2020年12月13日 主日礼拝「神の祝福」

本日の聖書箇所

ルカの福音書1章26〜38節

説教題

「神の祝福」

今週の聖句

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

ルカの福音書1章38節

訳してみましょう

2053 What is mankind that you are mindful of them?

2054 Dear GOD, it’s awesome to realize that You’re all — knowing about Your whole creation. I love You for knowing me personally too.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  102番「もろびと声あげ」(※今週の讃美歌
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  95番「わがこころは」(※今週の讃美歌
聖 書  ルカの福音書1章26〜38節
説 教  「神の祝福」佐藤伝道師
讃美歌  98番「あめにはさかえ」(※今週の讃美歌
献 金  547番「いまささぐる」(※今週の讃美歌
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」(※今週の讃美歌
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/ByTs8kgZwnM

説教「神の祝福」

ルカの福音書1章26〜38節

佐藤伝道師

 今日はロウソクが3本灯りました。早いですね。アドベント(待降節)を迎えてからもう3回目の主日です。来週はもうクリスマス礼拝を迎えます。

 前回、アドベントについての教会の公式見解を述べましたけれども、覚えておられるでしょうか。「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典(つまり『クリスマス』)のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる」ということでした。

 ところで、1981年に出版された「幼児讃美歌」というものの中におさめられている讃美歌で「神さまのお約束」という讃美歌があるのですが、神さまからのお約束、救い主のご降誕を歌った讃美歌で、こんな歌詞です。

昔、ユダヤの人々は、
神さまからのお約束、尊い方のお生まれを、
嬉しく待っておりました。
尊い方のお生まれを、みんなで楽しく祝おうと、
その日を数えて待つうちに、
何百年も経ちました。
ある日、天の御使いは
「喜びなさい、神の御子がみんなのためにお生まれ」と、
高いお空で告げました。

 とても分かりやすい讃美歌ですね。救い主キリストのご降誕を待ちわびて、ついにお生まれになったという讃美歌ですが、先ほども申しました通り、これは主の第二の来臨、キリストの再臨を待ちわびる讃美歌ともなり得ると思います。「その日を数えて待つうちに、何千年と経ちました」。神さまのお約束通り、イエス様は再びこの世に来られる日が必ず来るのです。神さまの御思いが成就する時が必ず来るのです。

 話しは変わりますが、先日ふと気になったのですが、今年は例年に比べて、クリスマスの賑わいが控えめだなぁと思いました。テレビではあまりクリスマスを感じさせる音楽が流れていないように感じますし、クリスマスケーキやクリスマスプレゼントのCMも、例年に比べて多く流されていないように感じます。街中やスーパーのディスプレイやBGMも、気のせいか控えめのような気がします。

 今年、教会ではクリスマスのトラクトを用意しました。もう読まれたでしょうか。その中にこんな英語が紹介されています。「バーハンバグ」。まだ読まれていない方は是非お読みください。そしてトラクトを大いに用いていただきたいと思います。「バーハンバグ=ケッ、くだらん!」という捨て台詞だそうです。有名なクリスマス・キャロルという物語の中で主人公が、クリスマスが近づいて町がウキウキし始めると、「バーハンバグ=ケッ、くだらん!」と言うのです。

 もしかしたら今年のクリスマス、このコロナ禍にあって大変な時に、「クリスマスなんて」という思いが現れているのかもしれません。コロナ禍の中で、クリスマス・キャロルの主人公のような方がたくさんいるのかもしれませんね。また今は終末の時代。人々の心は益々冷たくなっている、愛が冷えてしまっている。苦難の中で「神などいるものか」と腐っているのかもしれません。腐ってしまっている結果として口から出る言葉には毒が満ち、そしてこの世は混乱し、争いや対立が満ち、真の平和がない。心にも平安がない。この世は破壊と悲惨に満ちているとローマ書では言われていました。

 「神などいるものか」。そのような嘆きの声、諦めの声が聞こえるような今の世の中で、だからこそキリストが来られたのだ、だからこそキリストが来られるのだという、主のご降誕、また再臨の福音に目を留めたいと思います。また神さまからの大きな恵み、私たちに注がれる信じられないほどの祝福を信じ、そして宣べ伝える者とさせていただきたい。そう願いつつ、本朝もみことばから見てまいりたいと思います。

 お祈りをいたします。

 愛する天の父なる神さま、尊い御名を崇め、心から感謝と賛美をおささげいたします。アドベントの期間もこのようにして守られ、愛する兄弟姉妹ともどもに御前に集わせていただき心から感謝いたします。年末の慌ただしさの中、またコロナ禍における不安や混乱の中、どうぞひととき、主の御前に私たちの重荷をすべて降ろし、ひたすらにみことばをいただき、神さまの御心、愛、祝福をいただく者としてくださいますようにお願いをいたします。聖霊様が満ちていてくださいますように。主が御名によって集う私たちの真ん中にいてくださる、その臨在を感じつつ、その守りの中で、時には厳しさや難しさを感じるみことばへの信仰、従順をお与えくださいますようにお願いをいたします。救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 本朝はまたローマ書から離れ、しかしこれまで見てまいりましたローマ書の内容と少し関連づけながら、待降の出来事であるルカの福音書の「受胎告知」のところ見てまいりたいと思います。ここにはマリヤの「信仰の従順」が現れています。

 「信仰の従順」と、パウロはローマ書の冒頭でそのように言いました(ロマ13−5)。信仰のない従順はあり得ないし、従順のない信仰もあり得ない。信仰と従順は表裏一体のような関係であるということです。マリヤの信仰の従順を通して、私たちは今日、色々なことを示していただきたい。また同時に、救い主ご降誕にある祝福、喜び、慰め、励まし、そういったものをも味わわせていただければと願います。

 御使いガブリエルが神さまから遣わされて、ガリラヤのナザレという町のひとりの処女、マリヤのところに来ました。マリヤはダビデの家系のヨセフという男のいいなずけでした。マリヤとヨセフは婚約関係にありましたが、結婚はまだしていませんでした。当時のユダヤの慣習では、婚約期間はほとんど結婚関係と見なされており、拘束力がありました。しかしお互いの間で完全な貞節が求められていました。故に処女であるマリヤのもとに、神さまは御使いガブリエルを遣わしてみことばを賜ったのです。

1章28節      御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

 神さまに遣わされた御使いの第一声は「おめでとう」でした。「おめでとう」と訳されている元々の意味は「喜べ」です。「喜べ!」。まるで一方的な印象を受けます。そしてガブリエルはマリヤを「恵まれた方」と呼びました。28節を直訳すると「喜べ。あなたは恵みによって恵まれました」となっています。日本語は難しいですね。神さまが一方的な恵みとしてマリヤを恵まれました。

 確かに神さまからの恵みの行為というものは常に一方的なものなのです。神さまが私たちを招き、召し、そして救われるのは、すべて恵みであるのです。相談とか協力の要請ではありません。神さまの恵みが本当に恵みであるのは、それを受ける資格が全くない者に与えられるからなのです。神さまと人間との協力によって造り出されるものなら、それはもう神さまの恵みではありません。なぜなら前回のローマ書3章でいうところの「義人はいない。ひとりもいない。神を求める人はいない。すべての人が神の元から迷い出て、みな腐り果てた。善を行なう人はいない。ひとりもいない」(ロマ310−12)からです。人間はだれも神さまに何かしていただける資格など持っていないからです。何度も言われている通り、受ける資格がないのに与えられる。それが恵みというものです。

 そして訳出されていませんが、ギリシャ語ではこの後に「あなたは女性たちの中にあって、祝福されています」という御使いの言葉が記されています。

 この「祝福」という言葉。最後まで良く覚えておいていただきたいのですが、私たちは良く用いる語で、その意味を改めて辞書で調べてみるとこのようにありました。

  • キリスト教で、神の恵みが与えられること。また、神から与えられる恵み

そしてもう一つ。

  • 幸福を喜び祝うこと

 このように説明されています。

 神さまの恵みが与えられること、神さまから与えられる恵みはつまり、神さまの祝福であり、また喜び祝うことでもあるのです。

 ところが、マリヤはこの祝福、喜べと言われる事態に戸惑うのです。29節

1章29節      しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1章30節      すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

 神さまの祝福は、時に私たちを戸惑わせるものです。御使いはマリヤに「こわがらないで」と言っていますが、マリヤが神さまの祝福を恐れたように、神さまの祝福は私たちを恐れさせるものです。なぜなら、神さまの祝福はただのラッキーとか、ハッピーではないからです。神さまが私たちの世界に入ってこられ、そこで私たちの想像、ラッキーとかハッピーを遙かに超えたみわざをなさるからです。マリヤにとってそれは、「あなたはみごもって、男の子を産みます」というものでした。

1章31節      ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1章32節      その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1章33節      彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

 マリヤは29節で、御使いのあいさつにひどく戸惑っています。喜ぶべき神さまの祝福に、恐れを抱いています。マリヤの思いや考えは激しく混乱し、どうしてよいか分からなくなってしまいました。逃げ出したくなったのかもしれません。けれどもマリヤはそこで考え込みました。予想外の状況の中で戸惑いながらも、逃げ出すことなく、御使いの前に、神さまが告げられるみことばの前に留まって、よくよく考え、十分に思い巡らせました。私たちのデボーションに似ています。

 そんな中、御使いはさらに神さまのことばを告げます。「あなたはみごもって、男の子を産むであろう。名をイエス(主は救い)と名づけなさい」。そしてその嬰児の誕生は、先週語られましたが、預言の成就であることを告げました。預言の成就については、説教1本分のボリュームでしたからここでは割愛しますが、せっかく動画で記録されていますから、動画で先週の説教をもう一度ご確認いただければと思います。

 マリヤはヨセフと婚約していました。ですからもうすぐ結婚することは決まっていて、やがて子どもが与えられることは容易に予想できたことでしょう。別に信じられないことではなかったはずです。しかしマリヤは御使いが告げた神さまのみことばを十分に思い巡らすうちに、真の意味を悟ったようです。示されたと言っても良いのでしょうか。これは私たちの信仰にとっては、とても重要で教えられるところであると思います。

1章34節      そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1章35節      御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1章36節      ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六ヶ月です。
1章37節      神にとって不可能なことは一つもありません。」

 マリヤは御使いの告げることばをしっかり聞き、よくよく考えて、真の意味を悟りました。生まれて来る嬰児、それも聖なる者、神の子と呼ばれるその子は、男の人、つまりヨセフと正式に結婚してヨセフを知る、そのような普通の過程によって得られる子ではないのだということを悟ったのです。姦淫など決して許されない婚約期間に、マリヤはみごもる。そんな信じがたい預言を悟っても、マリヤは自分から何かしるしを求めようとはしませんでした。ただ、どうしてそのようなことが起こるのかと驚き、うろたえたのは事実のようです。しかし「どうしてそのようなことになりえましょうか」と、説明を求めました。すがりつき、分かるように説明してくださるように願ったのです。「なんで、そんなことが起こるはずがない」といった疑いや不信ではなく、「どうして」、「どのようにして」と、WhyではなくてHow、そうなることの説明を求めました。

 私たちも、聖書のみことばなどから神さまの御心、ご計画が示されて、でも分からない、ちっとも実現する様子がみられない。そう思う時があります。しかし「そんなことが起こるはずがない」と諦めたり、拒否したり、逆に安易に鵜呑みにしてしまうのではなく、マリヤのように飽くまでも神さまに望みを置く者でありたいと思わされます。「望みを置く」というヘブル語には、「からみつく」という意味もあります。神さまにからみつく、神さまにすがりついて、「どうして」「どのようにして」と、手段を、説明を求めて良いのではないでしょうか。諦めずにいるならば、きっと神さまは、神さまご自身が創造された自然とかすべてを通して、色々な小さな出来事などを通して、ご自身の御心、ご計画を示し、私たちを恐れや不安、不信仰、不従順から救ってくださることでしょう。

 御使いガブリエルはマリヤに、「神の力がおおうので心配しなくてよい」と答えました。そして恵みによって「神にとって不可能なことは一つもない」ことの証拠、神さまの介入によって親類エリサベツの身に起こったことをも示してくださいました。

1章38節      マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはじためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

 マリヤはまだヨセフと結婚していませんでした。マリヤがみごもったならば、ヨセフはどう思うだろうか。マリヤに対して強く反発することも予想できたでしょう。さらに姦淫に対して死刑を科すことが律法には記されており、当時はしばしば実行されなかったようではありますが、刑罰としてなお存在していました。人々からどう思われるだろうか。マリヤは苦しまなくても良いし、おそらく死ぬ必要はなおさらないのだと、そのように確信はできなかったでしょう。しかしマリヤは神さまのみこころを「祝福」と信じて、それを受け入れたのです。信じて従ったのです。38節のことばは、このように言い換えられるのではないでしょうか。「このすべてが何を意味するのかを十分に分かっているとは言えませんが、神が良いことをなされると信じます」。

 神さまは私たちが真理を知り、救われることを願ってくださっているお方です。御心を正しく理解し、知る事、示されることは、私たちのその後の歩みを大きく左右するものであると思います。たとえそのすべてを知る事ができなくても、主のみことばに望みを置いて、からみついて、すがりついて、よりすがるなら、主はそのような私たちを自由に用いて力あるわざをなしてくださるでしょう。そして恵みの約束が成就されるまで、私たちの信仰も、またそれまでの道のりをも守り、励まし、導いてくださいます。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」のです(イザ4031)。

 マリヤは御使いを通して語られた神さまのみことばを信じ、そしてみことばに従いました。「はしため」は「女奴隷」を意味しており、それは完全な従順を表しています。マリヤの信仰の従順です。

 さらに覚えておきたいことは、神さまの祝福というものは、私たちに変化を求めるものだということです。そこで注意すべきことは、私たちが変化したから祝福が与えられたのではありません。冒頭でも申しましたが、祝福とは、相談とか協力の要請ではないからです。私たちが神さまから一方的に愛され、憐れまれ、祝福が注がれて、それで力を得て、私たちはそれまでの自分を変えられるのです。それまでの自分を捨てて主のしもべ、はしためとして神さまに従うことができるのです。越えられない信仰の壁を越えて、「主のみこころがなりますように」と、ただ主に自分を委ねて歩んで行くことができるようになるのです。私たちの信仰の従順です。

 どうすれば私たちは信仰の従順を持ち得るのでしょうか。どうしてマリヤは信仰の従順を持ち得たのでしょうか。

 先ほども見た通り、マリヤはどこまでも神さまを信じ、神さまに望みを置いていました。昔からユダヤ人に与えられていた神さまのみことばを信じていました。預言の他、様々な神さまの約束に望みを置いていた。神の民の歴史の中に神さまが介入されてみわざをなされた、神さまの出来事ひとつひとつの中に、神さまに対して不真実な者をも愛してくださる神さまの真実の愛を見出して、それを信じ、依り頼み、そして望みを置いていた、からみついていたからではないでしょうか。

 冒頭ではクリスマスの出来事を分かりやすくまとめられた幼児讃美歌を紹介しました。先ほどは讃美歌95番を賛美しました。この賛美は今日の箇所の後にマリヤが歌った「マリヤ賛歌」と呼ばれるものを分かりやすくまとめた讃美歌です。そこにマリヤの信仰、希望が込められています。1節では神さまへの信仰を歌い、2節からはその信仰の根拠を歌っているように思います。

  1. 我が心はあまつ神を尊み、我がたましい、救い主をほめまつりて喜ぶ。
  2. 数に足らぬわが身なれど見捨てず、よろず代までさきわいつつ、めぐみたもう嬉しさ。
  3. 御名は清く、大御業はかしこし、代々にたえぬ御慈しみ、仰ぐ者ぞ受くべき。
  4. 低きものを高めたもうみ恵み、奢る者をとりひしぎて、散らしたもう御力。
  5. アブラハムの裔を永遠に顧み、イスラエルを忘れまさで、救いたもう尊さ。

 特に今日は、2節に目が留まりました。3節以降はイヴ礼拝の時にお分かちできればと願っていますが、2節「数に足らぬ我が身なれど見捨てず、よろず世まで幸いつつ、めぐみたもう嬉しさ」。「私なんていてもいなくても、この世の中には何の影響もないだろう。こんな小さな存在の私。しかし神さまは、こんな小さな私をも顧みてくださる。私を愛し、祝福してくださる。なんと嬉しいことだろう」と。

 ご覧の通り、私はボサボサだった髪の毛を切りました。お店に行って、担当してくださった方が私にある歌を紹介してくださいました。この歌の歌詞、凄く感動するから是非聴いてみてと勧められました。それは森山直太朗の「生きてることが辛いなら」という歌でした。私は帰って早速歌詞を検索してみたのですが、とてもショックでした。

生きてることが辛いなら、いっそ小さく死ねばいい。恋人と親は悲しむが、三日と経てば元通り。気が付きゃみんな年取って、同じとこに行くのだから。何もないとこから何もないとこへと、何もなかったかのように巡る生命だから……。

 歌の結論としては、あなたは辛くても死んではいけないというメッセージを、独特な歌詞にしたものであると思います。しかし私としては、なんだか寂しさを覚えました。「私なんていてもいなくても、この世の中には何の影響もないだろう」、「何もないところから何もないとこへと、何もなかったかのように巡る生命だから」。人気のある歌です。多くの人に感動と希望を与えている。しかしそれは多くの人がこのような歌詞に感動し、諦めのようなところに望みを置いているということでしょう。

 しかし私たちの信じる神さまは、こんな小さな私をも顧みてくださる。私を愛し、尊いと言われ、祝福してくださるお方です。そのメッセージが私たちに分かりやすく世に現れたのが、クリスマスなのではないでしょうか。

 最後まで覚えておいてくださいと申し上げました「祝福」という語。私たちが良く用いる語です。ヘブル語では「בָרַךְ(ベラカー)」といいます。その意味は祝福であると同時に、実は「膝を曲げる、膝をつく、ひざまずく」という意味を持っている語なのです。誰が膝を曲げるかというと、やはり神さまでしょう。

 神さまの祝福。それはすべてのものを創造し、すべてのものの上におられる方が膝を曲げてくださること。神さまが膝を曲げるようにして私たちを気に掛けてくださる。膝をついて身をかがめて、こんな小さな私の叫ぶ声に耳を傾けてくださる。神さまがひざまずいて、私の顔をのぞいてくださる。罪ゆえに悩み、苦しむ私の流す涙を拭ってくださる。私がひざをかがめて祈るなら、主が膝をかがめて聞いてくださる。私の願い求め、飢え渇きを知ってくださる。そしてそれに応えて、最善をなしてくださる。

 祝福とはまさに、神さまが私たちを受け入れ、神さまの方から私たちに近づいてくださることなのではないでしょうか。

 このようなお方であるからこそ、マリヤは信じ、従うことができたのでしょう。このようなお方であるからこそ、私たちは信じ、従うことができるのでしょう。それが私たちの信仰の始まりであり、また言ってしまえばキリスト教の信仰の土台なのではないでしょうか。そしてそれは私たちを従順にさせるものでしょう。

 神さまが世を愛され、世に住まう一人ひとりを顧みられ、祝福された。膝を曲げて近づいてくださった。その最たるものが救い主イエス・キリストのご降誕。クリスマスの喜びでしょう。クリスマスは預言の成就だと言われました。成就とは良くコップの水に例えられます。コップに水が注がれて、徐々に満たされて溢れ出すイメージ。それが成就です。神さまは長い歴史の中で、罪に満ち汚れたこの世を、人間をそれでも愛し、憐れみ、寛容をもって忍耐され、たくさんの御思いがついに溢れ出した時、ご自身のひとり子を、人を罪、また罪から来る悲惨から救うメシヤをこの世に送られました。神さまの祝福が成就したのです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハ49−10

 私たちはこれほどまでに愛されている。決して小さな取るに足らない存在ではない。神さまが私たち一人ひとりに関心を持ってくださり、愛し、恵みを注がれる。それこそが神さまの祝福、神さまが膝を折られることであり、それこそが私たちの信仰の従順の源、神さまにどこまでも望みを置くことができる源です。

 このコロナ禍にあって、混乱し、動揺し、生きてることが辛い、希望を見失い、神などいるものか、こんな小さな自分の存在なんて、と諦めているこの世の人々に、今年のクリスマス、私たちは何を伝えるでしょうか。

 また、イエス様の再臨も預言であり、必ず果たされる神さまの約束です。神さまの様々な御思いがいっぱいに満ちて溢れ出す時に、成就される祝福です。主の再臨は祝福であり、喜びです。この祝福、恵みに与る主のしもべ、はしためとして、私たちは神さまの祝福に正しく応えて、マリヤのような信仰の従順に歩んでまいりたい。そう願わされるものであります。

 お祈りをいたします。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美いたします。みことばを感謝します。神さまの祝福を心に覚え、残されたアドベントの期間をふさわしく過ごし、クリスマスに備えることができますように導いてください。救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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