、よみがえられたイエス様に再び会って喜びを取り戻しました。恐れに震えていた弟子たちも、イエス様との出会いを通して喜びを取り戻しました。主との出会いは、すべての悲しみや恐れを退かせます。復活の主に名前を呼ばれ、復活の主にお目にかかるならば、悲しみや恐れは喜びに変わります。良い意味で親離れできます。私たちは今日もこれからも、主との1対1の交わりをし続け、常に主の御声を聞き覚えていたいものです。そのような神との、またイエス様との交わりを持っていると、困難や行き詰まりの時にも、イエス様からの語りかけを聞くことができるからです。いつも復活の主を黙想し、信仰によって人生における苦難に打ち勝ちましょう。復活の主を黙想し求めるならば、主は私たちの名前を呼んでくださいます。そして私たちはその声をしっかりと聴き分けることが出来るのです。
主のからだは今、天の父なる神の右の座にあります。しかし主は私たちに親心、聖霊を注がれ、愛と力を注がれて、今も私たちのそばにおられ、今も名前を呼んでくださいます。どのような自分が主の御前に立たされるでしょう。しかし復活の主のゆえに、主を信じそこから立ち上がっていく者となりたいと思います。いつまでも主にすがりついているだけではなく、新しい主との関係性をもって喜んで、力に溢れ歩み出す。遣わされたところへと出て行く。その先々で失敗や困難にあっても何度でも信仰によって立ち上がる。主の復活に与って行く。偽善ではなく心から喜んで生きて行く。それが復活を証する人生。私たちにとっても本当に幸いな人生。そしてそれは主が私たちに願われる私たちの姿なのです。

