2018年1月28日 主日礼拝「エリヤ」

本日の聖書箇所

列王記第一18章

説教題

「エリヤ」

今週の聖句

私が仕えている万軍の主は生きておられます。

列王記第一18章15節
 
 
訳してみましょう
1955 God’s forgiveness is the door to a new beginning.
(神の許しは新しい始まりへの扉です。)
1956 The God who delivered us yesterday is worthy of our obedience today.
(昨日私たちを(罪から)救い出した神は、今日私たちの従順にふさわしい方である。)
 
 

説教メモ

1.エリヤ

エリヤは恐れを知らない証しの活動によって後代の賞賛を勝ち得ました。エリヤは二つの大きな事をしました。一つはバアルの神殿の預言者たちとカルメル山で対決したこと。この時神さまはご自身こそが生きておられる神さまであることを圧倒的な力で示されました。二つ目はナボテを殺してそのぶどう園を奪った王と直接対決しました。軍人の支配者が代々王位に就いていたエフー王朝が終わり30年も経たないうちに、サマリヤはアッシリヤによって陥落しました。紀元前722年と言われています。国土は占領され人種は入り交じり、サマリヤ人として知られている人々が生まれてきました。神さまのさばきは約200年に及ぶ宗教的不誠実さに対して下されました。エリヤはこのような時に神さまによって召し出された預言者でした。

ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
(Ⅰ列王記17:1)

私のことばによらなければ、と書かれていますが、これはエリヤの言葉というよりも主がエリヤを通して言われたことばでした。

それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」
(Ⅰ列王記18:1)

それから三年目に主のことばがありました。それは「雨を降らせよう」でした。
王のアハブと預言者エリヤはすでに相対しています。ですからアハブはいつもエリヤの命を狙っていました。そのような状況の中、飢饉から三年目にアハブに会いに行くように命じられました。エリヤはアハブ王にカルメル山での果たし状を突きつけました。たった一人でバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と対決することになりました。850人の偶像を信じている、偶像礼拝を推進している預言者と、エリヤはたった一人で対決することになりました。
オバデヤという人物が出てきます。
アハブ王の宮廷にオバデヤという宮廷長がいました。彼は非常に主を恐れていました。また、子どもの頃から主を恐れていました。つまり子どもの頃から主を信じていました。しかし自分の地位とか安全を捨ててまで主に従おうという気はありませんでした。主の預言者であるエリヤに味方するなんで気持ちはありませんでした。自分に危険が及ぶからです。そんな計算がありました。
アハブ王の妻イゼベルは預言者たちを殺したとき、オバデヤは100人の預言者を50人ずつに分けて保護しました。
エリヤはカルメル山に集まった者たちに言いました。

「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
(Ⅰ列王記18:21)

どっちつかずとは、主に対する背信を意味します。中立などあり得ないからです。エリヤはただ一人残された主の預言者として、圧倒的多数の敵に真っ向から戦いを挑みました。オバデヤとは違い失うものがありませんでしたから強かったのです。自分を捨てて主に従っていたので恐れがありませんでした。この点がオバデヤと違うところです。
 
 

2.バアルの預言者との対決、祈り

エリヤの戦いはいわゆるアウェーでした。敵地での戦いです。昔はそこに主の宮がありました。しかしその時、主の宮は廃れそこでの礼拝行為はありませんでした。そこに一人乗り込んで戦いに挑みました。ただ彼は主を味方にし、主とともに戦いました。

主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。
(詩篇118:6)

エリヤはそのような信仰に立っていました。そのエリヤの前にバアルとアシェラの預言者たちはただ人数を頼みとする烏合の衆に過ぎませんでした。

あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」
(Ⅰ列王記18:24)

このように挑戦しました。敵の預言者たちには何も起こらず、エリヤは皮肉って言っています。

真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
(Ⅰ列王記18:27)

バアルの預言者たちは一生懸命大声を出して祈りました。

彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。
(Ⅰ列王記18:23〜24)

このことのためにです。

そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
(Ⅰ列王記18:26)
彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
(Ⅰ列王記18:28〜29)

いよいよエリヤの番です。

エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。
エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。
水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。
(Ⅰ列王記18:30〜39)

エリヤには確信があったのでしょうか。主が奇跡をなしてくださる。全く火の気がない、かえって水浸しの薪に火が下るなど、通常ではあり得ないことです。しかしエリヤはそのように宣言し、そして実際にそのようになりました。
エリヤは決して自分の勝利のために戦うことはしませんでした。主の栄光のために戦ったのです。主の戦いは私たちのうちにない勇気と力を生み出します。主の戦いであったのでエリヤには確信があったのでしょう。そのような中で奇跡が起こりました。
主の火が降っていけにえを焼き尽くしたとき、民は「主こそ神です」と悔い改めました。エリヤの神の力に民たちは圧倒されました。
エリヤはバアルの預言者たちを一人残らず捕らえさせ、容赦なく殺させました。非情ではありますが、このような厳しさがなければ罪の根源は絶ちきられません。こうして偶像礼拝を滅ぼすなり、それを合図に三年間の干ばつは終わり、激しい雨が降り出しました。主の祝福の回復です。
それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」
七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。
主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。
(Ⅰ列王記18:43〜46)
 
 

3.罪との対決

エリヤの戦いの目的は何だったのでしょうか。ただ単にバアルの預言者たちを滅ぼすことではありませんでした。

「この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
(Ⅰ列王記18:37)

エリヤはこのように祈っています。
「民は今、バアルの預言者たちにそそのかされて、真の神さまを知らないでいる。どうかこの民を目覚めさせてください。彼らの心が翻って、あなただけが真の主、神であることを知るようにしてください」。エリヤの願いはこのようなものだったのです。主の力を見せつけて、主こそ真の神であることを知らせる。国民を主に立ち返らせることがエリヤの預言者としての役割でした。
 
さて、皆さんは主の側に立って、主を味方にして歩んでおられるでしょうか。自分の戦いにあくせくするのではなく、主の御名によって主の栄光のために戦っておられるでしょうか。もしそうなら、あなたは勇気を受けて一人でも戦えます。その戦いは神の国の祝福を広げることになります。
オバデヤは信仰があったけれども自分の立場を守ろうとしました。多くのクリスチャンがこのような状態なのではないでしょうか。自分の立場などを失いたくない。信仰が与えられたからといって、それにまっしぐらに没頭して進むということはなかなか難しいことです。家族のこと、会社のこと、地域社会のこと、色々な事を考えて、まあまあの信仰を持っているというクリスチャンが多いのではないかと私は思ってしまうのですが、できればエリヤのように、主にのみ信頼しその信仰に立つクリスチャンが増えて欲しいと願っています。
私たちはどんな歩み方をしているのか。オバデヤのような歩み方では、主からの祝福はありません。どっちつかずの信仰。何かあると自分の信仰が危うくなってしまう。
私たちは日曜日ごとに礼拝に集ってきますが、そのことだけを取り上げて考えてみたいと思います。皆さんは礼拝に来て、神さまの恵みを感じるでしょうか。ある人は感じないかもしれません。クリスチャンだから礼拝に行かなくてはならない。そう考えて礼拝に来られる方もおられるかもしれません。礼拝に来ることによって本当に喜びがあるか、神さまからの祝福があるか。また私たちはそれを追求しているのかどうか。ただの義務で礼拝に来ているのか。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
(ピリピ3:8〜9)

キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っている。私はキリストためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っている。皆さんはそのような思いがあるでしょうか。主であり、救い主であるイエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っている。他に価値を認めない。私はキリストのためすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っている。
皆さんもクリスチャンになると価値観が変わってしまうことを体験しておられると思います。かつて価値あるものと思っていたものが、そうではなくなってしまう。イエス・キリストを知ることによってすべての価値観が変わってしまう。でも教会に来ても恵みがない。適当に生活して悔い改めもなく何となく主観的に礼拝に来る。それでは良くありません。教会に来てみことばを聞き、心から悔い改めるべきことがあるならばきちんと悔い改めて。そのようにして心の中が変わってくると喜びが湧いてくる。悪い習慣から立ち返れば、自然と笑顔へと変わってきます。
恋人と夜通し語り合ったことはありますか。嬉しくて仕方がなかったのではないでしょうか。神さまを信じることも同じ事です。神さまに寄り添って生きるなら、その喜びは例えようがありません。皆さんはクリスチャンとして聖書を読み、書かれたみことばが自分に何を語っているか、それをかみ砕きながら自分のものにしていく。読んだだけでその日の日課を終えたのだとしてしまうのではありません。読んでそこから何が教えられ、自分はどのような歩みをしていくべきなのか。正しい方向付けがなければ意味がありません。牛は食べたものを絶えず反芻する動物です。何度もかみ砕いています。そのようにして食べたものをこなしていくのです。私たちクリスチャンも、聖書のみことばを絶えず、何度もかみ砕くように考えていく。それにどのような結果が出て来るかというと、一つは「伝道」という形となって出てきます。自分の信仰を、この素晴らしいニュースを誰かに伝えたい。そのような思いが出てくるはずです。大学生であれば学生同士に、職場におられるなら職場の上司や仲間たちにイエス・キリストの素晴らしさを証ししていかなければなりません。いつでも、どこでも、誰に会ってもイエス様の話しをする。そのような人の信仰は成長すると思います。
私たちのなすべきことは、相手に福音を伝えること。そのために私たちは喜んで礼拝を守り、自分の内に赦されていない罪があるならば神さまに赦していただき、悔い改めて、そして自分は何をなすべきか、一人でも多くの人たちがイエス様のことを知りイエス様との出会いを体験し、そして内面が変えられて行くことを願って、実際に行動していかなければなりません。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す