2026年3月22日 主日礼拝「捕らえられる瞬間にも示された愛」

前  奏  黙祷
賛  美  韓日聖歌「王の王わが主の」
      韓日聖歌「主イエス十字架を負い」
招  詞  イザヤ書53章10節
讃  美  讃美歌138「ああ主は誰がため」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇19篇(新聖歌 交読⽂5)
讃  美  讃美歌262「十字架のもとぞ」
聖書朗読  ヨハネの福音書18章1〜14節
説  教  「捕らえられる瞬間にも示された愛」
讃  美  讃美歌354「かいぬしわが主よ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 ヨハネの福音書18章9節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

ヨハネの福音書18章1〜14節

説教題

「捕らえられる瞬間にも示された愛」

今週の聖句

これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。

ヨハネの福音書18章9節

説教「捕らえられる瞬間にも示された愛」

ヨハネの福音書18章1〜14節

はじめに

2月18日から始まった受難節(四旬節)ですが、今日は受難節第5主日となっております。来週の3月29日からはいよいよ受難週が始まります。イエス様がこの地上で愛する弟子たちとともに生きられた最後の1週間となるわけです。

余談ですが、最近私が毎週欠かさず見ているドラマがあります。「未来のムスコ」というドラマです。ごく簡単にストーリーを説明すると、10年後の未来から、主人公の女性の5歳の息子がある目的を成し遂げるためにやって来て、1年後には未来に帰るという物語です。未来に帰る日は1月9日だと分かっていました。先週はその未来に帰る日の1週間ほど前の出来事が描かれていました。ママと別れる前に、5歳の息子が覚えたばかりの文字で一生懸命書いた、どうしてもママに伝えたかった言葉は「だいすきママ」でした。数日後、ついに未来の息子が未来に帰ってしまい、未来の息子が書いた「だいすきママ」のたどたどしい文字がアップになってその回が終わったのですが、私は思わず感極まって泣いてしまいました。これから主人公のママは、未来で息子との再会を待ちながら、でも本当に会えるのだろうかと不安になりながら生きて行くわけですが、息子が最後に一生懸命に自分に伝えてくれた「だいすきママ」の言葉が、どれだけママを慰め、希望を持たせ、力づけたことだろうかと想像するのです。

さて、もし皆さんが愛する人との別れの日が決まっていたとしたら。いや、ご自分が今週末に死ぬということが分かっていたとして、皆さんは何をするでしょうか。やり残していたことをやろう。食べたいものを好きなだけ食べよう。家の片付けでしょうか。色々と考えることができると思いますが、やはり一番愛している人に会いたい。愛している人のために何かをしてあげたい。愛している人に会ってどうしても伝えたいことがあるのではないでしょうか。

また、私たちにとって死というのは、永遠のいのちに対する信仰はありながらも、やはり正直なところ、人生最大の危機的状況となるのではないでしょうか。そのような時、人は本心を現すものです。

今日のところで、イエス様はまさに危機的状況に立たされました。一隊の兵士(聖書の欄外注には600人と書かれていますが)と大勢の群衆が、裏切り者の弟子ユダを前に立て、イエス様を捕らえるためにやって来ました。これから何が起こるのかをすべてご存知のイエス様。この時、目の前に迫った死の危機の瞬間にも、世にいるご自分の者たちを愛してこられたイエス様は、彼らを最後まで愛されました(ヨハ131)。“彼ら”に対する深い愛情を感じられ、ご自身の愛を残るところなく示されたのです。

オリーブ山のゲツセマネ

祈りを終えられたイエス様は、弟子たちとともにキデロンの谷の向こう側にある園に入られました。この園は他の福音書では「ゲツセマネ」と記されるところです。十字架を目前にされたイエス様は、弟子たちに言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と。そして父なる神に3度も祈りました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」。ルカの福音書ではさらに、「イエス様は苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ2244)と記しています。このイエス様の危機的状況の中で、なんと弟子たちは眠ってしまっていました。イエス様は弟子たちに言われました。「一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」(マコ1437-38)。

ユダが群衆を引き連れてくる

すると、イエス様を裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが、ローマの兵士たちと祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れて、イエス様を捕らえに来ました。以前、祭司長たちとパリサイ人たちはイエス様を捕らえようと下役たちを送りましたが、下役たちはイエス様を捕らえて来ることができませんでした(732,45-49)。イエス様が死んだラザロを生き返らせ、多くのしるしを行われると、祭司長たちとパリサイ人たちは対策を練るために最高法院を召集しました(1147)。その日以来、彼らはイエス様を捕らえるだけではなく、殺してしまおうと企むようになりました(1153)。そしてついにこの時、彼らはその目的を達するべく、ローマの兵士まで動員して勝負に出ました。過ぎ越しの祭りは満月にあたります。この日、満月の明るい夜だったのかは分かりませんが、それでも静まりかえった夜、明かりとたいまつと武器を持つ、おそらく数百人の群衆が送り込まれた。そのものものしさが想像できるのではないでしょうか。「何としてもイエスを殺すのだ」。ユダヤ当局者の並々ならぬ周到ぶりがうかがわれます。彼らはまるで強盗でも捕らえるかのようにやって来ました。そして、弟子たちが逮捕を妨害したり抵抗したりするならば、いつでも攻撃する態勢を整えていました。

「わたしがそれだ」

18章4節      イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので……

イエス様はご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられました。その上で、逃げも隠れもせずに、ご自分を裏切ろうと心に決めていたユダも良く知るゲツセマネの園へ行かれたのです。逃げも隠れもなさいませんでしたが、それでも悲しみ、苦しみもだえられ、いよいよ切に祈られました。汗が血のしずくのように地に落ちました。イエス様にとって、この地上での人生における最大の危機的状況には変わりありませんでした。そのような人の本心が現れるその時、イエス様は何をなさったのでしょう。世にいるご自分の者たちを愛してこられたイエス様は、“彼ら”を最後まで愛されました(ヨハ131)。“彼ら”に対する深い愛情を感じられ、ご自身の愛を“彼ら”に残るところなく示されたのです。

18章4節      イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
18章5節      彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。

イエス様は弟子たちを制するようにしてか、自ら進み出られたのです。そして言われました。「あなたがたは、だれを捜しているのか」。

この福音書を書いた時点で、すでにヨハネは80代後半から90代であったようです。イエス様の弟子たちの中で最年少だったヨハネが、イエス様とともに過ごした若き日々の記憶。また十字架と復活を目撃し、その証人となり、証人としての人生を歩み、それ故に、神を見失ってしまった迷える小羊のような世の人々から激しい迫害を受けるなど、本当に人生経験豊かなヨハネらしい深い言葉です。「あなたがたは、だれを捜しているのか」。これは単にご自分を捕らえに来た群衆に向かって投げかけられた質問ではありません。弟子たちもイエス様のこの言葉を聞いているのです。そして、数百人という群衆の中の、あるいは福音書の読者の中にいる、何かしら人生に迷いを感じ、何かしら自分に自信がなく、無意識にでも何かに救いを求めているすべての人たちに対する問いでしょう。「あなたがたは、だれを捜しているのか」。

イエス様は“彼ら”に問われました。「だれを捜しているのか」。彼らは「ナザレ人イエスを」と答えました。イエス様は彼らに言われました。「わたしがそれだ」と。

「わたしがそれだ」。これは原語のギリシャ語では「エゴー・エイミー」です。昨年のイヴ礼拝のメッセージの中でも語られましたが、この「エゴー・エイミー」は本当に特別な言葉です。神がイスラエルの子らにご自分を明かされた時に用いられた特別な語です。それと同じことばで、イエス様は“彼ら”に答えられました。群衆に、そしてイエス様を裏切ろうとしていたユダに。またイエス様の後ろにいた弟子たちに対しても問われたのではないでしょうか。そして私たちにも。「エゴー・エイミー。わたしがそれだ」。それは、世にいるご自分の者たちを愛しておられる主イエス・キリストが、すべての人々にどうしても伝えたい、主ご自身の愛のみことばです。

イエス様が彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりして地に倒れました。それはおそらくイエス様を恐れただけでなく、イエス様が堂々とご自分をまことの神、救い主として明らかにされたためでもあるでしょう。そしてこの時、彼らが本来取るべき態度というのは、すべての人々が神の御子イエス・キリストに対して取るべき態度です。それはどのような態度でしょうか。それは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われた主のみことばに従うこと。また疑い深いトマスが告白した「私の主、私の神よ」(ヨハ2028)との同じ告白でしょう。信仰、絶対的信頼、また従順でしょう。

イエス様は再度「だれを捜しているのか」と問われました。すると彼らもまた再度「ナザレ人イエスを」と答えました。

この人たちは去らせなさい

この危機的状況に、人の本当の心が現れる場面で、イエス様は言われました。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい」。イエス様は弟子たちに「何をしているのだ。わたしを守るために立ち上がり、勇敢に戦え」とは言われませんでした。イエス様は弟子たちの身を守るために、またすべての人のいのちを守るために、自ら進んでご自分を差し出し、このように言われたのです。

「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい」。世にいるご自分の者たちを愛してきたイエス様は、最後までご自分の者たちを愛されました。彼らに対する深い愛情を感じられ、最後までご自身の愛を残るところなく示されました。

「ご自分の者たち」、「彼ら」とは誰でしょうか。もちろん、主が愛された弟子たちでしょう。しかし弟子たちばかりではなかったのではないでしょうか。私たちの救い主は、「あなたの敵を愛しなさい」と言われるお方です。ご自分を裏切る者さえも愛されるお方です。敵さえも愛されるお方です。ご自分を本当には知らない者さえも愛しておられるお方です。ですから、「この人たちは去らせなさい」というのは、その場にいたすべての人たちを愛され、すべての人たちのいのちを大切にされ、無用な争いによって互いに傷つけ傷つけられ、そして大切ないのちを落としてしまうことのないようにという、一人ひとりのいのちに対する主の深い愛とあわれみのあらわれでもあるのです。もちろん、すべては神のみこころが成就されるためでした。ご自分が捕らえられ、そしてすべての人の罪を負い、十字架に架けられ死なれるという神のみこころ、目的の成就のために従順に従われたのです。しかしそのすべての根底に、この世のすべて造られた者をねたむいほどに愛される神、主の愛が込められているのです。

18章9節      これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。

イエス様は言われました。「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした」(ヨハ1712)。こうも言われました。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」(ヨハ6 39-40)。そしてすべての人を愛する主は、父なる神にいつもとりなし祈ってくださっています。「彼らがこの世から取り去られることなく(つまり、すべての人が無用な争いや罪のゆえに、途中で死んでしまうことがないように)、悪い者(あるいは「悪」)から守ってください」(ヨハ1715)。神の御子、十字架につけられ死なれ、しかし3日目によみがえられたイエス・キリストを見て、信じ、永遠のいのちが与えられ、永遠のいのちが最後まで守られて、終わりの日には一人残らず、ちゃんとよみがえらされますようにと。それが父なる神のみこころですと。

捕らえられる瞬間にも示された愛

イエス様はすべてをご存知のうえで、すべての人を最後まで愛されました。地上での人生における最大の危機的状況、捕らえられる瞬間でさえも、その愛を残るところなくすべての人に示されました。

最後まですべての人を愛される。すべての人に愛を残ることろなく示される。ご自分のみこころを本当には理解できずに、自分の思いのままに問題を解決しようと、剣を抜いて、力をもって、あるいは言葉や態度の剣を振りかざし、敵に切りかかってしまうシモン・ペテロのような私たちさえも、主は最後まで愛してくださり、その愛を残るところなく示してくださる。死の危険、罠、罪から守ってくださる。自分の身を守るために、イエス様を置いて命からがら逃げ去ってしまうような私たちさえも、主は最後まで愛してくださり、その愛を残るところなく示してくださる。危機的状況にあって迫害を恐れ、馬鹿にされたり、いじめられたりすることを恐れ、つい「イエスなんて知らない」と言ってしまったり、そのような態度を取ってしまったりする私たちさえも、主は最後まで愛してくださり、その愛を残るところなく示してくださるのです。悔い改めて、またそこから信仰によって立ち上がる時が来ることを信じていてくださり、ご自分を盾にして、いのちを守ってくださっているのです。

また、世の波に流され、サタンに惑わされ、神に対して目も心も閉ざされ、神を知らず、イエス・キリストを知らず、ゆえに迷い悩み、苦しみ生きるすべての人。ご自分を受け入れようとしない、ご自分を頑なに信じようとしない者たち。ご自分を、教会を迫害する者たちさえも、主は最後まで愛してくださり、あわれみ、その愛を残るところなく示してくださるのです。ご自分を盾にして、ご自分を十字架につけ、彼らのいのちを守ってくださっているのです。そして十字架の上で両手を力一杯広げ、愛と恵みによる赦しを思いっ切り示して、「あなたはだれを捜しているのか」と問われ、「わたしがそれだ」と宣言され、すべての人が「私の主、私の神よ」(ヨハ2028)と心から告白する時を待っておられるのです。そして未来において、すべての人が主の愛によっていのちが守られ、神の国に入り、主と顔と顔を合わせてお会いする時を待っていてくださる。主が待っていてくださることもまた、主の深い愛とあわれみです。

愛とは

ところで、現代の人々は、もしかしたらあまりにもたやすく愛を語ってしまうものなのかもしれません。しかしその愛は、愛すると言いながらも条件を付け、自分が損を受けないように、自分のいのち(霊的ないのち、心)を失わないように構えているのです。剣を隠し持っている。しかしイエス様は、ご自分の危機を前にご自分の安全よりも弟子たちの安全、いのちが守られることを先に考え、そしてまことの愛を示されました。それこそ主は、ご自分のいのちをかけて私たちを愛してくださっているのです。私たちは主が私たちを愛してくださっているように、主を愛せているでしょうか。主が私たちを愛してくださっているように、隣人を愛せているでしょうか。この点でも、私たちは自分自身に絶望してしまうでしょう。しかし、自分に失望してしまうような者であっても、やはり主はそれでも愛してくださり、そして私たちのいのちを守ろうとしてくださる。赦し、守ってくださっているのです。ご自分を犠牲にして。いのちをかけて。そのようにして私たちに対する愛を示してくださっているのです。

イエス様は、ご自分は羊たちを狼の群れから守ってくださる良い牧者であると語られました。そのみことばどおりに、イエス様はいのちを差し出してまで弟子たちを守られました。すべての人を守られました。その同じ愛によって、今も私たちはいのちが守られています。永遠のいのちが守られています。ですから、たとえ人生に危機が押し寄せたとしても、「わたしは良い牧者である」と言われ、そのように約束してくださっている主イエス様を信じ、依り頼むのです。どのような危機的状況にあっても、イエス様につながっていれば安全なのです。

主に愛され守られている弟子として

その安全を確認した上で、今度はイエス様に愛されている弟子として、私たちはどのように歩むべきか考えたいと思います。そこで私たちはいつも弟子たちの代表として聖書に登場するペテロから学びたいと思うのです。

ペテロはイエス様が逮捕されるのを止めようと、剣を振り回しました。彼は大祭司のしもべの耳を切り落としました。イエス様はこのようなペテロに、剣をさやに収めるよう命じられ、ご自分は神のみこころを果たさなければならないと語られました。ペテロは自分の思いのままに問題を解決しようとしました。しかしイエス様の弟子として彼が学ぶべきこととは、自分の感情ではなく神のみこころに従うことだったのです。この世は、暴力を用いてまでして、自分の意思を通そうとします。しかし、キリストの弟子である私たちは、そうであってはならないのです。人の上に君臨しようとする(マウントを取ろうとする)態度を捨てなければなりません。イエス様はペテロに剣を収めなさいと言われましたが、それは主のみこころをきちんと知り、主のみこころに従順に従うようにということです。主のみこころとは何だったでしょうか。すべての人のいのちを守ることでした。自分自身のいのちも、また相手のいのちも守ることです。自分自身のいのちを守るためにも、剣を、力を、収めなければならないのでしょう。そして私のいのちを主がいのちがけで守ってくださる。その約束は決して変わらない。主と主の約束に依り頼み、その上でようやく隣人に徹底的に仕えることができるのでしょう。そしてそれは犠牲、つまり見せかけではない、イエス様のように自分のいのちを差し出すほどの真実の愛によるのだという、その重要性をあらわしているのです。私たちのいのちをいのちがけで守られる主が私たちキリストの弟子に求めておられることは、従順と奉仕です。神のみこころ「イエス様を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、イエス様がその人を終わりの日によみがえらせること」、そのみこころを成し遂げる道は、真実の愛による従順と奉仕です。剣ではありません。私たちは主に倣い、主が命じられるとおりに、傷を与える剣ではなく、いのちを生かす道具にならなければなりません。それは飲まずにはいられない「杯」となるでしょう。「杯」というのは、多くの場合、悲しみや苦しみを表すのに用いられる語です。たとえ、それが杯であるとしても、私たちは私たちのいのちを最後まで愛され、その愛を示してくださり、その愛をもって必ず私たちのいのちを守られる主に信頼し、真のキリストの弟子として歩んでまいりましょう。イエス様のいのちをかけてまで守られる愛、その守りの中で謙遜になりましょう。良い牧者であるイエス様が、私たちのいのちを守られ、最善の道を開いてくださいます。

この後、イエス様は一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちによって捕らえられ、縛られ、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとのアンナスのところに連れて行かれます。そして不当な裁判がなされ、イエス様を十字架につけて殺そうとする人たちによって身も心も魂も痛めつけられます。救い主イエス・キリストは、神のみこころに従順に従われ、すべての人のいのちを救うために、真っ直ぐに、みずからすすんで十字架に向かって進んで行かれます。ご自分が愛された者を愛し、最後まで愛され、ご自身の愛を残すところなく示されるために、救い主、神の御子イエス・キリストは十字架に向かって行くのです。私たちは残るところの受難節を、主が歩まれた道、主が示された愛に思いを向けながら、弱く罪深い私たちに対する真実の愛、それでもご自分を犠牲にしてまでも、日々私たちのいのちを守られる十字架の主を覚え、約束されている未来における主との再会に期待しつつ、主が私たちに示してくださった愛によって励まされ歩ませていただきましょう。

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