2022年8月28日 主日礼拝「地の塩、世の光」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 52番「主のさかえに」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 87A番「めぐみのひかりは」
聖 書 マタイの福音書5章11〜16節
説 教 「地の塩、世の光」佐藤伝道師
讃美歌 331番「主にのみ十字架を」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
マタイの福音書5章11〜16節
説教題
「地の塩、世の光」
今週の聖句
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイの福音書5章3b節、5章16節
今週の祈り
ルツは彼女にすがりついた。
(ルツ記1:14)
父よ、あなたの変わらない愛と配慮に感謝します。神を共に信頼しようと誰かに伝えるために、私を用いてください。
説教「地の塩、世の光」
※説教原稿は、2022年8月28日正午頃に掲載します。
アウトライン
はじめに)
- ツイッターでの大炎上。福音の大炎上?
- マタイ5章1〜10節の振り返り
1) 弟子たちを励ます
- 弟子であるならば直面する迫害
- 天で与えられる「報い(ご利益ではない)」は慰め、励まし
2)弟子のこの世における存在価値と責任「あなたがたこそが地の塩」
- 塩が塩けを失う、塩けを保ちなさい(マコ950)
- 穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい(レビ213)
- 火によって塩けをつける
3)弟子のこの世における存在価値と責任「あなたがたこそが世の光」
- 光とは自ら光を発する発光体、あるいは他から光を受け反射により光を放つ物体のこと。ギリシア語では「フォース(物理的、精神的な力や強さを持つ光)」
- イエス様が私たちの内に住まわれ、私たちを光らせる
- 人の目に明らかであること
- 周囲を照らすために、神の栄光を現すために
まとめ)
- 山上の垂訓は弟子たちの歩みの中で何度も語られたもの
- 私たちもイエス様の弟子としての歩みの中で味わう迫害、苦難、信仰ゆえの生きづらさを覚える中で、神の約束によって何度も励まされ、弟子としての歩みを続け、地の塩、世の光であることの責任を果たして行こう。日々救われて行こう
先日、ある有名人のツイッターでのツイートが大炎上しました。このような内容でした。「自分が忙しいことを嘆き、怒る医療者のツイートを見た。仕事が忙しくてつらいなら、その仕事を辞めればいい。病気になった人を責めるくらいなら、辞めてくれ」。皆さんはこのツイートをどのように受け取られるでしょうか。ネット上ではこのツイートに対して5000件もの反応があったようで、そのほとんどは批判的なものでした。誹謗中傷、脅迫、人格を攻撃する内容、「世の中にとっていらないのはお前だ」などという強烈な書き込みもありました。しかし本人が本当に言いたかったことは、医療従事者とコロナに感染してしまった人たちへの励ましであり「福音(相手を救う、救いたい)」だったのです。医療従事者に対しては、「あなたがそれほど人を憎んでしまうほど本当に辛いのなら、逃げたって良い、逃げ場所はあるのだよ。だから人を憎む人にはならないで。愛を見失わないで。人を病気から救う人になろうと思った最初の高い志をなくさないで」と。感染してしまった人たちに対しては、「感染してしまった人たちを責めないで。どこから感染したかなんて本当は誰にも分からないし、誰でも感染する可能性はある。あなたたちが悪いのではないし、罪を犯したのではないのだから」と。確かに表現方法に問題はあったでしょう。「病気になった人を責めるくらいなら、辞めてくれ」は、なかなか真意が伝わらない言い方です。一度発信してしまうと訂正できない、また聞く(見る)人の言葉の捉え方によってまるで違う意味にとられてしまう。それがSNSの怖い所です。人はある人の言葉に対して、誤解というか、こういう意図であるはずだというような思い込みがあるのです。それで相手の発言を誤解し、間違った捉え方をしてしまい、それが元ですれ違い、争いや分断、怨み妬みが起こることが多くあるのです。イエス様はどうだったかと思わされます。イエス様もすべての人に対する「福音(相手を救う、救いたい)」を語られました。「悔い改めなさい。神の国は近づいたから」と福音を宣べ伝えられたのに、多くの人々は「悔い改めろ? この世でいらないのはお前だ」とばかりに、イエス様を十字架に架けて殺してしまったではありませんか。しかし同じ「悔い改めなさい」を聞いて救われた人もいたのです。今日もイエス様は私たちに語りかけておられます。私たちはイエス様のみことばを勝手な思い込みで誤解し批判的に受け取ってしまわないように、聖霊に依り頼み、神の私たちに対する愛を信じて、イエス様から目を離さずに、イエス様の声色や表情を読み取るようにして、みことばに耳を傾けてまいりたいと思います。
前回からマタイの福音書は5章へと入り、イエス様の“山上の垂訓”の冒頭のところを見ました。振り返りますが、垂訓というのは、教えを垂れることです。イエス様は山に登って座り、口を開いて、教訓、人生において役立つ教え、また何か損失や困ったこと、絶望的なことが起こった時に、それを信仰をもって前向きに捉えることができるようにするための教えを弟子たちに、そして後世の弟子たち、つまり今の私たちにも残してくださいました。その垂訓の冒頭で「ああ、なんと祝福されていることよ、心の貧しい者。天の御国はその人たちのものだから」と始まり、「ああ、なんと祝福されていることよ、義のために迫害されている者。天の御国はその人たちのものだから」で終わる、8つの祝福のみことばが与えられました。この8つの祝福は、主にあって生きる者、主にあって生きようとする者、イエス・キリストの弟子とされた者が必ず経験する迫害、迫害までも行かなくとも、信仰のゆえにこの世にあって生きにくさを覚える、信仰がなければもっと楽に生きられるのに、信仰がなければもっと自分の思うままの幸せが得られるはずなのに、信仰がない人の方が幸せそうに生きているではないかというような、そんな弟子としての歩みの実際、その中で湧き起こってくるであろう思い対して、「ああ、なんと今、あなたは祝福されていることか」と、イエス様に倣い従う弟子たちに対する真実な約束、決して変更されることのない、決して反故にされることのない神さまの約束の確認と、慰め励ましを与えられる主のみことばでした。
弟子として生きる者、弟子として生きようとする者の利点、メリットがあることを主が語られたのですが、これは「ご利益宗教」なのでしょうか。そうではありません。ご利益宗教というのは、人間の貪りによるもの、強引に神から奪い取ろうとするもの、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです(コロ35)」と聖書が言う通り、神さまが最も嫌われ、教会が最も警戒しなければならないもの、罪です。しかしイエス様が山上の垂訓の冒頭で語られた弟子とされた者の利点、メリットというのは、神さまからの「報い」なのです。「報い」というのは、どれだけ私たちが奉仕したかという割合とは関係なしに、神さまが自由に与えてくださる報酬です。そしてこの「神が報いてくださる」という信仰こそ、今の時代とは比べものにならない、想像を絶する激しい迫害、生きるのに本当に難しさを覚えた時代に生きた初代教会、殉教者たちを真に支える力ともなったのです。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブ116)。神さまを信じ、神さまに「報い」を期待することは、神さまが嫌われるどころか、実は喜ばれることなのです。報いを神さまに期待することはいけないことなのではないかという誤解はないでしょうか。そのことでイエス様を信じるのには何の得もないし、損であると、信仰を躊躇してしまってはいないでしょうか。そうではないのです。何にも優る大きな報いがあるのです。報いを信じて心から期待すべきです。しかし私たちが気をつけるべきことは、先ほども申しました通り「ご利益」と「報い」の違いをしっかりと知ることでしょう。
3〜10節まででイエス様は美しい詩の形式によって教えを述べられました。詩篇のように弟子たちが覚えていつも、歩きながらでも口ずさむことができるようにでしょうか。私たちもいつも口ずさみたいものです。11節からは10節までのイエス様による説き明かし、あるいは適用でしょうか。「○○の者は」というところを、それは「あなたがたであるのだが」として、弟子たちにさらに親しく語りかけています。
5章11節 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5章12節 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
イエス様は、弟子たちが弟子であるが故にやがて直面するであろうことを率直に述べられます。神さまに従う生活をする者であるならば、この世において受けなければならないこのような迫害がある、生きづらさがあるのだとあらかじめ教えられます。逆を言うならば、神さまに従う生活をしない人は迫害にあわないのです。生きづらさをまったく感じないのです。しかし神さまは、神さまに従う生活をし迫害にあう者には、報いとして豊かな祝福を与えてくださると、弟子たちを励まされます。
神さまに従う生活をする者たちを、この世の人々はののしります。世の人々は自分が正しく自分の方が幸せだとして、上から目線で「あなたは間違っている、おかしい」と非難してくるのです。それでも私たちから目が離せないのでしょう。私たちに注目して、私たちの後をつけ回して、何か非難するところがないかと常に見張っているのです。私たちも弱い者ですから、時に失敗するでしょう。信仰のゆえにこの世的に窮地に追い込まれてしまうこともあるでしょう。そうするとすぐにそこを突いてくるのです。ほら、そこがおかしいとか、神さまはそんなことを言っているのかとか、普段は神さまの言われること、聖書に何の興味や関心がないのに、神さまが本当は何を望まれ、何を言わんとしているのか知らないのに、ありもしないこと、神さまが本当に言われていないことで、うまい偽りごとを言って私たちをけなし、悪口を言うのです。それは今に始まったことではありません。別段驚くことでもないのです。私たちよりも前に出現した預言者たちを、神の民を、神の子らを、そして誰よりもイエス様を、世(世を支配するサタン)は同じように迫害しました。「お前が神の子なら、この石がパンになるように命じてみろ」「お前が神の子なら、神が守ってくださるのだから、下に身を投げてみろ」「お前は神の子であるゆえに、貧しいのだろう。そんな神を信じることをやめたら良い」「町のお祭りには参加しないで教会なんか行っているけれど、何かご利益があるのか」。自分が辛い状況にあっても、それでも神さまを信じる私たちは辛くて悔しい思いをするのです。負けそうになるのです。そのような時、イエス様は「あなたがたは幸いだ。喜びなさい。喜びおどりなさい」と言うのです。
皆さんは、苦しい状況の中にあって「喜びなさい」と言われる主のおことばに、反発を覚えるでしょうか。私はかつて、本当に苦しい状況の中でラジオから語られた福音「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」というパウロの言葉に、もの凄く反発したのです。苦しさのあまり神さまが分からなくなってしまい、聖書が言わんとするその本当の意味を取り違えてしまったのです。
「喜びおどる」というのは、直訳すると「重ね重ね喜びなさい」となります。イエス様は「喜びなさい」にとどまらずに、「重ね重ね喜びなさい、大喜びしなさい」。また、重ね重ね何度も何度も喜びなさい」と言われるのです。預言者たちが天で受けている報いがどれほど素晴らしいものなのか、正直私たちには実感がないかもしれません。けれども、その素晴らしさを本当にご存知で、その報いを先に天に召された預言者たち、神の民、神の子らに、その手で報いを与えてくださったイエス様が言われるのです。「喜びなさい、喜びおどりなさい」。それほど天で与えられる報いは素晴らしいのだと。私たちはイエス様のおことば、約束を信じています。信じて救われています。ですから、イエス様のこのおことば、約束も信じるのです。信じて救われるのです。信じて今も救われるのです。
13節からは、弟子たちのこの世における存在価値について、当時のこの地方での普段の生活の中でおなじみの、塩と光(油で火を灯すランプと燭台)の二つのたとえを用いて説明されます。
5章13節 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
【あなたがた】原語では“あなたがたこそが”、あるいは “あなたがただけが”地の塩であるとイエス様は言われています。
ところで、塩が塩けをなくすことなどあるのでしょうか。純粋な塩であるならば、塩けを失うことはあり得ません。けれどもイエス様が語られたこの時代、この土地において、塩は決して純粋な塩ではありませんでした。この地には「塩の海(死海)」がありました(今もありますけれども)。その名の通り塩の海(死海)の水は塩分がもの凄く濃いことは皆さんも良くご存知のことと思います。当時の塩というのは、この死海の沿岸を掘ればすぐに手に入るというものでした。シャベルですくった砂や岩がそのまま塩というものでした。そのような塩は、塩化ナトリウムが分解していくに従って、次第に塩けを失って行くという、そのようなものでした。すぐに手に入るものですから、代わりならいくらでもあると言わんばかりに、塩けがなくなってしまえばすぐに捨てられてしまうものでした。それでマルコの福音書では「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい」(マコ950)と言われています。ルカの福音書では「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ1425)とイエス様は言われています。とても厳しいことを言われていると思わされますけれども、私たちはしっかりと開かれた聞く耳をもって聞き、ここもイエス様の励まし、私たちに対する期待のお言葉であることを覚えていなければなりません。
イエス様がたとえて用いられた塩の役割について考えてみましょう。すでに教会学校でも何度も語られており、おなじみのところではあるかもしれません。塩というのは防腐剤です。腐るのを防ぎ、新鮮な状態を保つものです。そして弟子たちの第一の責任は「地の塩」であること。塩は調味料でもありますから、キリスト者は塩としてこの世に混じって生きるのです。そして周りを生かすのです。
興味深いことに、レビ記には「穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい(塩漬けにしなさい)」(レビ213)とあります。穀物のささげ物というのは、その地に定住する人がそこで得た収穫物の初物を神さまにお献げするささげ物です。イエス様は畑をご覧になって言われました。「目を上げて、畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりとなっています」(ヨハ435)。「収穫は多い」(マタ937)。イエス様はこの世の人々が救われて、神さまへのささげ物とされるのをすでにご覧になっているのです。そのささげ物がささげられることを望んでおられるのです。そのやがて献げられる神さまへのささげ物は、塩で聖められた、腐っていない、神さまに受け入れられるものでなければなりません。パウロは勧めています。「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、……神に受け入れられる供え物とするためです」(ロマ1516)。私たち先に救われた者は地の塩として塩けを保ち、世の人々に塩味をつけて神さまに受け入れられる供え物としておく必要があるのです。終わりの日になってすべての人が神さまの前に立たされます。その時に塩で聖められていない人たちはどうなってしまうのでしょう。神さまに受け入れていただけないのです。それは大変なことではないでしょうか。そして「その責任は(地の塩である)あなたがたに問う」と神さまは言われるのです(エゼ337−8)。私たちの責任は重大です。同時に神さまの私たちに対する信頼、期待は大きいのです。
ところで、塩はどのようにその塩けを保つことができるでしょうか。マルコの福音書で「人はみな、火によって塩けをつけられます」(マコ948)とイエス様が言われていいます。火によって、精錬する火、迫害の火、試練の火によって塩けがつけられると言われるのです。不純な塩は、火がなければ塩けを失ってしまうのです。役立たずとして外に捨てられて、人々に踏みつけられてしまうのです。
また「塩けを失う」。当時のラビたちは「愚かになる」という意味で比喩的に用いていました。火という試練がないならば、この世の人々と同化し、次第に愚かな者となってしまう。そうならないために、試練、迫害があるのだと。それらは決して喜ばしいことではないけれども、試練、迫害があるからこそ、あなたがたは愚かにならずに済むのであると、これもまた試練、迫害の中にいる者へのイエス様の慰め、励ましでしょう。決して迫害にあえ、苦しまなければならないのだと勧めているのではないのです。礼拝前賛美の水野源三さんの詩が響いてこないでしょうか。「もしも私が苦しまなかったら、神さまの愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神さまの愛は伝えられなかった」。
次に光についてです。
5章14節 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
ここもあなたがたこそが、あなたがただけが世界の光であるとイエス様は言われます。世界の光であることが弟子たちの第二の責任です。
ここでの光とは、自ら光を発する発光体、あるいは他から光を受け反射により光を放つ物体のことを言っています。また光とは自らを照らすものではなく、他を照らすためにあるものです。ギリシャ語では「フォース」となっています。スターウォーズをご存知の方にはおなじみのフォースですが、それは光であると同時に物理的、精神的な力や強さを持つという真に不思議なものでもあります。
ヨハネは「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハ15)と言いますが、これはまさにイエス様のことを証ししているところです。「わたしは、世の光です」と言われるイエス様のその光を受けて、私たちは光となってこの世界に存在しているのです。ご自身が光であると言われるイエス様が私たちの内に住まわれて、私たちは光り、輝き、他に影響を与える力となって世界に存在しているのです。私たちの内に住まわれるキリストの御霊、聖霊は「愛」です。私たちが放つのは私たちに注がれた神の愛の光でしょう。その愛はどのようにして人々の間で認められるのでしょうか。輝くのでしょうか。それは「互いに愛し合う」ことによってです。敵でさえも愛する愛をもって平和を作り出すことによってです。それが目に見える愛の力、愛の強さ、愛の影響力です。その光を隠してはいけないのです。山の上にある町が隠れることができないように、世界の光である私たちは隠れることができない、隠れクリスチャンであることは不可能なのです。周囲の人たちに自分がイエス様の弟子であること、クリスチャンであることが知られないならば、もはや光ではないということでしょう。
続く15〜16節では、この14節がさらに展開され説き明かされます。
5章15節 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5章16節 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
「枡」というのは、日本でもおなじみの穀物を量る容器なのですが、それを火の付いたランプの上に被せるならば酸素がなくなってランプを消してしまいます。15節でイエス様が言わんとしていることは、「ランプは消すためにつけるのではない、ランプは人々の前で輝かせるためにつけるのである」という、ごく当たり前のことを言っているのです。
燭台の上に置かれたランプは、家にいるすべての人を照らします。影響力を及ぼします。真の神を知らない人々に、真の神を、真の愛を証しする光。イエス様は「曙の光」「異邦人(神を知らない人々)を照らす啓示の光」です。私たちはその光を放つ者とされているのです。どのようにして光を放つのでしょうか。自分が発光しているのでしょうか。私たちはイエス様の光をいっぱいに浴びています。それが反射して光を放っているのです。また、イエス様は私たちの内に聖霊を宿らせ、イエス様がご自身の光を、私たちを通して放っておられるのです。ですからやはり隠れクリスチャンでいることはできません。火を消してしまうことはできません。それをするならば神さまが悲しまれます。神さまの恵みを無駄にしてしまいます。神さまが御子イエス・キリストを十字架にかけてまで私たちを愛された、そして私たちに神さまとの平和を与えてくださった、その愛を裏切ることなどできるでしょうか。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。隠してはならない」と、この命令の目的は何でしょうか。一つは「人々があなたがたの良い行いを見るため」です。人々に良い印象を与えるため、何か優れた、魅力的な善、良い印象を与えるためです。そして「人々が天におられるあなたがたの父、神をあがめるため」です。私たちの放つ光、良い行いを通してでしょうか、仕事や学び、生活を通してでしょうか。いずれにしても私たちの放つ光は、人々の注意を私たち自身に、あるいは行い自体に引くためのものではありません。私たちを通り越して、神さまに栄光が帰せられるためのものです。あなたたちが信じている神は素晴らしいお方だと、そう言わせるためのものです。神の栄光をあらわすこと。ウエストミンスター小教理問答でも「人のおもな目的は、何ですか」という質問に対して、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と告白されています。クリスチャンであるならば、それが第一の目的であり、喜びとなるのだと、教会は昔から告白してきました。その口の告白によって救われるのです。
イエス様は言われます。「ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります」(ルカ1135−36)。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハ812)。「光の子どもとなれるように、光を信じなさい」(ヨハ1236)。弟子であるならば必ず経験し、また経験し続ける迫害の中で発信されるイエス様のお言葉。それは私たちに対する不満ではありません。イエス様の愛がいっぱい詰まっているのです。私たちと私たちの周りの人々を救う福音なのです。私たちは今この時も、弟子であるが故の迫害や苦難の中にあってそこから逃げ出したいと感じているかもしれません。そのような中にある私たちは、イエス様のお言葉が厳しいものに聞こえるかもしれませんが、しかしやはり私たちに対する福音であり、私たちを救う愛のみことばであり、私たちは聖霊によって目と耳、心を開いていただいて、そのように聞きたいと願わされます。
前回も申しましたが、イエス様の山上の垂訓は弟子たちの歩みの中で何度も何度も語られました。イエス様が山に登られ、腰を下ろされ、口を開き語られたものです。私たちは、私たちとともに歩まれ、時に苦難という山に登られ、腰を下ろして語ろうとしてくださるイエス様を追い越して過ぎ去ってしまっていることはないでしょうか。私たちは今日もこれからも、主とともに、主のみことばに励まされながら、弟子としての歩みを続けてまいりましょう。日々救われてまいりましょう。神さまの栄光を人々の前であらわしてまいりましょう。そして天に用意され約束されている、私たちには計り知れないほどの報い、祝福に励まされてまいりたいと思います。マタイは16節のところで、初めて神さまのことを「父」と呼びました。働きに比例した報酬ではなく、父が子にただ恵みによって報いを、本当に良いものを自由に与えたいと願われる父なる神さまが、天において赦しと恵みを施そうと、一日中手を差し伸べられておられる、両腕を力いっぱい広げて待ち続けておられる。その父なる神と神の愛から目を離さずに、期待して喜んで歩ませていただきましょう。