2020年7月12日 主日礼拝「異邦人の救い」
本日の聖書箇所
エペソ人への手紙2章10〜22節
説教題
「異邦人の救い」
今週の聖句
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
エペソ人への手紙2章10a節
訳してみましょう
2211 To survive the storms of life, be anchored to the Rock of Ages.
2212 We please God when our walk matches our talk.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 7番「主のみいつと」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌 191番「いともとうとき」
聖 書 エペソ人への手紙2章10〜22節
説 教 「異邦人の救い」佐藤伝道師
讃美歌 529番「ああうれしわが身も」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
音声はこちら
動画はこちら
説教「異邦人の救い」
佐藤伝道師
エペソ人への手紙は、1章1節で「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」とあるので、送り主はパウロのようです。しかし新改訳聖書の欄外には「異本『エペソの』を欠く」と注釈があり、今日の聖書学の常識では「エペソの」を欠く写本は「異本」どころか最も良い写本です。つまりこの手紙には宛先の地名がありません。エペソを中心とする小アジヤのいくつかの教会で回し読みされるために書かれたもののようです。その読者は「異邦人キリスト者」でした。
内容の全体を見てみると、議論のようで議論のようでなく、教育のようで教育のようでなく、何か具体的な用件や緊急を思わせる事情もあまり見えて来ない手紙のように思えてくるのですが、ではこの手紙はいったい何を目的に書かれたものなのでしょう。
一言で言えば「激励」なのではないかと思います。
小アジヤは様々な文化や宗教が入り交じる特殊な地域でした。皇帝礼拝が盛んな地で、またキリスト教にとって小アジヤは、多くの異端と異教の発祥地でした。異邦人キリスト者にとっては生きづらい場所だったことでしょう。
同じ頃に書かれたコロサイ人への手紙を見ると、教会の中に入り込んできた誤った色々な教えがあって、その中で「割礼」をめぐるユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の対立があったようです。それはすでに解決を見せていたのかどうかは分かりませんが、この手紙では特に議論はされていません。しかし、異邦人キリスト者は、教会という同じ信仰の共同体の中で起こった差別や自分に対する蔑みによって心が傷つけられて、落ち込んで、完全な癒しと慰めが必要としていたのかもしれません。信仰を保ち、聖く生きようと頑張っている異邦人キリスト者たちに、パウロは励ましを送り、また、頑張りすぎると自分も周りも見えなくなってしまうのではないでしょうか、「立ち止まって、一息ついて、そして振り返ってみなさい」と勧めているようにも思えます。そうして「あなたがた」が実際どれほどの恵みに与っているのかを、今一度確認してみてはどうかと言われているように感じます。
この手紙を書いたのはパウロですが、本当の著者、送り主は「神さま」です。神さまからの激励が記された回覧板が、時を経て、私たちの手元に届いた。そのようにして、神さまからの慰めと激励をしっかりと受け取らせていただきたいと思います。
お祈りをいたします。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今日もこのようにして、愛する兄弟姉妹とともに集い、礼拝をお献げできます幸いを心から感謝いたします。私たちはこのように安全に礼拝を守ることができておりますが、すでに祈られました通り、この災害や疫病によって大変な中にある方々を覚えます。どうぞ憐れんでください。今朝の礼拝を通して、神さまの御心を私たちに示してください。聖霊様がそれぞれに満ちていてくださり、神さまがそれぞれにお語りくださいますようにお願いをいたします。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
エペソ人への手紙は、1〜3章で「教会とは何か」といったことが、恵みを覚えつつ示されており、それだけでは頭でっかちの宇宙人のようになってしまうということで、4〜6章は実践的な部分が語られて行きます。
1章の最後で「教会はただの建物のことを言うのではなくて、キリストにあって選ばれた者たちが教会なのだ」ということが語られています。これはとても重要なことですから、最後までしっかり覚えておいてください。
そして2章に入り、新約時代の教会の創造について語られます。
【教会の材料】とは何か
- 自分の罪と罪過のとの中に死んでいた者
- 生まれながらに御怒りを受けるべき子ら
【その手段】とはどのようなものか
- ただ恵みによる
- 恵みのゆえに、信仰によって
- 神からの賜物
【その目的】は何なのか
- 神の作品
- 良い行いをするため
作品というのは、その作者の意図を見事に表現したものです。ですから教会というのは、神さまの永遠の昔からのアイデアの中にあったものが、イエス・キリストの死と復活、昇天、聖霊が降られたことによって地上に見事に表現された神さまの作品です。神さまのビジョンを表現するために私たち罪人が、異邦人が選ばれたのです。
その恵み、幸いのなんと大きいことかを強調するために、読者である異邦人、「あなたがた」が、キリストに召される前には、いかにみじめな状態にあったかを思い出させます。
2章11節には「ですから、思い出してください」とあります。「思い出してください」というのは、思い起こしなさい、記憶しなさい、忘れないで、覚えていなさい、などと訳せる言葉です。
神さまの救いのご計画は、まずユダヤ民族から始められました。最初にユダヤ人、次に異邦人という順序を踏んだことは事実です。そしてユダヤ人以外の人すべてが異邦人と言われる。私たちは紛れもなく異邦人です。
そして、以前は肉において、神の契約のしるしとしての割礼を受けることのない無割礼の人でしたという事実、それは元々神さまの契約の中にいなかった事実が語られています。
このことをよくよく覚える時に、異邦人としての私たちが神の選びの民、救いの民に加えられたことの恵みの偉大さ、ありがたさを覚えることができるでしょう。ですから、パウロが思い起こしなさい、覚えていなさいというのは、決して以前のみじめな状態のことではなく、それを越えて私たちがどれほどの恵みを受けたか、ということです。そのことを更に覚えるために、キリストに召される以前の状態について、12節から重ねて語られます。
2章12節 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
キリストに召される以前を思い出してみてくださいと。12節には具体的に5つの状態が記されています。
キリストに召される以前、私たちは、と申しますか、私なんかは神さまを信じて生きていました。しかしそこにキリストはいませんでした。キリストなしで、キリストを抜きにして神さまと係わっていました。神さまと私との間をとりもってくださるキリストとの関係を持っていなかったので、「神は裁く方で私は裁かれる者」。そこには祝福も救いもあり得ませんでした。「わたしを通してでなければ、誰も父なる神に近づくことはできない」と言われるイエス様を通してでなければ、父の愛を持っておられる神さまの本当の姿を知ることもできなかったし、神さまに近付けるはずもありませんでした。それで何か迷信的な行い、修行めいたこともしましたし、安全、幸せ、そのような漠然とした救いを願って神仏に祈ることなどを空しく繰り返すほかなかった者でした。
また、以前はイスラエルの国から除外されていたとありますが、当時イスラエルという国はまだ存在していませんので、イスラエルとは神の契約の民のこと。神の民が暮らす国がイスラエルの国です。「から除外され」と訳されていますが、「外に出される、疎外される」という意味の言葉が使われていて、こういう表現を使うところには、入りたくても締め出されていた、入りたくても入れてもらえなかったという異邦人の気持ちを代弁しているのではないかと思います。
さらに、以前は約束の契約については他国人でした。約束とは、救い主を世に降そうという約束で、契約とはアブラハム、イサク、ヤコブとの契約、モーセの律法、ダビデ契約などのことです。他国人とは他人、客という意味にも使われ、そんな約束があったことなど、関係ないからと知らされていなかったし、聞かされたとしても結局、他国人だから適用されないという意味で疎外されていました。日本で日本人と同じように生活していても、法律や契約によっては外国人だから適用されないのと同じような、区別あるいは差別です。
以前はこの世にあって望みもなくとありますが、私たちにだって望みはありました。けれども辛い経験をして、色々な望みを口にしてみても、心の底ではどこか諦めていたのかもしれません。「あすは死ぬのだ。さあ飲み食いしよう」という本音がどこかにあったことは、かつての私たちが味わったところではないでしょうか。それは本物の希望、この世を超える永遠のいのちの希望、その確信を持っていなかったことが原因でしょう。
そして神もない者たちでした。いや、逆に沢山の神々を持っていました。しかし結局のところ、真の神さまを持っていなかったのです。
一方、ユダヤ人は途中色々なことがありながらも、昔から神さまの約束とメシヤの希望に依り頼み、力づけられて生きてきた民族でした。
2章13節 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
13〜18節はそれほど隔たっていた異邦人とユダヤ人とを一つにした、キリスト・イエスの御業、また遠く離れていた神との関係を近付ける救い主・イエスの御業を教える中心的な部分です。それをあらかじめまとめるような一文が13節です。
それまでぼんやりしていたキリスト(メシヤ・救い主)がここで「イエスである」とはっきりと示されました。
かつては、神に選ばれた民という特典を持っていなかったために、ユダヤ人からは「神から遠く離れた呪われた罪人」とののしられていた異邦人「あなたがた」が、今ではキリスト・イエスに結びつくことによって近い者とされた。あるがままの肉体、姿、立場や身分で神さまに近い者とされた。それはただイエス・キリストが一度限り十字架の上に血を流して死なれ、死と復活によって私たちに神と人、人と人との間の平和を回復してくださったからであると言います。過去形になっていますから、すでになされた実際の出来事を証言しているのです。
そして「キリストこそ私たちの平和です」と始まる14〜18節は、パウロか、それとも誰かが作った歌であるとも考えられているようです。讃美歌です。
14節からは新改訳2017でお読みします。研究が進み、より正確な翻訳になっています。聞き比べてみてください。
2章14節 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
2章15節 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
2章16節 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
すでに見たように、キリストが来られる以前、ユダヤ人と異邦人との間には隔てる壁がありました。聖書はここでそれを「敵意」と言っています。
「敵意」の反対は「好意」でしょうか。相手が自分に好意を持っているか、何らかの敵意をもっているか、それは意外と敏感に分かるものです。そして敵意というのは、恐怖心や警戒心、怒りや憎しみ、恨みや恥、復讐心などといった感情と密接に結びついた、とても根深い感情の一つです。
私たちはどういった時に敵意を抱くのでしょうか。自分の存在が脅かされる時、自分が、あるいは自分の愛するもの、大切にしているものが傷つけられ奪われようとするとき、その危険を感じたときに、私たちは相手に対して強い敵意を持ちます。逆に言うと、自分を守ろうとする感情です。自分を、あるいは愛するもの、大切なものを守ろうとすることはとても大事なことです。「自分の正義を守る、信仰を守る」とも言います。しかしユダヤ人は、自分を脅かすものから自分を守ろうとするあまり、異邦人に敵意を抱いた。その象徴が実際に存在していた「隔ての壁」というものでした。
その「隔ての壁」について、チェーン式にはこのように説明されています。「隔ての壁…エルサレム神殿の、ユダヤ人の庭と異邦人の庭とを仕切る壁。それを越えた異邦人は殺されると書かれていた」。
今朝の聖書箇所の冒頭の11〜12節にも敵意が見え隠れしています。ユダヤ人は異邦人を無割礼の人々と蔑んだ。イスラエルの国から除外した。そのような敵意は敏感に伝わるものです。そしてユダヤ人が異邦人に敵意を抱いたのと同じ、いやそれ以上かもしれません、異邦人もユダヤ人に対して敵意を抱いたのではないでしょうか。自分を守ろうとする壁、それは時に敵意という隔ての壁となって、人と人、さらには国と国、あらゆるシーンで対立、戦争をもたらすものだということを痛感させられます。
しかし、イエス・キリストがこの世に来られました。イエス・キリストは肉において、この地上での一生涯を通して、まさに十字架に至るまで、言葉と行動によってこの敵意という隔ての壁を打ち壊して平和を作り出すわざを行われました。そして自分たちを守るために、その性格を変質させてしまた律法を廃棄され、そして律法を成就したのです。旧約聖書の律法は、むしろ外国人に対する平等の愛、親切を繰り返して命じられています。「在留異国人を苦しめてはならない」とはっきり命じています。イエス・キリストは余計なものはすべて廃棄して、「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」と、律法をこのように要約し、成就されたのです。
私たちはどうでしょう。自分を守る、信仰を守る、それはとても大切なことですが、いつの間にか様々な決まり事を設けて、周りに対して壁を作ってはいないでしょうか。その壁が敵意となっていないでしょうか。その敵意は相手に敏感に感じ取られるものです。さらにお互いに敵意を抱くものになります。その逆は好意、愛することです。
2章17節 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。
キリストはこの世に降られ、その生涯を通してこの平和の福音を伝えられました。そして十字架の死と復活、昇天の後に、キリストの霊とも言われる聖霊がこの世に降り、二つに分断する共同体の壁が崩され、全く新しい一つの共同体、教会が誕生しました。教会が誕生し、教会を通して遠くにいた者、近くにいた者、つまりすべての人々に平和を福音として伝えられて行きました。そのわざは今も私たち教会を通して継続中です。
先にも申し上げた通り、教会というものは、神さまの永遠の昔からのアイデアの中にあったものが実現したものです。神さまの夢、ビジョン、その実現です。そのアイデアはそれまで隠されていて、奥義とされていました。少し進んで3章6節にはこうあります。
3章6節 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
「一つのからだに連なり」とありますが、16節に戻りまして、ここにも「この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて」とあります。この「新しい人」といわれる「作品」は一体なんなのでしょうか。
結論から言うと、これは「ひとりのかしらキリストの、ひとつのからだである『教会』」のことです。
すべての人が福音を聞き、そしてキリスト・イエスの十字架を信じることによってのみ救われる。そしてユダヤ人も異邦人も、つまり世界中すべての人が一つのからだに連なって、ともに神の御国を受け継いで、神の御国、天国で永遠に平和に過ごすのだという神さまの約束にあずかる。これが神さまのご計画です。教会の誕生によって、私たち教会の姿を通して、神さまの奥義・ご計画というものがはっきりとこの世に表現され、また表現されているのです。
教会は、罪人を材料にして、ただ恵みによって用いられ作られた神さまの作品です。作品は作者の意図や考えを表現するものです。その作者である神さまの意図とは「神の国」です。
神の国はどんなところなのでしょうか。そこは、神と人とを隔てる壁、敵意がキリストの十字架によって滅ぼされた結果、「神は裁く方で私は裁かれる者」、このような関係ではなくなり、神と人との完全な平和、和解があります。
教会はキリスト・イエスによって救われ、恵みによって賜物として神さまとの完全な平和が与えられた事実を、完全な平和をもたらされた教会の姿を通して、この世に神の国をはっきりと表現していくのです。
そこには一切の争いも差別もない。赦し合い、愛し合う姿。奴隷と主人が肩を組んでいる。敵と味方という関係がもはやそこにはない。差別や争いに満ちたこの世にあって、そのような教会の姿は、この世の人々にとってはまるで理解できないことかもしれません。
ちなみに聖書には「寄留者」と出てきますが、英語で何と訳されていると思いますか? 何と「エイリアン」です。聖書は、私たちキリスト者は「地上では旅人であり寄留者である」と言います。この世の人々から見て、私たちクリスチャン、また教会の姿、日曜日毎に集まって礼拝を献げ、お互いを神の家族、兄弟姉妹と呼ぶ。そのような姿は端から見てエイリアン、地球外生物のようにまるで理解できないものなのかもしれませんね。だからこそ、この世の様々な争いや差別に傷つく人々は、教会に何の差別も敵意も感じられないことを見るならば、そこに救いを感じ、神の国を求めるようになるのではないでしょうか。それこそ神の作品である教会に備えられた良い行いなのではないでしょうか。
2章18節 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
14節から歌われた讃美歌は、18節をもって締めくくられます。一人にひとつのからだ、一つのからだには一つの霊があるように、教会はキリストを通して一つの御霊を持つ一人の人格として神さまに近づくことができる。公同の教会として「天におられる我らの父よ」「アバ、父」と親しく近づくことができる。素晴らしい信仰告白、賛美ではないでしょうか。
19節からは、「こういうわけで」として、そこから導き出された結論が述べられていきます。
異邦人はもはや聖徒たち、もともとの神の選びの民であるユダヤ人と同じ、イスラエルという神の選びの民が暮らす神の国の民とされているのだから、国民としての権利をすべて受け取ることができるようにされているのだ。そればかりではなく、神の家族とされているという大きな恵みが高らかに宣言されています。この神さまの宣言に、私たちは小さな子どものように素直に信じて「アーメン」と感謝して答えましょう。
さらに20節からは、もう一つの結論として、教会を一つの建物として語られて行きます。
石が用いられているのはその土地の文化からでしょう。日本の文化の中で言われるなら「大黒柱」でしょうか。最近では大黒柱がない家が多いですが、大黒柱は日本の伝統的な木造建築では最も重要な役割を担う通し柱です。家の中央にあって、一番最初に立てる柱です。ペテロの信仰告白、初代教会の信仰告白、さらにその信仰に加えられてきた多くの聖徒たちが私たち教会の「梁」でしょうか。上からの荷重を梁が受けて、梁から伝わるすべての荷重を大黒柱であるイエス様が受け止めて支えています。また東西南北4方向からの荷重も大黒柱に集中し、全体をしっかり支えています。昔から地震が多く発生する日本の地で、大黒柱がある家は幾多の災害にも耐え、長い年月に亘って建物を存続させることができています。大黒柱がある家に暮らす人々にとって、この家はどんな大きな地震が来ても壊れることはないという安心感を感じることができて、また大黒柱は家の主の象徴でもあります。そのような家に暮らす家族にとっては、大黒柱は心のよりどころでもあるでしょう。
「このキリストにあって」、からだや建物に喩えられている教会は成長していくのです。数的なものばかりでなく、キリストの身丈に達するほどに霊的にも成長していくのです。信仰告白に加えられる人、その人が一番生き生きと機能するところに、必要とするところに神さまの御手によって組み合わされていく。
ある先生は、神の国についてこう言われました。「神の国は、みんなが活かされて、喜んでいる世界だ。今の世界は、誰かが喜ぶために誰かが悲しむ。誰かが活かされるために他の誰かが殺される。誰かが勝つために誰かが排除されている。それは神の国ではありません」。
先週は雨による大きな被害が起こりました。最近は地震などの災害や疫病が猛威を振るっています。その中で、先日いただいた「世の光」の中である先生が書かれていたことに目が留まりました。「東日本大震災からの復興のキーワードは『寄り添う』でした。ところがこのコロナ禍での対応は「ソーシャルディスタンス」です。心と体は一体なのに、体は離し、心は寄り添わせるという難しい生き方が求められている」。確かにそうです。
さらにまた、終わりの時、人々の愛は益々冷めていくことになるでしょう。益々心と心は離れてしまう。このような中で、私たちは神さまの願いに従って、すべての人々が救われることを願い、平和の福音を証し、神の国をこの地上で表現していくために何ができるでしょうか。
私たちはここで、大きく息を吸って、神さまの恵みを改めて思い起こし、覚えたいと思います。
2章22節 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
聖書には「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。For all nationすべての民のための祈りの家です。キリストにあって神さまとの平和をいただいている私たちは今から、平和な心をもって、すべての人ために祈ることから始められるのではないでしょうか。この「すべての人」の中には自分自身もいるし、そこから始まって、どんどん広がって世界中の人がいます。祈りの中で自分にできることが示されたなら、それがたとえどんなに小さなことであっても、どんなに小さな決心であるとしても、それは神さまによって用いられるものだと信じて行ってまいりましょう。なぜなら私たちは神さまの作品のワンピースなのですから。ピースの集まりである教会が一つとなって、御霊に示され導かれ、私たちの良い行いを通してこの世に神の国を表現していくものでありたいと祈らされるところです。
イエス様は言われました。「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ149)。私たち教会を見た人々は、神の国を見ることになるでしょう。今、私たちの周りの人は私たちの中にどんな神の国を見ているでしょうか。平和でしょうか、争いでしょうか。好意でしょうか、敵意でしょうか。愛でしょうか、無関心でしょうか。
お祈りをいたします。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。礼拝が守られたことを感謝いたします。私たちはこのようにして宮の中で安全に礼拝が守られましたが、このコロナ禍において、また災害によって、さらに世界に目を向けてみましても、人種差別や、貧困や、飢え、争い、そういったものに満ちた世界であります。その中で危険にさらされ、また犠牲となられてしまった方々がおられることを覚えます。主よ、憐れんでください。みことばに励まされ、神さまの御心に従って、心を寄り添わせ祈ることなど、どんな小さなことでも神の国を表現するために、何か実際に行動できますようにお導きください。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。