2022年3月13日 主日礼拝「さばいてはいけません」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  4番「よろずのくにびと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  175番「われ世にあるまに」
聖 書  ローマ人への手紙14章1〜12節
説 教  「さばいてはいけません」佐藤伝道師
讃美歌  507番「ふかきみむねを」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙14章1〜12節

説教題

「さばいてはいけません」

今週の聖句

あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

ローマ人への手紙14章1節

今週の祈り

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
(コロサイ人への手紙3章13節)

愛する神よ、あなたの証し人としてふさわしくない私の欠点を示してください。あなたのように寛容で、愛し、赦せるように助けてください。

説教「さばいてはいけません」

ローマ人への手紙14章1〜2節

 信仰によって私たちを出会わせ、交わりを与え深めてくださるイエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を賛美いたします。今、世界はあまりにも大きな不安の中に置かれています。戦争、災害、飢餓、そのような中にある人々をどうぞ憐れみ、解決を与え、お救いください。特に今、ロシア・ウクライナの情勢を覚えます。あなたが愛しておられる世界に、そこに住む人々に、どうぞ平和な解決をお与えください。あなたが立てておられる権威を、正しく、平和のために、人々のいのちと財産を守るためにのみ用いられますように。権威が与えられている権威者の上に、上よりの知恵をお与えください。終わりの時を思わせる今、そのような中でもあなたは私たちに新しい恵みを与え、新しい気付きを与え、私たちの信仰を新しくしてくださいます。今日、献げられる礼拝をあなたが祝福してください。私たちを生かし、私たちが生きるべき道を示すみことばをお与えください。そして私たちはあなたから賜ったみことばをを携えて、この争いや不安に満ちた世界へ、社会へでかけていくことができますよう、あなたが私たちを遣わしてください。今朝もあなたのみことばを祝福してお与えください。あなたが語られるみことばを霊をもって強めてください。また一人ひとりが同じように霊をもってそのみことばを受けとめ、賛美と喜びをもってあなたの愛に応えることができますように。会堂で礼拝を守る者、インターネットを通して礼拝を守る者、どうかあなたの恵みを共に分かち合うことができますように。病やケガで治療中の人、痛みの中にある人、弱りの中にある人、家族を介護している人たち、どうぞその一人ひとりをあなたが守り導いてくださいますように。不安と孤独の中で心と魂の弱りを覚え、道を求めている人に、あなたが必ず備えてくださっているその道を明らかに示してくださいますように。生きることが疲れてしまっている人たちに、今日生きる力をあなたが与えてくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 「人間はなぜ争うのですか?」。小学校1年生の男の子からの質問です。先生はその男の子に質問しました。「どういう時に争いごとっていうか、ケンカが起きたりしやすいと思う?」。「気が合わない時とかが多いと思う」。「あー、気が合わないね。気が合わないっていうのは、もうちょっと考えてみるとどういうことかな?」「例えば、いろいろな遊びを別々だったり、友だちと同じ遊びをしようと思ってたのに、別々だったりした時が多いです」。「そうだよね。自分がこうしたいとか思ってる時に、お友達は、いや違うことをしたいとかっていうことがあると争いとかが起きやすくなるよね。でも実は、そういう時って、自分はこう思っていて、相手はこう思っているって分かっているよね。だから何とかしなくちゃとかも思うよね。そして人は争いを起こすこともあるけど、争いを収めることもできるんだよ。そこがとても大事。人間は、そこそこ仲良しで争いごともしちゃうけど、争いごとをしないように努力をずっと続けることはできるんだね」。

 今日からローマ書は14章に入ります。すでに見てまいりましたように、12章1節からは義と認められた者の新しいライフスタイルについて教えており、それは15章13節まで続きます。12章3節から前回の13章14節まででは、教会の内と外で隣人と敵を愛さなければならないという勧めが語られました。本朝からの14章1節から15章13節では、教会内で強い人と弱い人が互いに認め合い、受け入れ合わなければならないという勧めがなされます。12章3節から前回までの所にはいくつかの小さな主題がありましたが、14章1節から15章13節では一つの大きな主題にそって語られています。そのことから、この主題がローマの教会において重要であったことが分かります。

 1〜3節で、この書簡で初めてローマ教会の中にある現実の問題が取り上げられます。どうやら当時の教会の中には、禁欲主義的・律法主義的傾向のあるグループと、それを克服しようとするグループがあり、二つのグループが対立してさばき合っていた現実があったようです。パウロはここでは、それぞれの立場の考えの内容の良し悪しには深く論じることをせずに、むしろそこから、キリスト者、教会の霊的一致を確立しようとするのです。

14章1節 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

 【信仰の弱い人】とありますが、どのような人なのでしょうか。また具体的には記されていませんが、【信仰の強い人】という人たちもいるようです。少し先まで読み進めてみて、この二つの立場をまとめてみますと、このようになると思います。

  • 信仰の強い人:おもに異邦人の聖徒、異邦人に親和的、肉も食べる、すべての日を重視し、ぶどう酒を飲む
  • 信仰の弱い人:おもにユダヤ人聖徒、ユダヤ人に親和的、野菜だけ食べる、特定の日を重視、ぶどう酒を飲まない

 正反対と言いますか、これではどうしても対立してしまうでしょうといった感じです。先ほども申しました通り、パウロはそれぞれの立場の考えの内容の良し悪しを論じるのではありません。同じ主を見上げる兄弟姉妹、教会がなにやら二つのグループに分かれてしまい、互いに批判し合っている現実を問題にしているのです。【信仰の弱い人】と呼ばれていますが、それはキリスト教信仰の基本的理解について不十分な者のことではありません。福音を信じて律法から解放されているキリスト者は、食物に関する規定や日の規定から解放されて自由となっている者なのですが、なおそうした規定の中にとどまっている人たちがいました。ここでまずパウロは、信仰の強い人(禁欲主義的・律法主義的傾向を克服しようとする自由派のキリスト者たち)に、信仰の弱い人の意見をさばかないで、主にある兄弟姉妹として受け入れることを勧めます。互いに論争、言い争ってはならないということです。それをしようとすると、本来の意図(一致しようとする、ともに建て上げられていこう)からどんどんずれて行ってしまい、その結果として十中八九、教会の中に葛藤と分裂が生じていがみ合うようになってしまうからです。

 イエス様は言われました。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか」(マタ1225-26)。主のからだである教会、主のからだに組み合わされている者たちの間に、分裂、争いがあっては立ち行かなくなってしまうのです。言い争いは初め、小さなものかもしれませんが、それがやがて大きな問題となってしまう。ローマの教会はそのような危機に直面しているようにパウロには見えていたのでしょう。世界宣教の拠点となることが期待されていたローマの教会、世界の中心で素晴らしい神さまを証しするはずの教会が内部でさばき合い、分裂してしまうようでは良くないのです。

14章2節 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

 当時、一般に市販されていた肉の中には偶像に供えられていた動物の肉が混ぜ合わされて売られていました(Ⅰコリ8-10章)。そのために肉を食べることの良し悪しについて、同じキリスト者の間には二つの考え方と立場がありました。

  • 〈何でも食べて良いと信じている人〉は、すべてのものは神によってつくられたのであり、また偶像なるものは実在しないので、偶像に供えられた肉を食べても問題ではないと確信していた(Ⅰコリ84-6
  • 偶像に供えられた肉を食べることは偶像礼拝に参与することになると考え、〈野菜よりほかには食べ〉るべきではないと信じていた人々

 その両者はそれぞれの考え方を主張するだけでなく、相手の考え方をきびしく批判し合っていました。そこに葛藤と分裂が起こっていました。

14章3節 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

 強い人の立場からするとこうでしょう。「信仰の弱い人は信仰理解が成熟していないのだ。だからユダヤの伝統とか慣習に縛られているのだ。神に与えられた自由を正しく理解できずに、味わうこともできずにいるのだ」。パウロは「侮ってはいけない」と言っています。この【侮る・ἐξουθενέω】は、【見下す】という意味もあるので、信仰(神・福音への信頼)の強い人とされている兄弟姉妹のうちに、どこか信仰の弱いとされている人を見下すような態度が見て取れたのかもしれません。さらに【侮る】には、【無視する、軽蔑する、軽視する、嫌う】そして【放り出す】という意味をも持つ語です。パウロはそのような理由で信仰の強い人は信仰の弱い人を見下し、軽視し、嫌い、放り出してはならないと命じます。

 一方、信仰の弱い人とされている人からするとこうでしょう。「あの人たちは神の律法を破り、自分の考えに従って罪を犯しているのではないか」。しかしパウロは、そのような理由で強い人を裁いてはいけないと命じます。信仰の弱いとされている人は、もしかしたら強いとされている人を公に侮ることも、放り出すこともできず、ただ陰で不平不満を言っていたのかもしれません。表に出てこないそのような水面下の対立でさえ、教会はやがて立ち行かなくなってしまうのではないでしょうか。

 なぜ食べる人は食べない人を侮ってはいけないのか、なぜ食べない人は食べる人をさばいてはいけないのか。その理由は「神がその人を受け入れてくださったからです」。

 【受け入れる・προσλαμβάνω】は積極的に賛同する、喜んで歓迎する、自分を脇に置く、という意味を持つ語です。あの人はなっていない。人の目にはそのように見えても、その人は、神の大きな犠牲によって、神がご自身を脇に置いてまでも、その人のためにイエス・キリストを十字架につけてまでも愛し、赦し、そしてご自身に対する信仰を喜んで受け入れてくださった人なのです。一度受け入れてくださった神は真実な方ですから、今も決して変わることなくそうなのです。また、その人の信仰を、神を愛する信仰によるその人なりの様々な考えや決断であるならば、人はさげすむかもしれませんが、神はご自分を脇に置き、さげすむことなく積極的に賛同してくださっているのです。その考えや決断を見下して、ただおしのけて退てしまわれることなく、認めてくださって、その上で諦めず、放り出さず、どこまでも関わってくださって、すべてを働かせて益としてくださる全知全能なる神が、常に御心をなそうとその人を導いておられるからです。「信じられない、あの人のことも?」そう思ってしまうことも正直あるでしょう。

14章4節 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

 相手の信仰、そこからの考え、意見を侮り、軽視し、さばくあなたは何様かと。【他人のしもべ】は、他人の家の使用人のことです。【主人】ということばが、最後の文章では【主】に変わり、ここでは、キリストのしもべとされたキリスト者のことを言っています。他人の家の使用人をあれこれさばくことはまるで意味のないこと、非常識、越権行為、身分上許されないことをすること。そんなことをしているあなたは、いったい何様であると考えているのか。食べる者も食べない者も、信仰の強い者も弱い者も、すべて主キリストのしもべとされている者で、しもべには互いにさばく権限はなく、主のしもべのことで主にとやかく言う権限もないのです。主人、主がその人を褒めるなら報いが与えられ、主が戒めるなら主が罰をお与えになるのです。しもべが立つのも倒れるのも、主のお心次第なのです。そして何よりも、何があってもしもべは立つのです。主はご自身の義と愛によって、厳しさと優しさによって、しもべを必ず真っ直ぐ立たせ、永遠のいのちへと続く正しい道へと導かれる全知全能なるお方だからです。

 自由を巡る対立は、食べ物の問題を巡って見られただけでなく、日の問題を巡ってもありました。

14章5節 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

 初代教会の中には、ユダヤ主義的な考え方が根強く残っており、特別な祭儀的な日や季節、祭の日や断食の日、期間を守らなければならないと主張する者たちが少なからずいたようです。【考える】というのは【判断する】という意味です。同じキリストのしもべ、キリスト者であっても、一つのことで違った判断をすることは当然と言えば当然でしょう。ユダヤ人とローマ人、現代でも民族の違いはもちろんのこと、教団や教会の歴史とか、時代やその土地の文化とか、人生の背景などの違いによって、信仰の強調点はどうしても少しずつ違ってきます。その多様性を覚えながら、その違いを理由に互いをさばいてはならないのだとここでは教えるのです。信仰は一つだからです。信仰の弱い人は安息日、各月の第一日、過越の祭りなどのユダヤの祭りの日を他の日より重要と考えましたが、信仰の強い人はそうではありませんでした。そのような時はどうするべきなのでしょうか。パウロは全く予想外と思われる助言をするのです。いずれの立場に立つにしても、「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」というのが、パウロの強い主張でした。強い人は自分の考えに確信を持ち、弱い人も自分の考えに確信を持ちなさいと。

 6節ではこれまでの結論が述べられます。

14章6節 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

 キリスト者であるなら、日を守る人は主のために守り、食べる人は主のために食べ、食べない人も主のために食べない。このように、一方が正しいとはせずに、どちらでも良いということがあるのでしょうか。あるのです。それは「主のために」している場合です。パウロ自身がそのように生きていました。

 パウロはテモテという人を伝道旅行に連れて行くことになった時、このテモテに割礼を受けさせました。救われるためには割礼などの旧約聖書利法は必要ないと、あれほど主張し、命をかけてきたパウロが、一体どうしてテモテにあっさりと割礼を受けさせたのでしょうか。「主のために」、「福音のために」、そうすれば人々が救われて、そこに主の栄光が現される、その確信によってあっさりと割礼を受けさせてしまう。それがパウロでした(Ⅰコリ913-23)。パウロは誰に対しても自由でしたが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシヤ人にはギリシヤ人のように。弱い人には弱い人のように。それは何とかして幾人かでも救うためでした。パウロはすべてのことを主のために、福音のために行ったのです。このことはパウロに限らず、私たち主のしもべ、キリスト者が抱く行動の原理、原則でもあります。「神と隣人とを愛する」。私たちは幾人かでも救われるためにと、そのような原則の下に生きる者でありたい願うのではないでしょうか。愛された者は愛することを学び、知るのです。愛することを学び知った者は愛するのです。愛される者は愛することを知っている者です。

 キリストのしもべ、キリスト者が持つべき確信は「主のためにしている」という、しっかりとした確信です。特定の日を重視することも、重視しないことも、「主のために」するのならどちらも認められるべきです。主日に教会に行って礼拝することも、仕事に出かけることも、各自が各自の立場で「主のために」判断したという確信のもとであるならば、神を愛し、神が愛する隣人を愛し、主のために、福音のために、幾人かでも救われるためにという確信ある判断であるなら、誰も批判してはなりません。14章6節で繰り返される「主のために」するということは、私たち主のしもべ、キリスト者にとって、ごく日常的な営みにおいても基本です。

 続く7節から9節では、すべてのキリスト者にとって、極めて大切な生き方の基本が示されます。

14章7節 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

 私たちの中で、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じ救われている私たちの中で、だれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。いるはずないでしょう、とパウロは信仰者に問うのです。それまで自己中心に生きてきて、神さまを無視して生きてきて、たくさん罪を罪と知らずに犯し続けて、傷ついて、絶望して、死ぬほど苦しんで、泣いて。しかし自己中心、罪、すべてイエス・キリストがその身に負ってくださり、十字架に架けられ、死んで葬られ、そしてよみがえってくださり、今も生きてとりなしていてくださっている主を信じ救われた、また日々救われている私たち。「あなたの罪は赦された」「安心して行きなさい」「もう罪は犯さなくて良い」との御声を聞いた私たち。罪から、神さまに背を向けさせるもの、自分を傷つけるもの、自己中心、自我、自分の欲求への貪りなど、罪の奴隷から贖われ、完全に解き放たれて、赦されて、神との平和をいただき、新しい契約によって主のしもべとなり、報酬としては素晴らしい永遠のいのち、神の御国の豊かな富の相続をすでにいただいている私たち。そのような主のしもべとされていることこそ、私たちキリスト者に与えられている本当の祝福ではないでしょうか。その大きな愛と恵みに応えて生きたいと願うのではないでしょうか。不思議なことですが、救われた者は自分を脇に置いて、主に仕えることが本当に喜びとなるものです。

14章8節 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
14章9節 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

 パウロは言いました。「あなたがたは、代価をもって買われたのです」(Ⅰコリ723)と。私たちキリスト者は「主のもの」、幸いな「主のしもべ」です。なので、すすんで「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬのなら、主のために死ぬ」のです。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの」。私たちの人生初めから終わりまで、一貫して、すべてにおいてということでしょう。「あなたがたは、イエス・キリストのいのちをもって代価が支払われ、買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリ620)。「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリ723)。「ですから、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の(あなたがたの主、あなたがたの主人の)栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリ1031)。このパウロの何度も繰り返される勧めに、私たちは何度も「はい」と言うのではないでしょうか。言いたいのではないでしょうか。

 このように、すべてのキリスト者にとって、極めて大切な生き方の基本がここで示されました。

 続く10節からは、自分の兄弟をさばくこと、見下すことが、3節で語られた以上に強い表現で戒められています。

14章10節 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

 私たちはみな、お互いに、全員が、神のさばきの座に立たされることになっている者たちです。その根拠としてパウロは旧約聖書の証言、イザヤ書45章23節を引用します。

14章11節 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

 【ほめたたえる】のもともとの意味は【告白する】です。私たちは皆、その時には「それぞれ自分について、神に申し開きをすることになる」。弱い人を見下したならそれに対して、強い人を裁いたならそれに対して、それ相応の責任を負うことになるのです。また、この教えは、兄弟をさばくことが兄弟に対する罪であるだけはなく、神の座に座ろうとする大きな罪であることをも示していると言えるでしょう。イエス様はさばいてはならないと語られたとき、「人がさばいたそのとおりに自分もさばかれる」と警告しておられます(マタ71-2)。

14章12節 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

 私たちは全員が、あの人がではなく、私もあの人も、義であり公平である神のさばきに服さなければならないのです。私たちはその神のさばきの座において、神の御前に何の心配もなく申し開きすることが出来るような生き方をしなければ大変です。私たちはすべての言動について神に弁明しなければならないのです。なので、他の人たちの信仰理解や態度についてあれこれ批判するのではなく、何よりもまず【自らの】うちに真の確信(これは主の栄光を表すものだという思い)を持ち続け、その確信から出る【自らの】言動に責任を取る者でなければなりません。これが今日の箇所で、パウロが示した「今の時」を生きるキリスト者の生き方です。

 みことばの光では先週ヤコブ書を学びました。その中でまた教えられたことがありました。「宗教」という語が出て来たのですが、この「宗教」と訳されている語は、「礼拝」とも訳される語で、「恐れ」という語から派生していることばであるそうです。ここから「主を恐れることは知恵の初め」という箴言を思い出すことができると(箴910)。真の宗教、礼拝(ひれ伏す)、恐れは、人々を生かすものです。人々の人生を生き生きとさせるものです。人々のいのちと財産(相続財産)を守るものです。今の時を生きる私たちは、信仰の本質、宗教の本質、律法の本質を見失わずに、主のみことばに従って隣人を愛し、大切にし、神のみこころにかなうことをなして行きたいと願います。目を覚まし、聖霊に満たされて、知恵に満たされて参りましょう。何をするにも、これはただ神の栄光を現すためにすることであるかどうか考え、判断し、これは神の栄光を現すかどうか、きちんと分別できる知恵を祈り求めましょう。ひとつひとつ、信仰をもって、自らをしっかり省みて、確信をもって、確信を持ち続け、そこから従って行くときに、私は、そして私たちは、教会は、ますますキリストという身にまとった服に似つかわしい自分へと替えられていくことでしょう。

 神に定められているその時、神の御前に、聖く、何も恥ずべきことのない姿で立つ者は幸いです。

 お祈りを致します。
 天におられます私たちの父、主なる神さま、あなたの御名が聖なるものとされますように。「今の時」をひしひしと感じるこの時代を生きる私たちに、今朝もみことばを賜り心から感謝いたします。今週もどうぞみことばを覚え、御前にふさわしく歩んでいくことができますように守り導いてください。私たちの生活、行動や言動、決定のすべてが「主のために」であるのかをいつも覚えさせてください。上よりの知恵をいただき、信仰をもって、常に正しい確信ををもって歩んで行ける者でありますように。多様性を認めず、憐れむこともせずに、互いの意見をさばき合うこと、それによる争いや対立は神の国にふさわしいものではないことを覚えます。いつも互いに神の義と平和と一致を求め続けて行くことができますように、このことの上にもあなたの愛と知恵をお与えください。感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン

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