2018年1月21日 主日礼拝「ソロモン」

本日の聖書箇所

列王記第一3章

説教題

「ソロモン」

今週の聖句

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

箴言9章10節
 
 
訳してみましょう
1953 Every temptation is an occasion to trust God.
(すべての誘惑は神を信頼する機会です。)
1954 Faith sees things that are out of sight.
(信仰は目に見えないものを見ます。)
 
 

説教メモ

1.ダビデ王のこと

これまで旧約の主立った人たちの中から学んでまいりましたが、本朝はソロモンについて見てまいります。その前に、ソロモンの父であるダビデ王のこともお話ししなければなりません。ダビデ王のことを語るならば、恐らく一年中お話ししても良いくらい題材がありますので、本朝はかいつまんでお話しします。
ジョン・ストットの「日毎の聖書」が私の手元にあります。私はそこから多くの励ましを得ていますが、この本の中でダビデについて書かれています。そこからダビデを簡単に紹介したいと思います。
彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。
(詩篇78:72)
「彼」とはダビデのことです。ダビデは王位に登りつめる前からすでに、魅力的で期待の持てる人物として登場していました。若きときには、生きていおられる神への信仰に立って、ペリシテの代表戦士ゴリヤテからイスラエルを救いました。幼いときからの友人、ヨナタンと厚い友情の契りを結びました。そして預言者サムエルによって密かに油注ぎを受けて王に任命されました。サウルが初代イスラエルの王でした。そのサウルに知られないうちに神さまはサムエルを通してダビデを次の王として立ててくださったのです。主の霊がダビデに豊かに臨みました。サウルはダビデの命を狙うようになりました。ダビデはわずかな供を連れてサウルから逃げ回りました。二度、ダビデにはサウルを殺せる状況がありました。しかしダビデは神に油注がれた者、りサウル王には手を出せないとし、サウルを討ち取ることはしませんでした。そしてエルサレムを首都にするなど、たぐいまれな政治的資質を表しました。
「だからこそ、こうした期待にダビデが応えることができなかったのは悲劇としか言いようがない」とストットは言います。それはバテ・シェバのことです。彼女はダビデの家臣ウリヤという男の妻でした。ダビデはバテ・シェバの美しさに欲望を抱き、自分を制御することができなかったダビデは、十戒のうち少なくとも五つのおきてを破ってしまうことになりました。ウリヤを計画的に殺すことにより殺人を犯し、他人の妻と姦淫し、むさぼり、盗み、偽りを語りました。そして軍事力となりうる男性についての人口調査にこだわったことは、ダビデのもう一つの弱さを露呈させました。主の御手に信頼するよりは人間の力に信頼してしまったのです。
このような深刻な罪に照らし合わせてみた時に、どうしてダビデが次のように呼ばれるのでしょうか。

主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。
(Ⅰサムエル13:14)

確かなのは、ダビデは心から悔い改めたことです。心から悔い改めたことで神さまに用いられました。しかしそれ以上に、何よりもダビデは、後継者のソロモンとは違って他の神々に心を向けることはなく、「主と全く一つに」(Ⅰ列王11:4)なっていました。だからこそやがて来られる救い主が「ダビデの子」であるのは、決して不調和なことではありません。そしてダビデは心から次のように歌うことができたのです。

彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
(詩篇18:1〜2)

サウル王が40年王として用いられ、ダビデもまた40年間、神さまによってイスラエルの王として用いられました。そしてダビデの息子であるソロモンも、40年間神さまによって用いられることになりました。
 
 

2.ソロモンの願い

ソロモンとはどのような意味があるのでしょうか。それは「シャローム(平和・平安)」から来た名前です。
ソロモンはダビデが他人の妻、バテ・シェバに生ませた二番目の子(最初の子は死んでしまいました)です。ダビデには何人か妻がいましたので、ソロモンの上には母親の違う兄たちがいました。ですからソロモンが王位に就くということは、彼の誕生の経緯から非常に困難なことだったことと思います。ソロモンがはっきりと世継ぎと決まったとき、それを不満とする兄アドニヤらとの兄弟間の血生臭い争いが起こりました。ソロモンが王になったと言うこと自体とても不思議なことです。神さまはなぜソロモンを王としたのでしょう。そう思ってしまいます。
私たちがソロモンのことを学ぶとき、その特徴は「知恵」にあると言えます。本朝はそのソロモンの知恵を学びます。
聖書を見ていきますと、箴言、伝道者の書、雅歌、そして詩篇と、ソロモンが書いた書がいくつもあります。ソロモンの時代、イスラエルは最大限に繁栄していきました。その繁栄の裏には、他の国々から迎えた多くの妻やそばめ、多大な建築費用のための圧政や強制労働など、民の不満を産み出す要因がありました。生涯にわたって主に従い続けたダビデとは対照的に、ソロモンは最初は良かったけれども最後には主の怒りを招いてしまいました。
父ダビデの王位を継いですぐのこと、ソロモンは最初に、近くの国々と友好関係を結びました。義理の兄との後継者争いの末に王となり、宮中などに反乱を起こす不安材料を抱えていまいた。また、ペリシテをはじめとする外敵が国の周囲にひしめいており、非常に憂うべき状況の中での王位でした。ですからソロモンはまずエジプト王の娘をめとり、縁戚となることによって講和をはかりました。いわゆる政略結婚です。このようなやり方は効果的ではありましたが、かなりの危険をもはらんでいました。多くの外国の妻を迎えたソロモンは、その妻たちによって持ち込まれた外国の神々に制御することができませんでした。

ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。
彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。
ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。
こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。
(Ⅰ列王記11:1〜6)

彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
これがダビデとソロモンとの大きな違いです。彼は異教の地の女たちを妻とすることにより、異教の神々をも取り入れてしまい、そしてそこからの悪い影響を免れることができませんでした。
ですから私たちにとって、クリスチャン同士の結婚が望ましいのです。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」と聖書は言っています。クリスチャンが結婚するときにはクリスチャンと、と言うのが大きな原則です。もしお付き合いをしている方がクリスチャンでないなら、まず教会に連れて来て自分の信仰をちゃんと学んで頂いて、相手がクリスチャンになってから結婚するということを牧師としては勧めます。そうでなかったら過程の中はうまく行くはずがありません。様々な問題が生じて来ます。
 
この時、まだ神殿は出来ていませんでした。ですから彼らは「高き所」で神さまに全焼のいけにえをささげていました。ソロモンは1,000頭の全焼のいけにえをささげました。さらに聖書には、やがてソロモンが神殿を建て、その奉献式の時には牛2万2千頭、羊12万頭という信じられないほどのいけにえをささげています。それはソロモンに、惜しみなく神さまに献げるのだという資質があったことを表しています。
 
 

3.ソロモンの知恵

神さまはソロモンの夢に現れ、何でも望むものを求めるようにとお語りになりました。自分の未熟さを知っていたソロモンは、富でも名誉でもなく、長寿でもなく、敵との戦いにおける勝利でもなく、民を正しく治める知恵を求めました。

わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。
(Ⅰ列王記3:6〜9)

ソロモンは非常にへりくだっています。

この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」
(Ⅰ列王記3:10〜14)

父ダビデは非常に優秀な王でした。富を蓄え、神さまのために神殿を建てようとしました。しかし主は、「神殿を建てるのはあなたではない。あなたはあまりにも多く血を流しすぎたからだ。あなたの子がそれを建てるのだ」と仰いました。ソロモンは父ダビデがすべて揃えた材料をもって神殿を建てました。
イスラエルは出エジプトをして一番大きな目的は、主の神殿を建てることでした。その念願がついに叶いました。

イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。
(Ⅰ列王6:1)

 
さて、ソロモンの知恵ですが、ソロモンはこのおびただしい民を正しく裁く知恵を求めました。神さまはそれを良しとされました。
今日は読みませんでしたが、列王記第一の3章16節から終わりまでに、ある出来事が記されています。皆さんはそこを目を追ってお読みください。日本には大岡越前守のドラマがありました。その人の優れた裁きを描いたドラマでした。この箇所にはそれと似たような出来事が記されています。まるで日本のドラマの元となったかのようです。
ソロモンは見事な知恵によって二人の女の間を裁きました。
 
今日学んだところから適用できることは何でしょうか。
私たちはいわゆる「異邦人クリスチャン」です。ユダヤ人のように初めから選ばれた者たちではなく、後から選ばれた者たちです。信仰によってアブラハムの子孫として4,000年来受け継がれてきた祝福を相続し、この時代のこの国において祝福の元としての役割を、私たちが果たすことを神さまは期待しておられます。つまり、イエス・キリストによる救い、聖霊の力、神の国の祝福は、私たち個人の小さな世界だけでささやかに味わうものではなく、私たちが関係する「同胞」と「諸民族」へと拡げ、次世代へと継承していくべきことです。その視点から見ると、私たちはもう一度与えられた信仰を見直そうではありませんか。せっかく私たちに与えられた救いの信仰を、家族の間に、また救いを知らない人々に伝えて行かなければなりません。その使命があるのです。
私は皆さんが祈りのリクエストをしてくださることを望みます。家族の救いに対する祈りのリクエストがあるなら、祈祷会ででも、私の耳元ででも一言告げてください。何十年もクリスチャンをしていながら、例えばご主人が救われていないことに対して何も感じていないのではないかと思う時があります。その方が私に何も仰らないからです。果たして伴侶、子ども、孫、また親、祖父母の救いを願っておられるのだろうか。もし皆さんがそのことを願っておられるのなら、私の耳に囁いてください。そうすれば私はその方が何を祈っておられるのかが分かり、そしていつも祈りに覚えて祈ることができます。祈りの輪が広がっていきます。祈ることは私たちの務めでもあります。そのことを是非知って頂きたいと思います。
 
最後に、韓国のハ・ヨンジュ先生が書いておられる「感謝の夕べ」の中の一つをご紹介します。「古い人を脱ぎ捨ててください」というタイトルです。エペソ人への手紙4章25〜32節を開いてください。
質問です。あなたはクリスチャンになってからも捨て切れていない悪い習慣がありますか。私はあえて聞きませんが、そのようなものがありますか。
使徒パウロは、「あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びていく古い人を脱ぎ捨てるべきこと」を述べています。ハ・ヨンジュ先生は、自己中心ではなく、これからはすべてのことをイエス様中心、隣人中心、教会中心に考えていく必要がある。プライド、良くない性格、世俗的な価値観などすべてを束ねて、イエス様の十字架の下に投げ捨ててしまってください。イエス様だけを見上げてください。罪はブレーキが故障した車のようだ、と言ってます。運転手がどれだけ上手に運転しようとしても、ブレーキが壊れていては障害物を避けることはできません。どんなに立派で素晴らしくても、それが古い人であるならば躊躇なく捨て去ってしまってください。捨てるべきものをすべて捨てきってこそ永遠の世界に入ることができるのです。これからは救われた者らしく生きなければなりません、とハ・ヨンジュ先生は言われます。古い人がまだその人のうちにいるならば、何かの機会にムクムクと起き上がってきて罪を犯してしまいます。
 
本朝はダビデ王のこと、ソロモン王のこと、そしてもう一つ適用として、せっかく異邦人クリスチャンとして選ばれている私たちは罪から解放され、罪を犯さなくて良い自由が与えられているのですから、もし捨て切れていない罪があるならばその解決を図ってください。そして主の前に重荷を捨てて身軽になり、主のご奉仕に励んでいただきたいと思います。

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