2026年5月3日 主日礼拝「感謝しつつ、主とともに歩もう」

前  奏  黙祷
招  詞  詩篇100篇1〜5節
讃  美  讃美歌4「よろずのくにびと」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇136篇(新聖歌 交読文43)
讃  美  讃美歌267「神はわがやぐら」
聖書朗読  民数記7章1〜9節
説  教  「感謝しつつ、主とともに歩もう」
讃  美  讃美歌271B「いさおなき我を」
聖餐式   讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 詩篇116篇17節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記 7章1〜9節

説教題

「感謝しつつ、主とともに歩もう」

今週の聖句

私はあなたに感謝のいけにえを献げ
主の御名を呼び求めます。

詩篇116篇17節

説教「感謝しつつ、主とともに歩もう」

民数記 7章1〜9節

「感謝です」

私が教会に招かれて通い始めたのは、28歳のときでした。それまでの人生の中で、あまり耳にしたことのない言葉や表現に出会うことがいくつかありましたが、その中でも特に印象に残ったもののひとつに「感謝です」という言葉があります。

教会の皆さんは、ごく自然に「感謝です」と言われます。「来てくださってありがとう」ではなく「来てくださって感謝です」、「お目にかかれて嬉しいです」ではなく「お目にかかれて感謝です」。初めて聞いたとき、どこか新鮮でありながらも、少し不思議な響きに感じたことを覚えています。その響きには、単なる礼儀や感情の表現を超えた、何か深い意味が込められているように感じました。

今では私自身も、この「感謝です」という言葉を自然に口にするようになりました。しかし若い頃を振り返ると、「ありがとう」や「嬉しい」といった言葉は使っても、「感謝です」と表現することはほとんどなかったように思います。この違いは単なる言葉遣いの問題ではなく、その背後にある心の向きや信仰の在り方に関わるものなのではないでしょうか。

テレビを見ていると、年を重ねた方ほど「感謝」という言葉を自然に使っているように思います。ですから「感謝」という言葉は、人生の中で多くの様々な経験(特に戦争や病気や苦しい体験)を重ねた人ほど、また主を知る人(主の恵み、祝福に多く与った人)ほど、自然と口にするようになる言葉なのかもしれません。「ありがとう」や「嬉しい」という言葉は、目の前の出来事や相手に対する素直な感情の表現です。それ自体はとても大切で尊いものです。しかし「感謝です」という言葉には、それを超えて、その出来事を与えてくださった神に心を向ける視点が含まれているように思うのです。つまり、「感謝です」とは、目の前の人に向けられた言葉であると同時に、その背後に働いておられる神の恵みに目を留め、その神にささげる言葉でもあるのだと思うのです。

このことに気づかされるとき、私たちの言葉は単なる挨拶や礼儀を超えて、信仰の表現へと変えられていきます。そしてそれは、先ほども申しましたが、主を知る者が人生の中で主の恵みを深く知るほどに、自然とあふれ出てくるものなのではないでしょうか。

しかしその一方で、自分自身の祈りや日々の生活を振り返ってみると、感謝よりもむしろ不足や不満を口にしてしまうことが多いという現実にも気づかされます。祈りの中で、「これが足りません」「あれが必要です」と求めること自体は決して悪いことではありません。しかし、それが中心になってしまい、すでに与えられている恵みに目を向けることを忘れてしまうとき、私たちの心は次第に満たされないものになってしまいます。

すべてが恵み

私たちはしばしば、与えられているものを当然のもののように受け取り、足りないものにばかり目を向けてしまいます。しかし本当に当たり前のものなどあるのでしょうか。今、生きていること。朝目を覚まし、一日を始めることができること。平和の中で生活できること。住む場所があり、着る物があり、食べる物が与えられていること。家族や友人と共に時間を過ごせること。働く場所や学ぶ機会があること。これら一つ一つは、本来決して当然のものではありません。

世界に目を向ければ、戦争や紛争の中で日々の命の危険にさらされている人々がいます。病や苦しみの中で自由を奪われている人々がいます。貧困や飢えに直面し、今日を生きることさえ困難な人々がいます。そのような現実を思うとき、私たちに与えられているものがどれほど大きな恵みであるかを、改めて知らされるのではないでしょうか。

先日、「みことばの光」の中で、ある方が感謝献金をささげ、その項目に「外食」と記していたという記事を読みました。その方は、おいしい食事や楽しいひとときを、単なる日常の出来事としてではなく、神から与えられた恵みとして受け止め、その感謝を具体的なささげ物として表していたのです。その姿に、私は深く心を打たれました。

私たちは願いがかなえられたときには感謝します。しかし、それだけでなく、日常の中にある小さな恵みにも目を留め、それを言葉や行動で表していくことが大切なのではないでしょうか。感謝とは、特別な出来事に対してだけ向けられるものではなく、むしろ日々の積み重ねの中で育まれていくものなのです。

今日の箇所には、出エジプトを果たしたイスラエルの民が、自分たちが今生かされていること、平安の中に置かれていることが決して当たり前ではなく、神の恵みであることを覚え、その感謝を具体的な形として自発的にささげている姿が記されています。

感謝を形にして進んで献げる人たち

7章1節        モーセは幕屋を設営し終えた日に、これに油注ぎをして、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具にもそうした。彼がそれらに油注ぎをして聖別したとき、
7章2節        イスラエルの族長たち、すなわち一族のかしらたちが近づいた。彼らは部族の長たちで、登録に当たった者たちである。

幕屋が完成したとき、モーセはそれに油を注ぎ、すべてを聖別しました。聖別とは、それを主のものとして取り分けることを意味します。出エジプト記40章を見ますと、そのとき、会見の天幕を雲が覆い、主の栄光が満ちました。神ご自身が民のただ中に臨在された(住まわれた、とどまられた)のです。

2節に「イスラエルの族長たちが近づいた」とあります。彼らは命じられてではなく、自ら進んで神のもとに近づきました。それは、430年にわたる苦しい奴隷の生活から解放され、荒野での一年を守られ、そして幕屋が完成し、神がご自身の民のただ中に住まわれるという大きな恵みを、心から実感したからでしょう。このすべては決して当たり前ではない——その思いが、彼らを自発的なささげ物へと導いたのです。その感謝は、私たちの想像をはるかに超えたものでしょう。どれほど大きなものであったことでしょうか。

奉献されたささげ物

奉献式で最初にささげられたのは、覆いのある台車6台と、それを引く雄牛12頭でした。族長たち12人が、それぞれ2人で台車1台、そして1人につき雄牛1頭を献げたのです。

これだけを見ると、「それだけなのか」と思うかもしれません。しかし、台車1台を作るにも大きな労苦と犠牲が伴ったことでしょう。まして、それは神にささげるものです。細心の注意をもって設計され、最良の材料が選ばれ、最高の技術によって丁寧に作られたに違いありません。まさに真心からのささげ物でした。台車を作るには多くの労力と時間が必要でした。その労力と時間を感謝をもって神に献げたのです。雄牛もまた貴重な財産でした。それらを神にささげるということは、自分たちにとって大切なものを差し出すことを意味していました。時間というのは私たちにとってはいのちそのものではないでしょうか。財産もまた私たちにとって、ある意味いのちかもしれません。そのいのちを喜んで惜しみなく神に献げたのです。それは形式的なものではなく、真心からのささげ物でした。そのささげ物を受けて、聖なる神が会見の天幕に臨在され、モーセにそれらを受け取るよう命じられました。神が受け取ってくださったのです。

この神が、今も礼拝の中で私たちのささげる礼拝を受け取ってくださいます。かつて幕屋に臨在された神が、今はキリストのからだである教会のただ中におられ、私たちと共にいてくださるのです。そしてそれは、決して当たり前のことではありません。先週も触れましたが、神は汚れたものは一切寄せ付けないお方です。しかし同時に、きよめてくださるお方です。私たちは完全にきよいでしょうか。礼拝に対する心は完全にきよいものになっているでしょうか。完全に神のためだけに世から取り分けられているでしょうか。

神が私たちのささげるこの礼拝を受け取ってくださる。そのことが本当に恵みであると気づくとき、私たちの心には感謝と喜びが生まれます。そして自らすすんで神に近付くでしょう。今、私たちはその感謝と喜びに満たされているでしょうか。それとも、どこかで礼拝を当たり前のもののように受け取り、感謝も喜びもなく、礼拝が進むにつれて心が神からどんどん離れて行ってしまってはいないでしょうか。

すべてが恵みであると知るとき、私たちは自然と感謝と喜びへと導かれます。その感謝と喜びを、私たちはどのように表すのでしょうか。

神のために最善のものを献げる

このとき献げられた台車と雄牛は、会見の天幕の奉仕のために用いられるものでした。それらはレビ人に分配され、それぞれの務めに応じて用いられました。比較的軽い幕や覆いを担当するゲルション族には、台車2台と雄牛4頭。重い幕屋の枠組みを運ぶメラリ族には、その倍の台車4台と雄牛8頭が与えられました。一方で、至聖所の器具を運ぶケハテ族には台車も雄牛も与えられませんでした。それは、彼らの務めが肩に担いで運ぶことであったからです。

ここから分かるのは、主はそれぞれの役割と必要をよくご存知で、それに応じて備えてくださるお方であるということです。そしてその備えは、他の民の自発的なささげ物を通して与えられました。思いも、実行する力も、必要な物も、すべて主が備えてくださったのです。すべては神から出ているのです。

そこのことは、現代を生きる私たちにも当てはまります。神に仕えたいという思い(例えば礼拝に出たいという思い)が与えられるとき、それ自体が恵みです。そして主は、その働きに必要なものを必ず備えてくださいます。人の心を動かし、人の手を用いて、思いもよらない方法で満たしてくださるのです。ですから私たちは、恐れや不安にとらわれるのではなく、感謝と期待をもって一歩を踏み出すことができます。

同時に私たちは、自分が満たされることを待つだけでなく、他の人の必要にも目を向ける者でありたいと思います。特に、神のために仕えている人々の必要に気づき、それを支えることは、主に対する愛の具体的な表れです。

先週は、良いことも悪いことも、ある人にすることは神に対してすることとして主は見ておられることを教えられました。ですからその人の神のための奉仕のために何が必要かを考え、必要なものを満たすというのは、神のために何が必要かを考え、それを自分の手を通して満たしていくことです。主は私たちにご自身への真実の愛を求めておられるお方です。イエス様は言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハ1334-35)と。奉仕する人は、自分の必要を口にしにくいものです。だからこそ私たちは、互いに愛し合い、互いの必要を察し、進んで支え合う群れでありたいのです。犠牲をもって補い合う群れでありたいと願います。私たちの主、教会のかしらなるイエス・キリストこそ、大きな犠牲をもって私たち1人ひとりを愛し、救い、私たち1人ひとりのいのちを守り、すべての必要を恵みによって満たしてくださっておられるからです。主が私たちにしてくださったように、私たちもまた他の人に仕える。そのようにして、主への感謝を具体的に表していくのです。

恵みに感謝する

すべては恵みです。恵みだからこそ、感謝が生まれます。恵みとは、本来受ける資格のない者に与えられるものです。自分は恵みを受ける資格のある者だと思っておられるでしょうか。しかし、主を知れば、主の愛を知れば知るほどに、すべてが恵みであることを覚えるのです。

私たちは主に愛される資格などありませんでした。救われる資格など何もありませんでした。しかし神は私たちを選び、私たちを愛し、イエス・キリストを遣わして私たちに救いを与えてくださいました。イエス・キリストの十字架によって、私たちは罪の奴隷状態から解放され、新しいいのち、永遠のいのちが与えられました。そしてイエス・キリストの復活のいのちにあずかる者とされ、どのような困難の中でも立ち上がる希望が与えられています。

ここで大切なのは、「気楽」と「平安」は異なるということです。気楽とは何の問題も心配もなく、自分の思い通りに生きられる状態です。しかし平安は、どんな逆境の中でもそれに打ち勝ち、感謝することができる状態です。たとえ困難の中にあっても揺るがない、神から与えられる深い安らぎです。

気楽は小さな困難が来ただけでも簡単に失われますが、平安は失われることがありません。その平安を持つ人は、どのような状況の中でも「感謝です」と言うことができます。実際、多くの信仰者が人生の最期においてさえ、主への感謝をもってその生涯を終えていきます。その平安は、私たちイエス・キリストを信じる者、この世のすべてに勝利することができる真のクリスチャンに与えられます。聖書は言います。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」(Ⅰヨハ54-5)と。

感謝によって主との関係が深められる

資格のない私たちに与えられた神の恵みに感謝しましょう。私たちもまた、与えられている恵みを数え直し、その一つ一つに応答していきたいと思います。天からの祝福をいつもいただきつつ、毎日を歩んでまいりましょう。本来ならば苦しみや病気、傷や恐怖の中で右往左往してしまうような私たちでありながら、私たちには平安が与えられているではありませんか。これが天からの祝福を受けているという証拠です。

イエス・キリストとともに歩む者は、心にいつも喜びが満ちているので、感謝に溢れています。もし感謝がないと思われるなら、もう一度恵みを数えてみてください。そしてその恵み、神が私たちの人生で行ってくださったこと、今行ってくださっていることに、どのように応答しているかを振り返り考えてみてください。

聖書には、イエス様が10人のツァラアトに冒された者たちを癒やされた時、サマリア人であったたったひとりだけがイエス様のもとに戻り、感謝をささげたと記されています。イエス様によって病気が癒やされたことは、自分のような者をも神が顧みてくださったというあらわれにほかなりませんでした。その驚きと喜びのあまり、彼は大声で神を褒め称え、イエス様の足もとにひれ伏して感謝したのでした。それほどまでにこのサマリア人は心から喜び、神の恵みに対する感謝で満ち溢れていたのです。10人がツァラアトから癒やされましたが、イエス様との関係を豊かにされたのはその彼ひとりだけでした。そしてその人は、癒やし以上に、神との関係の豊かさを得たのです。

私たちも、すべてが主の恵みであることをいつも覚えて、いつも主のもとに自らすすんで進み出て、主に感謝をささげ、主との関係をますます豊かにしていただきましょう。皆さんは目の前で自分に感謝する人と、目の前で自分に文句を言う人と、どちらの人と関係を深めたいと思われますか。また関係を深めることができるでしょうか。

「感謝」という言葉は、人生の歩みの中で主を知るほどに、自然とあふれ出てくるものです。それは単なる言葉ではなく、神の恵みを知る心の表れです。

どうか私たちも、与えられているすべてを恵みとして受け取り、その感謝を言葉だけでなく、具体的な行いとしてささげていく者となりましょう。祈り、奉仕、ささげ物、日々の小さな行動——その一つ一つを通して、主への感謝を表していきましょう。そのとき、私たちと主との関係はますます豊かにされ、さらに恵みが注がれ、増し加わり、揺るがない喜びと平安に満たされた歩みへと導かれていくのです。そして主とともに、この地上の歩み、荒野の旅を全うし、やがて天の御国にあずかるという大いなる真の希望によって、歌いつつ歩み生きる者とされていきましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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