2022年9月25日 主日礼拝「まず仲直りしなさい」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  58番「かみよみまえに」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  501番「いのちのみことば」
聖 書  マタイの福音書5章21〜26節
説 教  「まず仲直りしなさい」佐藤伝道師
讃美歌  171番「なおしばしの」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書5章21〜26節

説教題

「まず仲直りしなさい」

今週の聖句

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

詩篇37篇8節

今週の祈り

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
(マルコ8:36)

イエスよ、あなたと歩みたいです。あなたと絆を深める道がどれなのかに気づき、それを選べるように助けてください。

説教「まず仲直りしなさい」

少し前に、土手の道路で轢かれてしまっていた鳩のお話しをしたのを覚えておられるでしょうか。恐らく鳩は、スピードを上げて近づいてくる車に対して「自分は愛されている、自分は大丈夫」と思って油断していたのか、逃げることもせずに轢かれてしまったのではないか、というようなお話しでした。そのかわいそうな鳩に関して、先日ホームセンターの駐車場でこのような看板を見かけました。「鳩に餌を与えないでください」。そこだけ見ると、まあ何とも無慈悲な、鳩がかわいそうと思いますけれども、その続きがありました。「鳩に餌をあげないでください。人になれた鳩が逃げずに、車に轢かれてしまう事故が発生しています。鳩のために餌を与えないでください」。最後まで読むと無慈悲だと思っていた注意が、まことに慈悲深いものに見えてきます。鳩のためなのです。鳩にとっては餌をくれない無慈悲な戒め、意地悪な人間と思うかもしれませんが、その戒めの本質は、鳩が車に轢かれて死んでしまわないことを願うものなのです。一見、意地悪で厳しい戒めは、真に相手のいのちを救うものである場合もある。何でも「いいよ、いいよ」というものは、実は相手のいのちを滅ぼしてしまうものとなることもあるのです。相手を愛し本当に大切に思うからこその戒めは、まことに慈悲深く、愛に満ちているものです。まさに神が人間に与えられた律法ではないでしょうか。人間が滅んで永遠に死んでしまうことのないように与えられた律法なのではないでしょうか。前回私たちは、神の律法は神の愛の現れであることを見ました。その愛は終わりの日に向かってますます満ちて行く、高められていくのです。今日から続く箇所からは、まさにイエス様によって律法、私たちに対する愛がますます高められていくことが分かるところです。

ところで、“死”とは何でしょうか。改めて考えてみたいと思います。死とは、その人の存在が無になることでしょうか。まったくそうではありません。死後にも続くいのちがあることを聖書は証ししていますし、世界の宗教のほとんどすべてが死後のいのちに大きな関心を寄せていることからも分かります。人は皆、そのことに気付いているのです。

死とは人のいのちが、いのちを与えてくださる方、神から離れることを意味するものです。それは罪によるものであると、いのちの源である神が聖書の中で言われます。その死には“3つで1組”の死があります。①肉体の死(病気や寿命によってこの命が絶えるとき、魂が体から離れるという死)も、②霊的な死(この体が生きている間、霊が神から離れているという霊的な死)も、③永遠の死(この命の終わった後、人が神から永遠に離れるという死)も、すべてその人の罪がもたらす結果なのだと聖書は言うのです。

先週も見たところですが、旧約聖書全体には、神の律法を守れば素晴らしい祝福があること、そして神の律法を破れば呪い(罰)が下されるということが記されています。神の素晴らしい祝福とは永遠のいのちです。様々な苦難から解放されて、永遠に神の支えと配慮の中で、神とともに神との平和な関係を持ち続けて安住の地で生きること。神の呪い、罰とはそれと正反対のもので、永遠の死、神との関係が断たれて、安住の地に住むことが許されずに、苦難とともにさまよい歩き、生きること。その状態を見事に表現した言葉は「悲惨」です。

神との関係を持ち続けて生きることの幸い、祝福がどのようなものであるかは旧約聖書を読めば分かります。その逆も然り。神の呪い、罰がどれほど悲惨なものであるかも、神は聖書にしっかり記して私たちに教えてくださっています。

神が呪われるとか、神が罰がくだされるなんて、何と恐ろしい、何と無慈悲なと思ってしまいますが、実際はそうではないのです。神の祝福の素晴らしさを際立たせるための対比です。そして神は私たち一人ひとりに素晴らしい祝福を示され、そして問われるのです。律法を私たちの心に記し、今も問い続けておられるのです。「わたしは、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生きるために」と。それはもう「是非に」という、愛の迫りをもって問うてくださっているものです。

イエス様は言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタ517)。

イエス・キリストは、神の律法、愛、祝福を成就するために来られました。神の愛が溢れ、御子イエス・キリストをこの世に送られ、神のことば(律法)は人となって私たちの間に住まわれ、人となられた神イエス・キリストは神の国の福音を宣べ伝えられ、みことばを教えられました。そして神の御旨の通りに、イエス・キリストは神に背く、その私たちの罪をすべて背負い、私たちに対する呪い、罰、死を背負い、十字架にかかられ死んでくださいました。そしてよみがえってくださいました。律法、愛が成就したのです。このイエス・キリストを信じる者には誰であっても、すべての罪の赦しが宣言され、神との関係を断絶するすべての罪が赦され、解決済みとなり、永遠のいのち、この先永遠に続く神との平和な関係が与えられたのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハ316−17)。

その神の愛を成就された方、イエス・キリストが、今も続けて私たちに言われるのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」。「天地が滅びうせるまで、律法の中の一点一画でも決して廃れることはありません。全部が成就されます。全部が満たされていきます。全部が高められていきます」と。そうです。イエス様の視線は「天地が滅びうせる日」に向いているのです。天地が滅びうせる日、終わりの日、イエス様が再びこの世に来られる再臨の日、その時生きている者も、死んだ者もよみがえらされ、すべての人が神のさばきの御座の前に立つその日まで、律法、そして神の愛はますます成就されていく、満たされていく、高められて行くのです。

主はイエス・キリストを信じ受け入れる人に、「あなたの罪は赦されたのだから、これからは何をしても良い」とは言われないのです。主は罪赦された者に「あなたの将来はわたしが約束している。聖霊による証印が押されているのだから」と言われたでしょうか。はい、言われました。約束してくださっているのです。「だからと言って、自分は大丈夫だなどと思ってはならない」とも言われるのです。それは無慈悲ゆえにではなく、深い愛、慈悲ゆえにです。なぜなら、自分は大丈夫だと考えているならば、人は愚かなもので、すぐに神を甘く見て、恵みの上にあぐらをかいて、神に背を向けて、自分勝手な道に進んで行ってしまう者だからです。神はそれを必ずさばかれます。神のさばきはどのようなさばきだったでしょうか。「そのなすがままにされる」ことです。しかし神は断腸の思いで罪人がご自分に背を向けて出て行ってしまう姿をご覧になっています。そして一日中手を差し伸べられるのです。赦しと恵みを施そうと両腕を力いっぱい広げて待っておられるのです。人が悔い改めて、方向をご自分の方に変えて、ご自分のもとに帰って来ることを待っておられるのです。この地上で生きている間に、私たちは何度も何度も神に背を向けて出て行ってしまう者でしょう。しかし、この地上で生きている間に、何度でも悔い改めて神のもとに駆け寄ることができるならば幸いです。神に背を向けたまま地上での人生を終わらせてしまうならば、それは本当に悲しむべきことであり、後悔先に立たずであり、神の悲しみはいかほどでしょうか。人が自分は大丈夫だと思うことがないように、神ご自身が後悔なさることのないように、神は律法を成就されます。満たされます。高められます。厳しいことを言われるのです。

マタイの福音書5章21節からは、単なる倫理のまとめや説明ではありません。17〜20節ではっきりと述べられたイエス様の原則が、実際に私たちのこの地上での人生、実際の現場において、どのように実行されるべきかを示す、いくつかの実例です。その実例を通して、いかに私たちは絶対に大丈夫ではない者であるかを教えるのです。それは私たちを罪に定め死に追いやるものではなく、私たちが死ぬことのないためにです。

一つ目の実例として、「和解」を取り上げます。とっても身近な実例です。しかし真の和解、真の仲直りのなんと難しいことかと思わされます。

5章21節    昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

「あなたがたは聞いている」とイエス様が言われた通り、これは十戒に基づくものではありましたが、“伝承”言い伝えられてきたことでした。律法学者やパリサイ人の解釈によれば、文字通り人を殺した場合にのみ適用される規定でした。つまり、人を殺しさえしなければこの規定は適用されないという解釈でした。しかしイエス様は「殺してはならない」という、その十戒の一つに込められた神の本当の御旨、意味を説明されます。

5章22節    しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

ここでは「兄弟に向かって」と言われていますが、それはこの時、同じ宗教共同体のメンバーに向かって語られているところだからであり、恐らく「兄弟」の間に限定されているものではないはずです。律法には「自分の隣人を愛しなさい」と書いてありますが、選民意識の強いユダヤ人(もしかしたらクリスチャン)は、いつの間にか、隣人を愛するということをユダヤ人同士の問題に限定してしまいました。もともと「自分の隣人」とは、自分以外のすべての人を含むものです。その中には、味方だけでなく敵も含まれているというのがイエス様の理解でした。

そのような隣人、誰かに対して腹を立てる、怒りを感じたり、苛立ったり、何か気に入らなくてむしゃくしゃしてしまうことなど、恐らく日常茶飯事でしょう。そんなこと全くないなどと言う方はおられないと思います。しかしイエス様は腹を立てることも本質的には殺人と変わらないと厳しいことを言われるのです。自分に適用するならば、これは実に恐ろしく、驚くべきことではないでしょうか。イエス様、それは少し飛躍しすぎではと考えてしまいますが、イエス様はまさに律法を飛躍させるため、高められるために来られたのです。

神、イエス様は人間の心の奥底まで読んでおられます。その行き着く先、結果をもよくご存知です。殺人はそう簡単に起こるものではありません。そこに至る原因が必ずあるのです。初めは誰かに対する小さな不満とか怒り。人はその怒りをなかなか手放せない、赦せないものなのでしょう。怒りをずっと握りしめて熟成させて、それが言葉となって現れ、やがて実際の行動へとエスカレートして行く。例えば、最近多く見かける「あおり運転」などどうでしょう。割り込みやちょっとした不注意に腹を立てて、危険な運転で相手の車に詰め寄り、「バカヤロー」と怒鳴り、最終的には相手を死に追いやってしまった事件。介護施設での悲しい事件もそうでしょう。最初はイライラだったのではないでしょうか。私の補教師の同期のある先生は、献身される前に少年保護施設で働いておられたそうですが、そこには問題の多い子どもたちが集まるところで、老人介護施設で事件を起こしてしまった人の気持ちが「どうしても分かってしまうのです」と仰っていました。世界を巻き込む戦争であっても、初めは何か腹を立てたことが原因なのです。それが人の命を奪い合う恐ろしい戦争にまで発展してしまう。核を持ち出そうものならば、徹底的に相手を滅ぼそうとしてしまう。結果、相手ばかりか自分たちまでも滅んでしまう。それが人間というものなのかもしれません。

まず誰かに対して腹を立てる。それは心の出来事です。イエス様は心の中で誰かに腹を立てるなら、さばきを受けなければならないと言われます。このさばきとは、一つの町や村に設けられていた長老7人による地方裁判所でさばかれるという意味で、腹を立てることがそれだけ重い罪であることを示しています。そして人は心にある思いがつい言葉や態度になって表れてしまうものです。

「能なし」。これは「ラカ」というアラム語が訳されたもので、この「ラカ」というのは、ユダヤ人の間で誰かを軽蔑したり、侮辱するために日常的に使われていた言葉です。日本語では何でしょう。日常的な侮辱という形で表される怒り、それさえも、エルサレムにある最高裁判所でさばかれるのだとイエス様は言われます。さらに進んで「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれる。ゲヘナとはユダヤ人の間では「地獄」、永遠の死という神のさばきを意味する語でした。イエス様はその「ゲヘナ」を用いて、「ばか者」と言うような者は、天地が滅び去る日、終わりの日に神の大法廷においてさばかれる。神の永遠のさばき、永遠の死のさばき、永遠に神との関係が断絶されるということが言い渡されるのであると、本当に厳しい注意喚起をされるのです。神の注意喚起の看板がそこかしこに立っていれば良いと思います。「腹を立てないでください。人を軽蔑しないでください。ばか者と言わないでください。神の恵みにいつの間にか慣れてしまったあなたが、近づいている終わりの日に気付かずに、永遠のいのちを失ってしまう事故が発生しています。あなたのためにそのようにしないでください」。

私たちは本当に気をつけなければ、相手に対する怒りの思いが悪化し、激しくなるに従って、それに対するさばきも重くなるという事実に目を留めたいと思います。律法学者やパリサイ人のように、自分は人を殺したことがないから大丈夫だと自認していてはならないのです。イエス様の目の前、神の目の前には自己義認は通らないのです。

5章23節    だから(終わりの日に消えない火、ゲヘナに投げ込まれないために、と言うことでしょう)、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
5章24節    供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

供え物とは何でしょうか。罪を犯して神との関係を自ら断ってしまった者が、それをささげることによって神との関係を正常に回復するものです。神に罪を赦していただくことです。もし神が、たとえイエス・キリストを信じ受け入れた者であったとしても、いや、信じ受け入れ、神に赦された者であればなおさら、隣人に対する怒りとか、また怒りの表現、さらには誰にも知られない自らの心の内に覚える怒りさえも罰せられるのであるならば、それらを解決しないままで神を礼拝することはできません。私たちはいつもイエス様が教えてくださった祈りを祈っているではありませんか。「私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」(マタ612)。神の赦しを求める者は、自らも赦す態度を持たなければならないとイエス様は教えてくださっているのです。神と人との間に和解が成立する前に、人と人との不和が解消されなければならないのです。律法学者やパリサイ人のように、祭壇に立派な供え物をして、表面だけ敬虔そうに装って神を礼拝しながら、内心では兄弟、隣人、貧しい人を軽蔑し憎んでいるなら、その礼拝は決して神に喜ばれるものではないのです。私たちは神に喜んで受け入れてもらいたいのではないでしょうか。喜んで迎えてくださる神の懐に思いっ切り飛び込みたいのではないでしょうか。礼拝の前には、私たちの礼拝が神に喜ばれ、受け入れていただける礼拝となるようにと祈るのです。そして皆で声を合わせて「アーメン」と言うのではないでしょうか。

25節から、イエス様は早急に問題を解決すべきことを勧めておられます。

5章25節    あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
5章26節    まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

22節では、隣人に対する怒りには神のさばきがくだされるということが強調して語られました。そしてここでは、隣人の自分に対する不平不満を無視すると取り返しの付かない結果を招くことになると警告しています。

ここはイエス様によるたとえ話です。訴えた人と、訴えられた人が一緒に裁判所に行く所が描かれているのですが、裁判は両者が決められた時間に同じ場所に出頭しなければなりません。昔の小さな町や村では、その両者が裁判所へ向かう道の途中でばったり出会うことも珍しくありませんでした。その裁判所へ向かう途中で、何としても相手と和解しておかなければ、大変なことになるのだとイエス様は言われます。何にたとえて言われたのかは明らかです。最後の審判になぞらえているのです。「いっしょに途中にある間」とは、最後の審判の座に向かうまでの間、この地上での歩みの間ということ。「その間に早く仲良くなりなさい」と言われるのです。

24節で「仲直りしなさい」と言われたこの語の意味は、「和解しなさい、敵意を友情、深い思いやりに交換しなさい」というものです。そして25節の「仲良くなりなさい」という語も、「和解しなさい、親切にしなさい、親切に傾きなさい」という意味です。そうでないと、取り返しの付かない結果を招くことになるのだと。あなたに不平不満を持つ者、それは誰でしょうか。あなたに虐げられている隣人でしょうか、虐げられている隣人を憐れまれる神でしょうか。あなたに不平不満を持つ者は裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢、刑務所、永遠の牢獄に放り込まれることになるのだと。そこに神はおられないのです。両手を力いっぱい広げて待っておられる神はおられないのです。

「最後の1コドラント」、コドラントとはローマの1円玉です。一番小さな単位のお金です。それが意味しているのは、もし悔い改めて和解することによって先手を打たなければ、神のさばきは中途半端ではすまないという、徹底的にさばかれるという、その意味です。

それにしても、主はこのような厳しい戒めを、迫害の中で語られたのです。自分たちを抑圧する敵が多くいるそのところで語られたのです。「腹を立てるな」と。「さばくよ」と。そして群衆はイエス様のお言葉を聞いてパニックを起こしたと後に記されています。「そんなこと無理だ」、とか「あなたは私たちの味方、救い主なのではなかったのか」といった声が聞こえてきそうです。私たちはどうでしょうか。

しかしそれは、主の深い御旨を理解していなかったと言わざるを得ないのです。「腹を立てるな、さばくよ」とはいわれていないのではないですか。「腹を立てるな、さばかれないために」です。「わたしはさばきます」、「あなたがさばかれないために」。その違いは実に大きいのです。イエス様はとことんご自分を愛することなく、人を愛されるのです。「あなたはさばかれてはならない。わたしが贖ったそのいのちを、さばかれて失ってほしくはない」。そして、「わたしが贖ったあの人のいのちを、あなたはさばかれないようにするであろう?」。その問いかけです。ですから、「腹を立てるな」という戒めに込められた主の御旨は、「積極的に隣人を愛しなさい。互いに愛し合いなさい」なのです。主の戒めは、人を汲々とする戒め、死へと向かわせるものではなく、人をのびのびとさせる、人をいのちへと向かわせる暖かな、熱いほどの戒めなのです。

それにしても、私たちにとっては厳しい戒めでしょう。守り切れる私たちではないでしょう。主はそのようなことは百も承知です。律法学者やパリサイ人たちのように、自分は守りきっているという自認を主はお許しにならないのです。自認、自惚れ、油断、そんなことであなたに与えられている永遠のいのちを無駄にしてはならないと、あえて厳しいことを言われるのです。そして主は、そのことにおいてもご自分に依り頼むことを望んでおられるのです。信仰を求められるのです。

パウロは言いました。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」(ロマ1218)。相手がどうのこうのではないのです。旧約聖書の箴言で神はこのように言われています。「あなたに悪い仕打ちをしていないのなら、理由もなく人と争うな」箴330)。なかなか赦せないあの人。本当にその人は私に悪い仕打ちをしたのでしょうか。落ち着いて振り返ってみたいと思います。もしそうであっても、あなたは平和を保つようにと主は言われます。厳しいです。しかし、平和を作り出す人は神の子と呼ばれるのだと主は言われました。永遠のいのちと、神の国を相続する(受け継ぐ)のだと約束されました。また箴言でも神は約束されています。「主は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」(箴167)。私たちが誰かに対する怒りや不平不満を手放すならば、主が真の和解を成し遂げてくださいます。私たちが主の御旨に従って無条件に隣人を愛するならば、主が私たちの敵をも私たちと和らがせてくださると約束しておられます。厳しい戒めをお与えになるだけでなく、その責任をも主は負って下さるのです。そのことにおいてもご自分に依り頼むことを望んでおられるのです。信仰を求められるのです。悔しい思いをするかもしれない、そんなことできないと思うだろう、これ以上どうすれば良いのかと思うかもしれない。しかしわたしを信じ、結果をわたしに任せて、あなたはわたしの喜ぶ行いをしなさい、してみなさいと。あなたのために、わたしのために、隣人のために。

仲良くなれる時間、親切にできる時間、和解できる時間は短いのかもしれません。悔い改める時間は短いのかもしれない。その残された短い時間の中で、地上での歩みの中で、私たちはただ主を信頼し、主の御旨を行ってまいりたいと思います。私たちはすでにイエス・キリストの十字架によって罪が洗い流されました。罪赦された者たちです。永遠のいのちの道をすでに歩んでいます。地上での歩みには限りがあります。限りあるその道を、イエス・キリストの恵みに依り頼み、神の愛に励まされ、聖霊に導かれ、促され、高められた律法、高められた愛によって日々聖められながら、神の深い愛と慈しみ、恵みに応え、神の御旨にかなった聖い歩み、それは私たちに与えられている永遠のいのちを失わない歩み、そして隣人のいのちを失わせない歩みを続けてまいりましょう。

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