2022年5月15日 主日礼拝「福音の祭司の務め」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  7番「主のみいつと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  534番「ほむべきかな」
聖 書  ローマ人への手紙15章14〜21節
説 教  「福音の祭司の務め」佐藤伝道師
讃美歌  332番「主はいのちを」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙15章14〜21節

説教題

「福音の祭司の務め」

今週の聖句

私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。

ローマ人への手紙15章16b節

今週の祈り

御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
(コロサイ1:17)

天の父よ、被造物を通してあなたを知ることができることを感謝します。あなたが見えない人々を、みもとに引き寄せてくださるように祈ります。

説教「福音の祭司の務め」

アウトライン

はじめに)ローマ人への手紙15章14節からは、手紙の結びのパート

  • 手紙の結びの性格。手紙を締めくくる言葉を述べる。相手の繁栄や活躍、健康や幸せなどを祈る気持ちを書く。最後まで思いやりの気持ちを添えるもの。
  • ローマの教会に宛てた手紙は、そこから広がって、時代をも超えて私たちのところに届いている。

1)ローマの教会に対する親愛と尊敬の情と励まし

  • ローマ教会に対するパウロの確信と信頼

2)所々、かなり大胆に書いたのは

  • もう一度、思い起こしてもらうため
  • アイデンティティ、信仰について

3)パウロ自身のアイデンティティ、信仰

  • 【仕え人・λειτουργός】しもべではなく、祭司として奉仕する人のこと。旧約聖書では祭司やレビ人を表す語
  • 神の恵み、あわれみ、権威によって異邦人への使徒に召されている
  • 使徒としての働きを、祭司の働きとして捉え、説明
  • 祭司は神と人との和解と交わりのためにとりなしをする。祈り、献げもの(いけにえ)を献げる
  • 今の私たちに求められている祭司の務め、礼拝とは(ロマ1516、121
  • フロンティア精神、レビ人は民の間に散らされた

まとめ)

パウロは神の恵み、あわれみ、神の権威によって、本来アロンの家系にしか許されない祭司に召された。同じように、キリストを信じた者は皆、祭司の務めを受けている。私たちは、家族や会社、地域や国家という共同体の中で散らされて生きており、その一員として、ともに生きる人たちの救いを願い、祈る責任がある。それぞれが置かれた地で日々礼拝を献げる(供え物を献げる)責任がある。神と人との和解と交わりのためにとりなし、祈り、祭司の務めをして行こう。神の栄光のために、隣人の救いのために歩む人生としていただこう。

 金曜日、私たちにとっては悲しい知らせがありました。桐野兄が召されたとの知らせでした。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る」(伝127)。死は神が与えてくださる新しいいのちの始まりなのだと聖書は語ります。この新しいいのちの始まりは、神が霊を天に呼び寄せられることによって始まるのです。パウロは言います。「私の願いは、世を去ってキ リストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです」(エペ123)。日本語では分かりませんが、世を去り、キリストとともいる。これが同時に起こることとして記されています。キリストによって贖われた者の魂は、世を去る瞬間に、ただちにキリストとともにいる、パラダイスにいることが実現するのです。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た」(黙211−2)。キリスト者が主によって召された時に見る光景です。桐野兄が見た光景です。桐野兄が地上で生きた人生、地上でなした精一杯やった一つ一つのことは、全部無駄に終わることはないのです。神は私たちの足りなかった人生の歩みを、完成へと導いてくださるお方です。失敗したところも、足りなかったところも仕上げてくださる神がいる。神が両腕を一杯に広げて、「この日を待っていた。ここまで良くやった」と大声で迎えてくださる。兄弟はその御声を聞いていることでしょう。桐野兄の好きなみことば、イザヤ書60章1節。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」。今、桐野兄は主の栄光を仰ぎ見ていることでしょう。私たちは桐野兄を偲び、祈りたいと思います。そして桐野兄が今味わっている真の幸いを覚えて励ましをいただき、私たちも天の御国を目指し、私たちの地上の人生の間になすべき業に励んでまいりたいと思います。

 昨日は幸いな伝道集会、感謝でした。私たちの宣教、伝道を通して、福音が世界の果てに向かってまた一歩前進したのではないかと思います。来られた方の中には、岩井先生を通して「苦難を通して知る、永遠の希望」があるのだと、初めて聞くようなこともあったかもしれません。また普段教会に集い、みことばに親しんでいる私たちにとっても、幸いな福音をもう一度思い起こす機会となり、慰められ、励まされたのではないかと思います。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(Ⅰコリ36)。昨日福音の種が蒔かれたお一人おひとりの内に良き実が実るようにと祈り、キリストが仕えられたように、私たちも仕えてまいりましょう。

 さて、ローマの教会に宛てたパウロの手紙ですが、今朝の15章14節からいよいよ結びのパートに入ります。手紙の結びというのは、手紙を締めくくる言葉を述べるところです。普通は相手の繁栄や活躍、健康や幸せなどを祈る気持ちを書き、最後まで思いやりの気持ちを添えるものです。どうやらそういった手紙の形式は古今東西、昔も今も変わっていないようで、パウロの手紙の結びのパートもまた、祈りや思いやりの気持ちがこもったものとなっています。覚えておきたいことは、前々回に私たちの聖書観について触れましたが、パウロの祈りや思いやりの気持ちがこもった手紙は、ローマの教会にだけ届けられたものではなく、ローマの教会から広がって周囲の教会でも、まるで自分たちに宛てられた手紙のようにして受け取り読まれただろうし、実際に時代を超えて私たちのところにも届き、私たちにも語りかけているということです。すべての読者を教え、神からの忍耐と励まし、希望を与えてきました。与えるものです。霊であられる神は、神のみことばである聖書を通して私たちと出会い、私たちの内に住まわれる聖霊によって語りかけるからです。

 パウロの手紙の結びのパートに入ったわけですが、初めにパウロはこれまでのパウロ自身の福音の働きをまとめます。ローマ書の冒頭では、実際に会ったことのないローマの教会に対して自己紹介をしていますが、今朝の箇所もそれと重なるところがあります。異邦人の使徒としてのパウロの立場、立ち位置を良く説明しています。

15章14節 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。

 「私の兄弟たちよ」。非常な親愛の情が込められた呼びかけです。「この私、パウロは確信しています」。十分に確信し、心からあなたがたを信頼していますと言っています。その内容は、善意にあふれている。善意というのは、相手の徳を建てようとする、相手の益となるためにしようとする思い、動機です。やさしい他者への思いやり、相手を心から大切に思う愛に満ちている品性のこと。それはキリストの品性。あなたがたはキリストの似姿とされていますね、と。そしてすべての知恵に満たされている。知恵というのは一般に知識とも訳される語です。パウロは別の手紙でこのように祈っています。「私はあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが神のみこころに関する真の知識に満たされますように」(コロ19)。パウロが言う知識とは、神のみこころに関する真の知識のことです。それはキリストに現れた真の神の御心、福音に関する知識のことです。あなたがたは神のみこころに関する真の知識に満たされていますね、と。また互いに訓戒し合うことができる。【することができる】とは、力があるということです。また「ダイナマイト」の語源に由来する語です。あなたがたにはもの凄い力があるよと。あとは導火線に火を付けるだけ。パウロは彼らには問題解決のための十分な善意(愛)と知恵(知識)と力があることを十分に確信している、心から信頼していると言うのです。あなたたちだから出来ると信じている、そう励ますのです。

 ローマの教会はコリントの教会とは違って、パウロが直接開拓した教会ではありません。名もないキリスト者が建て上げた教会でした。私たちの教会と一緒です。名もないなどと申しますと失礼になるかもしれませんが…。そのために、パウロは慎重にアプローチしています。私はパウロに対して、どこか偏屈で怖い人のようなイメージがありましたが、パウロは非常に謙遜な人ですね。イエス様のようです。イエス様を心から愛し尊敬していると、パウロのようにイエス様に似てくるのでしょうか。そしてパウロは読者に対する愛が伝わるようにと、最大限に配慮した言葉をもって彼らに手紙を書き送るのは、決して彼らに足りない部分があるからではないと語りかけるのです。パウロはローマの聖徒たちのことが信仰と奉仕において成熟した者であったことを知っていたのです。しかし、「立っている者が倒れることがある」のです。そのために、彼らにアイデンティティー、あなたがたはどのような者から今、どのような者とされているのかということ、そして信仰について、繰り返し思い起こさせる必要があったのです。

15章15節 ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。

 「まだ知らないことを教えてあげる、悟らせてあげる」というよりも、柔らかくて、相手を認めて、またローマの教会を開拓した名もなきキリスト者を認めて、思いやって注意深く語ろうとしていることが伝わって来ます。しかし実は、パウロがこれまで語ってきたことの多くは、ローマのキリスト者たちが初めて聞くようなことでした。謙遜なパウロはあえてこのような表現を用いたのです。それにしても、パウロはかなり大胆に書いたなぁと思います。罪の悲惨さ、そこからの救われたことの恵み、感謝をもって生きて行く方法。教会の問題の指摘。その目的を16節で明らかにします。

15章16節 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。
15章17節 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。

 パウロがキリスト・イエスの仕え人となったのは、神からの恵み、神の権威によってであったのだと、手紙の冒頭1章1〜6節で言ったことを改めてここでも確認します。神に仕えることに関して、パウロは神の恵み、権威によって任命されたのだから、決して自分の思い、肉の思い、自分の誇りのための働きではなく、キリスト・イエスにあって誇りをもっている、神による神のための働きであることを自覚して確信していると言います。

 そして【仕え人・λειτουργός】とありますが、これはただしもべとして仕える人のことではなく、【祭司として奉仕する人】のことを言います。旧約聖書では祭司やレビ人を表すために使われます。パウロは少し前に、「あなたがたは互いに仕える者になるように」と言いましたが、ここでの仕えるとは、具体的に祭司の務めを果たすことを言っています。パウロは自分の伝道者としてすべきことを、祭司の働きとして捉えて説明しているのです。パウロが神の権威によって選び出され、使徒として召されたのは、異邦人にキリストの福音を宣べ伝えることによって、彼らが救われ、聖霊によってきよめられ、神に喜んで受け入れられる者となるためでした。

 18節もまた、私は私を誇ることはせず、ただキリストを誇るということを言うのです。「誇る者は主を誇れ」、そうパウロ自身が言っていました。「この世の取るに足りない者や見下されている者、無に等しい者を神は選ばれたのだ」と、自分自身もまたそのような者なのだと言っています(Ⅰコリ128)。神はパウロを何に選ばれたのでしょうか。異邦人への使徒です。そして異邦人の祭司にです。

15章18節 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、
15章19節 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。

 パウロはこれまでの働きについて、自分が成し遂げたとは言わずに、キリスト・イエスが私を用いて成し遂げてくださったと言います。口先だけでそう言っているのではなく、本当にそう思っていたのです。それで、異邦人を従順にするため(異邦人が救われるため)、キリストが私パウロを用いて成し遂げてくださったこと以外に、あえて何も申しませんと言うのです。

 パウロはここで、まず自分がどのように神によって異邦人への使徒、祭司に召されたのかを思い起こしているのかもしれません。神の教会を迫害して来た自分の目の前にイエス様が現れた。イエス様が現れて、パウロにことばをかけられました。そして行いによって、しるしと不思議によって、パウロは目が見えなくなって食べることも飲むこともできなくなった。一人の人が神に遣わされてパウロを訪ね、パウロの上に手を置くと目からウロコのような物が落ちて目が見えるようになった。パウロは立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。数日後、パウロは諸会堂で「この方こそ神の子です」とイエス様のことを宣べ伝え始めた。これがパウロが神によって異邦人への使徒、祭司として召された最初でした(使91−22)。まさにしるしと不思議によって、奇跡的に使徒とされたのではないでしょうか。パウロの身に起きた数々の不思議なみわざ、またパウロの内側で起こった悟り、悔い改め、変化という、これぞ聖霊のみわざでしょう。まさにキリストのことばと行い、しるしと不思議をなす力、聖霊の力によって、パウロは異邦人への使徒、祭司に召されたのではないでしょうか。そのようにキリストのことばと行い、しるしと不思議をなす力、聖霊の力によって使徒、祭司に召された者は、パウロのように良い実を結ぶことができるのです。つまり、私たちもパウロのように良い実を結ぶことができるのです。私たちは確かに、すでに、パウロとまったく同じように、ある日イエス様に語りかけられ、福音を聞き、キリストのことばと行いによって、しるしと不思議をなす力、聖霊の力によって神への聖なるささげ物とされたのですから。皆さんは今、こうしてここにおられるのはどのようにしてだったでしょうか。思い起こしてみてはどうでしょう。私はどこからどのようにして救われたのか、どのように神を信じる者とされたのか。どのようにしてこの教会に導かれて来たのか。偶然だったのでしょうか。いや奇跡の連続だったのです。神のみわざです。聖霊のみわざです。そして使徒として、また祭司として異邦人、神のことを知らない人々の間に遣わされていることも神のみわざです。そこでの使徒、祭司の働き、証しの生活もまた神の力、聖霊の力によるのです。何もかも自分の力ではないし、自分の力では成し遂げられない。ただ神の力、キリストの力、聖霊の力によるのです。

 キリストのことばと行いによって、しるしと不思議をなす力、聖霊の力によって召されたパウロ、神の喜ばれる生きた献げ物とされたパウロもまた、キリストのことばと行いによって、しるしと不思議をなす力、聖霊の力によって使徒、祭司の務めを成し遂げて来ました。パウロ自身も、行いによって、ことばによって、つまり生活と生き方によって、パウロのすべてによって福音を宣べ伝えたのです。韓国である調査が行われたそうです。韓国の教会の信徒が牧会者に対して最も残念に思うことは何かという質問でした。一番多かった回答が、牧会者がことばだけで説教し、行いでは説教しないことだというものでした。身につまされる思いがします。ことばだけの働きでは良い実を結ぶことはできないのです。ことばも行いも、御霊の実によって一致していなければ、良い実を結ぶことはできないのです。逆に一致したところで、神はパウロに与えられたように凄い事を成し遂げる大きな力を与え、そして大きなみわざをなさいます。神の栄光が現されます。

 さて、パウロはこれまで、エルサレムとパレスチナから始まって、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。これはローマ帝国東部の各地域で福音を宣べ伝えたということです。そしてこれからは、地の果てを目指して、まずはローマ帝国西部に向かおうと心に決めていました。そこでこのように言います。

15章20節 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。
15章21節 それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

 パウロのこの福音宣教に対するダイナマイトのような力、エネルギーはいったいどこから生まれたのでしょうか。それは神からのものであることはもちろんのこと、神によって異邦人への使徒として召されたという自覚と、フロンティア精神、開拓者精神によってです。キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。キリストが伝えられず礼拝されていないところ、キリストの福音がまだ伝えられていない地方。そこに自分が使徒としてキリストの福音を伝え、また祭司としてその場所で仕えることを切に求めた。それはパウロがイザヤ書を引用しているとおり、神さまの昔からのご計画にも一致することでした。実はこのフロンティア精神、開拓者精神は、私たち同盟教団も最初の宣教師たちから受け継いできているものなのです。

 ここまでで、パウロの異邦人伝道についての考え、思いというものを見てまいりました。特に私たちが考えさせられるところは、パウロが神の恵みによって、権威によって、異邦人への使徒とされていることです。私たちもまた同じように、神の恵みによって、権威によって、異邦人への使徒に召されているということです。そしてパウロは、使徒の働きを祭司の働きとして説明しているところです。

 祭司の働きとは何でしょうか。祭司は神と人との和解と交わりのためにとりなしをすることです。具体的には何でしょう。祈ることと、献げ物といけにえを罪のために献げることです。「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています」(ヘブ51)。和解、感謝のささげ物といけにえを罪のために神に献げる。特にいけにえを献げる祭司の奉仕と言えば、動物を切り裂き、殺し、神の前で焼いて献げるというものです。本来は本当に嫌な仕事ではないでしょうか。嫌な役目が回ってきたと思ってしまうのではないでしょうか。しかも、祭司の役目を果たすためには、まず自分自身が聖められなければならないのです。自分自身が聖められることにも、辛い作業が伴うものでしょう。

 「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブ922)。私たちの大祭司であるキリストは、ただ一度だけ、多くの人の罪を負うためにご自分を献げられました。それで完全に罪の赦しが成し遂げられました。完全に成し遂げられたので、私たちは昔のユダヤ人のように何度も何度も罪の赦し、聖めのためのいけにえを献げる必要はなくなったのです。ただ、今私たちに求められているのは、ローマ書12章1節で求められていること。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ロマ121)。私たちのからだを、また神を知らない人々のからだを、神に喜ばれる“生きた”ささげ物として献げなさい。屠る、切り裂く、殺して死んだささげ物ではなく、活き活きと生きたささげ物として神に献げる。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝、霊的な礼拝、形式的ではない真の礼拝。そのような礼拝をあなたがたは祭司として神に献げなさいと求められているのです。

 ところで、祭司というのは、本来律法ではレビ族のアロンの家系にしか許されない務めでした。ベニヤミン族出身のパウロは祭司になれない。しかしパウロは神の恵み、あわれみ、神の権威によって祭司に召されたのです。同じように、キリストを信じた者は皆、祭司の務めを受けているのだと、聖書は言うのです。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています」(Ⅰペテ29−10)。キリストを信じた者は皆、パウロも私たちも皆、キリストに出会う前のパウロであっても、パウロのようだった私たちであっても皆、神の一方的な恵み、あわれみ、神の権威によって祭司に召されているのです。

 レビ人という側面から見てみましょう。レビ人たちは祭司として、民の間に散らされて生活しました。そして民の間で礼拝を守り続けました。遠く離れた民が神を忘れないように、礼拝を続けて献げられるように、民の間に散らされるようにして遣わされていたのです。私たちはどうでしょう。私たちも、神によって人々の間に散らされて遣わされているのではないでしょうか。しかも神を知らない人々の間に。まるで神の開拓者のように、パウロのように、神を知らない人々の間に散らされて、そこで祭司としての務めが任されているのではないでしょうか。私たちはそこで自分自身を聖霊によって聖なるもの(=神のものとして取り分けられたもの)として神に献げるのです。そして神を知らない人々を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる、神が喜ばれる生きた供え物とするるのです。そのために、何をするにしても神の栄光を現し、自分を喜ばせるためではなく、神に喜んでいただくために、ことばと行いをもって福音を伝えて行くのです。

 私たちは神の恵み、権威によって祭司に召された者として、人々の間に散らされて出て行って、そこで日々、神と人々との和解と交わりのためにとりなし、祈り、祭司の務めをしてまいりましょう。私たちは、家族や会社、地域や国家という共同体の中で散らされて生きています。その“一員”として、ともに生きる人たちの救いを願い、祈る責任があります。それぞれが置かれた地で日々礼拝を献げる責任があります。自分が救われればそれで良いというのではなく、家族、友人、同僚、同胞の国民の救いのために歩む人生としていただきましょう。私たちの大切な人が、今のままで、その罪のゆえに背負わなければならない苦難を、罪のために切り裂かれ、焼かれて、永遠に滅んでしまう状態、そのまま終わらせてはいけません。キリストがご自身の十字架の死によって私たちに赦しといのちを与え、永遠のいのちという真の希望、生きる力を与え、人生を奇跡的に変えてくださることを、そのように人生を変えていただいた私たちは告げ知らせてまいりましょう。

 「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから、すべての、神に愛され、召された聖徒たちへ」(ロマ11,7)。そのように書き始められたローマ人への手紙。その結び、締めくくりとしてのパートはもう少し続きます。

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