2021年10月31日 主日礼拝「御名を呼び求める」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  84番「かみにたより」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  214番「きたのはてなる」
聖 書  ローマ人への手紙10章14〜21節
説 教  「御名を呼び求める」佐藤伝道師
讃美歌  517番「われに来よと主はいま」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙10章14〜21節

説教題

「御名を呼び求める」

今週の聖句

またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

ローマ人への手紙10章21節

訳してみましょう

2142 ”He made the moon to mark the season.”

2143 Thank You, Father, for the multiple good things You’ve placed on this earth. Make my life a grateful offering of praise to You.

説教「御名を呼び求める」

ローマ人への手紙10章14〜21節

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。過ぐる一週間も、私たちを守り導いてくださいましたことを覚え、感謝致します。主がいつも私たちのすべてを満たし、ご配慮くださっているにもかかわらず、そのことに気付けずに、あらゆる不足を嘆くばかりの、感謝の足りない者であったこと、また時には神さまを忘れてさえしまった者であったことをお赦しください。そのような私たちでありながら、その一歩一歩を憐れみ、慰め、励ましてくださり、本当にありがとうございます。今朝も私たちに恵みを注がれようと、一人ひとりを選び出し、招いてくださり、この礼拝に集わせてくださりありがとうございます。様々な都合によってこの場に集えず、それぞれの場所で礼拝を献げておられる方々もおりますから、どうぞ顧みてくださいますように。すべてを整えてくださって、また霊と体をもって兄弟姉妹一つとなり、主に礼拝できますようにお願いを致します。主よ、どうぞこの礼拝が、主に喜ばれる礼拝となりますようにお守りください。みことばを祝福してお与えください。どうか主が、神さまを知るための知恵と啓示の御霊を、私たちに与えてくださいますように。心の目がはっきり見えるようになって、望み、神さまの栄光、御力がどれほど素晴らしいものであるのかを、私たちが知ることができますようにお願いを致します。語るこの者の上にも臨んでくださり、与えられたこの奉仕を全うできますよう、お守りください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 前回はローマ書10章13節の、「『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。」という、慰めと確信に満ちたパウロのことばに聞いたところですが、先週、みなさんはどれだけ「主の御名」を呼び求めて来られたでしょうか。数えられますか。数えられないくらいだよと言われる方は素晴らしいです。

 主の御名を呼び求める時、その人は神さまを信頼して、すべて明け渡して、手放して、神さまに色々な思いを打ち明けている時です。神さまごめんなさい。神さま助けてください。神さまありがとうございます。そうやって主の御名を呼び求めるたびに、私たちは救われる。解放される。イエス様を通して私たちの罪が赦され、色々な思いから解放されて、心の重荷を下ろして、心も身体も軽くされて、神さまがすべてを益として働かせてくださって、良い方向へ、神さまの方に、私たちにとって最善の道、神さまのみこころの通りに生きられる方向へと軽やかに導かれて行くのだと思います。しかし重荷を負ったままだと軽やかにとは行きません。せっかく神さまが「こっちだよ」と招いてくださっていても、足取りは重く、疲れ切ってしまって、神さまの助けや導きさえも邪魔に思えて、その場から動けなくなってしまうということもあるでしょう。神さまが見えなくなって、目の前にある良さげなものに目が移ってしまう。そんなこともあるかもしれません。

 皆さんの中に、私の神学校の恩師である朴先生をご存知の方もおられると思いますが、朴先生を見ると、軽やかな人生を歩まれている方だと思わされます。本当に、良い意味でふわふわと、一歩一歩が天にまで届きそうなほど、ピョンピョンと跳びはねて歩まれているように見えます。幸せそうです。しかし先生は決して幸せばかりの中を歩まれているのではありません。子どもの頃から本当に苦労をされて来た方です。人知れず、涙ながらに祈っている所も見たことがあります。それなのに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサ514-18)、このみことばを、本当に無理なく、自然体で、地で生きておられる。それで多くの人に本当に愛されていて、学生たちからも愛されていて。もちろん神さまからも愛されていて。その秘訣は何だろうと考えると、それは先生の口癖にあるのです。先生の口癖は「主よ。」なのです。いつも「主よ。主よ」と言っています。困った時には「主よ〜」。授業中に日本語が思い出せない時などは「オメ、主よ」。椅子から立ち上がっては「主よ」。ラーメンを食べて「主よ〜」。何もない時も突然「主〜よっ」と言ったりして、学生たちに「先生、今の『主よ』は、何の『主よ』ですか?」などとからかわれたりしていました。けれども4年間も一緒に生活していると、学生たちにもその習慣が伝染するのです。私も伝染しました。最近と言いますか、先週「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです」(ロマ1013)とのみことばに深く触れてみて、あぁ、そう言うことかとつくづく思わされています。「主よ」と主を呼び求めるその一瞬であっても、ひとつひとつを主に信頼してすべてお委ねしている。お任せしている。期待しているのだなぁと。心から「主よ」と一言。そうすると身も心も軽くなっているじゃないかと。嬉しい時も嬉しさが倍増しているではないかと、そう思わされています。是非皆さんも「主よ、主よ」とたくさん呼び求めてください。これは十戒の「みだりに主の御名を唱えてはならない」に違反しません。「みだりに」とは「むなしく」であり、何の期待もせずに無意味に主の御名を唱えてはならないということだからです。行いによらず(習慣とか、自分の義を立てよう、自分を正しく見せようとするのではなく(ロマ103))、信仰によって、私たちはいつも主に期待して、「主よ、主よ」と呼び求めて良いのです。神さまもそのように望まれています。

 「主の御名を呼び求める者は救われる」。ユダヤ人にも、ユダヤ人以外のすべての人にも主であられる神さま、唯一の神さまが求めておられる主の御名の呼び求め方、救いの求め方は、「信仰によって求めよ」です。

 「信仰によって求めよ」。人間は自分の熱心さや努力では決して義とされない、神さまにすべて赦していただいて、受け入れていただくことはできない。どうしても染みついている「罪」のために。どうしても、何かあるとすぐに神さまに背を向けてしまう、自分だけの力で、神さまとは関係なく、神さまの力はいらない、かえって邪魔だとばかりに、自分勝手な方向に進んでいこうとする、そのような人間に染みついている罪を持つ人間を、神さまは聖書の最初から憐れんでくださっていました。憐れんでくださって、人間をどうしても救いたい。罪と罪が原因で襲ってくる様々な苦しみから、人間を一人残らず解放してあげたい、解放してあげようと、神さまが願ってくださっていて、約束してくださっていて、ついにその願い、約束はイエス・キリストとなってこの世に現されました。今年も間もなくクリスマスを迎えようとしていますが、イエス・キリストが救い主としてこの世に幼子として降られた。そのキリストが、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた、そして私たちの罪のために葬られた、また聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた、復活されて今も生きておられる。【私たちの罪のために】です。このキリストを救い主、主と信じるすべての人に、神さまの義が与えられる。神さまはその人の罪をすべて赦される。罪の奴隷から、苦しみ、死から解放してくださる。永遠のいのちが与えられて、今から永遠に、神さまの御心のとおりの、神さまが人間に望まれるとおりの、活き活きと喜んで、神さまと人との間に何のわだかまりもなく、真に愛し愛されて生きて行くことができる。何と幸いなことでしょうか。それはただイエス・キリストを信じる信仰によって。信じる者は救われる。「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ロマ109)のです。それが神さまのお約束です。そのお約束は、熱心な行いによっては絶対に罪から離れることができないすべての人間にとっては何ともありがたい、喜びの知らせ。罪の中でもがき苦しんでいた私たちがかつて聞いて信じた、信じて救われた、また今も私たちを救う福音です。

 信仰によって「主よ、イエス様」と、「主イエスの御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです(ロマ1013)。

10章14節 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

 イスラエルは、自分たちの熱心さの方を信じ、神さまの愛、恵み、あわれみ、そしてイエス様、神さまからの良い知らせ、福音を心から信じることができていませんでした。そのために熱心に神さまの御名を呼び求めていたようですが、実のところ、彼らは救われていませんでした。

 昔、子どもの頃に犬を飼った事があります。その犬にとって、私は本当の主人ではありませんでした。ボールを投げて「持って来い!」と両手を広げて待っていると、犬はボールを喜んでくえわて興奮して私の方に向かって走って来るのですが、目の前まで来ると、クルッと方向を変えて馬鹿にしたように変な方向に走っていってしまうのです。これは私を本当の主人と認めていないからです。犬の習性だそうです。人間も同じだと思わされます。目の前におられる主を、まことの主と認めることができないと、近くまで駆け寄ったとしても、途中でクルッと方向転換して、他の主を探してそちらの方に期待して駆け寄ってしまうのではないでしょうか。

 どうしたらまことの主を呼び求めることが出来るのでしょうか。そしてそのまことの主のもとに喜んで期待して、迷いなく全速力で走り寄ることが出来るのでしょうか。それは、まことの主がまことの主であることを信じることです。まことの主がまことの主であると信じるためにはどうすれば良いのでしょうか。まことの主について聞くことです。聞くためには何が必要なのでしょうか。伝える人が必要です。

10章15節 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
【新改訳2017】
10章15節 遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。

 イザヤという人が預言者として神さまに召された時のことです。

【イザヤ書】
6章8節 私(イザヤ)は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 良い知らせ、福音は神さまによって遣わされ、遣わされた人によって宣べ伝えられる。それは「なんとりっぱでしょう、なんと美しいことか」と言われている通り、神さまのみこころにかなったことなのです。これらの箇所(ロマ1014-15、イザ68)は、個人伝道の学びなどでよく参照される箇所で、先に救われた私たちに語られ、求められているところであり、しっかりと覚えておくべきところです。しかしパウロは、この文脈の中では別の意味で用いているのです。

 それは、神さまはイスラエルに宣べ伝える者を遣わされた。しかも「りっぱである時、美しい時」に。「りっぱ、美しい」という語は、創世記において神さまがみこころの通りに天地万物を創造され、それをご覧になって言われた「非常に良い」なのです。モーセが生まれた時、両親がモーセの中に見出した「美しさ(神さまのみこころ、ご計画)」なのです。「神のなさることは、すべて時にかなって『美しい』」(伝311)の「美しい」なのです。神さまは神さまの最善の時に、みこころにかなった時にイスラエルに福音を、主イエス・キリストの御名を宣べ伝える者を遣わされました。ところが、

10章16節 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。(新改訳2017では「私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。」)

 私たちが「聞いた」福音。そして私たちが「聞いて信じた」福音。それを私たちは知らせ聞かせたけれども、だれが信じただろうか。答えは、誰も彼もが信じることができた訳ではなかった。わずかなイスラエル人を除いて、多くのイスラエル人が信じなかったのです。

10章17節 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 パウロは「そのように」、「ですから」、「実に、まさに」と言い、「信仰は聞くことから始まる」、そして「聞くことは、キリストについてのみことばによる」のだからですと言います。

 信仰は聞くことから始まる。この「聞くこと」とは、「うわさ、伝言」を意味しています。そして「キリストについてのみことば」とは、「説教、または伝道すること」を意味しています。信仰はまさにキリストに関するうわさ話、伝え聞くようなことから始まり、そしてキリストについてのうわさ話に興味を持つ人がおこされ、説教に耳を傾け、先に信じた者による伝道、キリストの道を伝えることを通して、キリストを信じる信仰へと繋がっていくのです。

 イエス様が復活して間もなくの頃、ある集団がうわさになりました。「あの人たちは集まって、何やら『キリスト、キリスト』と言っているけど、何なんだ」と。そして人々は、キリスト、キリストと言う人たちをキリスト者と呼ぶようになりました。クリスチャンの始まりです。何で「キリスト、キリスト」と言っているのか? 何であなたたちは「主よ、主よ」と言うのか? ペテロは言いました。「心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(Ⅰペテ315)。キリスト者、クリスチャンは「イエス様、イエス様、主よ、主よ」と心で信じ、口で告白し、そして御名を呼び求めます。それを聞いた人たちは説明を求めるかもしれません。私たちが御名を呼び求める時に込められている信仰、希望について説明する時、それは伝道となるのでしょう。その伝道によってひとりの魂が主のもとへと駆け寄ることができるなら、本当に幸いなことと思います。神さまも喜ばれます。また求められる説明のための心の準備、備えておくということも、私たち自身の日々の救いの確信、信仰、希望、愛の礎ともなることと思います。

パウロは続けます。

10章18節 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

 多くのイスラエル人は福音を信じなかった。それは彼らが福音を聞かなかったからなのか。もちろん、そうではありませんでした。イエス様のうわさは彼らのところにも流れて来ていましたし、先ほども見ました通り、神さまは神さまの一番良い時にイスラエルに伝える者を遣わされ、福音を届けられました。「全地に響き渡り」とありますが、これは詩篇からの引用で、その意味は「弦を弾くならば響くように」ということです。まるでギターの弦が世界中に張り巡らされているように、目には見えないけれども、携帯電話の電波が私たちの周りをくまなく飛び交っているように、そのように全地に、そしてイスラエルにイエス様のうわさ、福音はくまなく届いていたのです。けれども、弦であるゆえに、その弦を自ら弾かなければ響いて来ません。自身が聞きたいと願わなければ、耳にも心にも響いてこないものなのです。現代ならば、クリスマスの時期には「救いの御子が生まれた」とか、「主は来ませり」とか、歌は響き渡っていますが、その意味を本当に求めて、救いを求めて、自ら【信仰によって】弦を弾かなければ、その意味はまるで分からないでしょう。

 しかしイスラエルは、かたくなに、自らの熱心に頼り、信仰によって福音を求めて聞こうとしませんでした。福音の根源地、発祥地、おおもとに生きるイスラエルが、イエス様のうわさ、また福音を聞かなかったはずがありません。聞いても信じようとしなかったのです。

10章19節 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」
10章20節 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現した。」

 この2節の内容、「このように異邦人が救われることによってイスラエルのねたみを引き起こし、イスラエルも救いに導く」という内容は、この後の11章で改めて扱われますので、今日は触れません。この文脈の中でパウロが言いたいことは、「イスラエルは福音を聞いた、そして知ったのだ、知っていたのだ。その上で、イスラエルは信じようとしなかったのだ」ということです。

 パウロはもう一度尋ねます。なぜ信じないのか。はたしてイスラエルは福音を知らなかったのか。もし聞いたのであるなら、その内容を理解できなかったからなのか、と尋ねます。パウロはその答えを記していませんが、「いいえ」であると思われます。イスラエルは福音を知っていた。その内容を理解していたはずだと。その根拠として、旧約聖書の証言(申命記32章21節、イザヤ書65章1節)を引用します。簡潔に言うならばこうです。今までずっと神さまのことを知らず、神さまを求めても来なかった異邦人がキリストのうわさ話を聞いて、求めて、説教や個人伝道を通して福音を聞いて、そして理解して、救われたのだから、イスラエルが理解できなかったはずがないということです。神さまに特別選ばれ、神の民とされることも、神の子どもとされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も、彼らに与えられた。そして神さまに熱心に仕えて来たイスラエルは、絶対に理解できたであろうし、理解していたはずだと言うことです。それなのに、なぜそれほどまでに、かたくなに救いを拒むのか。神さまの愛、あわれみ、恵みを拒むのか。神さまの御名を呼び求めながら、神さまの福音を拒んでいるのか。パウロの心から同胞を愛するゆえに湧き上がる悲しみ、嘆きです。心から人間を愛し救いたいと願われる、神さまの心から湧き上がる悲しみ、嘆きです。

 この悲しみと嘆きの声を今、私たちはどのように聞くでしょうか。神さまに背こうとする罪が染みついている私たち、どこか自分の知恵や力にばかり頼り、福音に、神さまの愛、あわれみ、恵みに全幅の信頼を置くことがなかなか出来ない自分。それゆえに、私たちを迎えようと招いておられる神さまの目の前で、クルッと方向転換をして、この世の別の主(あるじ)を求めて、期待して走り去ってしまう自分はいないでしょうか。そこで不安になったり、悲しんだり苦しんだりしている自分はいないでしょうか。あるいは同じような隣人を、イエス様についての話しを伝え聞きながら、まだ心から主を信じていない人々、家族や友人知人たちを見るのではないでしょうか。

10章21節 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

 神さまの愛、神さまの福音を聞いて理解できたはずであるのに、なお不従順で反抗する民、イスラエルに対して。また私たちに対して。世のすべての人々に対して。主は一日中、手を差し伸べてくださっている。涙が出るほどのあわれみではないでしょうか。感謝ではないでしょうか。私たちはそれに応えてどう生きて行くのでしょう。

 私は「手を差し伸べた(ἐξεπέτασα τὰς χεῖράς μου)」という原語にあたってみて、本当に感動したのです。この語(ἐξεπέτασα)は「飛ぶ」「羽を広げる」「外に思いっ切り広げる」という意味で、つまり「手を差し伸べた」の中に、「神さまが思いっ切り両手を広げておられる」姿が見て取れるのです。両手を広げるとは、詩篇や、放蕩息子の喩えの中にも見るように、「赦しと恵みを施す」あるいは「戻って来ることを嘆願する」という意味に用いられる慣用句です。神さまは「不従順で反抗するあなたたちに対して、わたしは一日中、両手を思いっ切り広げて、赦しと恵みを用意して、戻って来ることを心から願っているのだよ」と仰ってくださっているのです。「主よ」と呼び求めずにはいられません。ありがとう、ごめんなさい、一言では言い表せない、色々な思いをもって「主よ」と。今、私たちが呼び求めている主は、まことの主です。この世界を創造され、目に見える世界、見えない世界、すべてにおいて主権、力をお持ちの方。支配されるお方。支え配慮してくださるお方。このお方を、私たちはイエス・キリストを信じる信仰を通して、「アバ、父」「お父さん」と幼子のように呼び求めることが赦されているのです。一歩一歩、両手を思いっ切り広げて待っておられる父なる神さまに向かって、「主よ、主よ」「お父さん、お父さん」と頼って歩いて行けるのです。イエス・キリストという門を通って、イエス・キリストという父なる神さまのもとに続く道を行くのです。何度も転んだり、失敗したりしながらも、主よ、主よと、赦しと恵みを用意して、私たちが辿り着くことを心から願われる神さまのもとに行くのです。決して死んで天国に行くというだけの意味ではありません。神さまのもとに行く、神さまのもとに帰る。それは悔い改めであり、方向転換です。神さまのみこころの通りに、つまり私たちにとっては最も幸いに生きる生き方への方向転換です。一歩一歩、主よ、主よと主の御名を呼び求めて、こっちだよ、こっちだよと両手を広げて招いてくださている神さまの方へと幼子のように、幼子のような信仰をもって歩いて行きましょう。神さまがそのように望んでくださっているのですから。またそのような生き方、道があるのだと、いまだまことの神さま、主を知らない方々に、私たちが神さまに愛された、その愛をもって福音を宣べ伝えてまいりましょう。主よ、主よといつも口にする私たちの歩みは、うわさ話になるでしょう。興味を持たれる方が起こされるでしょう。私たちの持つ希望について説明を求める方々には、喜びをもって証しして行きましょう。それがキリストについてのみことば、説教、伝道となるからです。そして私たちも同時に、日々ますます福音を信じ、そして救われていく、解放されていく。「主よ。主よ」と、父なる神さまのもとに一歩一歩近づいて行くからです。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝いたします。イエス様のうわさ話を聞いて、またそのうわさ話の内容を聞いて、理解して、なおかたくなに福音を拒むイスラエルの民の姿から、私たちも色々と示された事を感謝いたします。私たちはこれからの日々も、まことの主の御名を呼び求めてまいります。主よ、主よと、一歩一歩主にすがってまいります。その一歩一歩が、なお主を知っていく歩みとなり、ますます救われていく歩み、聖められていく歩み、神さまに喜ばれる者となっていく歩みとなりますようにお守りください。両手をいっぱいに広げ、私たちを迎えようとしてくださっている神さまのみもとに導くための門となり、道となってくださった、私たちの救い主、まことの主であられるキリスト・イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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