2020年9月13日 主日礼拝「罪の悲惨」
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙1章18〜32節
説教題
「罪の悲惨」
今週の聖句
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
ローマ人への手紙1章28節
訳してみましょう。
2029 God’s timing is perfect — every time!!1
2030 The best way to escape temptation is to run to God.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 4番「よろずのくにびと」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌 250番「つみのちから」
聖 書 ローマ人への手紙1章18〜32節
説 教 「罪の悲惨」佐藤伝道師
讃美歌 262番「十字架のもとぞ」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
動画はこちら
説教「罪の悲惨」
ローマ人への手紙1章18〜32節
佐藤伝道師
最近のニュースでこんなことが報じられていました。またコロナ関連のことでほとほと嫌にはなりますが、4月の緊急事態宣言の発令でテレワークによる在宅勤務が普及したことに関して、在宅勤務は出社勤務に比べて自由度が高いため、当初は働き手への負荷が少ないと考えられていましたけれども、しかし最近は、在宅勤務が原因のひとつとなって、逆に疲れ切ってしまったり、心を病んでしまったりして、若い人たちの休職に至る事例が増えてきているのだそうです。
私も先週、月曜日から4日間、補教師研修会に出させていただきました。本来ならば静岡県にある浜名湖バイブルキャンプというところで行われるはずでしたが、コロナの影響でオンラインでの開催になりました。長距離の移動とか、集団行動ならではの気疲れ等はなかったはずなのですが、私は何故か初日から疲れてしまって、4日間が終わってみるともう本当に疲れ切ってしまい、金曜日は一日伏せってしまいました。
のびのび自由で良いはずなのに、その自由によって、かえって心や体に悪い影響が出てしまう。そんな経験を私自身がしてみて、先のニュースの中の出来事が少し理解できたような気がしました。世の中は自由こそ良いことだ、都合が良い。そんな考えが当たり前のようにあるようですが、自由が必ずしも幸せをもたらすものかと言うと、どうやらそうではないようです。
私たちは今朝も、仕事や普段の家のことから解放されて自由であるはずの日曜日の午前中、こうして教会に集って神さまに自由をお献げしていますけれども、これは不幸なことではありません。神さまから祝福という幸いをいただける素晴らしいひとときです。この幸いな時、私たちの心と目を上に向けて、神さまを仰いで心からみことばを味わい、福音の喜びをともに賜りましょう。
何度もキャンプの講師をされた先生がどこかで仰っていたのですが、キャンプでは面白い現象が起こるのだそうです。子どもたちや青年たちが、思いっきりゲームを楽しんだり、踊りながら賛美をした後に、さぁメッセージをという時になると、みんな椅子に座って姿勢を整え始めるのだそうです。腕組みをして、下を向いても苦しくならない首の位置を探してみたり、友だち同士でもたれ合いながら寝る準備に入るのだそうです。ところが、聖書の中の罪人たちの姿を紹介しだすと、何か雰囲気が変わってくるというのです。顔が段々と講師に向けられてきて、耳をそばだてて聞き始めているのが伝わってくるのだそうです。何度もそのような経験をされて教えられたそうです。「聖書の中に自分を見出し、神さまがみことばを通して自分に語っているという経験をするのは、偉人伝や成功談、美談のようなところにあるのではない。むしろ惨めで、悲しくて、どうしもなくて、身につまされるほどの罪と過ちの現実を聞かされることの中で経験をするのだ」。聖書を読んでいて、私たちにもそのような感覚があるのではないでしょうか。聖書の中の罪人の姿を通して、自分の罪の悲惨さというものを知って初めて、神さまの愛、恵み、十字架の赦しが本当に自分のものとして迫ってくる。そこで神さまを仰ぎ、神さまとの本物の良い関係が築けるのではないでしょうか。
パウロは今日の箇所から、いよいよ罪について語り始めます。罪の中にある人間の惨めで、悲しい現実を手紙の読者にこれでもかと教えるのです。
そして1章18節から32節までは「異教徒の罪」が語られます。しかしこの手紙の読者はローマという異邦人世界に住む、すでに救われたクリスチャンです。異教徒ではありません。敢えて言うなら「元異教徒」でしょう。元異教徒である彼らに、なぜパウロは異教徒の罪をわざわざ思い出させるように説明するのでしょうか。パウロは異教徒の罪を示すことによって、実はこの罪は、手紙を読んでいるあなた自身の内にまだ根深く残っている罪でもあるのだと気付かせたかったのではないでしょうか。「彼ら」とパウロは何度も用いていて、最初、それは確かに異教徒を指して言っていました。でも最後の方になると、何やら「彼ら」が異教徒ばかりでない誰かをも指しているように変化しているのに気付きます。そして読者は気付いたのでしょう。「彼ら」とは自分たちである。そしてここに書かれている罪とは、私の内にまだ根深く残されている罪であることに気付かされたのだと思います。
パウロはローマのクリスチャンたちに、また同時に聖書は私たちに、罪の悲惨な現実をまざまざと見せつけて、気付かせて、私たちをただ痛めつけようとしているのでしょうか。この手紙は読者であるローマのクリスチャンたちを励まし、ますます主の福音宣教のために用いられる器として整える目的で書かれたものです。「整える」とは「網を繕う」という意味の語なのですが、傷んでほつれてしまっている所、破れてしまっている所を修繕するということです。今の現状に満足していては、さらなる成長は望めません。パウロは読者であるクリスチャンが、キリストの身丈にまで立派に成長することを心から願ったのでしょう。
ところで、皆さんはNHKの朝の連続テレビ小説「エール」をご覧になっていますか? 主人公の妻「音」さんの実家は、どうやらクリスチャンの設定のようです。ところが日本のドラマあるあるでしょうけれども、あまりクリスチャンらしい表現がされていません。この前なんて、事故で急に亡くなってしまった音さんのお父さんが、地獄のえんま様からお許しをいただいてこの世に帰ってきたなんていうお話しがありました。白装束を着ておでこには三角の布を付けた幽霊となって家族の前に姿を現したのですが、このどこにクリスチャンを感じさせるものがあるのかと思わされましたが、唯一、その幽霊のお父さんが、どこか聖書的を感じさせる良いセリフを言いました。「自分の負けを素直に認めて初めて人は成長できる。そこから新しいことにチャレンジできるのだ」。今朝、パウロが言おうとしていることもこのことなのではないでしょうか。
さて、18節から「異教徒の罪」が語られます。パウロは読者に対して、「異邦人の罪」をドンと突きつけるわけです。ここを読んで、すでに救われている読者は「そうだ、そうだ」と、救われる以前の過去を思い出して深くうなずけたのではないでしょうか。特に20節から23節は、日本という異教の地に住む私たちが経験したことでもあり、深くうなずける内容だと思います。ここは「一般啓示」と呼ばれるもので、神さまのご性質、特に日本人は太陽や月、星を見上げてつい拝んでみたり、山や大木に神々しさを感じて、それ自体を神として崇めてみたりしますけれども、そのように神さまが創造された自然界、あるいは人間の良心によって人は神さまを知る事ができるのだというものです。なので「私は神など知らない」という言い訳、開き直りは許されないのです。
今日の箇所の前半で心に留まるのは、やはり18節ではないでしょうか。
1章18節 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
「というのは」とありますが、それはどういうのでしょうか。それはひとつ前の17節でいわれていることです。「『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。人は信仰によって神さまに義と認めていただかなければ、そして神さまによって義とされた者は、信仰によって地上の生涯を歩むのでなければ、罪に満ちたこの世で生きて行くことはできないということです。なぜなら、神さまは義なるお方だからです。神さまは「どんな小さな悪であろうとも、悪は必ず罰する」という完全な正義をお持ちの方だからです。
神の怒りが天から啓示されているとありますが、この神さまの怒りというものは、神さまご自身に対する人間の不敬虔と不正に対してのものであることが分かります。1章5節には「信仰の従順」とありますけれども、不敬虔と不正とはこの反対であると言って良いのではないでしょうか。ご自身に対する不信仰、不従順。しかもそれらは「不義をもって真理を阻止している」、人間が意識的に神さまに反抗し、頑なまでに神さまを受け入れようとしない不信仰、不従順です。神さまを見上げようともしない、無視を決め込んでいる。これらに対して神さまは怒りを示されるのです。そして「不正」と訳されている語は「不正義・正義ではない」という意味の他に、実は「傷つける」という意味もあるのです。神さまは人間の不信仰、不従順に対して傷つくお方。決して平気ではないお方。私たちの不信仰、不従順は神さまの御心をひどく傷つけ、悲しませるものなのです。悲しみを通り越して怒りさえ覚えるほどのものです。私たちはかつて神さまに逆らい、御怒りをうけるべき子らであったと聖書ははっきりと言っています。しかしこの御怒りというのは、「わたしはねたむ神である」と神さまご自身が仰っていますが、私たちをねたむほどに愛しておられるということの表れなのです。
ところが、人間は自分の欲望を満足させるために、神さまのこれほどまでの愛に背を向けて、神さまから目をそらして、神さまの御手を振り払って、神さまのご支配を嫌って、その中から出ていこうとしてしまう愚かな性質を持っているのです。
【イザヤ書53章6節】
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
この聖書箇所は、人間の罪を表現する代表的なみことばです。聖書が言う人間の罪とは、羊のようにさまよい、神さまに背を向けて、それぞれ自分勝手な道に向かって進み出ていくこと。羊が目の前にあるおいしそうな草だけを見つめて、一心に草を貪り、さらにさらに、もっともっとと、おいしそうな草を求めて囲いの外に出て行ってしまうような人間の貪欲な姿。自分の肉の欲のままに、したいようにする、自分が生きたいように生き、どこかに向かって自分の望むままに歩いて出て行ってしまうことを聖書は罪と言うのです。そして偶像を作るのです。25節にある通り、「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」であるのに、人間は神の真理を偽りと取り替えて、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えてしまうようになるのです。偶像礼拝の罪です。聖書は言います。「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲がそのまま偶像礼拝なのです」(コロ35)と。私たちの偶像礼拝に対して神さまは怒られ、さばきを下されるのです。
神はどのようなさばきをもって怒りを下されるのでしょうか。それは24節にあります。「そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました」。26節にもあります。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」。さらに28節にもあります。「また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました」。
神さまのさばきとは、人を罪に引き渡してしまわれること。欲望のなすがままに任せてしまわれることなのです。
私たちを取り巻く、今を生きる人々を見て下さい。まさに26節以降に描かれている、悲惨な人間の姿そのものではないでしょうか。このような人間の姿は、神さまが創造された本来の状態ではありません。しかも今のこの現状は、神さまの厳しい御手によって直接下されたさばきではなく、人間が選び取った結果なのです。造り主、神さまを仰ぎ見ることをせず、その代わりに造られたものを拝み、それに仕えた。私たち人間の貪欲、罪がもたらした当然の報いと言えるものでしょう。
1章26節 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
1章27節 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
ここで言いたいことは、単なる性的な関係が乱れているといったものではありません。神さまはこの世界を全き良きものとして創造されました。天地万物、自然を秩序をもって創造し、人間を男と女という秩序をもって創造されました。その秩序が乱れている。乱れているどころか、すべてがひっくり返ってしまっている。すべての秩序がひっくり返ってしまっている、そんな姿が最もよく現れているのが、性的な関係の乱れであるとパウロは考えたからでしょう。すべての秩序がひっくり返されてしまった。正しいとされていたことが間違っていることに、間違っていることが正しいこととされてしまっている。例えばはるか昔、人間は神さまと今よりももっと親しく交われる存在でした。神さまが創造された自然を通しても、神さまと親しく交わっていたのです。雷が鳴ればそれは神さまの声でした。先の雨、後の雨、それは間違いなく神さまからの祝福で、それこそ大まじめに天を仰ぎ神さまに感謝したものでした。それが当たり前のことだったのです。ところが今ではどうでしょう。雷を聞いて神さまの声だなんて言ったら馬鹿にされてしまいます。皆さんはどうですか。雷を神さまの声だと心底思えますか。そんな風に当たり前のことだったことが当たり前でなくなってしまった。当たり前でないことが当たり前になっている。そんな逆転現象が、神さまと人間との関係だけにとどまらずに、人と人との関係において、さらには人と自然との関係においても狂いが生じて、世の中を悲惨なものにしているのです。それは人間の罪がもたらした当然の結果、報いであるということを、パウロはここで言いたいのです。
1章28節 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
「神を知ろうとしたがらないので」とあります。人間は自分の欲望にとらわれてしまうなら、本当は神さまを知る事ができるのに、意識的に知ろうとしなくなるのです。神さまに対して完全無関心を決め込むのです。もし私たちが、心から愛する誰かに無視されたとしたら。その相手の視線が別の誰かに向いてしまっていることを感じ取ったとしたら、そのせいで自分に対する無関心を感じ取ったとしたらどうでしょう。傷つくのではないでしょうか。悲しむのではないでしょうか。怒りさえ感じるのではないでしょうか。同じようにねたむほどに私たちを愛される神さまの御心は傷つけられ、怒りを下されるのです。その神の怒りとは、彼らを良くない思いに引き渡されること。その結果、結果とは結ばれた実ですけれども、続く29節以下にたくさん記されています。
1章29節 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1章30節 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1章31節 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
これでもかというほどに、罪が人間の内に結ぶ実が記されています。
このリストを見て、この手紙の読者はどう思ったでしょう。自分の中にこれらの中のいくつかの実を見つけて、ドキッとしたのではないでしょうか。私たちはどうでしょう。ドキッとさせられるものはないでしょうか。陰口を言う、親に逆らうなんて全然大したことない普通のことと思ってしまう私がいる。そう考えると、私もまた罪の悲惨の中にどっぷり浸かっていることに気付かされます。
さらにパウロは「彼らは」と言って、これらの実を結んでいる者が誰であるかをはっきりと限定せずに続けるのです。
1章32節 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。
最初の方で異教徒を指して呼んでいた「彼ら」。ここでの「彼ら」は誰を指しているのでしょう。
何もかもがひっくり返ってしまった世の中。ひっくり返ってしまった状態が正常となってしまっている世の中で、私たちは完全に正しい者にはなり得ないのかもしれません。その中で罪を犯し、神さまを傷つけ、自分も傷つき、誰かも傷つけてしまっている。しかし、どんな悪でも罰せずにはおられない完全な正義をお持ちの神さまの前で、知らずにしてしまったことだと言い訳することも開き直ることもできません。彼らは、いや私たちは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定め、神さまの正義を知っているからです。知りながら、自らしてはならないことを行っているからです。しかもそれを行う者たちに、実は私たちは知らずして同意している、拍手喝采を送っていると言うのです。これは人間の内の本当に根深い、自分ではどうしようもできない厄介な罪の性質を言い表しているのでしょう。
では、そんな私たちが、どうしたら生きることが出来るのでしょうか。本来の人間らしく生きられるのでしょうか。
思い出してください。この手紙はパウロがローマのクリスチャンたちを励まし、整える目的で書かれたものです。いつの間にか、知らずに傷んでほつれている所、破れている所を修繕して、あるべき状態に綺麗に戻してあげるということです。罪のただ中に生き、受けてしまった傷を修復するために、パウロは厳しく断罪するのです。言い逃れが出来ないほどに、これでもかと私たちの内に潜む罪を示すのです。このみことばの前にひれ伏し、嫌と言うほどに自らの罪が示され、思い知らされる時、私たちはようやく破れた所の痛みを感じ、ようやく本当の悔い改めへと導かれるのです。そして整えられるのです。自分の罪を認め、完全な敗北を認めたときに、私たちが見上げる十字架の主イエス・キリストの「子よ、あなたの罪は赦された」との御声を真に自分にむけられた声として聞くことができるのです。その御声を聞いて、そこからまた成長に向かって立ち上がることができるのです。
私たちが罪を捨てるなら、永遠に変わらない愛をもって罪と弱さのあるままで愛して下さる神に立ち返ることがきる。神に背を向けていた私が、神に向かってまた歩き出すことができるのです。そこに十字架が立っているのです。神さまが立ててくださいました。十字架は「罪は必ず裁かれる」という神さまの正義と、「自らの罪を認め、悔い改める者には救い、赦し、いのちを与えよう、与えたいのだ」とされる神さまの愛が示されるところです。自らの罪が招いた、苦しみ、悲しみ、懲らしめの中にいる私に、神さまは悔い改めるように呼びかけて、御手を差し伸べ、赦しを与えようとそこで待ってくださっています。そのために十字架が立てられているのです。そして私たちは毎日毎日、自分が罪人だと思う限り、この十字架のもとに帰って来られるのです。主を仰ぐのです。そして私たちは整えられて、ここからまた遣わされて行くのです。
人をその欲望に任せて彷徨わせるのが神の裁きであるとしても、神は決して私たちに無関心ではありません。はらわたがわななくほどの愛をもって、いつも目を注いでくださっています。あなたは決して滅びてはならないと、万軍の主の熱心が私たちに救いの手を差し伸べてくださっているのです。彷徨い、苦しむ時、それは神さまのさばきというよりも、訓練と言えるものなのかもしれません。訓練を通して私たちをご自身の関係において整えようとされる。ご自身との関係をさらに確かなものとしようとされているのかもしれません。私たちが立ち返るべき十字架をそこに立てて、罪の赦しを用意していつでも待っていてくださる。このような信じられないほどの大きな愛を、私たちは信じられるでしょうか。
そうです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。神さまによって義とされた私たちは、ただ信仰によって生きて行くのです。
信仰とはもちろん、神さまを信じることでしょう。しかしそれだけなら「信」です。信仰には「信じる」ことに加えて「仰ぐ」ことが必ず必要となってきます。そしてこの「仰ぐ」という漢字を調べてみると、とても面白いことが分かります。「卬(こう)」という字は人が向かい合う形。上下に向かい合うときは、一人が仰向けに寝て、一人がそれを抑える形で、下から見れば「仰ぐ」、上から見れば「抑える」という関係になるのだそうです。神さまと人との関係性を見るようです。人が神さまを仰ぎ見る。神さまは天から御手をもって抑えてくださる。抑えるとはいわゆるストレスがかけられることです。しかし神さまの私たちを押さえ込む御手というのは、私たちを罪ゆえの滅びから守り、そして人生をより良く導こうとされる優しい御手によるものなのです。
「仰ぐ」と訳されたヘブル語を調べてみると、「נָשָׂאナーサー」という語があてられていました。この語も漢字の「仰ぐ」と同じく、その主体が人間である場合には、手を、目を、頭を、声を、心を上げる、lift upという礼拝用語として使われます。しかし、このナーサーの主体が神となる場合には、担う、負う、運ぶ、携える、ふところに抱く、かかえる、支える、赦すといった意味になるのです。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ4011)。ここではナーサーを「ふところに抱き」と訳しています。口語訳では「ふところに入れて携え行く」、リビングバイブルでは「抱いて導く」と訳しています。主は私の羊飼い。信仰者がこのように告白してきた、まさに羊飼いの愛、神さまの恵み、私たちに対する慈しみを感じるものではないでしょうか。
私たちが神さまを信じて仰ぎ見るならば、神さまが守り導いてくださる。祝福の内から迷い出てしまうことのないように、私たちを留めてくださる。「信仰」とは、ただ信じるだけではない、神さまと人との麗しい相互の関係を言うのではないでしょうか。このような信仰、神さまとの関係によって、人はようやく真に自由に生きることができるのです。
弱い羊である私たちは、その弱さを認めて、今日も、これからも、そしていつでも主を仰いで、主に携えられ、安全に導いていただきましょう。私たちの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためにです。