2021年1月10日 主日礼拝「価なしに、恵みにより」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙3章21〜24節

説教題

「価なしに、恵みにより」

今週の聖句

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

ローマ人への手紙3章24節

訳してみましょう

2059 What’s important is not how much we do for God, but how much God does through us.

2060 A changed life is the result of a changed heart.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  12番「めぐみゆたけき主を」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  257番「十字架の上に」
聖 書  ローマ人への手紙3章21〜24節
説 教  「価なしに、恵みにより」佐藤伝道師
讃美歌  324番「主イエスはすくいを」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/e0fKRgcRpsE

説教「価なしに、恵みにより」

ローマ人への手紙3章21〜24節

佐藤伝道師

 皆さんは、洗濯機を信じていますか? 私はなかなか信じられません。信じたいのですが信じられないのです。洗剤はちゃんと全体に回っているのかとか、上下満遍なくひっくり返るのかとか、もう心配で洗濯機が回っている間中、時間があればずっと見張っていたいのです。たまに洗濯機に変わって手でかき混ぜたりします。せっかく放っておけば最後まで全自動でやってくれるのに、任せられないなんて色々ともったいないです。洗濯機を信じて任せておけば、心配しなくて良いし、他にもっと有益な時間の過ごし方もできるのに、と思います。

 こんなみことばがあります。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル116

 信仰とは、洗濯機があることと、洗濯機に求める者には報いてくれることとを信じなければならない。それは冗談として、「信仰とは、神さまがおられること、さらに神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じる。そのような信仰を、神さまは喜んでくださる」のですね。

 今朝も神さまに喜ばれる礼拝を献げてまいりましょう。お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今朝もこのようにして兄弟姉妹ともどもに御前に集めてくださり、主を求める信仰をも与えてくださっていることを覚えて心から感謝致します。今朝もみことばを祝福してお与えください。そして私たちの信仰を励まし、また整えてください。励まされ、整えられたこの霊と身体をもって、神さまの栄光を現すものとしてくださいますようにお願いをいたします。聖霊様がお一人お一人に臨んでくださり、主がお一人お一人に親しく語りかけてください。感謝して、救い主キリスト・イエス様の御名を通してお祈り致します。アーメン。

 少し、祈祷会の恵みを分かち合わせてください。

 新しい年となり、先週の月曜日から「みことばの光」では民数記が始まっています。祈祷会でも分かち合ったことなのですが、民数記はイスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、英語で「Numbers」、日本語聖書では「民数記」とタイトルが付けられています。

 思い返すと創世記で、ヤコブたちがエジプトへ行った時「エジプトに行ったヤコブの家族はみなで70人であった」(創4726-27)と記録されています。それから430年間という、皆さんもよくご存じの通り、イスラエルの民は多くの苦難、奴隷生活を経験し、神さまは民の虐げられている姿、また悩みをご覧になり、叫びを聞かれ、イスラエルの民をエジプトから脱出させられました。エジプトでの苦しい悲惨な奴隷状態から、神さまの力強い御手によって救い出された民は、それから約束の地カナンへと導かれていくわけです。シナイ山で主なる神さまと契約を結び、みおしえ「律法」をいただきました。約束の地に向かって出発する時が来た時、神さまはモーセに「20歳以上のすべての男子を調べて登録せよ」とお命じになりました。数えてみるとレビ部族を除いて総勢60万3,550人。この登録はなによりも軍事上の必要からであったようです。約束の地に入るためには、また自分たちを守るためには、戦いが避けられないこと、また秩序が必要であることをイスラエルの民は覚えさせられました。しかし同時に、たった70人だった民族が、異国の地、異教の地での様々な困難、奴隷、迫害、そんな中を通らされながらも気付いてみると60万人にも増やされていた現実、神さまの守り、不思議な導き、祝福を覚えたのではないでしょうか。そう考えると、なるほど、みことばの光は新しい一年の始まりに、これまでの神さまの恵み、祝福を覚えるように民数記を選んだのだろうかと思わされたのですが、どうやらそれだけではなかったようです。

 ヘブル語聖書では民数記のタイトルは「荒野にて」と付けられています。そしてその内容は、エジプトから連れ出されたイスラエルの民が約束の地カナンに向かうその途上の荒野で、神さまがどんなことをしてくださったのかが記されたものです。ですから確かに神さまの恵み、祝福を覚えるという面もありますが、同時にこの民数記は「つぶやきの書」とか「不平不満の書」などとも言われていることをご存じでしたか。それはイスラエルの民がこの荒野の旅の中でたくさんつぶやいたり、神さまに向かって不平不満を言ったからです。なぜつぶやいたのか、不平不満を言ったのでしょうか。それは単純に、神さまの約束を信じられなかったからでした。

 民数記では、旅の出発の始めの方で、約束の地カナンに12人の偵察隊を派遣して、彼らの報告を聞いて民は不信仰に陥りました。そこに住む人たちは背が高くて強そうで、だからその地に入って行くのは無理であると、「その地を与える」という神さまの約束が信じられずに拒否したのです。不平不満を言って神さまにつぶやきました。それで本来ならわずか11日で行けるはずの道のりを、40年も荒野をさまよわなければなりませんでした。

 私たちが今見ているローマ人への手紙の著者であるパウロは、民数記の出来事を背景にして、別の手紙でこのように言っています。

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです」(Ⅰコリ1011)。

 パウロが言っている通り、現代を生きる私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。私たちの信仰生活は、イエス・キリストの贖い、買い戻しによる罪の奴隷状態からの解放から始まり、約束の地、天の御国に向かっての荒野の旅です。今の私たちの時代にも荒野があります。そこで神さまの約束のことばを信じるか信じないかによって、その後の結果が決まる。信じるか信じないかの差は非常に大きい。まさに天と地、天国と地獄の差があるのだということを、民数記は私たちに教えているのでしょう。

 荒野はその名の通り、苦難や困難の多いところです。しかし同時に、荒野は神さまと出会う場所でもあります。この世での荒野の旅は信仰の旅。日々に起こる様々なことを通して神さまと出会い、神さまを知り、そして信じるということはどういうことなのかということを学ばされる期間なのかもしれません。神さまの約束を信じて、しっかりと受け取って、そして約束の地、天の御国へ向かう地上での道、人生を喜んで、安心して、胸を張って歩いて行く。この世の生涯を終えて天の御国に辿り着いたならば、喜んで主の御前に立つことができる、何も恥じることなく喜んで主と再会できるようにと私たちを変えていただくための、そんな恵みの期間でもあるのかもしれません。

 さて、今私たちが見ているローマ人への手紙では、私たちの目の前に差し出されていて、そして信じて受け取るべき神さまの約束とは何だと言っているのでしょうか。それは神さまの愛。神さまに対して不真実なこの私をも神さまは決して変更されることのない愛をもって真実に愛してくださる。また、すべての人が罪人であるために、自分の行いによっては決して神さまに赦していただくことはできない、救われることはない、神の義をいただくことはできない。ただ神さまがすでに備えてくださっている唯一の救いの道、イエス・キリストを信じて受け入れるならば、神の義をいただくことができるのだ、天の御国に迎え入れられるという約束でしょう。しかし人というのは、この約束がただ恵みであるからこそ、何か簡単すぎると考えてしまうのでしょうか、ただより高いものはないと勘ぐったりして、なかなか素直に信じて受け入れられないのです。信じていながらも信じ切れないところがあって、右往左往、この世の荒野の旅をさまよってしまうのです。いや、信じる切るということこそが、自分の努力、行い等によって認めてもらおうとすることよりも、もっともっと難しいことなのかもしれません。

 クリスマスと年末年始をはさみ、少し間が空きましたので、少しこれまでのローマ人への手紙を簡単に振り返りましょう。

 パウロはローマ人への手紙のこれまでを通して、私たち人間の罪を徹底的に示して来ました。

 先週、私たちは創世記1章1節を学びました。「初めに、神が天と地を創造した」(創11)。神さまが天と地と、そこに満ちるすべてのものを創造されました。今も創造は続いています。ところがこの神さまに背いた、背を向けた。そして地は罪に満ちてしまった。それが創世記から始まる人類の罪の歴史です。ローマ書の1章で、パウロは人の罪について同じ事を言っています。人の罪とは、神さまを認めようとせず、神さまに背を向けて自分勝手な道に進んで行ってしまうことであると。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」(ロマ124)、「こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(同127)と。それは異邦人も、そして神の選びの民ユダヤ人も、つまりすべての人が罪人であり、すべての人が罪の下にある、罪の力の支配の中にある、自覚があろうがなかろうが、すべての人が罪の奴隷状態だと厳しく、徹底的に言及しました。「神などいない」と、神さまを心で信じない人の口から出る言葉は、人を祝福する言葉とは反対の言葉、のろいの言葉に満ちている。その足は神さまはもちろん、人間同士の関係においても、自然との関係においても、常に争い、破壊、悲惨へと向かおうとする。今の世の中を見渡してみてどうでしょう。まさにこのような状態であるし、私たちもまたその中にいることが分かるのではないでしょうか。律法、あの壁に掲げてある十戒に自らを照らし合わせてみる時に特に明らかに知るのではないでしょうか。「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ロマ220)とパウロは言っていますが、律法が私たちに求めていることを知れば知るほど、自分はだめだと思わない人などいるのでしょうか。ですから「義人はいない。ひとりもいない」と聖書は断言するのです。

 このようにパウロは徹底的にすべての人が罪人、罪の力の支配下にいることを示して来ました。なぜでしょうか。私たちを痛めつけたいだけなのでしょうか。神さまと私たちとの関係を徹底的に破壊したいのでしょうか。

 パウロの言葉を借りるなら「決してそうではありません」となるのでしょう。

3章21節      しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 パウロは、また律法は、聖書は、私たちの不義を徹底的に明らかにして、もう神さまの義に依り頼むほかないところまで私たちを進ませるのです。私自身には何の力もないことを認めて、神さまに依り頼んで、神さまの義、神さまの御旨の中に飛び込むしかなくさせるのです。神さまの恵みにすがるのが信仰というものです。たとえ、人間がどんなみじめな状態にあり、神の怒りの対照にしか見えなくても、神さまの約束、神さまの恵みにすべてを委ねて、それにすがりきるのが信仰です。信じるということです。そしてその報いも信じることです。

 神の義とは何でしょうか。それは神さまの永遠の正しさ、正義でしょう。神さまは正義のゆえに、罪は必ず裁かなければならないのです。しかし虹の契約、アブラハム契約、シナイ契約などがあるので、その契約を守られることもまた神さまの義でなければならないのです。罪は必ず裁き、しかし、契約があるゆえに愛をもって赦される神さま。赦さなければならない神さま。人間的に考えるならば、あぁ、神さまにはどれほどの苦悩がおありなのだろうかと思わされます。2章4節ではこう言っていました。

2章4節        それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
2章5節        ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

 神さまの罪に対する御怒り、そして豊かな慈愛と忍耐と寛容。神さまが罪に満ちたこの世、そして私たちをさばかずにおられるのは、滅ぼさずにおられるのは、私たちに悔い改める機会を与えるためです。そしてそのことは、律法と預言者、つまり旧約聖書全体を通して証言されているものです。神さまが全人類に、神の選びの民を通して与えられた救いの約束。人間が、神の民が、その契約にどれだけ違反しても、神さまがこれをさばき、また赦して、契約の更新を図ってくださった。そのような神さまの御怒り、そして豊かな慈愛と忍耐と寛容を証しするのが「旧約聖書」です。

 例えば、旧約聖書の中でイザヤという預言者は、このように神さまの御心を伝えています。

【イザヤ書54章7〜10節】
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。

 この預言は、イスラエルの民の罪の結果、神の裁きであったバビロン捕囚と、そこからの解放についてのものでした。果たしてそれはその通り実現しました。さらにこの預言は、さらにずっと先になって実現した、イエス・キリストによる新約の贖いの預言、さらにはもっとずっと先の未来に実現することが約束されている、終末の救い、被造物すべての贖いの預言を語っている文脈の中でのものです。このイザヤの預言は、神さまがご自身の義について分かりやすく今の私たちに啓示してくださっている、語られているのです。

 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」。示されたという語は「啓示された」という語が使われています。啓示とは隠されていたことが明らかに示されたということです。旧約聖書全体、神の民の歴史全体を通して示されていた神さまが私たちを義とされる唯一の方法が、平和の君、イエス・キリストの出現によって今、新約、新しい契約の幕開けの時、私たちの目に明らかに示されたのです。22節。

3章22節      すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 パウロはここで初めて、神の義と救い主イエス・キリストとをはっきりと明確に結びつけました。

 「すなわち」なんて難しいことを言っていますが、ここは単純に「それは」と訳して良い語です。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」。旧約聖書全体が証言している神の義、罪は必ず明らかにされて、罪は必ず裁かなければならない、しかしそれは赦されなければならない。そのような神の義が今、律法とは別に、律法を守り行うという方法によるのではなく、イエス・キリストによって示されたと言うのです。私たちの側の律法を守り行う、行いによるのではなく、ただ恵みによって与えられる神の義。その条件はただ「イエス・キリストを信じる信仰による」ものです。神の義が人間にもたらされるための手段、すべての罪が裁かれる、きちんと裁かれた後、すべての罪が赦される。赦されて、神さまと和解する。新しい契約を結んでくださる。そして神さまとの平和な関係を取り戻してくださる。しかしそれらすべてはイエス・キリストの十字架によって。イエス・キリストが私たちの身代わりとなって裁かれることによって。イエス・キリストを通して、恵みによって、賜物、ギフトとして私たち人間に義がもたらされるのです。

 「それは何の差別もなく、すべての信じる人に与えられる」。それが神さまの新しい契約、約束です。この約束もまたどんなことがあっても変更されることはありません。ユダヤ人、ギリシヤ人、日本人の区別も、律法のあるなしも問題ではなくなりました。人間の目から見て良い人とか悪い人とか、強い人、弱い人、富んでいるとか貧しいとか、偉いとか偉くないとか、そんな区別も差別もないのです。なぜなら、神さまの目から見るならば「すべての人が弱く貧しい罪人」であるからです。神さまにえこひいきはありません。同時に、救われるためにも、罪が赦されることにおいてもえこひいきなさいません。「それは何の差別もなく、すべての『信じる人』に与えられる」のです。

3章23節      すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3章24節      ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」。直訳すると、「神の栄光に不足している」「達していない」となります。

 創世記に戻りますが、人間は初め、神のかたちに似せられて造られた存在でした。神さまにはなはだ良い状態に造られ、永遠に生き、永遠に神さまとともに園で生きられる栄誉ある存在でした。ところが罪を犯してしまった。神さまに背いてしまった。神さまに背を向けて自分勝手な道に進み出てしまった。それでその栄誉を失ってしまったのであり、神さまとの親しい交わりからも遠ざけられてしまったということです。罪を犯してしまったために、全く足りないのです。栄誉を受けるレベルに全然達していないのです。

 ならばどうしたら再び神の栄誉ある存在となれるのでしょうか。それはキリスト・イエスによる贖いによって可能となるのです。ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。罪が赦されるのです。もう私たちのうちに罪は認められない。はなはだ良いと言われる。永遠に神さまとともに園で、神の国で生きることができる栄誉が与えられる、栄光の姿へと変えられるのです。

 それは「価なしに」と言われています。「価なしに義とみとめられるのである」と言われています。「価なしに」とは英語で「Free」です。無料です。私たちには支払うべき責任は一切ありません。なぜここで「無料」などと、何かお金の価値のようなものが出てくるのでしょう。それはパウロが言うには、私たちは「罪の奴隷」だからです。奴隷が解放されるためには、別の誰かにお金を払って買い取ってもらわなければなりません。「贖い」と訳されているギリシャ語には、はっきりとした意味があります。それは「身代金の支払いによる解放」という意味です。それを日本語では「贖い」と訳しているのです。私たちを罪の奴隷から解放するために支払われた代価、身代金。それがキリスト・イエスの十字架です。キリストが十字架で流された血、いのちが私たちの代価でした。「目には目を、歯には歯を、いのちにはいのちをもって償わなければならない」と、これは神さまの定められたこと。私たちの罪の代価はいのちをもって支払わなければならないほどのものなのです。罪の代価はキリスト・イエスの贖いによって支払われた。それで私たちは自らの罪のために、私たちのいのちを差し出す必要がなくなったのです。

 さらにもう一つ、「価なしに」英語で「Free」の意味を覚えたいと思います。それは「無料」であり、「自由」という意味もあるのです。罪の赦し、キリスト・イエスによる贖いは、「神の恵みによる」のです。恵みとは神さまからの一方的なものです。神さまの恵みが本当に恵みであるのは、それを受ける資格が全くない者に与えられるから恵みなのです。神さまと人間との協力によって造り出されるものではありません。神さまのなにものにも制限されることのない、全くの自由によるものです。神さまの恵みは、人間の側で、神の前に功績をつみあげて、律法を完全に守り行って、それとの交換でとか、取り引きで獲得するようなものではありません。全く無条件に人間に与えられるものです。キリスト・イエスの十字架はそのような神の恵みなのです。私たち罪人に差し出される神さまの愛、救いの愛なのです。

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされます。義とされています。すべての罪が赦され、義と認められるのです。神の恵みにより、価なしに。これが神さまの約束です。この恵みを決して無駄にしてはならない。そう思われないでしょうか。

 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。この恵みの約束を信じましょう。この約束を信じるか信じないかによって、結果は大きく違ってしまうからです。それは信じて救われるか、救われないかで天国と地獄の差があるというだけではありません。信じて救われてからも、約束の地、天の御国を目指して旅するこの地上での荒野の旅においても、信じるか信じないかによって、天と地ほどの差があるからです。平安で、喜んで歩むのか、不安で、迷いながら歩むのか。

 また私たちは、救われて後も、相変わらず罪を犯してしまうものです。このことにおいても、神さまの約束を信じましょう。それは「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」からです。義と認められるという語はわざわざ現在分詞が用いられており、それは義認というものが、今も私たちの身に起こっていることを示しているからです。

 罪の悲惨さを知り、その罪がキリスト・イエスの贖いによって赦された、赦されている、赦される。神さまの約束を信じきり、委ねきり、その恵み、愛に応えて生きて行きたいと願う者、それこそが救われた者ではないでしょうか。たとえ罪を犯してしまっても、神さまを愛する愛があるゆえに、その罪を愛し、罪の中に留まることをしない。悔い改めて、神さまの約束にすがって立ち上がる。それこそが救われた者ではないでしょうか。神さまの単純な約束を信じきることは簡単なようだけれども一番難しい。しかし主は、私たちが日々、神さまの価なしの義認を経験していくことを通して、私たちを神からの栄誉を受けるにふさわしい者、神の栄光に達する者へと変えてくださいます。ついに私たちがみな、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するように、守り導いてくださいます。「栄光から栄光へと私を変えてくださる。主と同じ姿に変えられるまで、私を変えてくださる」のです。神さまがおられる。神さまが報いてくださる。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。それを信じて、神さまが喜ばれる道を歩んでまいりましょう。

 お祈り致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝いたします。この世の旅路は荒野の旅路です。様々な困難があります。罪があります。しかし、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」との約束を信じてすがる者としてください。私たちは義認を経験しました。今も日々義認を経験しています。その価なしの恵みの上にあぐらをかくのではなく、内から湧き起こってくる感謝と喜び、賛美をもって、主の愛に応えて歩む者としてくださいますようにお願いをいたします。感謝して、主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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