2020年9月17日㈬ルカ24章13〜35節「心は内で燃えているか」
みことばの光にそって見ていきたい。
テーマは「心は内で燃えているか」である。
交通事故に遭った直後は、誰もが冷静な判断ができなくなってしまうだろう。
「みことばの光」2020年10月号36ページ
今日の箇所の出来事は、イエス様が復活された日曜日の出来事。注解書には午後と書かれている。
その日の朝、明け方早く、女たちが準備しておいた香料を持ってイエス様が葬られた墓に行ってみると、その墓は空っぽだった。使徒たちに話したが、たわごとと思われて信用されなかった。しかしペテロは立ち上がって走って墓へ行き、事実を確かめて驚いて家に帰った。
昨日のみことばの光で最後に「信じられないこと、信じられない時があったら、立ち上がって礼拝へ、祈祷会へ行こう。聖書を読もう。祈りをささげよう。生きておられる主イエスは、そのような私たちに、必ず応えて、信じる者へと変えてくださる」と教え、終わっている。
今日はその続きであることをまず覚えておきたい。聖書の中の出来事は続きであり、また私たちの黙想も続きである。
エルサレムから11キロ離れたエマオに向かっていた二人の弟子は、師と仰いでいたイエスが十字架で死ぬという衝撃的な出来事を経験し、墓に亜麻布だけが残されていた意味を理解できなかった。彼らにとって、イエスはイスラエルを解放する方であり、死んではいけない方だった(21節)。悲しみの中にあった彼らには、イエスが生きているという報告を冷静に受け入れる余裕はなかった(23節)。
「みことばの光」2020年10月号36ページ
二人の弟子は「話し合っていた」、「論じ合っていた」。一緒に追求したという意味。その内容は主に空っぽの墓の謎についてでったであろう。復活信仰のない復活論争のただ中に、復活されたイエス様ご自身が姿を現して近づいて来た。
【聖書「ルカの福音書」24章15〜16節】
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
色々な考えが混乱している中、訳が分からなくなってしまっている中、いつからか分からないけれども、実はイエス様ご自身がともに道を歩いておられた。しかしその方がイエス様だとは分からなかった。私たちの信仰の歩みと重なるようである。
その彼らの会話にイエスが加わり、救い主について聖書が語っていることを説き明かしてくださった(27節)。
「みことばの光」2020年10月号36ページ
その前に、イエス様がふたりの弟子たちに問いかけられた。
「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」(17節)
「どんな事ですか」(19節)。
そうイエス様に問いかけられて、ふたりはこれまでの経緯を整理して順序立てて説明した。説明していく中で自分の中にあるメシア像、自分たちを悩ましている問題点を理解させられた。一旦落ち着きを取り戻し、色々なことを整理させられたのではないであろうか。問いかけ答えさせることで自らを整理させる、考えさせる、落ち着かせる。これも主のみわざなのではなかろうか。私たちもなかなか答えが与えられず、待たされる時があるが、それは主が問いかけ、整理させ、落ち着かせ、考えさせるために必要な時間なのかもしれない。
その彼らの会話にイエスが加わり、救い主について聖書が語っていることを説き明かしてくださった(27節)。イエスの活動を間近で見ていた弟子たちにも、礼拝のためにエチオピアからエルサレムに足を運ぶ神を敬う熱心な異邦人にも、聖書を説き明かししてくれる存在が必要だった(使徒8章26-39節)。
「みことばの光」2020年10月号36ページ
私たちにとって、礼拝説教はもちろん、グループで聖書を読むときの互いの存在、注解書やデボーションのテキストは、聖書を理解するために大切なものである。しかし、それ以上に大切なものがある。それは、聖霊による説き明かしだ。ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事以降、イエス・キリストを信じる者には聖霊が注がれ、みことばを理解する力を与えておられる。私たちは、どんなものよりも聖霊に拠り頼み、聖霊を通してみことばの恵みを受け取っていけるように、祈りつつ聖書に向き合う者でなければならない。
「みことばの光」2020年10月号36-37ページ
ところで、聖書を説き明かしされる前にイエス様はこう言われている。
【聖書「ルカの福音書」24章25節】
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」
気になる語の意味を調べてみた。
- 愚か【ἀνόητος】…愚か、軽率(ものごとを深く考えず、軽々しく行うこと)、理解していない
- 鈍い【καρδίᾳ】…遅い、理解が遅い
- 心の鈍い【βραδεῖς τῇ καρδίᾳ】…slow of heart
イエス様が言われたことから、私たちは、聖霊による説き明かしをいただくためには、愚かであってはならない。軽率で、ものごとを深く考えず、軽々しくみことばに向き合う、そのような態度でいてはならない。私たちの心がどこかのんびり構えていたり、ただ安穏と聖霊の説き明かしを待つだけではならないことを覚えさせられるのではないであろうか。昨日のみことばの光で最後に「信じられないこと、信じられない時があったら、立ち上がって礼拝へ、祈祷会へ行こう。聖書を読もう」と勧められている。しかしただ礼拝へ行く、祈祷会へ行く、聖書を読む。それでは「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」とのイエス様の御声が聞こえて来るのではないであろうか。私たちはいつでも聖霊の説き明かしを求めて、慎重に、みことばを深く思い巡らし、分かりたいとの熱い祈り求めをもって、聖霊様の説き明かしのタイミングを待つべきであろう。生きておられ、私たちと共に歩まれる主は、必ず応えて、信じる者へと変えてくださる。
二人の弟子は、イエスがいつもしておられたパンを裂く姿を見て、イエスだと分かった。それは同時に、イエスの復活を理解したことでもあった。そしてイエスが聖書を説き明かしている間、自分たちの心は内で燃えていたことを思い起こしたのである(32節)。説教を聞いていて眠くなってしまうことがあるかもしれない。デボーションをすることがつまらないことのように感じる時があるかもしれない。なぜだろう。なぜ心は内で燃えていないのだろう。それは、聖霊なる神に説き明かしを求めていないからかもしれない。御子なる神に聖書を説き明かされた二人の弟子は、確かに心を燃やされていたのだから。
「みことばの光」2020年10月号337ページ
【勧め】
聖書を読む前に、聖霊の助けがあるようにと必ず祈り求めよう。
私たちは時に、聖霊様がスポットライトをあてられるように、それまで分からなかった所がパッと分かる時があるのではないか。そのような敬虔を何度もしてきたのではないであろうか。思い出してみよう。そのような主の恵みを数えてみよう。互いに証ししてみよう。きっと励まされるであろう。
私は、新潟聖書学院では毎朝、早天祈祷会が行われていた。同じみことばの光を用いていた。それぞれがデボーションをし、与えられたことを分かち合うのだが、難しい聖書の箇所、あるいはその時の心の状態もあったが、夜寝る前に何時間も黙想してもまったく何も示されない時が何度もあった。もうだめだと何度も思ったが、パッと示される時が必ずあった。寝ている時だったり、目覚めてすぐの時だったり、朝のデボーションの時だったり。何度読んでも何も分からなかったり、感じなかったりした同じみことばが、パッと光を放つように理解できる時があった。過去の出来事と重なったり、色々な方法で示される時があった。他にも、説教の準備をしていても、ふっと読んだ別の聖書箇所に答えを見つけたり、ニュースとか誰かが言った言葉から偶然のように答えが与えられたりと、そういった形で聖霊による説き明かしを何度も経験してきた。それはやはり、心が求めていたから、内に燃えていたからであろう。
皆さんはどうでしょうか。