2020年10月18日 主日礼拝「神のさばきと律法」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙2章12〜16節

説教題

「神のさばきと律法」

今週の聖句

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。

ローマ人への手紙2章16節

訳してみましょう。

2038 Even the best people have nothing to boast about.
2039 No service for Christ is insignificant.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  7番「主のみいつとみさかえとを」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  250番「つみのちからせまりて」
聖 書  ローマ人への手紙2章12〜16節
説 教  「神のさばきと律法」
讃美歌  303番「みめぐみのみちかい」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/iArFdl9BLec

説教「神のさばきと律法」

ローマ人への手紙2章12〜16節

佐藤伝道師

 お祈りを致します。
 愛する天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。神さまの慈愛、寛容、そしてご忍耐によって、私たちは今日まで生かされ、守られて、この週のはじめもこうして御前に集えます幸いを心から感謝致します。今朝もみことばを祝福してお与えください。神さまの愛を覚え、厳しいおことばにも耳を傾けることができますように。その奥、あるいは向こう側にある神さまの深い御心についての知識に満たされますように。満たされるばかりでなく、自分のものとして受け取ることが出来るようにどうぞお守りください。感謝して、私たちの救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 これまでローマ書2章11節までのところを見てまいりました。前回も触れましたが、パウロはいつも全人類をユダヤ人と異邦人の二つのグループに分けてすべての人間を取り扱おうとします。1章では異邦人の罪を、2章に入ってユダヤ人の罪を取り扱いました。その結論として2章11節の「神にはえこひいきなどはない」のだと言い、そして「神は、ひとりひとりに」、ユダヤ人も異邦人も、どんな人であっても「その人の行い(それは一つ一つの行い、人の一生の生き方)に従って報いをお与えになる」と言いました。

 さらにパウロは続けます。パウロは今日の聖書箇所の2章12節から15節で、「律法」という言葉を11回も繰り返しています。そのことから明らかなように、ここで取り上げられているのは、「神のさばきと律法の関係」です。パウロは神さまのさばきについて、前回ユダヤ人と異邦人を分けたのと同じ方法をもって、「律法を持っているか、持っていないか」という区別の方法によって、すべての人を二つのグループに分けて論じて行きます。

2章12節        律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。

 「律法なしの者」とは異邦人、「律法の下にある者」はユダヤ人のことで、両者の間の相違点は「律法の有無」であることははっきりしています。そして共通点もあります。それは異邦人も罪を犯したので滅び、ユダヤ人も罪を犯したのでさばかれるのだということ。パウロが12節からのところで言おうとしていることも、これまでの11節までで述べられてきたことと同じ、「神にはえこひいきなどはない」、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになる」ということです。「神さまのさばきは本質的には律法のあるなしに関係がない」ということです。パウロはその理由を続けてこう記します。

2章13節        それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。

 ユダヤ人は、自分たちには律法があって律法を行うため正しく、自分たちは神の前に正しいという無罪判決を受ける。そのように考えました。パウロはそれに同意もし、また反対もします。

 同意している点は、律法を行う者は正しく、律法を行わない者は不義である。それは申命記28章〜30章で詳しく語られている通り、神さまの命令に聞き従うなら祝福を受け、聞き従わないならのろいを受ける。それが旧約の律法の定め、神さまの定めであるので、パウロは同意します。しかしユダヤ人が律法を聞いて行っているか、神さまの命令に本当に聞き従っているかという点では、「異邦人の罪をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか」と厳しく問われている通り、反対しています。

 ユダヤ教の会堂では安息日ごとに律法が朗読されていました。会衆はみなそれを聞いていました。聞くことが神さまの御心を知る唯一の方法でした。ユダヤ人は律法を聞き、そして律法を知っていました。しかし律法は実行すること、聞いて従う事を要求するものです。ですから聞いて知っているだけではまるで意味がありません。神さまのことばを熱心に聞いて学ぶことはとても良いことで重要なことです。しかしそれが行いに至らなければ、まるで意味がないのです。それでは神さまの前に正しいという無罪判決を勝ち取ることはできません。13節にある通り、神さまは律法を聞く者ではなく、知る者ではなくて、律法を行う者を義と認められるのです。

 それでは、律法を持たない、律法のことを聞いていないために律法を知らない異邦人についてはどうでしょう。パウロはそのような異邦人に対しても「神にはえこひいきなどはない」、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅びる」と厳しく言うのです。

 モーセの律法規程を知らなくても、現実に罪を犯すならばその責任をとらなければならない。律法を知っているか否かは無関係であると聞いて、神さまは厳しいお方であると思われでしょうか。しかし考えてみると、その原理は今の世の中にも通じるもの、今の世の中でも当然のこととして考えられているのではないでしょうか。例えば、ある人がスピード違反で捕まってしまった。けれどもその人は「私は制限速度を知らなかった」と言い、「だから自分は罪には定められてはいけない、定められないはずだ」と主張してみても、「それじゃぁ仕方ないね」と言ってスピード違反の罪を免れるかと言ったら、やはり免れないでしょう。

 さらにパウロはこのようにも言います。

2章14節        律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2章15節        彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

 異邦人にはモーセの律法はありません。しかし彼らが「生まれつきのまま」、直訳するなら「自然に」と訳されるのですが、自然に律法の命じることを行う場合は、彼ら自身が自分に対する律法となるのだとパウロは言います。確かに、先ほどのスピード違反ではないですが、制限速度を知らずに猛スピードで走っていて「危ないかな」とか「こんなスピードで走っていたら、捕まってしまうかも」と思う。ちょっと警察っぽい雰囲気の人影を見つけてビクッとしてしまう。そんな経験ないでしょうか。(今日の午後、お墓に行く時は気をつけたいと思います。)

 世界中の人たちは憎しみよりも当然、愛の方が優っていることとか、争いよりも平和を求めたり、人殺しや盗みは悪いこととして定める法律が世界中の国々、あらゆる民族の間で定められている。これは人の共通している良心が作り出した法なのではないでしょうか。「良心が痛む」という表現もありますけれども、人間は紛れもなく道徳的な存在であると思います。

 また、15節に「律法が命じる行い」とありますが、「行い」にはその人の考えが表れるものです。ですからたとい律法を持たない異邦人であっても、その人の内に律法にかなう行いが見られるということは、人の内面、つまり本性とか、心、良心、思いに、律法に相当するものがあるということの証明と言えるのではないでしょうか。

 さらに、「行い」は「作品」とも訳せる言葉(ἔργον)です。「私たちは神の作品であって、神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペ210)。人間はすべて、自覚があろうとなかろうと、ただおひとりの神さまに造られたもの。作者である神さまの思いが私たち作品の中に込められているのです。律法はないけれども、律法の求めるところが何であるかが分かるようになっている。良い行いをすることができるように備えられている。造られている。ですから、律法を持っているかいないかということは、罪を犯すことについてはまったく関係がないということになります。1章20節で言われている通り、「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はない」のです。

 また、異邦人もこのように律法を持っているのだから、ユダヤ人が律法を持っていることは、神さまのさばきにおいてはさほど特別なことではないと言うこともできるでしょう。神さまの前で問われるのは、律法を、つまり神さまの御心にかなった良い行いをするかどうかであると、律法を持つユダヤ人にも、また律法を持たない異邦人にも、すべての人間に対してパウロはとても厳しいことを突きつけます。

 ところが、パウロはここで「福音」という言葉を口にするのです。「私の福音によれば」。

2章16節        私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。

 パウロは、誰もみな神の御前に罪人であり、誰も互いを裁くことができない罪人であるという現実を厳しく突きつけてきました。また、世の中にはクリスチャン以上に良心的でクリスチャンらしい素晴らしい人がいますが、たとえ誰かにそのような人と見られていたとしても、すべての人にとっての本当の問題は、終わりの日に神さまの御前に立ったときに「私はどうなのか」ということです。キリストが再びこの世に来られる日、神さまのさばきは、数々の書物に記されたその人の行いの記録を証拠にして、人々の隠された事柄をさばかれる。そのさばきを前にしては、ユダヤ人も異邦人もない。律法を持っていようがいまいが関係なく、究極的なさばきがなされる。こんなに厳しいことを、パウロは「これが福音である」と言うのです。

 ここで私たちは、この手紙の書き出し、序論のところで語られた「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」というパウロの力強いメッセージ、福音に対する前提を思い出さなければなりません。

 「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」私の福音、パウロの福音、それは神の福音で神の御子キリスト・イエスに関する福音です。そして神さまのさばきは、この御子キリスト・イエスによって、原文では「キリスト・イエスを通して」なされるものなのです。罪は必ずさばかなければならないどこまでも正義であられる神さまと、必ずさばかれなければならない私たちの間に、私たちの罪の解決のために、私たちの無罪を勝ち取るために自らが身代わりとなって十字架にかけられてくださった仲保者がおられる。神さまと人との間を仲裁・和解・関係を取り持ってくださるキリスト、イエス様がおられるのです。この救い主、イエス様を通して、神さまはすべての人、一人ひとりを公平にさばかれるのです。

 そのさばきにおいて、神さまは決してえこひいきなさらない。罪の赦しにおいてこそ、神さまは決してえこひいきなさらない。これが福音です。良い知らせです。

 その現れが主イエス様の十字架でした。あの主イエス様の十字架は、人をえこひいきなさらない神の愛、私たちに対する福音、良い知らせそのものです。主イエス様の十字架はユダヤ人のため、異邦人のため、律法を持っている人、持っていない人のため。私たち一人ひとりのための神さまの愛そのものなのです。

 異教世界、皇帝礼拝の盛んな中で信仰を必死に守ろうとしているローマのクリスチャン。教会は家の教会で組織としてまだ整っていなかった。信仰も完璧に確立しているとは言えなかったのかもしれません。そのような中、詩篇の記者は歌っていますが、「私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした」(詩7321−22)と。これはこの世に生きるクリスチャンにとっても正直な思いではないでしょうか。様々な迫害、苦難、信仰がある故の生きにくさ。信仰さえなかったらもっと楽に生きられたのに。律法が、聖書が私たちに要求してくることに対しての信仰に対する疑問、疑い、怒り。しかしそのような傷を癒やすために、信仰の破れた網の破れ口を繕い、整えるために、励ますためにパウロはこの手紙を書いたのです。福音、良い知らせ、神さまの愛を語っているのです。

 罪に満ちた世の中を示し、罪人の実際の姿を見せて、「それはあなただ」と言う。すべての人を取扱い、すべての人が罪人であると語られてきたパウロの福音は、私たちの目を再びしっかりと、真っ直ぐに十字架へと向けさせるものではないでしょうか。

 私たちのこの罪のための贖いとなって十字架に上げられ、よみがえられ、天へと挙げられた主イエス・キリストを仰ぎ見て、やがて来られるこのお方を待ち望む。パウロの福音ではこの世の信仰生活をレースにたとえているところがありますが、私たちの目の前に置かれているレースを、うしろのものを忘れ、神さまの栄冠を得るために目標を目指してひたむきに前に向かって進み、走るべき道のりを走り終えたとき「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」というパウロの姿勢。この姿勢を今朝も確認し、しっかりと覚え、主からの励ましとして受け取り、そして私たち自身の姿勢としたいと願わされます。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばを感謝致します。パウロの厳しい言葉の中に、福音があることを覚えてありがとうございます。みことばからいただいた慰め、励ましを力として、今週もあなたに従順でいられますようお守りください。感謝して、私たちの救い主、さばきの日には私たちの仲保者となってくださるキリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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