2021年11月14日 主日礼拝「残された者の役割」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  4番「よろずのくにびと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  461番「主われを愛す」
聖 書  ローマ人への手紙11章1〜10節
説 教  「残された者の役割」佐藤伝道師
讃美歌  502番「いともかしこし」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙11章1〜10節

説教題

「残された者の役割」

今週の聖句

それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

ローマ人への手紙11章5節

訳してみましょう

2146 You came near and stood at the foot of the mountain while it blazed with fire to the very heavens, with black cloud and deep darkness.

2147 God, at times I’ve approached You too casually, assumed too much. Thank You for Your patience with me. And thank You for Your love.

説教「残された者の役割」

ローマ人への手紙11章1〜10節

 お祈り致します。
 天の父なる神さま、聖なる御名を崇め賛美致します。今日まで私たちをあわれんでくださり、日々あなたに赦され、守られ、こうして今朝も私たちを御前に呼び集めてくださり、みことばを賜ってくださいますことを感謝致します。どうぞこの礼拝のひとときを聖別してくださり、祝福してくださいますようにお願いを致します。集われている方々の体に、また心に病める所がありますならば御手をのべてくださり、癒やし、解放してくださいますようにお願いを致します。みことばとともに働かれる聖霊様が満ちていてくださり、みことばを通して私たちのうちに直接語りかけてくださり、御心にかなった良い実を結ばせてくださいますようにお願いを致します。様々な都合によってこの場に集えない兄弟姉妹もおりますから、どうぞあわれんでくださいますようにお願いを致します。語るこの者の上にも臨んでくださり、罪、誘惑から守られ、みことばの奉仕を全うできますようお守りください。御手にお委ねし、私たちの主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン

 親は心から我が子のために祝福を祈る者です。子どもが幼い頃などは、無条件に親の腕の中に飛び込んでくる我が子の姿に、特別な愛情がこみ上げてくるのではないでしょうか。それが段々と力を得てきて、まるで親の力など必要ない、自分一人の力で生きて行けると考えるようになり、それが実際の行動となって行く。親を無視したり、憎まれ口を叩いたり。それはある意味、健全な成長の過程であるとも言われています。けれどもやはり、親としては寂しさを覚えます。

 余談ですが、最近は「親ガチャ」などという言葉が流行っていますがご存知でしょうか。「ガチャ」というのはおもちゃの自動販売機のようなもので、マシンにコインを入れてハンドルを回すと、カプセルに入ったおもちゃが1個出てくるというものです。その中身は自分で選ぶことは出来ず、出て来てからのお楽しみで、目当てのおもちゃがなかなか出ないなんてこともあります。そのおもちゃの自動販売機に喩えて、「子どもは親を選べない」と言うのです。当たり外れがあるのだと言うのです。私自身も親に対して同じような思いを抱いていたことがあるので思いは分かります。
 「親ガチャ」という言葉を使う若者は2パターンに分けられるそうです。1つは、基本的に何不自由なく教育を受けられて、その中で親の経済力の差を競い合う若者たち。そしてもう一方は、豊かさを求める以前に、親の貧困や虐待、家族やきょうだいの介護を強いられるヤングケアラーなど、親から負の要素を受け継いで、スタート地点にすら立てない子供たちです。深刻な問題となるのは後者ですが、大抵の場合は前者なのだそうです。思い返してみると、私も親に対しては酷いことを言ってきたことを思い出します。けれども父は私を最初から最後まで、母は今に至るまで私を大きな犠牲をもって愛してくれました。大抵の親にとって我が子はいつまで経っても我が子であると良く言われますが、幼い頃の無邪気に腕の中に飛び込んで来たあの素直で可愛かった姿を覚えているからこそ、余程の関係の破綻がない限り、親はどんなことがあっても我が子を愛することを止めることはできないのでしょう。

 9章からイスラエル民族のかたくなさについて見て来ております。その姿を通して、聖書は今の私たちにも語りかけています。「かたくななイスラエル、不従順で反抗的な彼らは見捨てられてしまったのか」。その問いが何度も何度も繰り返されています。今朝のところでも同じ事が問われています。けれどもその答えはその都度「決してそんなことはない」です。

 何よりも神さまは真実なお方です。神さまがイスラエルに対してあなたがたを愛そう、あなたがたを救おう、解放しようと約束されたならば、最後までその約束を守られるお方です。「主であるわたしは変わることがない」と神さまご自身が言われています(マラ36)。新約聖書では、「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも、同じです」と書かれています(ヘブ138)。そのようなお方が、あなたがたを愛すると永遠の約束をされているのに、必ず救うと永遠の約束をされているのに、その子孫が悪い子だったから約束を破棄したというと、神さまが忠実なお方でないということになります。神さまの永遠の約束というのは、彼らの子孫がよい子の時も悪い子の時も変わらないで約束を守ること。神さまはそのようなお方なのだと、神さまご自身が仰っているのです。

 前回は、ローマ書10章の最後のところでこのような神さまの御姿を見ました。

10章21節 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

 「手を差し伸べた」という神さまの姿は、両手を力いっぱいに広げて我が子の返りを待つ親の姿です。神さまは「不従順で反抗する」子たち、イスラエルに対して、神さまは旧約の時代から今に至るまでずっと、「わたしは一日中、頑なにわたしを拒むあなたがたに対して、両手を思いっ切り広げて、赦しと恵みを用意して、わたしのところに戻って来ることを心から願っているのだよ。今でも最初の愛はまるで変わらずにいるのだよ」と仰ってくださっている神さまの御姿を見ました。

 ローマ書ではそのようなイスラエルに対する神さまの御姿を読者に示しながら、パウロはこう尋ねます。尋ねている相手というのは、思い出していただきたいのですが、ローマにいる多くの異邦人クリスチャンと、わずかなユダヤ人クリスチャンでした。そしてパウロは彼らに一度も会ったことがありませんでした。

11章1節 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。

 「それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けてしまわれたのでしょうか」。これに対して「絶対にそんなことはありません」と断固として退けます。次いで2節からは聖書の引用によって論証がなされるのですが、パウロは答えを展開する前に、1節の後半で改めて自己紹介をするように、自分とイスラエルの関係を明らかにします。手紙の中で散々イスラエルの罪、神さまに対する頑なさを糾弾してきたパウロ自身が、忘れてもらっては困る、私自身、彼らと同じ生粋のイスラエル人であるとここで改めて示すのです。信仰の父であるアブラハムと直接血の繋がりのある子孫であると。そしてわざわざベニヤミン族の出身であることも示しています。ベニヤミン族出身であることをわざわざここで示したのは、わずかなユダヤ人クリスチャンに対してなのではないかと思うのです。ユダヤ人がベニヤミン族と聞くならば、すぐに思い起こすことがいくつかあったはずです。名前の由来にまつわる物語り(これは昨年のクリスマスにお分かちしました)、旧約聖書に記録されている出来事。例えばベニヤミン族は、一族の一部の人たちが犯した罪によって、同胞であるイスラエルの手による征伐の対象となってしまいました。ベニヤミン族は同胞との戦いに敗れ、滅亡の危機に陥りました。そのような滅亡の危機に直面した民族であっても、神さまはベニヤミン族を退けることなく、見捨てることなく、彼らを守られ、赦され、憐れまれ、それでも愛されて、滅ぼしてしまうことはされなかった。それと同じように、今もイスラエルは神さまに愛されており、決して退けられていないことは、イスラエル人でベニヤミン族出身のパウロの存在自体が、またわずかなユダヤ人キリスト者であるあなたがた一人ひとりの存在自体が何よりの証拠ではないかと言うのです。

 なぜパウロはキリスト者に対して、「イスラエルは絶対に退かれ、見捨てられたのではない」と、これほどまでに強い表現を用いて言うのでしょうか。それはパウロが福音を聞いても理解しようとしない、受け入れようとしないイスラエル人たちの頑なさについて書けば書くほど、福音を聞いて信じた読者である異邦人クリスチャンたちが、またわずかなユダヤ人クリスチャンたちが、まだ福音を信じて救われていないイスラエル人たちを蔑み、自らの信仰を誇り高ぶるようになってしまうことを承知していたからでしょう。そしてそれは彼ら自身にとっても危険なことで、神さまのみこころではないことをパウロは知っていたからでしょう。

 パウロは2節から、あなたがたはどのように、また何のために救われたのかを、これまでもしてきた旧約聖書から証拠を示すという同じ方法をもって説明して行きます。

11章2a節 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。

 パウロは1節の内容を繰り返して強調します。イスラエルは神さまによってはじめから選ばれ、契約を結ばれ、ご自分の民とし、親が我が子を愛するように、親しく交わり育み、守り導いてこられた。どこまでも真実な神さまは、ご自身が選ばれた故に、イスラエルを今も変わらずに愛し、交わり、育み、守り導こうとされている。悪い民であっても決してご自分の民を退けてしまわれた、見捨ててしまわれたのではありませんと。

11章2b節 それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する箇所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
11章3節 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
11章4節 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」

 ここはⅠ列王記19章10、14、18節による証明です。エリヤがイスラエルの背教を訴えた時、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしたのために残してある」という神さまの答えを得ました。イスラエルは背教、神さまに対する裏切りという最悪の罪を犯しましたが、それでも神さまはご自分の民を完全に退けられたのではありませんでした。

 神さまが言われた「わたしのために残してある者たち」、神さまによって「残された者たち」。「残された者」というのは以前にも扱いましたが、「最後までまことの神さまに信頼して救われる者のこと」を言います。とてもひどい偶像崇拝が行われていたエリヤの時代、彼は神さまにイスラエルを告発しました。エリヤは、自分一人だけが残って、残りの預言者はみな殺されたと考えました(Ⅰ列1910,14)。しかし実際にはエリヤのような人々が、なんと七千人も残っていました。エリヤは自分一人が「残った」と言いました。自分の他に七千人も「残っていた」と考えました。しかし実際はエリヤも七千人も「残った」のではなく、「残されていた」のです。神さまによって「残されていた」のです。

 この旧約時代の事実は、新約の時代である「今」の時に対する型であるとパウロは言います。

11章5節 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
11章6節 もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。

 エリヤの予想以上に多くの人々が残されていたように、今もパウロが考えているよりはるかに多くの人々が残されている、また読者が考えているよりもはるかに多くの人々が、神さまのために、神さまによって神さまのために残されている。自分の努力によって残っているのではないのです。神さまによって残されているのです。ただ神さまによること。それはまさに「恵みによる」ということです。選ばれるのにふさわしくない者を神さまは選ばれる。そして残される。最後までまことの神さまに信頼して救われる者、救われた者がいる。その証拠として私パウロがいるではないか。あなたがたがいるではないか。あなたがたこそ、神さまがあなたがたをあらかじめ知っていてくださって、行いではなく、ただ神さまの愛、恵みによって選んでくださって、残された者とされていることを良く知る者ではないのかと。

 何よりも、今この手紙を読んでいる私たちこそ、行いによるのではなく、ただ神さまの愛、あわれみ、そして恵みによって選ばれ、神さまのために残された者、信仰者とされていることを良く知っている者たちではないでしょうか。私たちは神さまのために何も良いことなどしてきませんでした。かえって不従順で反抗的で、無視さえしてきた者たちです。そのような私たちが、親ガチャではないですが、私たちの方から神さまを選ぶことなどできません。神さまが私たちを、しかも「このような私たち」のすべてをご存知の上でわざわざ選んでくださり、残してくださったのです。恵みの何ものでもありません。この恵みの前に、私たちはただへりくだるしかないのではないでしょうか。

11章7節 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。

 イスラエルは律法の行いに執着し、高慢で、自分の力を過信して、福音を聞いてもそれを理解しようとせず、信じて受け入れようとしませんでした。かたくなな故に、神さまの義を、まことの救いを獲得できませんでした。神さまの恵みによって選ばれ、恵みによって福音を信じる者とされた人だけが救いに与り、そうでない者はいまだに頑ななままです。

 パウロは「選ばれた者は救いを獲得した」と言います。「他の者は、かたくなにされた」と言います。それはローマ書9章18節「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」と言われていたことです。

 パウロは語気を強めてこう続けます。

11章8節 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
11章9節 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、むくいとなれ。
11章10節 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつでもかがんでおれ。」

 パウロは何か鼻息を荒げるようにして、何を言いたいのでしょうか。他のユダヤ人たちがいかに頑なだったのかを言いたいのです。しかもその頑なさは、神さまがそうさせていると言うのです。

 8節では、申命記29章4節を引用しています。そこには出エジプトの経験をしていない、いわば二代目の人々が、出エジプトを経験した親世代の証言を聞いても、その意味を理解しようとしないかたくなな姿が描かれています。それは「今日に至るまで」と強調されています。今日、キリストの福音、イエス・キリストの十字架による罪の贖い、赦し。その福音を信じて救われ、永遠のいのちを獲得した者の喜びの証言を聞いても、興味を示さない、その意味を理解しようとしないかたくななイスラエルの状態を言っています。(私たちはこれを聞いて誰を思い浮かべるでしょうか?)

 けれどもパウロは神さまに期待しているのです。彼らが福音に対して頑なにされたのが神さまのみこころであるならば、やわらかな心、見ようとする目、聞く耳を開いてくださるのも神さまであるのだと。神さまがみこころのままに彼らを憐れんでくださるならば、彼らは救われるのだと心から期待しているのです。

 9節、10節も同様です。ここは詩篇69篇22節、23節の引用です。このことばは全体がまるでのろいの言葉のようです。「彼らの食卓」のところを、パウロは熱心な宗教的行いという意味で用いています。つまり、やはり福音を聞いても聞く耳を持たず、かたくなに神さまの愛とあわれみを拒み、熱心に律法を守り行っている多くのイスラエルに対して、「その背はいつまでもかがんでおれ」、「いつまでも律法の重荷を背負い続けるが良い」とまで、恐ろしいことを言っています。けれどもパウロが引用した詩編69篇の全体を見るならば、それは決してのろいの言葉ではないことを知るのです。

 詩篇69篇は、神さまに対する熱心が苦しみを引き起こしたのだという、信仰者の苦しみの歌なのです。それをパウロは引用してきているのです。苦しみが神さまへの熱心、忠誠心が原因なのだから、神さまへの信仰がある、ありすぎるほど神さまあなたを求めているのだから、どうぞあなたが彼らを憐れんでくださり、あなたご自身が彼らを苦しみから救ってください、解放してくださいと、切に神さまに訴え求めている歌なのです。パウロはこの詩篇を引用して、実はキリストの福音というすばらしいメッセージを拒否し、律法の重荷にあくまで固執している同胞イスラエルに対する嘆きとともに、彼らの救いを求めて真心をもって祈っているのです。

 パウロはこの手紙において、ただ恵みによって先に救われた異邦人クリスチャン、残されたわずかなユダヤ人クリスチャンたちに、あなたがたも私と同じ思いで祈って欲しいと、あなたがたも彼らと同じように苦しみから解放され救われた者なのだから、あなたがたの信仰を誇り高ぶるのではなく、彼らのために、彼らと同じ立ち位置に立って親身になって祈って欲しいと招いているのではないでしょうか。

【ヨハネの福音書】
15章16節 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

 神さまは恵みによってある人を選び、そして任命し、どこに行かせようとしておられるのか。そこでどのような実を結ばせたいと願われているのでしょうか。それはやはり、神さまが遣わされる人々の間に出て行って、そして彼らの救いのために祈ることへと召されているのでしょう。福音を証しすることへと召されているのでしょう。福音は何となく天から聞こえてくるのではなく、私たちの口を通して伝えられて行くのです。私たちの手を通して神さまの愛が具体的に注がれて行くのです。それが神さまの御心、ご計画です。私たちの口ばかりではありません。私たちの生き様を通しても、神さまの福音は伝えられて行くのです。だから祈りが必要なのでしょう。「こんな私が」と自分を蔑んではいけません。神さまがすべてをご存知の上で、ご計画があって、恵みによって私たちを選び、恵みによって残された者としてくださり、そして任命し、遣わしておられるのです。

 恵みによって神さまに選ばれた私たちはみな、神さまによってそれぞれの所に置かれ、そこにいる人々と共にに生きて行くように導かれています。神さまによって残された者がそこいる。私たちがいる。それは、その残された私たちの周りには、神さまが退かれてはおられない、それどころか愛しておられ、滅びることなど決して赦されていない大勢の人々が残されていることの証明ではないでしょうか。神さまは今もすでに、家族や友だち、そばにいる人々に、私たちを遣わしておられます。彼らを愛し、彼らの救いのために祈り、また力を尽くして行きたいと思います。私たちが召しに応えるならば、神さまは必ず救ってくださいます。神さまがそうされたいと心から願われているからです。

 また、私たち自身の内なる人にも、残された者がいます。恵みによって、聖霊によって信仰が残されています。守られています。それは私たち自身もまた、神さまに見捨てられてなどいない、愛されていることの証明です。私たち自身も恵みによって残されている自身の内の信仰にとどまり、私たち自身もまた常に福音に聞き、信じて歩んでまいりましょう。

 神さまはいつでも、一日中、その両手を力いっぱい広げて、赦しと恵みを用意して、全員が神さまのもとに戻って来ることを心から願っておられます。恵みによって選ばれ、愛され、救われ、召されている私たちは、誰に対しても高ぶることはできません。誰をも、自分さえも蔑むことはできないはずです。高ぶることなく、蔑むことなく、神さまが愛されたように隣人を愛し、自分自身を愛し、神さまの恵みに感謝をもって応えていく者でありたいと願います。

 お祈りを致します。
 天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。みことばを感謝致します。私たちは一人ひとり、私たちのすべてをご存知である神さまによって選ばれ、信仰が与えられ、守られて、残された者とされていることを覚えて感謝致します。その恵みの前にへりくだり、残された者に神さまが期待してくださっていることを、主の御心を私たちが感謝をもって成していくことができますようにお守りください。その行いは、決して私たちが救いを自分の手で勝ち取るためにするようなものではありません。救いはただ神さまの恵みによるものです。そのことをわきまえ知る知恵も与えてください。恵みを十分に味わい、喜び、そして神さまと隣人とを、この心と体をもって愛していくことができますようにお守りください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

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