2020年8月16日 主日礼拝「パウロのあいさつ」
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙1章1〜7節
説教題
「パウロのあいさつ」
今週の聖句
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。
ローマ人への手紙1章5節
訳してみましょう。
2221 Use caution and grace when straightening out someone who has strayed.
2222 Nothing is more awesome than to know God.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 1番「神のちからを」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌 529番「ああうれし」
聖 書 ローマ人への手紙1章1〜7節
説 教 「パウロのあいさつ」佐藤伝道師
讃美歌 502番「いともかしこし」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
動画はこちら
※途中で停止してしまったようです。音声も録音されていませんでした。文字でお読みください。
説教「パウロのあいさつ」
佐藤伝道師
昨日は「終戦の日」でした。1945年から数えて75回目を数えることになります。私の祖母や父が生きていた頃は、戦争で亡くなった私の祖父の戦友、またその子ども世代の方々から、良く戦争の悲惨さ、戦時中の苦労話を聞きました。祖母も亡くなり、父も亡くなり、この頃は戦争の話を聞くことは殆どなくなってしまいました。「戦争の証し人がいなくなる頃に、また戦争が起こると言われている」と、先日車の中のラジオでどなたかの言葉を紹介していました。平和に対する感謝がなくなった時に、再び戦争が起こってしまうのかもしれません。戦争体験者がその証しをする時、戦争をしたいなどと思っている戦争体験者はいないでしょうし、その人が証しをする時にはきっと人一倍「平和」への思いが強くあるのではないでしょうか。「あんな悲惨な戦争などしてはいけない」と、強い平和を求める訴えが込められた真実な証しは、それを聞く人たちを平和の中に留まらせるものだと思います。戦争体験者が語る真実な証し、それはずっとこれから先も、戦争を知らない人々が平和とか、平和の意味さえも見失ってしまわないように、そしてその平和の中に留まっていられるように語り継がれていかなければならない、本当に大切なものであることを覚えさせられます。
本朝与えられましたみことばは、ローマ人への手紙1章1〜7節です。ローマ人への手紙の最初の部分です。ローマ人への手紙全体を見てみますと、この手紙はパウロの実体験から出た証しでもあるな、と感じました。パウロが自分のの知識とか体験から語る真実な証しから、キリスト者はたくさんの大切なことを教えられ、整えられてきたのだろうと思います。実際に宗教改革者のルターも、この手紙を通して信仰の迷いから救い出され、真の信仰、希望、確信を見出し、そしてあのような大きな業を成したのです。
今日からローマ人への手紙を見ていきたいと願っていますが、私たちもこの同じ手紙を読んで、同じ力を得させていただけるのではないでしょうか。そのようなことを期待しながら、今朝も祈りつつ、神さまに期待しつつ、神さまの語りかけをいただきましょう。
7月最後の説教で、パウロのローマ行きがいよいよ実現するか、というところを見ました。パウロは文化と政治との中心である当時の世界の首都ローマで福音を証しすること、そしてローマにいる同じ信仰の友たちとの交わりを持つことをずっと望んでいました。しかしそれは単にパウロ一人の夢であるだけではなく、実は世界宣教における神さまのご計画でもあったというところにも触れました。
パウロの宣教戦略と言いますか、神さまがパウロに示した宣教計画なのでしょうが、見てみると、大きな町、商業や文化、あるいは偶像礼拝の中心地がターゲットになっているようです。そこに住む人たちがキリスト者となって、さらに整えられて、整えられたキリスト者がキリストの弟子とされて周りの町々に遣わされ福音が広められていくというものです。ですから当時の世界の首都とされていたローマという町は、パウロにとって重要な位置を占めていることが分かります。それでこの手紙が分厚くなったのかもしれません。
この手紙が書かれた目的というものを、色々な学者が色々な説を立てていますけれども、冒頭でも申しました通り、これはパウロの証しであると思います。
パウロはそれまで、ローマに行ったことがなく、当然、手紙の読み手であるローマの人たちとは、殆ど面識がありませんでした。これから始まろうとしてるローマを足がかりとしての世界宣教に向けて、「さあこれから」という時。
ところで、当時の「世界の果て」というのは、スペインのことでした。世界の果てにまで福音を。スペインに福音を。そのためにローマの教会の協力が是非とも必要でした。協力を得るために、まずローマのキリスト者たちに自分自身を知ってもらうために、事前に自己紹介が必要だと考えたのではないでしょうか。パウロの伝道者としての自己紹介は、自分が経験して、そして聖霊に示されて得た福音理解、真実な証しを整理して述べることでした。証しを通して、自分は誰で、どのような者かということを聞く相手に分かってもらうためのものでした。その証し、自己紹介を通して、聞く人たちはなるほどと思わされたり、神さまの素晴らしさを覚えたり、新しく教えられたりということが起こるのではないでしょうか。教会では証しが自己紹介となり、それが相手に大切な何かを感じ取らせる、分からせる、このような図式が成り立つように思います。
ローマ書全体の構造を見てみると、次のようになっていることが分かります。
1〜3章では「人間の罪」を扱い、「どれほど私の罪と悲惨が大きいか」が示されます。
3〜11章では主イエス・キリストによる救いが教えられ、「どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか」が示されます。
そして12章の冒頭では「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と語ってから、最後の16章までで救われた者の生活について、「どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか」が示されます。
この流れは、まさにパウロの人生全体の順序を表しているように思います。パウロはパウロ自身の生きた証しを通して、順序立てて、整理してローマのキリスト者、また私たちに重要なことを教えようとしていることが分かります。
そして、ローマ書はローマという巨大な異邦人の都市で暮らすキリスト者、そこには迫害で逃れてきたユダヤ人キリスト者もいれば、異邦人クリスチャンもいたでしょう。育った環境が違ったり、そのために信仰の土台も違っていたでしょう。現代も多様化と混乱の時代の中にありますが、現代のここに生きる私たちも、もしかしたらローマのキリスト者たちと同じような問題に直面して悩んでいるかもしれません。それだけに、このローマ人への手紙は今の私たちに対する手紙でもあり、神さまからのメッセージであると言うことができるのではないでしょうか。パウロは私たちに対して、あいさつから手紙を始めます。あいさつの役割は、相手の心を開いたり、「掴みはオッケー」ではないですが、相手の心を掴むものです。
本朝はこのパウロのあいさつの部分、つまりローマ書の導入部分を見て行きたいと思いますが、その内容はもの凄く濃いもので、実はローマ書全体の「序論」とも言える、本当に大切なところです。重要な本論に入る前に、私とは何者か、イエス・キリストとは何者か、あなたは何者かを示しています。
ところで、重要な本論、それは神さまからのことばであり私たちに対する神さまからのメッセージです。それは本来、私たちに悔い改めを迫るものです。その際に、絶対に忘れてはならない前提というものがあります。それは、私たちは神さまから愛されているということ。
子どもを叱るとします。感情的にただダメだと叱ってみても駄目でしょう。なぜあなたが叱られるのかをきちんと説明しなければなりません。また叱られる根底に愛が感じられなかったら、子どもはただ反発するばかりで何の益にもならないでしょう。同じようにこの手紙を「神さまからの愛の手紙」として読まなければ、その内容のすべてを正しく理解することはできません。
そして神さまからの愛の手紙の書き出し、あいさつはこのように始まります。
1章1節
神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
パウロはここで、自分の主人がイエス・キリストであり、自分はしもべ「奴隷」だと自己紹介します。そしてパウロは、自分は神に召され遣わされた使徒であると言いました。「使徒」とは、送られた者、派遣された者、使者とか使節という意味です。使徒は自分を遣わした方からの重要なメッセージを携えて、間違いなく伝えるという任務を負って遣わされます。パウロに委ねられたメッセージは「神の福音」でした。神はパウロを使徒として召し、神の福音という特定のメッセージを委ねて、異邦人に遣わされました。
一気にとびまして7節
1章7節
(このパウロから、)ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
本来ならあいさつは、この1節と7節のはずでした。この2つの節で、パウロはローマ教会のクリスチャンたちにあいさつを送るつもりだったのでしょう。ところが、自分は神に愛されて召された使徒であるという強烈な自覚のあるパウロは、「神の福音」と書いた途端に、もう黙ってはいなれなくなのでしょうか、2節から大きく脱線してしまうのです。
1節から7節は、原文のギリシャ語では一気に、一切の区切りなく書かれています。ここにパウロの性格が良く表れていると思います。しかしその結果、パウロは止められずに書き進めていく中で自身の考えが深まって行き、ついには「ローマにいる方々、だからあなたがたは神に愛されている人々なのです、神に召された聖徒なのです」と言わずにいられなくなったのではないでしょうか。そんなパウロの息づかいが感じられて、私はとても感動しました。手紙の読み手も感動したのではないでしょうか。結果的に「掴みはオッケー」となって、素晴らしい手紙の書き出しとなったのでしょう。
1章2節
この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1章3節
御子に関することです。
福音とは何でしょうか。突然そう問われたら、とっさに一言で答えられるでしょうか。私は学院での弟子訓練の最初の授業で「福音とは何ですか」と急に問われて、あのみことば、このみことばと、どぎまぎして答えられませんでした。「福音とは『イエス・キリスト』です」という、とてもシンプルなものでした。
福音とは、御子イエス・キリストに関する良い知らせです。イエス・キリストこそ福音そのものです。このイエスこそキリスト、メシヤ、救い主であるという良い知らせです。そしてその良い知らせは、パウロや他の誰かが勝手に考え出した思想でない。旧約聖書にあらかじめ預言されていた約束の成就としての福音です。新約聖書は、旧約聖書からベールが取り除かれたものであると言われますが、旧約聖書39巻すべてにぼんやりと描かれていたメシヤ、イエス・キリストが、ついにベールが取り除かれてはっきりと描かれたものが福音書、良い知らせの書であり、また新約聖書です。3節後半からは、福音であるイエス・キリストについて短く、それでいてとても深く記されています。福音の核心が明らかにされています。さすがパウロです。イエス・キリストの歩み全て、その力、働きを、地上と天上の二段階に分けて見事に述べています。
1章3節
御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1章4節
聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
読み手はイエス・キリストを信じて、イエス・キリストの生涯でなされたみわざ、語られたみことば、そして十字架と復活を信じてキリスト者となった人たちですから、イエス・キリストとはどのようなお方なのかを改めて示すためには、これで十分だったのでしょう。いや、これこそ改めて覚えておくべきことだったのでしょう。私たちもこの箇所を理解しようとするなら、今朝も告白しました使徒信条を思い浮かべながら読むなら、そのすべてが分かるのではないかと思います。そして私たちは、イエス・キリストの地上での歩み、十字架と復活という歴史的な出来事に込められた神さまの御心、愛を知り、信じることによって、初めて「私たちの主、メシヤ、救い主キリスト、それはこのイエス様です」と告白できるし、告白できる者とされているのです。
1章5節
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。
ここでパウロは、自分を含めた「私たち」と言い、パウロと、そしてローマの教会の共通する身分、働きの対照、目標を明らかにしています。
「恵みと使徒の務め」と難しい言い回しで言われていますが、これは重言法と呼ばれるもので、私たちも良く使うものです。「頭痛が痛い」とか「一番最初」、「尽力を尽くす」とかと同じです。二つの言葉を重ねて一つの重要な概念を表現するものです。今の身分、使徒という務めを受けたのは恵みによってであり、パウロにとって恵みとは使徒の務めを受けたことであると言っています。そしてその働きの対照は「あらゆる国の人々」で、新改訳2017、また新共同訳では「すべての異邦人」と訳されています。その目標とすることは、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためでした。
「信仰の従順」と聞いて、私は何かもやもやしました。もやもやした所は原文をあたりなさいというのが神学校の先生の教えでしたので、調べてみました。すると訳されているところの直訳は「信仰の従順へ向かって」です。それでも分かるようで分かりません。しかし考えてみると、従順と関わりのない信仰はないですし、信仰と関わりのない従順もあり得ません。信仰は必ず従順へとつながり、従順は必ず信仰から生まれるものでしょう。それでパウロは信仰と従順をほぼ同じ意味で使っているのではないかと思います。神さまは、イエス・キリストに対する信仰、従順、すべての人が本物の信仰を目指して生きて行くことを求めておられるのでしょう。そしてすべての人を救われたいと願われている。その願いを伝えるために使徒は遣わされるのです。
恵みによって、神さまのご計画によってパウロは選び出され、召され、その神さまのご計画の中に召されるという恵みをただ受け入れて、神さまの御心に従って行くことが信仰の従順でしょう。信仰・従順によって遣わされた所で、信仰・従順をもたらす。そこで信仰・従順に召される者が興され、さらに信仰・従順をもたらすために遣わされて行く。異邦人の中にキリストの弟子が増やされ、増やされた弟子たちによってさらに弟子が増やされていく。そのように異邦人の間に神の福音、御子イエス・キリストに関する良い知らせがどんどん広がっていく。その先々で罪の赦しを宣言し、福音を、イエス・キリストを信じる者が不幸な罪の奴隷、永遠の滅びから解放されて、幸いなイエス・キリストの奴隷、永遠のいのち、そして神の福音を携えて出て行くことへと召される。それが神さまの御心、神さまのお考え、神さまの思いへと召されること、思し召しなのではないでしょうか。
1章6節
あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、−−このパウロから、
1章7節
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
あなたがたも、すなわち私たちも、それらの人々の中にあって、異邦人の中にあって、イエス・キリストによって召されたのです。パウロと同じように、神に愛され、イエス・キリストによって召されているのです。
「聖徒」とありますが、これは1節の「神の福音のために『選び出された』」と言葉こそ違いますが、同じ考えから出てくる言葉です。「聖」「聖い」とは、本来この世から別の所に取り分けられたものという意味があります。私たちはこの世から選ばれ、取り分けられ、聖徒とされている。それは「神の福音のために」です。
「選びの器」という言葉が良く使われますが、日本が誇る「三大陶磁器」をご存じでしょうか。美濃焼、瀬戸焼、有田焼だと言われています。他にも色々ありますが、優れた焼き物の産地の材料によって器の価値が決まります。他に100均の器があります。しかし、どれを買うか、どこで使うかは選ぶ人の自由です。料理人であれば、料理が一番引き立てられる器を選ぶでしょう。料理が一番引き立つのであれば、食べる人が喜ぶのであるなら、美濃焼でも、100均のかわいい器でも関係ないはずです。同じように、神さまは神の福音のため、自由に私たちを選ばれたのです。そして一番ふさわしい所で用いてくださっています。
そして、パウロの自己紹介がありましたが、私たちはもっとたくさんのパウロのことを知っています。使徒の働き22章でもパウロは自己紹介をしていますが、そこから分かることは、パウロはキリキヤのタルソ生まれのユダヤ人、ギリシヤ語を話し、この町で育ち、青年時代にはエルサレムの高名なガマリエルのもとに留学し、律法について厳格な教育を受けて、神に対して熱心な者でした。その熱心のゆえにキリスト者をどこまでも追いかけて迫害しました。もの凄くしつこい人です。ひっくり返せば人一倍熱心と言うこともできるでしょう。そして新しい宗派はユダヤ教にとって、とても危険だということが分かっていたのでしょう。それでつぶしにかかったのです。それもひっくり返せば、新しい宗派の本質を見抜いていたということではないでしょうか。パウロはいわゆる天才、ゆえにスムーズな人格ではなかったようです。性格は激しい、頑固、悪く言えば偏屈。もし私たちの近くにいたら、一緒にいて気持ちの良い人だったかどうか。そんなにハンサムでもなかった、背が低かった。目で見て分かるくらいの病気をもっていたようです。そんなパウロが、突然、主によって召されたのです。多くの弟子がいたにもかかわらず、異邦人の使徒、それになるのに相応しい唯一の人として、主によって召されたのです。その後、最も影響力のある宣教師、とりわけ異邦人伝道の担い手として多くの苦難や投獄を経験しながら神さまによって大いに用いられたことは私たちも良く知るところでしょう。
パウロに与えられていたすべての賜物、ローマの市民権を持っていたとか、ギリシヤ語が話せたとか、律法の専門家であったとか。またパウロの性格、人生の背景、その中で培われてきた人格。見た目も病気も、神さまは人間の、あるいは信仰者の目から見て決して良いと思えないものであっても、すべてご存じの上で、パウロを使徒として最もふさわしい者として召されました。それをパウロ自身、ただ神の恵みであると認めています。そしてその召しに、思し召しにパウロは信仰によってただ従順に従いました。
私たちはどうでしょう。パウロを通して神さまは「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です」と言われ、「神に愛され、神に特別に顧みられて、つまり恵みによって召された聖徒、神の福音のために特別に取り分けられた者たちであるのだよ」と言われるのです。
私たちはあの偉大なパウロとはまるでかけ離れた存在だと思われるでしょうか。しかし現実として、事実として、私たちもパウロと同じように、私たちのすべてをご存じの神さまによって選ばれ、召され、一番ふさわしい所、世に遣わされた者たちであることを忘れてはいけません。弱いと思うところが用いられる。私たちが経験したことを通してでなければ伝えられない神の福音があるのです。神の福音が一番引き立てられる器として神さまの御手によって選ばれているのです。そのような自分の召しというものを受け入れて、神さまの御心に従って行くことが、信仰の従順なのではないでしょうか。信仰は必ず従順へとつながり、従順は必ず信仰から生まれるのです。
こんな美しい詩があります。作者は分かりません。
「神が置いてくださったところで咲きなさい。仕方がないと諦めてではなく「咲く」のです。「咲く」ということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにするということです。「咲く」ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が『私は幸せなのだ』ということを示して生きる、証しして生きるということなのです。“神が私をここに置いてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだ”と、あなたのすべてが語っていることなのです。」
神さまが置いてくださったところで、今日も生かされて行きましょう。人の目には場違いとしか思えなくても、神さまのなさることに間違いはありません。置かれたところで美しく、私たち自身が幸せに咲くこと、そして他人の心をいやし、幸せにするような花であること、そのような生き方をすることが、信仰の従順をもって生きるということかもしれません。
パウロはエルサレムから遠く離れたローマにも、神の民として召された聖徒たちがいたことを知って喜びに満ち、どうにかして彼らのところに行きたいと願いました。異邦人への使徒として、異邦人にどうしても教えたいことがあったからです。パウロは、彼らがキリスト・イエスとともに、恵みと平和のうちにとどまることを願って、そのために生きました。私たちも同じキリストにある兄弟姉妹のために、そしてまだ救われていない人々の平和と恵みを祈り求めて、そのために力を尽くしてまいりましょう。神さまはその務めを果たそうとする者を導いてくださり、そのための必要を全て満たして、また今私たちが持っている全てを自由に、存分に用いてくださいます。
1章7節
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
パウロはそうあいさつを閉じてから、いよいよ本論へと入ろうとしていきます。