2022年5月22日 主日礼拝「いこいの共同体」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  544番「あまつみたみも」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  62番「主イエスのみいつと」
聖 書  ローマ人への手紙15章22〜33節
説 教  「いこいの共同体」佐藤伝道師
讃美歌  401番「主イエスのめぐみと」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙15章22〜33節

説教題

「いこいの共同体」

今週の聖句

その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。

ローマ人への手紙15章32節

今週の祈り

神は人をご自身のかたちとして創造された。
(創世記1:27)

神よ、世界の現状を見ると、万民があなたゆえに深いところでつながっていると信じるのは容易ではありません。そう信じられるように、どうか助けてください。

説教「いこいの共同体」

はじめに)日本同盟基督教団「国外宣教デー2022」(6月5日)祈祷課題

  1. 福音宣教のために…宣教師の先生方を通して、キリストの福音が更に宣べ伝えられるように
  2. 現地教会のために…教会を通して更に御国が広まるように。
  3. 安全と健康のために…日々主によって守られ、主の御心を成し遂げることができるように

1)パウロの長年の宣教計画と何度もの試み

  • 霊的な戦い、サタンによる妨害

2)パウロの宣教計画と願い

  • イスパニア(スペイン)を目指す。その途中でローマの教会に立ち寄りたい。その目的と願い⇒ロマ111-12
  • パウロの宣教計画には、霊的な援助と物質的な援助の両方が必要

3)エルサレムの聖徒への奉仕

  • 25節【奉仕・διακονέω】は、物質的に援助するという意味
  • 27節【奉仕・λειτουργέω】は、祭司やレビ人の奉仕のために奉仕するという意味
  • 御霊の実、愛による奉仕であると同時に、義務でもある。【義務・ὀφειλέτης】債務者、返済の義務がある ⇒ 奉仕すべきです(1527
  • パウロの祈りの課題、願い、祝福の祈り
  • 【いこい・συναναπαύομαι】は、リフレッシュ、復活、新しいいのちが吹き込まれること

まとめ)

パウロの祈りの課題、願いは宣教者にとって切実な祈りの課題である。私たちもまた宣教者。宣教者である宣教師、また私たち一人ひとりが互いのために祈り、互いのために【奉仕】していこう。私たちの教会は、宣教者たちの励まし、喜びになっているだろうか。休息を与え、新しいいのちを吹き込み、励まされ、喜んでここから遣わされていく交わりとなっているだろうか。霊的な愛の交わり、助け合いを通して、力強く神の栄光を現してく教会であり続けたい。

 先日、私たちが所属している日本同盟基督教団の国外宣教デーのポストカードが届きました。国外宣教デーは毎年ペンテコステの日に制定されています。今年は6月5日です。皆さんは国外に遣わされておられる宣教師たちの顔と名前をご存知でしょうか。どのような環境で、どのような活動がされているのかなど関心を持っておられるでしょうか。そこには相当なご苦労があることは想像できるのではないかと思います。ポストカードには「お祈りください。ご支援ください。主の祝福が皆さまの内にありますように」と記されています。また具体的な祈祷課題として3つ挙げられています。ご紹介しますと、

  • 福音宣教のために…宣教師の先生方を通して、キリストの福音が更に宣べ伝えられるように
  • 現地教会のために…教会を通して更に御国が広まるように
  • 安全と健康のために…日々主によって守られ、主の御心を成し遂げることができるように

 この祈りの課題を見て、昔も今も宣教においての切実な祈りの課題は変わらないのだと思わされました。パウロは今朝の箇所全体で、パウロの宣教・伝道計画のために、実にこの3つの祈りをローマの教会に要請しているのです。それを通して、今の私たち教会にも宣教・伝道に対する祈りの要請がされているのだと思います。また先週も見たところですが、私たち一人ひとりもまた人々の間に散らされて遣わされている祭司、レビ人、また宣教者、伝道者です。ですからパウロの祈りの課題は、私たち一人ひとりが互いのために祈らなければならないことでもあるのではないでしょうか。

 前回の箇所でパウロは、異邦人伝道と開拓伝道について、そしてその精神(フロンティア〈開拓者〉精神)と成果(エルサレムから始めてローマ帝国東部にくまなくキリストの福音を宣べ伝えたこと)を記しました。今朝の箇所からは、変わらぬフロンティア(開拓者)精神に基づくパウロのこれからの伝道の計画を述べていきます。

 15章22節から、パウロはローマに行きたいとい長年切望してきたのだけれども、その願いは何度も妨げられてきたと言います。別の手紙では「サタンが私たちを妨げたのです」と言っています(Ⅰテサ218)。その次第は使徒の働きに詳しく記されているのですが、私たちもしばしば経験することではないでしょうか。日曜日にどこか遊びに行こうと計画するなら、何の邪魔も入らずにすんなりと出かけられるのに、礼拝に行こうとすると色々な用事などで邪魔が入り、妨害されて、すんなり出かけられないことがあるのではないでしょうか。異教の地に遣わされている宣教師たちはどうでしょう。聖書のみことばを語ることさえも厳しく禁じられていたり、時には思いがけないトラブルや迫害にあったりなど、本当に大変な中での働きのお証しを良く聞かせていただきます。それは人々による妨害や迫害であるかもしれませんが、その背後にはやはり神の国の完成、神の約束の成就をどこまでも妨害しようとする霊的な戦い、サタンによる影響があるのです。しかしパウロは、そのような中でも神の守りと導きによって、ローマ帝国東部にくまなく福音を宣べ伝えることができ、「今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりました」と神が成し遂げてくださった成果、神の勝利を力強く証しします。とても励まされます。そしてさらにパウロの宣教のエネルギー源の一つであるフロンティア精神により、これからは当時の地の果てとされていたイスパニア(今日のスペイン)を目指す計画を述べます。その途中に、是非ともローマの教会に立ち寄りたい。パウロは多年それを希望し、いつも神に祈り求めていました。ローマの教会にあてた手紙の冒頭で何と記されていたでしょうか。「いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています」(ロマ110)。その目的についても記しています。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです」(ロマ111)。パウロはローマの共同体との霊的な交わりを切に求め、御霊の賜物、御霊の実、神から受けた恵みの数々を分かち合って、あなたがたを強くしたい、励ましたい。というよりも、あなたがたとの交わりを通して、互いの信仰を共有したり、証ししあったり、ひとつ信仰により、心を一つにして、声を一つにして祈り合ったりして、そのようにして私自身もあなたがたと一緒に励ましを受けたいのだと言うのです。心満たされてから、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、地の果てイスパニア、キリスト者が誰も足を踏み入れたことのない地、もちろんキリスト者が一人もいない地へ私を送り出してもらいたい。それがパウロが心から期待し、神に熱心に祈り求めていたことでした。

 これらは霊的な事柄でしたが、パウロにはもう一方で実際的な事柄においても期待がありました。ローマの教会が積極的にパウロのイスパニア宣教に携わってくれることを願っているのです。そのためにもまず、ローマの教会を訪問して彼らとの交わりを持ち、彼らに自分の宣教計画をきちんと認めてもらって、人的、物質的な援助を受けてイスパニアに行こうと考えていたのです。

 宣教計画においては、霊的な援助と物質的な援助、その両方が必要なのだということを、ローマの教会の兄弟姉妹に知って欲しかったのでしょう。「しかしその前に、しばしエルサレムに行かなければならない事情があるのです」として、このような話しをするのです。

15章25節 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。

 この【奉仕・διακονέω】という語は、物質的に援助することを意味する語です。

15章26節 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金(きょきん)することにしたからです。

 エルサレムをはじめユダヤ地方のキリスト者たちの多くは、迫害と飢饉のためにその日の生活にも事欠くようになっていました。そのために彼らの窮状がマケドニヤのピリピとテサロニケの教会、アカヤのコリントの教会など、異邦人教会に訴えられ、愛の募金が集められたのでした。

 面白いことに、26節で日本語では「醵金」(お金を出し合うこと)と訳されていますが、原文では「お金」とは言っていないのです。「貧しい人々のために確実に貢献すること」と言っているのです。貧しい聖徒、困っている聖徒たちのために真剣に祈り、そして確実に貢献するにはどうしたら良いのだろうかと祈り求めた結果が「お金」だったということなのではないでしょうか。まさに「愛の募金、愛の献金」だと思わされます。決してお金を渡しておけば良いやなどというものではなかったのです。また、私の恩師の朴先生がいつも言うことなのですが、「空腹の人を前にして『祈っていますよ』と言うのは本当の愛ではない。空腹で倒れそうな人にはアンパンをあげなさい」。ヤコブも言っています。「兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい』と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」(ヤコ215−17)と。異邦人教会は迫害と飢饉の中にある同じ主にある兄弟姉妹を覚えて、自分自身のことのように祈ったのでしょう。そしてどうすれば確実に彼らを助けることができるだろう、励ますことができるだろう、何をすれば喜ばれるだろうかと真剣に祈り求めて、「献金」となったのでしょう。そこには御霊の実による祈りがありました。御霊の実は愛です。真実の愛です。すなわち、「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。肉の思いではありません。

15章27節 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。

 彼らは確かに喜んでそれをした。けれども同時に、ユダヤ人に対してはその義務があるのだとパウロは言います。パウロらしい大胆な物言いです。

 ここにも「奉仕する」という語が出て来ました。しかし25節の「奉仕する」とはまた違う単語を用いるのです。ここでの【彼らに奉仕する・λειτουργῆσαι αὐτοῖς】は、「祭司やレビ人の奉仕のために奉仕する」という意味があるのです。先週も見たところです。祭司やレビ人の奉仕とは何だったでしょうか。それは神と人との和解と交わりのためにとりなしをすることです。具体的には何でしょう。祈ることと、献げ物といけにえを罪のために献げることです。異邦人キリスト者たちは、エルサレムをはじめとするユダヤ地方のキリスト者たちのとりなしの祈りと献げ物によってキリストの福音が届けられ、そして救われたのです。11章のオリーブの木の喩えでは、異邦人はユダヤ人に接ぎ木されて、根の栄養をもらっている。異邦人はユダヤ人の霊的なものにあずかったのです。パウロはその彼らにあなたがたは義務があると言うのです。【義務がある・ὀφειλέτης】とは「あなたがたは債務者だ、借りがあるのだ」と言うこと。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、彼らの救いに与ったのですから、物質的なもので彼らに奉仕する、彼らが困っていたら援助する義務があると言うのです。しかも真実な愛をもって。喜んで。

 何よりも私たちキリスト者は、神に大きな大きな借りがあるという思いがあるのではないでしょうか。神の御子イエス・キリストという贖いの代価によって私たちは罪の奴隷状態から買い戻されました。神の御子イエス・キリストが私たちの罪のために苦しまれ、血を流され、罪のためのいけにえとして屠られ、献げられ、それで私たちの罪は完全に赦されました。父なる神との完全な和解が成立したのです。私たちは恵みにより、信仰により救われたのです。神にはこれほどまでに大きな借りがある。その考えは救われた者の健全な考えではないでしょうか。大きな借り、それは大きな感謝と言って良いでしょう。「神のものは神に返しなさい」とイエス様は言われました。私たちは神への感謝を神に返すのです。その具体的な行いとして何ができるでしょうか。イエス様が言われた通り、兄弟姉妹が仲良く互いに愛し合うこと、助け合うことでしょう。

15章28節 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。

 この実。彼らの霊的な信仰の実、御霊の実、そして実際の実である献金。それらをエルサレムのキリスト者たちに確かに渡してから、あなたがたのところに行って、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたい。霊的な交わりをして、証しをして、祈り合って、ともに信仰を励まし合いたい、建て上げたい。霊的な交わりと同時に、パウロのイスパニア宣教計画を認めてもらい、知ってもらい、霊的な援助、そして人的、物質的な援助を受けて、地の果てイスパニア、キリスト者が誰も足を踏み入れたことのない地、キリスト者が一人もいない地へ私を送り出してもらいたい。そうパウロは願っていたのでした。パウロでさえも、何も臆することなく出て行くことはできなかったのですから、私たちが何も臆することなく世に遣わされて行く時、恐れや不安を抱くのは当然と言えば当然なのです。

 実はパウロは不安だったのでしょうか。パウロのエルサレム行きは危険なことでした。多くの人がパウロのいのちを狙っていました。パウロを殺すまでは、食べたり飲んだりしないと誓った人が40人以上もいたと記録されています(使2321)。

15章29節 あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。

 パウロは、エルサレムでの奉仕が無事に守られて、神の御心が成し遂げられて、キリストの満ちあふれる祝福をもって、キリストの満ちあふれる祝福に満たされて、あなたがたのところに行くことができると、私は信じている。神に依り頼むパウロの姿、弱くて、でも強いパウロの姿を、宣教者の姿を、私たちはここで見るのです。

15章30節 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。
15章31節 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。

 パウロはローマのキリスト者たちに、御霊の愛によって、御霊の実によって、肉の思いを1ミリも混ぜないで、純粋な愛によって私のために、私とともに力を尽くして神に祈って欲しいと心から願うのです。その祈りはパウロの手紙のあちらこちらで見ることができます。「あなたがたが祈りによって協力してくれれば、神が私たちを救い出してくださいます」(Ⅱコリ111)。「私たちが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように祈ってください」(コロ412)。「神が大きな死の危険から私たちを救い出してくださるように」(Ⅱコリ110)。「私たちが、ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです」(Ⅱテサ32)。「私たちを通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになりますように」(Ⅱテモ417)。ほとんどすべての手紙の中で祈ってくださいと言っています。

 パウロは過酷とも言える宣教、伝道のわざが神によって守られ、結果として喜びと賛美をもって共同体の交わりに加わりたい、キリストが愛し、キリストを愛する教会の交わりに戻りたいと、そう願っていたのではないでしょうか。

15章32節 その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。

 あなたがたの中で、あなたがたとの愛の交わりを通して、互いにいこいを得ることができますように。教会での愛の交わりは、互いにいこいを得させるものなのです。【いこい・συναναπαύομαι】と良く分からない語で訳されていますが、これはリフレッシュという意味です。また復活です。新しいいのちが吹き込まれることです。教会での愛の交わり、霊的な交わり、そして実際に物質的なものをもっての助け合いは、互いに休息を与え、そして互いに新しい力を与えるものなのです。そうではないでしょうか。遣わされて行った先で神のわざをなし、その中で様々な苦しみに遭い、迫害に遭い、迷ったり悩んだり、失望したり、欠乏を覚えたり。そのような時、やはり同じ信仰、同じ目的を持った者同士の交わり、その交わりを通して与えられる「いこい」が必要となってくるのではないでしょうか。

 キリストによって神のものとして取り分けられた私たちは、皆が祭司です。レビ人です。パウロと同じフロンティア精神を持つ宣教者です。私たちは一人ひとり、神によってそれぞれの場所に散らされて遣わされています。日本など特に行く所行くところ、そこには一人もキリスト者がいない、未開の地かもしれません。その先々でこの世が求めるものとは違う、神の国と義とを第一に求める時に、神のみことばを宣べ伝える時に、私たちにはそれぞれ困難があり、迫害があり、迷いや悩み、不信仰、様々な弱さや不足を覚えるのではないでしょうか。そのような時、私たちには本当に「いこい」が必要なのです。神はそれを良くご存知であり、教会の交わりを通していこいを与えてくださるのです。

 パウロの祈りは宣教者にとって切実な祈りです。同時に私たち一人ひとりが宣教者として人々の間に遣わされているので、私たちにとっても切実な祈りなのです。私たちの教会は、宣教者たちの励ましになっているでしょうか、喜びとなっているでしょうか。また私たち一人ひとりがお互いにお互いの心を満たし、休息を与え、新しいいのちを与えて、励まされて喜んでそれぞれの証しの生活に出て行くことができる教会、交わりとなっているでしょうか。私たちはここから遣わされて行き、一週間のわざを終え、また再びこの場に帰って来て、霊的な交わり、愛の交わり、助け合いを通して、力強く神の栄光を現していく教会、神の国を目指して前進し続ける教会でありたいと思います。

15章33節 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

 パウロのこの祈りに励まされましょう。平和の神は私たちすべてとともにいてくださいます。神は私たちとともにおられ、聖霊が私たちの内に住まわれます。旧約時代、聖霊は神から特別な使命を与えられた人物の上に降り、そして役割を終えた時、あるいは罪によって離れて行ってしまったこともありました。けれども今、イエス・キリストの完全な罪の赦しによって、またキリストの復活によって、聖霊を私たち一人ひとりに送ってくださり、内に住まわせてくださっています。もう離れることはありません。けれども、満たされているか、満たされていないかはまた別の問題です。私たちはいつも聖霊に満たされていることを切実に祈り求め、御霊の実を結び、御霊の実による真の交わりを通して互いに励まされ、力づけられ、そして力強く神のわざに励んでまいりたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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