2021年5月30日 主日礼拝「注がれた親心」

礼拝式順序

礼拝前賛美
(賛美をもって神の前に進み、礼拝へと心を整えましょう。)
 ※伴奏&歌詞の動画あり↓↓↓
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  66番「聖なる聖なる」1節と4節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  354番「かいぬしわが主よ」1節と4節
聖 書  ルカの福音書15章11〜24節
説 教  「注がれた親心」佐藤伝道師
讃美歌  499番「御霊よ降りて」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


本日の聖書箇所

ルカの福音書15章11〜24節

説教題

「注がれた親心」

今週の聖句

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

ルカの福音書15章20節

訳してみましょう

2098 Worthy is the Lamb, who was slain.(Revelation 5:12)

2099 You are always worthy to be worshiped, Jesus! Please help me to live today in Your presence with a grateful heart.

説教「注がれた親心」

ルカの福音書15章11〜24節

 お祈り致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。本朝もこうして、あなたが私たち一人ひとりの名を呼び、この場に招いてくださり、その招きに応える者としてくださったことを覚えて感謝いたします。先週は幸いなペンテコステを記念する礼拝を献げることができ、ありがとうございます。聖霊によって力づけられ、励まされ、慰められつつ歩んでまいりました。過ぐる一週間、私たちがそれぞれに結んだ御霊の実をお献げいたします。そしてこの礼拝を通して、また私たちを聖霊で満たしてくださって、それぞれの場所場所に喜んで出て行くことができますようにお導きください。ひとときをお委ねし、またみことばに期待しつつ、私たちの救い主、キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 私たちが聞き続けておりますローマ書は7章に入り、前回は7章6節のところまで見ました。そこにはこのようにありました。

【ローマ人への手紙】
7章6節        しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊にによって仕えているのです。

 そして先週はその聖霊が弟子たちの上に注がれた。そして声に呼び集められた者の群れ、教会が誕生したことを記念するペンテコステ礼拝が献げられました。

 聖霊は私たちにとって本当に重要な、必要な、なくてはならないお方であるということがはっきりと示され、語られてきました。先ほどのローマ書でもパウロは、私たちは「御霊(聖霊)によって仕えている」「御霊によって生きている」と言っています。

 それでは「聖霊」とは、どのようなお方なのでしょうか。

 そこでまず「霊」の語源を調べて見ますと、旧約聖書において霊は「ルーアッハ」に当たる言葉です。これは風とか息の意味です。イエス様は言われました。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。そのように「霊」とは、息と風のように見えない力、出所と方向を知らないけれども、他のものを動かす力なのです。どうでしょうか。私たち人間は、心で考え手足を動かします。心という目に見えない、つまり霊的な不思議な部分があって、そこに浮かんでくるものの出所と方向は知らないけれども、目に見えない心、霊は私たちを動かす実際の力なのではないでしょうか。

 そして聖霊は、御霊、聖なる御霊、神の御霊、主の御霊と呼ばれます。そうすると、誤解を恐れずにもの凄く大胆に言ってしまうならば、聖霊、御霊は神さまのお心、御心とも言えるように思います。

 三位一体の神さまのことを、これまで色々な喩えをもって説明しようと試みられてきました。しかしどれも「これが正解」というものはありません。それを踏まえた上で、私も一つの喩えをもって説明を試みたいと思います。

 一人の幼い子どもが迷子になってしまいました。その子は孤独で、不安で泣いていました。その子を見つけた母親は、急いで駆け寄って手を伸ばし、その子を抱きしめて、「ほら、お母さんここよ。もうだいじょうぶ、泣かない、泣かない。さあ帰ろうね」。お母さんの腕に抱かれて、すぐに子どもは泣き止みます。お母さんが耳元で何かささやくと、途端に笑顔になりました。お母さんが自分のことを本当に心配して、必死になって自分を探してくれていたんだ。見つけてくれた。今、自分を抱きしめて喜んでくれている。そんなお母さんの心、親心というものを知って、その子は心から安心して、赤ちゃんのようにお母さんの胸に頬をうずめる、暖かなぬくもりを感じるのです。

 私たちもこの迷子の子のようです。この子どもを私たちとするならば、お母さんは天の父、お母さんの手と声がイエス様、お母さんから溢れ出て私を包む親心が聖霊です。お母さん自身と、お母さんが伸ばした手と声、そしてその親心は、一つであって分けることができません。

 聖書は最初から迷える子どもを描いています。親である神さまを軽く見て、神さまに背を向けて、自分勝手な道に歩き出してしまった子、人間に対して、永遠の昔から聞こえてくる神さまの声があります。「わたしのもとに帰れ」、「あなたはわたしの愛する子」と。

 その声は昔、旧約時代は預言者によって語られました。イエス様がこの世に降られて、公生涯と呼ばれる救い主としての活動が始められた最初に語られたお言葉はこうでした。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マル115)。イエス様が語られた言語でこの「悔い改める」という語には、「帰る」という意味があります。父なる神さまは御子イエス様を通して「わたしのもとに帰れ」、「あなたはわたしの愛する子」と語られたのです。そしてイエス様が天に昇られた今、聖霊、御霊によって語り続けられているのです。「わたしのもとに帰れ」、「あなたはわたしの愛する子」。

 本朝与えられましたみことばは、ルカの福音書15章11節からです。15章1節から10節までのところは、「デウスの御大切」と題して昨年の9月20日に取り上げました。今日はその続きのところです。とても有名なイエス様の例え話のひとつです。羊の持ち主、また銀貨の持ち主が天の父なる神さま。羊を探し、また銀貨を探す手と声がイエス様。いなくなってしまった羊、なくなった銀貨を心から心配している、そして見つかって、自分の所に帰ってきたなら大喜びする、その心が聖霊(御霊)です。

 そして11節からは、また別の喩えが語られて、そこにある父親と息子が登場します。兄弟が登場しますが、今日は父と弟に注目したいと思います。

 これもイエス様のたとえ話です。作り話ではありません。ある真理を伝えたくて、分かりやすく喩えてお話しくださっているのです。そして父親は天の父なる神さま。息子は私たちです。

15章11節   またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15章12節   弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

 随分勝手でひどい息子です。目の前の父親に向かって、「あなたは必要ないから、財産だけくれ。良いものだけよこせ」と言う。優しいお父さんは息子の言う通り、財産を与えました。

15章13節   それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

 ここにも人間の罪というものがはっきりと描かれています。聖書の言う罪、その根本は「神さまに背を向けて、自分勝手な道に自らの足で歩いて出て行ってしまう」ことなのです。神さまを軽く見て、神さまに背いて、神さまから離れて行こうとする。そのことを罪と言うのです。その結果どうなるでしょう。自分の行動の当然の報いを受けるのです。「罪から来る報酬は、死である」(ロマ623)と聖書の別の所でもはっきりと言われています。自分の行動の当然の報い。それは死であり、また死へと向かう道筋、その中で味わう苦しさです。

 息子は父からもらった財産を持って、父のもとから離れて遠い国に旅立ちました。そこで湯水のように財産を使ったとあります。その結果、

15章14節   何もかも使い果たしたあとで、その国に大きなききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15章15節   それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15章16節   彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

 金の切れ目が縁の切れ目。彼を、親身になって心配し、助けてくれる人はいませんでした。ある知り合いのもとに身を寄せたけれども、友だちと思っていた人に、そこではただの雇い人以下の扱いを受けてしまいました。豚以下のような酷い扱いでした。彼は異国の地で孤独を味わい、ひもじさを味わい、死ぬほどでした。その時です。彼は我に返ったのです。

15章17節   しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15章18節   立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15章19節   もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

 彼は我に返りました。彼の言葉を見ると、真に悔い改めたと言って良いでしょう。人が悔い改める時とは、大抵このような大変な困難な中なのです。もうどうしようもない。八方塞がり。そんな時、人はようやく「空の星を数えてみなさい」という父なる神さまの声を聞いて、素直にその声に従うことができるのです。天を見上げることが出来るのです。力なく両手をぶら下げて、降参してただ天を仰ぐのみです。すると神さまのおられる天は開けていることに気付くのです。

15章20節   こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

 彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った、つまり帰ったのです。さきほど「帰る」という語には「悔い改める」という意味があると申し上げました。彼は父に対して自分の罪を、父に背を向けて自分勝手に出て行ってしまった罪を悔い改めて、そして父のもとに帰って行ったのです。するとどうでしょうか。家よりはるか彼方。父の目に豆粒ほどの大きさの息子の姿を、父は見つけたのです。これは何を意味しているでしょうか。父は息子を信じて、自分のもとに帰ってくるのを毎日毎日、来る日も来る日も、目を凝らして待ちわびていたのでしょう。帰ってくる息子の姿を、1分1秒でも早く見たくて、そんな思いでずっと待っていたのでしょう。その息子が帰ってきたのです。父は彼を見つけ、かわいそうに思ったようです。案の定、心配していた通り、裸足で、ボロボロになってこちらに向かって来る息子。父はかわいそうに思ったと訳されていますが、それは「思いやり」とか「感動」という意味の語です。自分の愛する息子が帰って来た。悔い改めた。父の心の中に感動がこみ上げて、その思いに突き動かされて、走り寄って息子を抱きしめて口づけしました。

 息子は父の腕の中で、自分が考えていた反省の言葉を言おうとしました。けれども父は、そんなことはどうでも良いと、もう赦していると、お前は今、私の目の前にいるではないかと言わんばかりに、息子の言葉を遮りました。その喜びようは相当なものだったようです。「急いで一番良い着物に着替えさせなさい。手に指輪をはめ、足にくつをはかせてやれ。そして肥えた一番上等な子牛を料理して、皆で食べて祝おうではないか!」。

 何度も申しますが、これはイエス様のたとえ話です。作り話ではありません。神のひとり子であり、神さまのすべてをご存知のイエス様が、神さまのお心、御心を述べているのです。そしてこの父は神さま、息子は私たち、この私なのです。

15章24節   この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして彼らは祝宴を始めた。

 息子は自分勝手に出て行ってしまった。私たちは神さまを軽く見て、自分勝手に神さまに背を向けて、神さまから離れて行ってしまった。けれども父なる神さまは、そんな私を恨むことなく、嫌いになり、見捨ててしまわれるのではなく、以前と変わらずに愛しておられる、慈悲深い心をもっていてくださる。帰って来た私を、子であるということだけで無条件に赦し、迎え入れてくださる。これこそ親心でしょう。その実際の天の父なる神さまの親心というものが、このたとえ話の中には描かれているのです。私たちに一人ひとりに対して抱いてくださっている神さまの親心です。

 親心があるのならば、どうしてあの時息子を引き留めなかったのか。どうして出て行った息子をすぐに追いかけて、無理矢理にでも引き戻さなかったのか。

 それも神さまの親心なのです。心から悔い改めて欲しい。そして心から、全身全霊をもってご自身のもとに帰って来て欲しい。もし引き留めたり、無理矢理にでも引き戻したとしても、恐らく息子は心から悔い改めることはないでしょう。神さまのもとに帰って来たように見えても、結局はまた出て行ってしまうのではないでしょうか。

 私たちが本当に心から悔い改める、心から自分が悪かったと反省できる時はどんな時でしょうか。それは誰の所為でもない、自分の所為でこのような悲惨な結果を招いてしまったのだと知る時ではないでしょうか。

 神さまは、私たちにどうしても生きて欲しいのです。活き活きと生きて欲しい、ずっと永遠に生きて欲しい。もう死んで欲しくないし、死を覚悟するほどの経験など、もう二度として欲しくないと願われているのです。

 だからこそ、出て行くままにされる。出て行った先で、なすがままにされる。そして一日でも早く本当の悔い改めをして欲しい。1分1秒でも早く、神さまのもとに帰って来て欲しい。そう切実に願いながら、神さまの心は痛んでいるのです。聖書は私たち人間一人ひとりに対する神さまの思いをこのように表現しています。「はらわたがわななくほどに愛している」と。内臓が、体の内側が、心が、霊がぶるぶる震えるほどに、私たちを愛してくださっている父なる神さま。その神さまが、この世で苦しんでいる、悲しんでいる、死にそうになっている私たちの姿をご覧になって、どんな思いになっているでしょうか。

 親心です。子を思う親心でいっぱいでしょう。親の子に対する愛や思いは計り知れません。不完全な人間である私たちでさえそうなのですから、神さまの心はいかばかりでしょう。そのような神さまの親心が、私たちにも向けられているのです。

 父は息子を探しには出かけませんでした。ずっと家で息子の帰りをひたすら信じて、待っていました。父は出て行った息子を片時も忘れてはいませんでした。いつも心から心配し、いつも心から無事を願っていたでしょう。いつも早く帰って来て欲しいと、祈りにも似た切実な思いで、心から願っていたでしょう。私たちが誰かを心から思い祈っている時、私たちの心はどこにあるでしょうか。私たちの心は、その相手のすぐ側にあるのです。

 この父の心はいつも息子とともにありました。私たちは「思いが届いた」などと言いますが、この時、為す術なく両手をぶら下げて、ただ天を仰いだ時、父の思い、父の親心が天から届いたのでしょう。一気に注がれてきたのでしょう。その時、息子はハッと我に返ったのです。父の心に気付いて、ハッと悔い改めたのです。父のもとに帰ろうと決心したのです。その父の心というのは、厳しい心ではなく、愛の心でした。愛に満ちた親心でした。親心に感動して、息子は悔い改めた、父のもとに帰ったのです。

 それは天の父なる神さまと同じです。天の父なる神さまは、天の御国で、ずっと私たちの帰りをひたすら信じて、そして待っておられます。神さまに背を向けて自分勝手に出て行ってしまった私たち、その先で様々な経験をさせられている私たちを、それでも片時も忘れておられません。見捨ててなどおられません。心から心配し、無事を願っておられる。今すぐにでも帰って来て欲しいと、心から願われています。私たちの天の父なる神さまは、そのような愛に満ちた親心を私たちに常に天から注いでくださっているのです。神さまの親心は、私たちのすぐ側にあるのです。その親心とは、御霊です。この御霊が今、神さまを求める、救いを求める人間の内に宿っておられるのです。

 聖書の中で聖霊、御霊は「油」「注ぎの油」とも呼ばれます。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(使徒18)。このでの「力を受ける」とは、聖霊による油注ぎでなくて何でしょうか。油を注がれ、そして私たちは燃え立たせられる。力が湧いてくるのです。私たちの内に力を湧き起こらせるものは、油、御霊です。そしてその油、御霊は神さまの親心でもあるのではないでしょうか。律法のような人に罪を突きつける厳しいものではなく、愛に満ちた、慈しみに満ちた親心です。

 臆病になり、部屋に閉じこもっていた弟子たちを強くしたのは何でしょう。最初の殉教者ステパノが最後まで平安でいられたのは何故でしょう。ステパノを迫害したサウロ、後のパウロが、どうして大回心をして偉大な宣教者となったのか。私たちが神さまを愛するのは、誰かを赦すのは、律法が命じているからでしょうか。私たちの罪が赦されるのは、私たちが慰められるのは、私たちが励まされるのは、生きていて良いのだと確信できるのは、何によってでしょうか。神さまの霊、御霊、親心でしょう。御霊が示してくださる神さまの親心を知るからでしょう。この御霊が私たちの内に宿っているのです。すべての出来事には神さまの親心がある、御心があるのだと。あらゆる苦しみには意味があり、天に続いているのだと。御霊が示す神さまの親心を確信できた時、私たちは「アバ、父。お父さん」と安心しきって、父なる神さまの御旨に、懐に、全身全霊で飛び込むことができるでしょう。神さまの御旨の中に顔をうずめ、一切を任せて、真の平安が与えられることと思います。

 ここで見逃してはならないことは、ルカの福音書15章のたとえ話は、パリサイ人、律法学者を含めたユダヤ人、神さまをすでに信じていた人たちに語られたということです。パウロのローマ書もまた、救われたクリスチャンに向けて書かれているということです。今の私たちにも語られているということです。

 その心は。すべての人が救いへと招かれているということ。神さまは救いを求める人を受け入れてくださるのだということ。そして、そのすべての人の中に、私たちも含まれているのです。すでに救われている、そう思っている私たちに対しても語られているのではないでしょうか。「わたしのもとに帰れ」、「あなたはわたしの愛する子」、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。このことを語りかけ続けるのではないでしょうか。そしていつも、立ち止まってはならないと、神の国に向かっての前進を求めてくださっているのです。

 今、イエス・キリストの十字架と復活によって、古い文字、律法にはよらず、新しい御霊によって仕える者とされている私たち。素晴らしい神さまの親心によって神さまに仕え、神さまを愛し、そして生かされている私たち。その私たちのうちに未だ、「わたしのもとに帰れ」、「あなたはわたしの愛する子」と聞こえて来る声はないでしょうか。古い文字による、律法による、古い生き方に縛られていることはないでしょうか。親心を受け入れられない、親心に一切を任せきれない。それもまた、神さまが悲しまれることです。私たちが何か弱さを感じるのは、そのためなのかもしれません。

 私たちは日々、神さまの親心の前に立って、その御声に聞かなければならないでしょう。父なる神さまは、私たちがご自身のもとに歩いてくることを信じて、私たちを探し、見つけ、親心を注いで包んでくださっています。親心によって抱きしめたい、抱きしめられなさいと、願われておられます。

 それでは、律法は罪なのか。絶対にそんなことはありませんと、パウロはローマ書で続けます。次回はまたローマ書に戻り、そこから神さまの御声を聞きたいと願います。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝いたします。聖霊が降り、神さまの親心が私たちのうちに宿り、生かされていることを覚えて感謝致します。「わたしのもとに帰れ」と、未だ主の御声に聞かなければならない私自身の姿を覚えます。どうぞ御霊で満たしてくださり、力を与え、励まされ、慰められ、そして日々御心の内を歩んで行けますようにお守りください。感謝して、主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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