2020年7月7日「的外れという罪」

Ⅱ列王記6:24-33

 昨日の6章の前半の2つの物語は、教会学校でも度々取り上げられるところではないだろうか。みことばの光では「見るべきものを見て」というタイトルが付けられていた。6章16節では、朝早く起きて外に出てみると、敵の大群に囲まれ、恐怖にかられ「どうしたらよいのでしょう」と問う召使いに対してエリシャは「恐れるな。」と言った。これは「自信を持て」ということではなく「見るべきものを見なさい」ということであろう。主が召使いの目を開かれたので、召使いは神の大群が周囲に満ちているのを見た。

 そのような物語の流れで、同じ6章に今日の物語がある。つまり今日の箇所もまた、「霊の目が開かれる必要」「見るべきものを見なさい」というところを教えているのであろう。  そして今日の箇所では、悲惨な状況を通して、自分の周りの状況に加え、自分自身について「見るべきものを見なさい」という方向に私たちの思いを動かすものではないかと思われる。思い起こすのは「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」(申8:2)との神さまのみことばによって導かれる思いである。

今日のみことばの光の導入にはこのような話しが載せられている。

1973年のオイルショックは日本各地でトイレットペーパーの買い占め騒動を招き、1993年には異常気象による米不足が起きた。

みことばの光2020年7月号(No.66-7)2-3ページ

 皆さんは経験されているだろうか。私自身、1973年のオイルショックの記憶は全くない。1993年の米不足は覚えているが、親は大変な苦労をしていたかもしれないけれども、「細長い米があまり美味くなかった」程度の記憶で、米の調達にそれほど苦労した記憶はない。ただ世界中で、貿易上の米の奪い合いのようなことが起こっていたような、うっすらとした記憶がある。

 しかし、つい先日の「コロナ禍」で、デマによるトイレットペーパーの買い占めが起こったことは記憶に新しい。またスーパーの棚からレトルト食品や小麦粉、保存可能な食品が、安価なものから順番に消えていった。

日常生活の極端な物不足は時折、人間を集団的パニックに陥れ、個人の倫理観にも悪影響をもたらす。

みことばの光2020年7月号(No.66-7)2-3ページ

 その通りだと思わされる。

 24節からはサマリヤでのひどい飢饉の状況。26〜29節は悲劇としか言いようがない悲惨で恐ろしい、こんなことが起こるのかというような状況が描かれている。起こるのである。聖書でも申命記28章において預言している通りである。「あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、息子や娘の肉を食べるようになる。あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをする。食べ物を分け与えようとしなくなる。あなたがたのうちの、優しく、上品な女が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、自分が産んだ子どもさえ、自分だけ隠れて食べるようになる」(申命記28:49-57)。

 私たちは実際、自分の子どもはもちろん、人間の肉は食べないであろう。あろうはずがない。しかし考えて見ると、食糧を独り占めした結果、どこかで誰かがやせ衰えている人がいるしたら。このコロナ禍で起こった買い占め。日常生活の物不足、集団的パニック、個人の倫理観への悪影響。人間の内側の悲しむべき状況は決して遠くの出来事ではない。

 イスラエルの王は民の不幸に心を痛めた。このままでは追うも民も生きることができない。一人の女が王に向かって「王さま。お救いください」と叫んだ(26節)。「主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか」(27節)。王の言葉はどうにもならないこの苦しみの時に、神を意識している。しかしその実際の神さまに対する思いはどうだったのか。「こんなひどい状態にならせるとは、神の責任だ」ということであろうか。だから王は、神の前に悔い改めるという考えには向かわない。「主よ。どうかお救い下さい」と直接神さまに訴えたり、祈ったりしなかった。そして王は苦しんで言った。「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように」(31節)。「神が云々」は宣言したことを必ず実行することを表す慣用句である。神に期待してということではない。

王の悲しみは、この非常事態に神に訴えるべきなのに『何もしてくれない』預言者エリシャへの、身勝手な怒りと憎しみにすり替わったのである。

みことばの光2020年7月号(No.66-7)2-3ページ

 不足とか、苦しみの中にあって、あの人は『何もしてくれない』。

 私自身、身につまされる言葉である。「ひどいあの人、かわいそうな自分」。思い通りにならない事態、苦しい状況の中で他者に責任転嫁してしまうのである。その時、「自分は何も悪くない」のである。

 みことばの光では次のように黙想を導いてくれている。

不遇や思い通りにならない事態を、自分と神との関係に目を向けるのではなく、信仰の指導者(あるいは、他の誰か)の責任にしてしまうことはないだろうか。

みことばの光2020年7月号(No.66-7)2-3ページ

 イスラエルの場合、なぜエリシャへの憎しみとなったのだろうか。ここではエリシャへと憎しみが向けられているが、もしかしたら誰でも良かったのかもしれない。憎しみが向けられたのは、国民であったり、家臣であったかもしれない。いずれにしても、神さまには向けられない。たとえ憎しみの感情であっても、神さまに正面からぶつかっていけなかったのである。なぜだろうか。ひとつは、日常的に神とのかかわりを持たないことによるのだろうか。またひとつは、意識的に神を避けたのだろうか。もしかしたら、神を憎むことができないのは、神に正面からぶつかっていけないのは、自分の罪、足りなさが問われて責められるからかもしれない。「自分は何も悪くない」「あの人が悪いのだ」。そうしておく方が自分は楽だからかもしれない。本当に見るべき自分から目を反らすのである。本当は反省しなければならない神さまに対する自分の態度、神さまの関係から目を反らして、他人のせいにしてしまうのである。責められるのが、反省するのが怖い?避けたい?

 神に責められる、神に滅ぼされる。そのような間違った神さまとの関係は不幸である。それは罪を悔い改めない者の持つ神さまに対する恐怖の関係だろう。私たちは恵みによって、罪を悔い改め、幸いな神さまとの関係の中に置かれている。だから王のようではなく、エリシャのようでありたいし、いられるはずである。みことばの光は勧める。

勧め/苦しい状況の中で問題を他者に責任転嫁することなく、自分と神との関係を見直す機会として考え直し、みことばを待ち望もう。

みことばの光2020年7月号(No.66-7)2-3ページ

 苦しい状況の中、他人に責任を転嫁することなく、霊の目が開かれ、見るべきものを見る。神さまと自分との関係こそ「見るべきもの」であろう。主の前に静まって、主のみことばを待ち望む者でありたい。たとえそれが私に対する叱責であったとしても、それは最終的に私を幸いへと導こうとされる神さまの愛であることを覚えていたい。祈りを通して神さまと対話をし、みことばを通して神さまの御声を聞く。日常的に神さまとのそのような人格的な交わりを通して、神さまの愛を知らされ、信頼し、自分の罪を素直に認め、悔い改める者でありたい。神さまとの幸いな関係の中にいたいと思わされる。

 昨日のみことばの光では、苦難や困難な中で「目を覚まして歩んでいるか」「見るべきものを見なさい」と問われ、今日は「自分と神との関係を見直す」と問われたところで、ある牧師が説教の準備中に思い出して祈った祈りであると言う、その祈りを示された。

「神さま、プロを目指すアマチュアのような意識を忘れることなく、人生を歩ませてください。初めて見る空のように、その空を見させてください。初めて出会ったときの感激で、主に会えるようにしてください。初めて礼拝堂に入ったときのときめきで、礼拝堂の席に座らせてください。初めて救いのメッセージが私の心臓を捕らえたときのとうな感激で、初めてその説教を聞いたときの心情で、説教を聞かせてください。主よ。断頭台に立った死刑囚のように生きていけますように。最後に聞く説教のように、説教を聞くことができますように。」

 そしてこう勧められている。

「聖徒は、神が与えてくださるいのちのみことばを、日々このようにして聞かなければなりません。常に最初で最後であるかのように注意を傾けて聞き、心を尽くして従いましょう。」

 私の生活で初心を取り戻すべき部分は何だろうか。皆さんにとって、何だと思われるでしょうか。

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