2022年9月18日 主日礼拝「律法によって満ちる神の愛」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 56番「なぬかのたびじ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 84番「かみにたより」
聖 書 マタイの福音書5章17〜20節
説 教 「律法によって満ちる神の愛」佐藤伝道師
讃美歌 483番「主とともならん」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
マタイの福音書5章17〜20節
説教題
「律法によって満ちる神の愛」
今週の聖句
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
マタイの福音書5章17節
今週の祈り
そしてイエスは子どもたちを抱き、……祝福された。
(マルコ10:16)
慈しみ深い神よ、人に対する思いやりを欠いてしまうとき、どうか、私を助けて、あなたのように優しくさせてください。
説教「律法によって満ちる神の愛」
先々週になりますが、私は補教師研修会のために3泊4日で静岡県にある浜名湖バイブルキャンプに行ってまいりました。そこで私の同期(同じ年に補教師となられた)の先生方とお目にかかれたことは本当に恵みでした。思えば私たちが補教師に任命され、それぞれの教会に派遣されたのがおよそ2年半前。その時に派遣前研修があったのですが、皆さんとお目にかかったのはそれ以来でした。派遣前研修はわずか1日の学びで、ゆっくり皆さんとお交わりすることはできませんでした。私が長野聖書教会に伝道師として就任させていただいた初日が、コロナ自粛によって教会に集まることができなくなってしまった初日でした。それから現在のとおりコロナによる活動自粛は続き、毎年行われる補教師研修会はすべて対面ではなく、オンラインでの研修会となってしまいました。同期の先生方とは画面越しでお目にかかってはおりましたが、やはり実際にお目にかかれることは本当に幸いなことだと思わされました。実は、行く前は本当に嫌でたまらなかったのですが、今は本当に感謝です。講義と講義の間の休憩時間や食事の時など、顔と顔を合わせ、膝をつき合わせて色々なお話しをし、お互いに慰められたり、励まされたり。また、この先生はこのような面白い人だったんだといったような、パソコンのモニター越しでは分からなかった人格、“この人”というものに何か初めて直接触れることができた気がして、これから一生同期である先生方との関係がこのように深められたことは、本当に良かったと思っています。この教会でのお昼の交わりも、早く再開できると良いと思います。
やがて将来、私たちはイエス様と顔と顔を合わせて再会する日が来ます。祝宴の食卓につく時が来ます。今も色々な形でイエス様にお目にかかっていますが、ペテロが言っているとおり、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています」(Ⅰペテ18)と。しかしやがて天の御国においてイエス様と顔と顔を合わせ、顔の覆いが取り除かれて、イエス様のお顔だけではなく表情までも拝し、膝をつき合わせるようにしてお目にかかるならば、「あぁ、イエス様はこんなお方だったのか、イエス様は本当はこのようなことを仰っていたのか、あの時イエス様はそのように祈ってくださっていて、そのように慰め励ましてくださっていたのか」など、私たちが知らなかったイエス様、気付かなかったイエス様をはっきりと知ることになるでしょう。ますますイエス様との関係が深められ、感謝、感激、喜び、慰めに満たされるでしょう。今はこの世にあって色々と辛かったり、寂しかったり、イエス様なんで、どうしてと、そのように感じておられるかもしれませんが、イエス様と天の御国で再会を本当に楽しみにしていたいと思います。
さて、今朝の箇所もまた山上の垂訓の続きです。17節からはイエス様の「律法や預言者」、それはつまり“旧約聖書全体”を指す言い方ですが、旧約聖書は全体に渡って神の口から出るみことば、おきて、戒めを守ることによる素晴らしい祝福、それらを破ることによる呪いが記されています。その旧約聖書全体に対して、イエス様が本当はどのような態度をとっておられるのかというところを、イエス様ご自身が教えておられます。
5章17節 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
「廃棄する」とありますが、別の箇所では「無効にする」と訳されています。ここから分かることは、ユダヤ人たちは最初、メシヤ・救い主は律法や預言者、旧約聖書を無効にするために来られるのだと期待していた、そしてイエス様は旧約聖書を無効にするために来られたのだと思っていたということです。
なぜでしょうか。旧約聖書全体が示す神の「祝福」ではなく、「呪い」の方に人々の意識がフォーカスされていたからではないでしょうか。先ほども申しましたが、旧約聖書全体には、十戒を代表とする律法、神の戒め、それを守れば祝福が、しかしそれを破れば呪いがある。そのことが記されています。イスラエルの歴史も、預言者による預言も、詩篇も、すべて律法を守れば祝福、破れば呪い、そのことが記されているのです。そして彼らは「呪い」の方にばかり目と心を奪われてしまっていたのではないでしょうか。旧約聖書は神からの警告だと。分からなくもないと思います。私たちもどちらかというと、特に目の前の苦しい状況の中では呪いとか罰、警告の方にばかり、より心が奪われてしまうのではないでしょうか。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレ2911)という、神の永遠の御心が見失われがちで、また本当だろうか、神は私を怒られているのではないだろうかと疑ってしまうのではないかと思います。
律法違反、神のみことば(命令)に対して罪を犯すこと。最たるものとして偶像礼拝があります。ユダヤ民族にはその偶像礼拝の罪による捕囚、そこからの解放という歴史、民族として消えることのない記憶がありました。それは教訓ともなっていたはずです。そしてその後“中間時代”と呼ばれる長い年月が続きました。実に300〜400年もの間、ユダヤ人はいくつかの民族の支配下に置かれ、一次的に独立したこともありましたが、やがてローマ共和国の勢力が増してエルサレムが陥落。再びユダヤは独立を失いローマの圧政に苦しめられ、重い税金に泣かされたりしました。戦争こそありませんでしたが、何か希望を持っても、すぐにそれは奪われてしまう、そのような捕囚時代と変わらないような苦しい時代。人々は苦しみからの解放を祈ったのではないでしょうか。それなのに神のことばが一切語られなかった。疑いや諦めもあったかもしれません。そのような中で、ユダヤ人の、自分たちを苦難から救うメシヤ(救い主)像、イメージに大きな影響を与えました。自分たちを苦難から解放する英雄としてのメシヤが現れることを強く待ち望むようになったのです。そこにイエス・キリストが現れた。人々はイエス様を「うわさの英雄」「地上のメシヤ」と熱烈に歓迎したのです。
イエス様の弟子たち、そして群衆は、理想的なメシヤ・救い主像を抱いてイエス様に付き従い、また癒しを求め、メシヤが語られる力強く、有り難いおことばを聞こうと、聞き漏らすまいと、イエス様に付き従っていたのでしょう。
そこでイエス様が語り出したのが、今見ている「山上の垂訓」でした。5章3節から美しい詩文によってみことばが述べられ、イエス様ご自身による説き明かしがあり、徐々にイエス様の言われたいことが明らかにされてきて、それはイエス様に従う弟子たちが味わう迫害や試練に耐え抜くようにといったようなことが徐々に表立ってきました。
13節からは「あなたがたは地の塩、世界の光である」と。それゆえに迫害や試練に遭うだろう。それでもなお、地の塩、世界の光として、神が与えられた律法をしっかり守り、地上でその役割をしっかり果たし、神の栄光を現すようにとイエス様は言われました。本来ならば、律法が与えられていること、自分たちが地の塩、世界の光とされていることはなんと恵みであるかと、そう受け取っても良いところを、しかし弟子たちも群衆も、自分たちの敵を倒し、今の苦しみから解放してくださると期待したお方が、まるで自分たちばかりに重荷を負わせておられるような、そちらにばかり意識がフォーカスされ、何とも言えない気持ちになってしまったのではないでしょうか。何で自分ばかりが重荷を負わされて苦しまなければならないのか。これ以上なぜ負わそうとされるのか。そうされるべきなのは私たちの敵だろう、律法と律法違反による裁きが適用されるべきなのは私たちではなく私たちの敵、あの罪人たちなのではないか。そう思ったのかもしれません。正直、私も自分が苦しい時にはそのように思ってしまいます。そういう時は、自分も罪人の一人であることを忘れてしまっているのです。そして私たちは「あなたの罪は赦された」と言われる愛なる主のみことばばかりにフォーカスし、「これからは罪を犯してはいけません」という義であり聖である主のみことばをどこか軽く見てしまってはいないでしょうか。律法も裁きも決して無効になってはいないのです。
律法は私たちに負わされている重荷なのでしょうか、くびきなのでしょうか。
5章17節 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
5章18節 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
イエス様につき従う弟子たち、そして群衆にとって、イエス様が言われたことは衝撃的だったことでしょう。弟子たちも群衆も「わたしはあなた方の救い主。あなたがたの罪を赦し、奴隷状態から解放しよう。そしてわたしはあなたがたにとって重荷、くびきである旧約聖書を廃棄し、もうあなたがたに罪を問うこともしない。もう二度と律法違反によって罪を問い、罰を与えることもしない」と、そう言われることを期待していたでしょうに、「旧約聖書は成就する。律法は少しも廃棄されない。全部が成就する。あなたがたの罪は罪として、その責任を問われるのだ」と、そう言われたのですから。しかしそれは彼らを苦しめるためだったのでしょうか、罪に定めるためだったのでしょうか。どう思われますか。
旧約聖書、律法の成就の結果は「祝福」または「呪い」でした。しかし私たちは「呪い」の方は、「律法は成就する」と語られた方がすべてを負って十字架にかけられ、すでに解決してくださっていること知っているのではないでしょうか。
「律法」「神のことば」「神の口から出ることば」。それは「あなたは○○してはならない、○○しなさい。わたしは○○する」ということでしょう。その律法は旧約聖書には600以上あるそうです。律法が禁じていることを故意に破れば、その者は主を冒涜する者であり、「必ず断ち切られ、咎を負う」と神は言われています(民1530−31)。何が断ち切られるというのでしょう。神との関係が断ち切られるのです。神がおられる天に続く道が断ちきられるのです。その律法の中の一字一句、ほんの小さな事柄でさえも、時代の流れの中で次第に消え去ってしまったり、変更されることはないのです。消え去ったり変更されるどころか、すべてが完全に成就するのです。成就するというのは、コップに水が段々と満たされ溢れるように満たされていくのです。無くなるどころか増やされていく。どんどん高められていくと言っても良いのでしょう。実際にどうでしょう、イエス様はこの後27節から、まさに律法を高めておられるではないですか。
その律法の持つ意味は何でしょうか。それは、神の民、神が選ばれ、神が呼ばれ、神が集められた神の民が聖められるためでした。聖められるとは、神のものとして取り分けられるということです。そうして神によって守られると言って良いでしょう。神が与えられた律法によって「罪」というものがユダヤ人に教えられ、彼らがこの世と同化して、偶像礼拝などの罪を犯し、神の怒りを招き、それゆえに神に断ち切られ、咎を負ってしまうことのないようにするためのもの。神の民に与えられた恵み、特権を守るため。約束の地カナンに入り、その地を永遠に相続させるためのもの。それが律法でした。神の愛、神の御心がギュッと詰まっているのです。ですから律法が廃棄されることがないとは、神の愛が廃棄されることがないということ。そして律法が成就する、満たされていく、高められていくとは、神の愛が成就する、満たされていく、ますます高められていくということです。
その神の愛が、神の愛による救いが実はユダヤ人ばかりでなくすべての人間に注がれているのだという、神さまが成就されたいと願われる御心、高められた御心を明らかにしてくださったのもイエス・キリストです。約束の地もまた、イエス・キリストの出現によって、カナン(ユダヤの地)という地域から、すべての人間がそこに招かれ、受け継ぐ「天の御国、神の国」へと高められていることが明らかにされました。
律法と預言者、旧約聖書全体は、まさにすべての人間と神との関係を回復させ、確立させるもの、その人が神のものとして取り分けられるためのもの、天の御国に至るまで、この地上で永遠のいのちを何としてでも守ろうとするものだということが分かります。その方法を人間に教えるためのものです。イエス・キリストは、律法を成就するため、満たすため、律法を高められるため、神のすべての人間に注がれる愛をさらに満たし成就するために来られたのです。そして私たちはそのことによって救われました。そしてやがて完全に救われるのです。
しかし律法によって守られ、やがて完全に救われるのだとしたら、人間は律法を、しかも高められていく律法を完全に守ることなどできるのでしょうか。それはできないと、聖書ははっきりと言います。ヤコブは言います。「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われる」(ヤコ210)と。600以上ある律法をすべて知っているでしょうか。知らないでしょう。知っていたとしても、すべて守り切ることができるでしょうか。あのパウロでさえも「私は罪を犯したくなくても犯してしまう、なんとみじめな私である」と告白していますが、パウロでさえそうなのですから、律法にほとんど無知である私たち、どれほどみじめで、どれほど罪が染みついてしまっている、多くの点で過ちを犯してしまいやすい私たちが、律法のすべてを守り切ることなどできません。そんな私たちのすべての罪を赦し、神の怒りを宥めてくださり、神との完全な平和な関係を回復してくださり、神の国、神の王国に私たちを迎え入れてくださる。その道を開いてくださったのがイエス・キリストです。イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負い、十字架に架かられ死んでくださった。そしてよみがえってくださった。この十字架の福音、神が恵みによって人間に与えてくださったこの確かな救いの約束を信じるならば、人間は誰であっても救われる。永遠のいのちが与えられる。これが神の人間に対する愛の成就の形です。愛が注がれ、満ちて満ちて満ちて、そしてついに溢れ出た、神の愛の成就です。神が定められた救いのご計画です。神が一方的な愛によって、神が定められたことですから、誰も否定できません。そして聖霊が注がれ、心に文字ではない律法が刻まれ、聖霊は私たちに罪を示し、私たちを聖め、さらに私たちに神の御旨を行わせてくださるお方。その聖霊が私たちの内に住まわれているのです。私たちの力ではない、神の力によって私たちは救われ、やがて完全に救われるのです。
5章19節 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
良く見ると、「どんな小さな戒めの一つでも、これを破る者は天の御国に入れない」とは言っていません。「どんな小さな戒め一つを破ってしまっても、あなたは天の御国に入れるのだ」と言っています。これはやはりイエス・キリストが十字架での身代わりの死、そして復活によって私たちに与えられた、すべての罪の赦し、すべての罪が解決されていることのゆえです。この恵みに感謝せずにはいられません。しかし、旧約聖書で神が言われた通り「故意によって」罪を犯した場合は違います。イエス・キリストの犠牲によって罪赦された者が、聖霊が注がれた者が、これは明らかに罪だと知りながら、わざわざ罪を犯したり、罪を犯すように人をそそのかすような者は神との関係から断ち切られてしまうのです。それがどんな小さな戒め一つであってもです。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に逆らう冒涜は赦されません」(マタ1231)とイエス様が言われた通りです。どのような形であったとしても、故意に聖霊、注がれた神の愛、イエス・キリストへの信仰を自ら捨ててしまうような人は、自らの足で神に背を向けて出て行き、神との関係を自ら裁ち切り、神の国から遠ざかり、迷い出た羊がやがて朽ちて滅んでいってしまうように、その人は知らず知らずのうちに滅んでしまうのです。神はそのなすがままにされる。本当に悲しい、悲しむべき裁きではないでしょうか。
ところで、戒めに大きい小さいというものがあるのでしょうか。イエス様はある人に言いました。「戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え』」(マコ1019)。例えばこの内で、どれが大きい戒めで、どれが小さい戒めなのでしょう。人それぞれ感じ方は違うでしょうが、私などは、殺人、姦淫、盗みは比較的大きな罪。嘘をつくこと、ちょっと自分が得するように工夫すること、両親を敬うことなんかは小さな罪かななどと思ってしまいますが、皆さんはどうでしょうか。
しかし、嘘をつくという小さな罪であっても、それが罪だと知りながらわざわざ人に「嘘をつきなさい」と言う人はいないと思います。特に自分の子どもに対して「お前は嘘つきであれ」などと言う親はいないでしょう。
イエス様は前回、「あなたがたは地の塩、世界の光であれ」と言われました。この世の人々の間で、塩のような存在であるように、闇を照らす光のような存在であるように、と言われました。ですから19節の「教える」というのは、子が親の背中を見て何かを教わるように、神、キリストのものとされた人はその存在、生き様、行いをもって世の人々に何かを伝えるということなのではないでしょうか。実際に【教える】というギリシヤ語には、“伝える”とか、“その中に何かを仕込む”という意味があるのです。
どうでしょうか、私たちは戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に「伝える」者、存在、生き様、行いを通して、その中に仕込まれた何かを感じさせ、知らず知らずのうちに戒めを破るように人を導いてしまうような者たちではないでしょうか。そのような私たちであっても、イエス・キリストのゆえに天の御国へは入れます。しかしそこでは「最も小さい者」と呼ばれてしまう。名づけられてしまうのです。名は体を表す。佐藤隆司と聞いたら、「ああ、あの最も小さい者ね」と認められてしまう。何とも情けないではないですか。しかしそれを守り、また守るように教える者、存在、生き様、行いを通して、神の栄光をそれらの中に仕込み、地の塩、世界の光として、どんな小さな戒めであっても、安息日を聖別するとか(小さな戒めではないですが)、それを守るように他人に何らかの形で“伝える”ことのできる人は、天の御国で「偉大な者」と呼ばれるのです。「○○さん、ああ、あの偉大な方。あの素晴らしい方ね」と、天の御国でアブラハムやモーセやダビデに、そして神に認められる。「良い、忠実なしもべだ」と認められる。なんと誇らしいことでしょう。これは神が天の御国において自由に与えてくださる“報い”です。神が王である天の王国で、神が自由に与えてくださる階級です。この神が天の御国において用意してくださっている報いがあるということは、この世に地の塩、世界の光として生きる私たち、生かされている私たちを慰め、励ますものではないでしょうか。私たちが報いを期待することは決して罪ではないのです。肉の思いによる貪りであったり、強引に奪い取ろうとするのでない限りは。
5章20節 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
律法学者やパリサイ人は、まさに肉の思い、貪りによって、神の義、神の報いを強引に奪い取ろうとする者たちの代表でした。彼らは律法にとても熱心でした。律法以上に律法を守り行っていました。しかしそこに神への愛、隣人への愛はありませんでした。自己愛だけがあったのです。彼らにとって律法と預言者、旧約聖書全体に記されていること、律法も、戒めも、礼拝も、神の裁きも祝福も、他人を裁く物差しであり、自己実現のための道具であり、そして冷たい形式的なもの、そのような態度であったのです。神が本当に求めておられる義、神が良しとされることを求めずに、自らの義、自らが良しとすることを求めたのです。彼らは権力によって、自分たちにとって都合の悪い条項を変更してしまったそうです。自分たちが律法を守れそうにないからと言って、律法の方を廃棄したのです。それによって自分たちに課せられた重いくびきを外したのです。自分たちは身軽になって、都合良く楽々戒めを守れるようにし、神からの報いを手に入れようとしたのです。
しかしイエス様の旧約聖書全体に記されていること、律法、戒め、礼拝、神の裁き、祝福に対する態度はそれとはまったく逆です。律法を愛され熱心でしたが、そこには神への愛、隣人への愛が満ちていました。自己愛はありませんでした。他人を裁く物差し、自己実現のための道具にはなさいませんでした。暖かないのちがありました。自らの義ではなく、神の義をどこまでも求め、律法を一つも廃棄することなく、実に十字架の死にまで従われた。そのような態度であったのです。
イエス様は言われます。「あなたに言いますが、あなたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」。
イエス・キリストを信じ、このお方に従おうと心に決めた私たち。天の御国を目指して歩んでいる私たち。聖霊が注がれ、聖霊を通して神の愛が注がれ、その愛は日ごとに満たされている、そのような祝福された私たちは、素直にイエス様の言われることに耳を傾けるのではないでしょうか。神の愛が満ちている律法を知らない、いらない、とは言えないでしょう。ますます律法と預言者、旧約聖書全体に記されている神の愛、私たちを聖める、ますます神のものとして取り分ける、そのための戒めを慕い求めるのではないでしょうか。
今日の箇所から分かる、イエス様の旧約聖書に対する態度はどのようなものだったでしょう。旧約聖書、そして今、私たちには新約聖書も与えられていますが、その旧・新約聖書66巻は、すべて神の霊感、神の愛によって記された誤りのない神のことば。聖書には神の私たちに救いのご計画の全体が記されている。そして聖書は私たちに救いと救いの完成の道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範(私たちが唯一本当に拠るべき、聞き従うべき規則・規準)であると、イエス様はそのような態度を取られているのではないでしょうか。そして、神の愛、神の救いの計画、神の救いの完成は日ごとに満ち満ちて行くのです。
私たちもイエス様に付き従う真の弟子となり、イエス様と同じ態度をもって聖書に向き合ってまいりましょう。聖書を大切にし、戒めに向き合ってまいりたいと思います。戒めによって神の愛は成就する。満たされていく。高められていく。そして完成に至るのです。聖書全体に記されている祝福に目を留め、神のみことばを日ごとに味わい、愛に満たされ、高められ、神の救いの完成、天の御国に向かって歩んでまいりましょう。やがて私たちは天の御国で両腕を一杯に広げて待っておられるイエス様と、顔と顔を合わせて再会し、イエス様の満面の笑みとともに「あなたは偉大なもの」、そう呼んでいただける、そのような祝福を望みつつ歩んでまいりましょう。