2021年9月12日 主日礼拝「あわれみによる神の選び」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  4番「よろずのくにびと」1節と4節
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  82番「ひろしともひろし」1節と5節
聖 書  ローマ人への手紙9章14〜18節
説 教  「あわれみによる神の選び」佐藤伝道師
讃美歌  93番「みかみのめぐみを」1節と4節
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙9章14〜18節

説教題

「あわれみによる神の選び」

今週の聖句

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

ローマ人への手紙9章16節

訳してみましょう

2127 【Wisdom】 will guide you down delightful paths.

2128 When I might take a rocky road, loving God, please point me back to your path of wisdom and joy.

説教「あわれみによる神の選び

ローマ人への手紙9章14〜18節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。今日まで日々、主のみことばに支えられ、守られ、今朝もこうしてあなたの御前に召し出され、兄弟姉妹ともどもに礼拝に集い、御声に聞くことができる恵みを心から感謝いたします。どうぞ主が、ご自身のみことばを祝福して私たちにお与えください。みことばと共に働かれる聖霊様が満ちていてくださって、みことばが分かるように霊的な知恵と理解力、洞察力をお与えください。そして神さまの御心を知り、行うことができますようお守りください。みことばが地に落ちてしまうことなく、それぞれの内に実を結びますように。語るこの者の上にも臨んでくださり、弱さ、足りなさを主の栄光が覆ってくださって、主のみことばとして正しく語ることができますようお守りください。全世界の礼拝を祝福してくださり、主の栄光が現され、全地で主の御名が褒め称えられますように。ひとときをお委ね致します。感謝して、救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 パウロの「神さまの選び」に対する旧約聖書のみことばへの問いは続きます。私たちもパウロとともに問うてみたいと思います。

 以前に確認したところですが、パウロは9章から11章まで多くの旧約聖書のみことばを引用し、切なる呻きを持ちながら旧約聖書に問い、食らいつくように、神さまに挑むようにして、自分の持っている旧約聖書についての知識を総動員しながら、目の前の矛盾や不条理、疑問に対する答えを見出そうと、書いては考えを繰り返しています。しかしパウロは旧約聖書のみことばをそのまま見ているのではありません。イエス・キリストの到来によって旧約聖書のみことばがどのような意味を持つに至ったか。旧約聖書が語っていることの意味が、イエス・キリストという新約の光によって照らしてみる時により一層確かに語りかけてくるものがある。正に今の私たちにも聖霊を通して同じように語りかけてくる事柄があるのです。聖書、神さまのみことばは今の私たちに、今も現実に語りかけていることを、私たちは改めて心に留めておきたいと思います。

 パウロは10章1節で言っている通り、パウロの同胞が救われることを心から神さまに願い求めていました。そのパウロが心から愛し、救いを願う同胞、肉による同国人、ユダヤ人の現状を見て激しく悩みました。それで旧約聖書の神さまのみことばに問い、目の前の矛盾、不条理、疑問に対する答えを見出そうとしました。そこで示されたみことばはこうでした。「しかし、神のみことばが無効になったわけではない」(ロマ96)。神さまのみことば、神さまの口から一度出た約束は、どんなことがあろうと、現実がどうであろうと無効にされることはないし変更されることもありません。「わたしはあなたがたを愛している」と主は言われます。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と私たちは答えます。「わたしはヤコブを愛した」。たとえヤコブがどのような者であったとしても、あなたがたがヤコブのような者であったとしても、ヤコブの名前の通り神を押しのける者、神さまに対して良心というものがあるのかと疑わせるほどの者であったとしても、神さまのみことば、神さまの約束、神さまの召し、招きは決して変更されたり無効にされたりすることはない、地に落ちることはないのだと。パウロが愛し、救いを願う同胞、肉による同国人は、主に対して非常にかなくなではあるけれども、神さまが人間を愛し救うために賜った約束の救い主イエス・キリストを、彼らは十字架にかけて殺してしまったけれども、それでも主は変わらずに約束を無効にしたり変更したりなどされないお方なのだと、パウロはそのような結論へと霊の目が開かれました。

 ところがどうでしょう。パウロが再び同胞の現状に肉の目を移した時、またまた疑問が頭をよぎったのです。そこでパウロはなおも食らいつくのです。パウロの疑問は当時の多くの人が当然抱くであろう疑問でもあり、また今の私たちの疑問でもあるでしょう。パウロは疑問を自ら提案し、自ら答えることによって、疑問に対する答えを私たちに提示していくのです。

9章14節 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

 同胞の現状を見て、どうしてあの人は救われて、どうしてあの人は救われないのか。それは一体どういうことなのか。神さまに不正があるのだろうか。

 「不正」という語には文字通り不正という意味の他に、不公平、不義と言った意味がありますが、他に特に私が注目したい意味は「歪み」また「傷つき損なう(損傷する)」という意味をも持っているというところです。どこまでも不真実な者に対して真実を尽くされるあわれみに満ちた愛なる神さまは、民のひどい裏切り、罪などに影響されて、神さまの素晴らしいご性質が歪んでしまわれたのだろうか。神さまは傷ついてついに壊れてしまったのだろうか。パウロは答えます。「絶対にそんなことはありません」。

 神さまの素晴らしいご性質は、どんなことがあろうと決して歪んでしまわれることはありません。また神さまは感情をお持ちの方です。私たちに対するはらわたが煮えくりかえるほどの情熱的な愛を、あわれみの心をお持ちの方です。それが誰かに裏切られたとしたら、私たちのような人間であるならば簡単に傷つき壊れてしまうでしょう。愛が歪み、性格までも歪んでしまうかもしれません。けれども神さまはそのようなお方ではありません。ずっと変わらない、変えられることのない絶対のお方なのです。

9章15節 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。

 この約束がモーセに語られたのは出エジプト記の33章19節です。そして背景は出エジプト記の32章に記されています。

 モーセがシナイ山で神さまから十戒を受け取りました。その時、山の麓ではモーセの下山を待っていたイスラエルの民が、モーセがなかなか下山してこないことにしびれを切らして、モーセの兄アロンに「自分たちに先立つ神を造って欲しい」と願い、金の子牛の像を造り上げました。それを祭壇に奉って拝み、いけにえを献げてお祭り騒ぎを繰り広げ、その結果、神さまから厳しい裁きを招くという出来事があったことに続くところです。

 神さまは再びモーセと会見され、モーセはそこで必死に祈りました。神さまにしがみつくように祈り、訴え、民の赦しを嘆願し、ついには叫ぶように、あるいは絞り出すように、モーセは神さまにしがみついて願い求めました。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください!」と。そのモーセの必死の願いに応えて、神さまの口から出たみことば、約束がこれでした。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」(創319)。

 モーセの同胞のとりなし、それに対する神さまの答え、約束が実現することを、したことを、どのように確かに知ることができるのか教えて欲しい。約束の地を目指して旅するその旅路の間、神さまが私たちを見放しておられない、いつもともにいてくださるのだといくことが分かるしるしをください。「あなたの栄光を私に見せてください」というモーセの祈りに答えられ、神さまはご自分の栄光を現しました。人は神さまを見たら死んでしまう。だからご自身の御姿を見せてこれは確かな約束であるとする代わりに、神さまが民をあわれむことによって神さまの赦し、救いの約束が確実だと分かる。神さまが選ばれた民を捨てられていないことが分かる。神さまがいつもどんな時でもともにおられることが分かる。それが神さまの答えだったのです。 こうして神さまは、本来愛されるはずのない、むしろ怒りとさばきの対象となるはずのご自分の民をあわれんでくださいました。

 「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」。その神さまの約束は変わりません。一度神さまの口から出たみことばは地に落ちることはありません。神さまは何ものにも影響されず、ご自身の栄光は歪められたり、傷ついて壊れることはないのです。「わたしは自分があわれむ者をあわれむ」、「あわれみによる」。それが神さまの永遠に変わることのない選び、赦し、救いの理由、手段、そして約束に対する確かな証拠なのです。それらが受肉し、イエス・キリストとなってこの世に降られたのです。

9章16節 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

 神さまの選び、また救いは、私たち人間の願い、意志、ある目標を目指してやり抜こうという努力によるのではなく、ただ神さまのあわれみによるのです。このことこそあわれみです。恵みです。パウロはこれまで、すべての人は神さまの御前ではどうやっても罪人なのだと、人は自分の行いによって救われることなど不可能だと散々言ってきました。そんな私たちをあわれみ、愛し、恵みによって救いの約束、救い主であるイエス・キリストをこの世に賜り示してくださったのです。そして神さまのあわれみを、約束の証拠を、手段を素直に受け入れる者はだれでも救われるのです。

 しかしなおも疑問は晴れません。神さまの選びがあわれみによる一方的なものであるならば、神さまのあわれみをかたくなに受け入れていないあの人は神さまに選ばれていないのか。神さまにあわれまれていないのだろうか。どうなのでしょう。

 私たちはすでにこのみことばを学んでいます。

2章4節 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
2章5節 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
2章6節 神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

 神さまは、すべての人があわれみの前にへりくだって悔い改めへと導かれることを、神さまに立ち返って救われることを心から願われている故に、すべての人に豊かな慈愛を注がれ、忍耐と寛容をもって待っていてくださっているのです。神さまのあわれみから漏れる人は一人もいないということです。哀歌にもある通り「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀322-23)。神さまは私たちすべての人間を、来る日も来る日も生かしてくださっています。神さまのあわれみが、神さまの約束通りに注がれているからです。すべての人を憐れもうと思われ、慈しもうと思われているからです。

 先ほどの2章6節で「行いに従って報いをお与えになる」とありました。しかしこれはローマ書9章16節の人間の願いや努力のことを言っているのではありません。神さまは神さまの注がれるあわれみに対する人間の態度に従って報いをお与えになるお方であるということです。その約束も変更されることはありません。パウロはその一つの例、また証拠として、今度は出エジプト記の9章を引き合いに出しています。

9章17節 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。

 これは出エジプト記9章16節からの引用です。この前後に記されているのは、あの出エジプトにおけるエジプトの王パロとモーセのやりとり、また神さまのお取り扱いです。イスラエルの民がエジプトの奴隷であったとき、神さまによって立てられたモーセがエジプトの王パロのもとに行って、神さまからの警告を告げ、自分たちをこの地から去らせて欲しいと直談判を繰り返す箇所です。パロはモーセに対してイスラエルの民をエジプトから去らせることを認めたかと思えば、すぐに心を翻して、かたくなになってイスラエルを去らせようとしない。これを何度も繰り返すのです。

 「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」。そう神さまがパロに言われたのは、出エジプト記9章の7番目の災いの警告の前でした。神さまはなぜこの時点までに、かたくななエジプトの王をただちに滅ぼしてしまわなかったのでしょうか。神さまはパロに何度も警告をしました。神さまはパロにあわれみを示されたのでしょう。しかしパロはあわれみを受け入れませんでした。パロの神さまに対する態度はかたくなでした。神さまは様々な方法を通して、人を謙遜にしようとされるのです。そして、それをあくまでも拒む者に対しては、神さまはさばきを加えられるのです。

 また、もしもこの時にすべての人が避難していたなら、この7番目の災いがエジプトに及ぶことはなかったでしょう。しかし、せっかくこのようなあわれみによる警告が与えられたにもかかわらず、主のことばに心を留めなかった者がいたのです。彼らはしもべや家畜をそのまま野に残しておいたせいで、すべてが滅ぼされてしまいました。神さまはこの一人のかたくななエジプトの王と民を例にとりながら、現代の私たちに対しても、このようであってはならないと警告しておられるのです。

 警告ばかりではありません。神さまの恵みも示されています。出エジプト記を見ますと、実は7番目の災いが警告された時までに、パロの家臣の中にもモーセの語る神さまのことばを恐れる者が出てきていました。彼らは神さまのことばを聞いて、しもべと家畜とを家に避難させて神さまの災いを免れることができました。旧約の時代においても、神さまの恵み、あわれみ、いつくしみは、主を信じるすべての人に及んでいたということです。そしてそれは今も決して変わることはありません。

 もう一方で、神さまがパロを立てた理由として、「あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるため」でもありました。神さまがパロを立て、彼をかたくなにされたのは、イスラエルの救いにおいて示される神さまの恵みの力の偉大さが全世界に語られるようになるためであると言われています。パロがかたくなであることによって神さまが奇跡を行い、それによって神さまの力が示され、その驚くべき神さまのみわざを経験した人が代々語り伝えて、やがてイスラエルも、パロも、そしてやがて世界中のすべての人が、神さまの御名を知るようになるためでした。神さまがどのような栄光に満ちたお方であるのかを知らなければ事は何も始まりません。「名は体を表す」のです。神さまの御名を知らなければ事は何も始まりません。「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」(ロマ916)のだからです。先に救われた私たちは、人生の中で体験した素晴らしい神さまの栄光のみわざを、神さまのあわれみを、神さまの御名を語り告げる責任を負っているのです。

 ここでパウロは、驚くべき奥義を語ります。

9章18節 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

 人がかたくななのは、神さまがそうされていると言うのです。
 これは同胞を愛し、心から救いを神に願い求めていたパウロが、本当に苦しみ抜いたあげくに神さまにあわれみによって示された一つの結論だったのだと思います。

 人をあわれまれるのは神さまの御心による。また人をかたくなにされるのも神さまの御心による。特に人がかたくなにされることにおいて、パウロは苦しみながらもこう言うのでしょう。「神はそのあわれもうとする者をあわれみ、かたくなにしようと思う者をかたくなになさるのだ」。「神はどこまでも神であり、そのなさることに間違いはないのだ」と。そして人がかたくなまでに神さまのあわれみを受け入れないことの恐ろしさをも知るパウロは、この時モーセとともに神さまに同胞のとりなしを祈ったのではないでしょうか。そして「どうか神さま、あなたの栄光を私に見せてください」と求めたのではないでしょうか。神さまはパウロにも決して変わることのないみことばをもって答えてくださったのでしょう。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむと約束したではないか。それが証拠だと言ったではないか」。

 神さまはかたくなまでにご自身のあわれみを受け入れない人のことをもあわれんでくださっています。お取り扱いによって、慈愛と寛容と忍耐をもって、あわれみを受け入れる時を待ってくださっています。モーセの時のように、かたくななままの人が滅んでしまうのはかわいそうだと思ってくださっています。それでは残念だと思って下さっています。残念というのは、期待や希望のようにならずに心残りだと言うことです。神さまの心はかたくなな人の上に残っている、かたくなな人とともにずっとそこにあるのです。すべてどんな人であっても神さまはその人を愛し、あわれんでおられるのです。痛んだ葦を折ることなく、またくすぶっている灯心を吹き消されるのではなく、大切にはぐくみ守り続けてくださっているではありませんか。ですから選ばれていない人など一人もいないのではないでしょうか。私にはそのような期待があるのです。それは私だけの期待なのでしょうか。イエス・キリストがこの世に降られ、神さまはみことばをもって約束してくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハ316)。神さまが御子イエス・キリストを私たちに賜ったのは、私たちをイエス様の前にかたくなにして、私たちを滅ぼすためではありませんでした。またパウロは旧約聖書のみことば、神さまの約束がイエス・キリストの到来によってどのような意味を持つに至ったか、イエス・キリストという新約の光によって照らしてこのように言っています。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモ24)。

 今日、聖書は私たちに何を求めているのでしょう。行いによらず、ただあわれみによって救いに選ばれた私たち。今も私たちは本当にたくさん神さまにあわれまれています。神さまのあわれみを体験し、私は確実に神さまに愛され救われているのだということを知る者として、神さまに感謝する。それだけでしょうか。みことばが語ることは、今、神さまに対してかなくななあの人は、神さまのあわれみの故にかたくなにされ、取り扱われているのです。神さまの御心、あわれみの素晴らしさ、またいつまでもかたくななままでいることの悲惨さを知らされている私たちは、すべての同胞を愛し、「神さま、あなたの栄光を私に見せてください」と神さまにしがみつくようにしてあわれみを請い求めて、同胞がやわらかにされて救われることを心から祈り、またイエス様が私たちにしてくださったように、犠牲をもって実際に愛して行くことではないでしょうか。

 私たちの同胞とは誰でしょうか。今日、示されたのは誰でしょうか。子、孫、親、親戚、友人、近所の方々、すべての日本人、世界中の人でしょうか。もしかしたら一番身近な同胞、この私が示されたかもしれません。

 私たちの同胞が神さまのあわれみ、あわれみによる選び、救いをかたくなに拒んだまま終わってしまうことのないように、パウロとともに、またモーセのように、敵対したり非難するのではなく、切にとりなし祈り、また愛し、励まし、勧める者、神さまの栄光を現して行く、あわれみを示して行く者でありたいと願います。神さまは、選びに関するすべてのことに責任を負ってくださっています。私たちの切実なとりなしの祈りも聞いてくださっており、全能なる御力によって答えてくださっています。神さまはどこまでも神さまであり、その答え、神さまのなさることに決して間違いはない。全知全能の父なる神さま、父の心を注がれる神さまのあわれみ、いつくしみを信じ、そして依り頼んで、私たちはこれからも同胞のために祈り続けてまいりましょう。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め讃美致します。みことばを感謝いたします。神さまの選びは、私たちの意志や努力、行いによるのではなく、神さまのあわれみによることを覚えます。本当に私たちは神さまにこれほどまでにあわれんでいただいていることによって、神さまの選び、救いの約束が確実であることが分かります。その幸いを心から感謝いたします。けれどもその感謝にとどまるのではなく、神さまがすべての人を愛し、あわれんでくださり、神さまの心が置かれているすべての同胞のために、同胞がかたくなではなく従順に神さまのあわれみを信じて依り頼んで受け入れることができるように、受け入れないことによって滅ぼされてしまうことのないように、神さまのあわれみを請い求め、モーセのように、パウロのように執り成し、また犠牲をもって様々な形で愛し、かたくなな人がやわらかな人になれるように祈り、また実践して行くことができますようにお守りください。愛のない者、あわれみの心に貧しい者です。愛の源なる神さまが、どうぞ私たちに必要なすべてを与えてください。私たちの心、口、手足をもって素晴らしい神さまの御名を全世界に告げ知らせる者としてください。感謝します。私たちの救い主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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