2021年6月13日 主日礼拝「律法は罪なのか」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌 73番「くすしきかみ」1節と3節
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 187番「主よ、いのちのことばを」1節と2節
聖 書 ローマ人への手紙7章7〜12節
説 教 「律法は罪なのか」佐藤伝道師
讃美歌 501番「いのちのみことば」1節と3節
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙7章7〜12節
説教題
「律法は罪なのか」
今週の聖句
ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
ローマ人への手紙7章12節
訳してみましょう
2102 The kingdom of God belongs to such as these.(Mark 10:14)
2103 Jesus, help me tp reveal Your love and presence to all people, including children. Make me mindful of always to ensure that they can always come to You.
説教「律法は罪なのか
ローマ人への手紙7章7〜12節
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。すでに祈られましたが、6月11日にあなたのもとに召されました北澤勝親兄を覚えます。兄弟が地上での生を終え、今あなたの平安と慰めのもとにおりますことを感謝致します。残されたご遺族の上に、関係者、また私たち教会のうえに、いのちの源であるあなたに目を向ける機会を、そして主にある慰めと励ましをお与えください。
今に至るまで、私たち一人ひとりから決して目を離すことなく、すべての道で主が私たちと共にいてくださっていたことを覚えます。様々な出来事を通して、また私たちの内に起こってくる様々な思いや感情を通しても、「わたしのもとへ帰れ」と、いつも父の心で語りかけてくださり、父の心で包み込んでくださっていることを覚え、感謝致します。心許ない私たちの歩みではありますが、どうぞ私たちの足もとを照らすみことばの光をもって守り導いてください。そのみことばを、今朝も祝福してお与えください。みことばより神さまのお心を頂き、感謝して受け取り、みことばによって、御霊によって生かされる者としてくださいますようにお願いを致します。聖霊様が満ちていてくださり、天からの知恵、理解力、洞察力を与えてくださり、主の御心が良く分かるようにお守りください。みことばより御霊の実を結ばせて頂き、私たちの信仰、献身の思いをまた新鮮なものとしてくださって、新しい力を得て、喜びに満たされて、それぞれの場所場所に遣わしてくださいますようにお願いを致します。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません」。パウロはこの7節からまたまた脱線します。パウロの脱線の意味はこれまでも何度も申し上げましたが、脱線したところで語られることは、決してどうでも良いことではなく、とても大切なこと、決して曖昧にしておいてはならないことが語られる重要なところです。ここでは「律法は罪なのか。決してそうではない」ということを語ります。
これまでパウロは、キリスト者のあり方を説いてきました。それは、イエス・キリストの十字架によって、ただ神の恵み、憐れみによって、罪と律法から解放されて完全に自由な者とされたことでした。
7章6節で「しかし、今は、私たちは『自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され』」とあります。この表現はまた一つの誤解を招く恐れがあります。それは、「では律法そのものが罪であるのか」という誤解です。私たちは律法についてどう捕らえているでしょうか。律法にかなった良い行いでは決して救われないのならば、律法は私たちの救い、また「救いの完成」に対しては何の力も拘束力もないのではないか。律法は関係ない。そればかりか、7章5節ではこのようにも言われています。「律法は私たちの内に罪の欲情を引き起こした」と。それでは律法そのものが悪、罪なのではないか。そのように私たちは律法を悪、罪と定めて良いものでしょうか。
パウロは律法そのものが罪なのかという考えに対して「絶対にそんなことはありません」と強く否定した上で、罪と律法の関係を説明します。
もともと、幼い頃から律法を学び、人生すべてをかけて律法に従って来たパウロ。イエス様に出会い、目からウロコが落ちて、本当の事を知って、パウロは自分を縛り付けていた律法を完全否定し、そして恨んだのかと思うと、どうやらそうではないようです。
パウロは人生、経験、知識、色々なことを通して、聖霊によって示され見出しました。律法そのものは罪ではない。律法は真に聖なるものであり、真に正しく、真に良いものなのだと。けれども「罪と密接な関係があるのだ」ということを見出したのです。
7章7節 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
律法は罪を自覚させます。これは律法のとても重要な役割です。
確かに私たちはすでに罪赦され、罪に対しては死んだ者、無関係なのだと思いなさい、そのように認めなさいとまで言われています。しかし現実には、罪との激しい戦いが続けられているではないですか。罪が完全に滅ぼされるのは、救いが完成するのはイエス様が再臨されてからのことです。それまでは罪が支配するこの世に生きて、私たちにはどうしても戦いがあるのです。
罪は私たちを破壊する大変危険なもの、そして戦うべき相手です。ですから具体的に罪とは何なのかを示して、あるいは「むさぼり」のような内面に隠れている罪が明らかにされて、その罪を自覚させる律法はそういった意味で大切です。
7章8節 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
しかし律法、そして戒め、それは律法の中の具体的な命令規定は、罪を目覚めさせます。罪にまるで命を吹き込むかのような働きをします。「罪がこの戒めによって機会を捕らえ」とある通り、罪が神さまの命令規定を通して、ここぞとばかりに、これは好機だ、チャンスだとばかりに私たちを刺激してくるのです。
7章9節 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
7章10節 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
7章11節 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
これはパウロの告白、証しではありますが、あのエデンの園のアダムに適用させて考えると容易に理解できると思います。
アダムはつつがなく暮らしながら、善悪を知る木の実は食べてはならないという戒めを守ろうとしました。しかし、言葉を話す不思議な存在、蛇がエバとエバを通してアダムまでもだまして、それを食べるように仕向けました。その結果、罪が猛威を振るい、アダムは死ぬようになってしまったのです。
神さまはアダムを殺すために戒めを与えたのでしょうか。アダムを死なせるためではなく、生かすために与えたのではないでしょうか。しかし、蛇がこの戒めを悪用してアダムの中の罪を刺激し、ついにはアダムを死ぬ者としてしまったのです。蛇は善悪の知識の木にぶら下がっていました。神さまが備えたその木を拠り所として生きていました。そしてチャンスをうかがい、善悪の知識の木に与えられていた神さまの戒め、みことばを使って人を欺いたのです。「私を欺き」ということばは、「蛇が私を惑わしたのです」と言ったエバのことばと同じなのです。人間は蛇によって欺かれ、人間の内の罪にいのちを吹き込み、その罪は戒めを用いて私たちを神さまとの関係から引き離し、神さまに背を向けて迷い出させ、最終的には滅ぼしてしまおうと試みるのです。
それにしても、この罪というまことに不思議な存在。罪も神さまが創造されたのでしょうか。けれども神さまが創造したとはどこにも記されていません。罪はいったいどこから? というのが昔から議論の的ともなっています。
マタイの福音書4章をお開きください。
【マタイの福音書】
4章1節 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4章2節 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4章3節 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4章4節 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4章5節 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4章6節 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4章7節 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4章8節 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4章9節 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4章10節 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4章11節 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
イエス様を試みたのは悪魔、サタンでした。しかし3節をご覧ください。ここには最初、悪魔ではなく「『試みる者』が近づいて来て言った」とあります。
イエス様が空腹を覚えられた。これぞチャンスとばかりに、「試みる者」が近づいて来た。そして神さまのみことば、神さまの戒めを使ってイエス様を試みたというのです。どこから来るのか分からない「試みる者」という不思議な存在。悪魔なのかどうか分からない姿で忍び寄り試みるのです。しかしイエス様はその背後に悪魔、サタンがいることを見抜いておられました。
9節の「律法なしに生きていて」。それは、アダムのように律法を聞かされながら、それによって良心の痛みを覚えることなく過ごしていた。そこに蛇が来て欺き、いつどこから生まれたのか分からない罪が生き、そして人を死ぬ者とする。サタンのやり方は創世記の初めのアダムの時代から、そしてイエス様の時代、さらには今に至るまでずっと変わらないのです。さらに黙示録に啓示されている救いが完成する時に至るまで、ずっと変わらないのです。つまり今も同じなのです。それどころか、聖書の最後の黙示録をみると、蛇はさらに力を増し、大きく成長しているのを見るのではないでしょうか。
ですから、そのように、律法そのものが罪なのではなく、問題はいつからか私のうちに住みついて、生きて働く罪という訳です。ちなみに、決してサタンが私のうちに生きているのではありません。
7章12節 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
律法はまことに聖なるものであり、戒め、それは具体的な命令規定もまた聖であり、正しくて、また良いものであると、パウロはここで一つの結論を示しました。
律法。モーセの十戒を代表とする律法。それは本来、偶像礼拝に満ちた約束の地で、イスラエルの民がその影響を受けて滅びることがないようにと、イスラエルの民を守り、いのちを与えるものでした。神さまは偶像礼拝がどれほど危険であるかをご存知でした。今もご存知です。「むさぼりが、そのまま偶像礼拝です」(コロ35)と聖書にありますが、このむさぼりがどれほど危険であるかをご存知の上で、「むさぼってはならない」との戒めを与えてくださったのです。目に見えない神さまの御心、御旨、私たちに対する親心。それを現すものが律法であり、戒めなのです。ですから律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もし律法を罪と定めるならば、私たちは私たちを愛し、いのちを与えようと、祝福しようと、私たちが幸いな日々を暮らすようにと願ってくださっている神さまを罪に定めることになってしまうのです。
私は何度も申し上げておりますが、律法が与えられた時の書き出しは何だったでしょう。出エジプト記20章に記されています。
【出エジプト記】
20章2節 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20章3節 あなたはには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20章4節 あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも作ってはならない。・・・
このようにして十戒が与えられました。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と。ここに神さまがどのようなお方であるかが示されています。ここで聖霊によって心が照らされる時、聖霊が注がれて、神さまの私たちに対する親心に私たちが包まれる時、初めて律法は、律法本来の力をもって迫ってくるのです。ユダヤ人たちが長い歴史の中で置き去りにしてしまった、神さまの御心が迫って来るのです。「あなたは、自分のために、偶像を作るはずがないであろう。造らなくても良いのだ」。何々するはずがないであろう、これこれする必要はないのだよと。私たちが聖霊に満たされて、神さまの親心に包まれて聞くこの律法、戒めは、真に私たちを悔い改めへと導き、そして生かす、私たちが行くべき道を教える、いのちのみことばとなるのです。
十戒の後に続く多くの戒め、具体的な命令規定もまた、本来は私たちを生かすものです。厳しくも聞こえる様々な具体的な命令規定ですが、私たちの心が聖霊によって照らされる時、神さまの親心に立って聞く時、それはやはり私たちを危険から守り、私たちを生かすもの。私たちばかりでなく、隣人までも活き活きと生かすものであることが分かるのです。食べ物の規定などは本当に分かりやすいと思われないでしょうか。毒があったり、衛生上の問題であったり、神さまは意地悪で美味しいものを食べてはダメと言っている訳ではないのです。けれどもサタンは、いかにも美味しそうに見せるのです。
また、例えばイエス様はこのように教えておられます。「失望してはならない」と。試みる者は、チャンスがあればこの戒めをも用いてくるのです。「失望しているお前はもうダメなのではないか?」。しかし聖霊によって
、神さまの親心によって聞くならば「失望しなくても良いよ」「失望する必要はないでしょう」と語られるのではないでしょうか。それは励ましとなり、生きる力となって、私たちの歩みを正しい方向に向けさせて、前進させるのです。神さまの暖かな心は、私たちに本当の悔い改めの力、神さまのもとに帰る、その力になるのです。サタンはこの律法、戒め、神さまの御心の現れであるみことばを使って私たちを試みるのです。救われてもなお、いまだ私たちの内には罪があり、私たちの内では罪との戦いがある。それが聖書の言うことであり、私たちも大いに賛成できることではないでしょうか。しかしイエス様は十字架と復活によって、すべての罪に勝利されました。過去、現在、未来のすべての罪に勝利されました。私たちは信仰によってその勝利に与る者であると、それもまた聖書が言っていることで、信ずべきこと、信じられることです。イエス様は「試みる者」に勝利されました。それは聖霊に満たされて、御霊、神さまの親心によってみことばを受け止めていたからです。私たちはこのイエス様を信じ、イエス様に倣う者とされましょう。
父なる神さまは、私たちが幸いな日々を暮らすようになることを願っておられます。祝福を注ぎたいと考えておられます。そのような神さまの御心にかなう歩みをするには、私たち自身の営みを整える必要があるでしょう。仕事や勉強、家庭、友人との関係、日々の暮らし、健康。それらを放置したままでは、ふさわしく歩むことはできません。どうでしょう。それらはみな、律法、戒めに記されているのではないでしょうか。悪魔はそこを狙ってくるのです。
ですから私たちは毎日、いつも聖霊に満たされて、神さまの親心に依り頼んで、これら律法、戒め、神さまのみことばを正しく聞かなければなりません。神さまのみことばに聞くでしょう。聞けば良いのです。これまでの道も、父なる神さまの親心が注がれていた道でした。そしてこれからの道も、私たちは神さまの御心の現れである律法、戒めによって守られ、ますます聖なる者とされ、神さまの待っておられる御国を目指して歩んで行くのです。
残念ながら墓前礼拝は雨のために延期になりましたが、私たちは信仰の先達たちの歩みに教えられたいと思います。また私たちは北澤勝親兄を天の神さまのもとに送りました。北澤兄の、聖書をじっくり読み、学び、みことばに込められている神さまの御心を真剣に尋ね求めておられた、その姿に教えられたいと思います。
罪に満ちたこの地上で、律法もなく、全く自由であるならば、罪に対して従順であり続けるならば、その行き着く先は残念ながら滅びです。
ビリー・グラハムという人をご存知かと思いますが、彼が「7つの大罪「という本を書いた時、ある人が「もう罪を赦されたのだから、そんなに罪を指摘することはないだろう」と言いました。すると彼はこう答えたそうです。「それは、毒の入った瓶を、ラベルを貼らないで置いておくようなものだ」と。
私たちは目の前にある律法を、戒めを、神さまの本当の御心を、御心を教える聖書、みことばを、聖霊に満たされて、父なる神さまの親心に満たされて正しく読み、そして正されながら歩んでまいりましょう。親心に満たされた律法、戒めに従順に従う歩みは、本当に恵み豊かな、神さまの励ましと慰めに満ちた歩みとなります。「あなたを愛する神さまを愛すれば良いのだよ」と、「神さまに愛されているあなたは、隣人を憎む必要などないのだよ」。聖霊に満たされて聞こえて来るイエス様の戒めの声に聞き従う歩みは、本当に幸いなものです。
律法は罪ではない。まことに聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、良いものです。神さまの御心が込められているものです。
お祈り致します。
天の父なる神さま、みことばを感謝いたします。私たちがいつも聖霊に満たされて、神さまの律法を、戒めを、神さまの心が注がれたみことばを正しく読み、神さまのみことばを拠り所にして私たちに挑んでくる罪、試みる者、悪魔からどうぞお守りください。みことばに励まされ、力づけられ、神さまからの祝福と恵みに満ちた歩みを続けて行けるように守り導いてください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン