2017年8月6日 主日礼拝「エペソ宣教」

本日の聖書箇所

使徒の働き19章1〜20節

説教題

「エペソ宣教」

今週の聖句

こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなっていった。

使徒の働き19章20節
 
 
訳してみましょう。
1917 Our salvation is secure because God is doing the holding.
(私たちの救いは、神が保っておられるので安全です。)
1918 The way of obedience is the way of blessing.
(従順の方法は、祝福の道です。)

説教メモ

1.エペソ到着

エペソでの伝道が始まる前に、3人の方のことを少し見たいと思います。

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。
(使徒18:24)

アポロはとても雄弁でした。しかし彼には一つ足りないところがありました。それは

この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。
(使徒18:25)

ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。これがアポロに足りなかったことでした。

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。
(使徒18:26)

アポロ、プリスキラ、アクラ、この三人のことを少し見たいと思います。
 
アポロは聖書に通じており、しかも雄弁でしたがヨハネのバプテスマしか知りませんでした。エペソのクリスチャンたちはみなそうでした。

そこでパウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。
(使徒19:6)

アポロは非常に用いられた人物でした。ところが少し足りない面もありました。それを補ったのがプリスキラとアクラという夫婦でした。この二人は今で言う牧師や宣教師ではなく、普通の信徒でした。普通のクリスチャンの夫婦でした。この点がとても大切です。その彼らがアポロに何が足りないのかを教えたのです。そしてパウロによってアポロはヨハネのバプテスマだけでなくイエス・キリストの御名によってバプテスマを受けることができ、その後アポロはエペソに移り、そこで雄弁にみことばを語り続けることになるわけです。
 
夫のアクラはポント出身の人で、夫婦ともにユダヤ人クリスチャンでした。ローマのクラウディア帝のユダヤ人追放令によってローマから退去してきました。彼らはすでに福音のために主に仕えていました。パウロがコリントに伝道し始めた頃から、彼を自分たちの家に住まわせ、ともに天幕作りをしながらパウロの二年に及ぶ伝道を助けました。彼らの家がパウロのコリント伝道の拠点ともなりました。
そしてパウロがコリント伝道を終えてエペソに出て行ったとき、二人ともパウロに同行し、エペソに住んで福音のために主に仕えました。そこで彼らはアポロが聖書を正確に捉えていないことを知ると、聖書から福音を正確に説明し、アポロを福音宣教者として送り出すという重要な役割を果たしました。使徒の働き18章24〜28節のところです。
ここから私たちが学ぶべきこと。それは、例えば教会に遣わされた牧師や宣教師は、必ずしも雄弁な人、あるいはすべて良きものを兼ね備えて持っている人とは限らないのです。高校や大学を卒業してすぐに神学校に進み、そして卒業してすぐに牧師伝道師となったとき、やはり何かが足りないと感じる場合があります。神学校の正式なトレーニングを受けずに牧師宣教師になる人もいます。そうするとやはり何か足りなさを感じるのです。聖書の話しを聞いていても何か違うのではないかと感じるのです。パウロがアテネに来る前にテサロニケからベレヤに下った時、ベレヤのクリスチャンたちはパウロが話した内容を聖書の中から熱心に調べました。それは褒められていることです。私たちも、あの先生が語られたのだからとただ信じてしまうのではなく、またそれは決して批判するためではなく、その語られた内容が果たして本当に聖書を正確に捉えているかいないかを見極めなければなりません。もし若い牧師が遣わされて来たなら、皆さんは若い牧師を批判するわけではなく教育しなければならない場合もあります。アクラとプリスキラのような働きをしなければなりません。謙虚な牧師宣教師ならそれを聞き入れるでしょう。皆さんはまず聖書を綿密に調べてみてください。そして違っていたならそれをきちんと指摘しなければなりません。それは決して牧師をおとしめることではなく、間違いを正すため。同じ間違いをさせないため。そしてお互いに成長していくためです。教会においてこのアクラとプリスキラの役割はとても重要なのです。
アクラとプリスキラはエペソでの三年間の伝道を支え、パウロが去った後再びローマに戻って伝道しました。その後の彼らについては、Ⅱテモテに記されています。彼らはローマでパウロを支え、再びエペソに戻り、当時エペソでの指導者であったテモテを助けたのではないかと思われます。
彼らは主の福音宣教のために夫婦で心を合わせ、生活のすべてをささげた献身者でした。今日のように教会がなかった時代には信者それぞれの家や家庭が教会でした。彼らはそのただ中に臨在される主を喜び、褒め称える礼拝の生活でした。地域社会に根ざした日々の生活の中で心を一つにし、生けるイエス・キリストを伝えていました。このようなことを聞くに付け、聖霊に満たされた主の共同体である夫婦、家庭、教会とはとは何か。それを具体的に示しているのではないかと思います。
 
 

2.エペソでの伝道

パウロは第二回の伝道旅行から帰り、すぐに第三回の伝道旅行に出掛けました。

そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。
(使徒18:23)

「そこにしばらくいて」とあります。具体的にどのくらいの期間かは分かりませんが、いかにも慌ただしい出発を感じさせます。第三回の伝道旅行の期間は歴史的に言うと紀元53〜56年の間と考えられています。パウロはこの期間の大半をエペソで過ごしたようです。またこの伝道旅行には複数の同行者がいました。テモテとエラスト、ガイオとアリスタリコの名前が記されています。
エペソは小アジヤにあるローマの属州、アジヤ州の首都として知られ、港町でもありアルテミス神殿のある町であり、多くの人が巡礼に訪れていた賑わいのある町でした。
エペソに来たパウロは、聖霊を受けていない弟子の群れの中に入りました。つまりヨハネのバプテスマして受けておらず、イエスの御名によるバプテスマを知らなかった彼らに、そのバプテスマをさずけました。パウロの按手によって人々が聖霊を受けたことは、パウロに十二使徒と同様の権威を持ち、同様に扱われていたことが分かります。
エペソでの伝道で特色的なことは「イエスの御名によって」という表現です。
エペソにおいてパウロは今までと同様、まず会堂に入って語りました。そこにいる人々を説得しました。パウロは三ヶ月の間をかけて会堂で論じました。ユダヤ人のある者は心を頑なにして、人々の前でパウロをののしりました。パウロは危険を感じ会堂を退却しました。そしてパウロは「ツラノの講堂」で二年間教えました。
パウロは天幕作りをしていました。朝の天幕作りを終えるとツラノの講堂へ出掛け、人々の昼休みの時間に合わせてそこで語っていたと思われます。腰を据えて語り続けるパウロの精力的な伝道は豊かな実を結んでいきました。アジヤ全域に主のみことばが響き渡りました。
パウロがエペソに2〜3年いた間、アジヤの人々がエペソに来ました。仕事の関係で、あるいは何かの旅行のついでに、またはパウロの説教をわざわざ聞きに来たという人もいたことでしょう。コロサイ地方にパウロ自身は行っていないのですが、コロサイの人々に向けて手紙を書いています。コロサイの町からエペソに人々がやって来てパウロのメッセージを聞きクリスチャンになった。その人たちが再びコロサイに戻って教会を始めたとということは十分に考えられることです。そのコロサイの事情を知ってパウロはコロサイ人への手紙を書きました。
そういうわけで、パウロのエペソでの三年間という伝道生活は有意義なものになりました。あちこち飛び回るよりも、むしろそこに腰を落ち着けて伝道するということは素晴らしい結果となりました。

これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。
神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。
(使徒19:10〜11)

同時にパウロはイエスの御名によって多くの奇跡を行いました。彼の手ぬぐいや前掛けにすら病気を癒し、悪霊を追い出す力が宿るほどでした。もちろんそれ自体に力があったわけではありません。イエスの御名に権威があったのです。
伝道生活がうまく行くと、真似をする人が出てきました。

ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。
そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。
そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。
このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。
(使徒19:13〜17)

イエスの御名によってすべてのことがなされていきました。これはパウロが素晴らしい宣教師であったか。それはパウロの働きがいかばかりかであったかではなく、パウロがいかにイエス様の御名によってメッセージを語ったかということです。
 
 

3.広まる主のことば

主を恐れた人々の間に悔い改めが起こってきました。
まず信じた人々は自らの罪を告白しました。罪の告白と悔い改めは、罪からの解放を与えます。エペソの多くの人は異教的な魔術に支配されていました。多くの人々が魔術の書を持っていました。そして罪を告白し悔い改めた彼らは、それらの書を焼き捨てました。そこにパウロの具体的な指示があったのかは分かりませんが、真の神さまへの信仰を示され続けるなら、偽りの神々を捨て去るのは自然な選択とも言えます。

また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。
(使徒19:19)

銀貨5万枚とは約250万円だそうです。
 
ここで現代の私たちが気をつけること。それは私も体験したことではあるのですが、仏教の方がクリスチャンになった際、良く仏壇についての相談があります。「燃やしてしまえ」という過激な牧師もいるようですが、私は「お寺に持って行って、お返しすれば良いのでは」と言うでしょう。その方が感情的に良いのでは内科と思います。他宗教に対しても敬愛の念は必要だと思います。頭ごなしに否定しては良くないと思います。ののしられた方はどう感じるでしょうか。それは本当に祈って取り扱っていかなければならないことだと思います。
 
パウロのエペソでの伝道は多くのみを結びました。主のみことばは驚くほどに広まりました。広がり続けました。エペソ伝道の成功の背景には、パウロの忍耐強い腰を据えた働きがありました。この時の宣教によって産み出されたエペソの教会は、後のエペソ人への手紙において賞賛されています。この手紙は現代の私たちに、教会とは何か、クリスチャンのあり方はどうあるべきか、といったことを訴えていると思います。
 
クリスチャンである皆さんに一つお伺いまします。
自分がクリスチャンであるのに、捨てきっていない罪、隠れた罪、悪い習慣はあるでしょうか。
告白していない罪がもしおありでしたら、告白し、荷を軽くしていただきましょう。
パウロが言っている「罪に死ぬ」。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

私はこのみことばが大好きです。パウロは同じ内容のことをローマ人への手紙6章においても語っています。
死んでしまった者は罪から解放されているはずです。クリスチャンになったとは言え、まだ罪を犯している、罪に捕らわれているならば、その人は完全に罪に対して死んでいないのです。罪に死にきっておらず、その人の内に罪がまだ残っている、生きているということです。イエス様は私たちを罪から解放してくださいました。ですから罪に対しては死んだ者であるはずです。それなのに罪を犯している。それは罪がまだ生きている。その罪をイエス様にささげていないということです。クリスチャンになったからと言うだけで「聖人君子」になるわけではありません。自分の罪を全て捨て去ったもの、自分の罪に対して死にきった者が聖人君子になれるのです。それは不可能なことではありません。私たちが徹底的に自分の罪に対して死ぬということを実行する時、それが可能なのです。
 
エペソの人たちは魔術の書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てました。
私たちが罪に死にきる。その時、神さまは私たちをいかようにも用いることができます。

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
(ローマ6:7)

クリスチャンだと言いながら罪を犯す、それは大きな罪ばかりではありません。人の悪口を言うような小さな罪もあります。罪に死にきるということにより、そういった罪も犯さなくなるはずです。
私たちは自分に対して「罪に対しては死んだ者である」と、毎日言い聞かせていかなければなりません。十字架の事実、イエス様の十字架の死と三日目の復活という歴史の事実を確かめていかなければなりません。その事実の中に、私たちがキリストとともに十字架につけられたという事実も含まれているのです。そのことを日々、自分に思い聞かせていかなければなりません。努力が必要です。そうでなければ、弱い私たちは罪を犯してしまうのです。はっきりとした罪の解決がなければ、私たちは罪を犯してしまうのです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

自分の内にある罪、捨てきれない悪い習慣がおありでしたら、そのことを悔い改め、そこから新たな一歩を踏み出し直してください。そことをイエス様は私たちに望んでおられます。

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