2022年10月30日 主日礼拝「聖霊に満たされて」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 539番「あめつちこぞりて」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 6番「われら主を」
プレイズ 「マジェスティ」
証しと賛美 森 祐理姉(福音歌手)
聖 書 詩篇103篇1〜5節
説 教 「聖霊に満たされて」佐藤伝道師
プレイズ 「主は良いお方」
子ども賛美 「祈ってごらんよ、わかるから」
聖 歌 229番「驚くばかりの」
プレイズ 「インマヌエル」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
詩篇103篇1〜5節
説教題
「聖霊に満たされて」
今週の聖句
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな
詩篇103篇1〜5節
今週の祈り
「主こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
(哀歌3:24)
天の父よ、あなたの時を待つのが難しい時があります。どうか、あなたに希望を託し続ける力を与えてください。
説教「聖霊に満たされて」
詩篇103篇1〜5節
「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩1032)
2022年度の教会聖句として覚えてまいりましたこの聖句ですが、早いもので今年度も11月、12月を残すばかりとなってしまいました。皆さんはこの聖句を覚えて、どのような日々を過ごされてきたでしょうか。
詩篇103篇は、150ある詩篇のうちで最も麗しい(麗しいというのは、気高くて、人に感銘を与え、心をあたたかくする)詩篇だと言われています。皆さんも麗しいと思われますか?
その麗しいと言われる理由は、13節に「父がその子をあわれむように」とあるように、神のいつくしみを父の愛として称えている、そのことによるのです。
タイトルには「ダビデによる」とありますが、実はこの詩篇が歌われたのは、あのバビロン捕囚から帰還してすぐの時でした。
出エジプトにおいて、神はエジプトでの辛くて苦しい奴隷状態の中で泣き叫ぶイスラエルの民の叫びをお聞きになり、深くあわれまれ、その奴隷をご自分のものとして買い戻すようにして、そこから民を救い出されました。そして神は荒野で十戒をもってイスラエルの民と契約を結んでくださいました。先週も見たところですが、「結婚」という、神とイスラエルの民との強くて深い関係を結んでくださった。それなのに、イスラエルの民は、それから長い歴史の中で、何度も主なる神の愛と信頼を裏切り、再び神以外の神々を慕い求め、偶像礼拝の罪をこれでもかというほどに繰り返しました。ついに神は「そんなに偶像が好きなら、偶像の本拠地に帰るが良い」と、かつてバベルの塔が建てられた所、繁栄の大都市バビロンへとイスラエルの民を歩いて行かせてしまった。偶像を慕い求めて歩いて行くイスラエルの民を、そのなすがままに任された。これが神の下された罰でした。人は何か悪いことが起こると「天罰だ!」などと言いますが、この世の悲惨は決して神が直接手を下されたものではないのです。戦争も、自然災害も、また個人的な困難も、神が直接手をくだされたものでしょうか。そうではないでしょう。人間が欲望を貪り追求した結果、自らが招いてしまった悲惨です。
エルサレムの神殿からは神の栄光が離れ去り、それはつまり、神はもうそこにおられないということ。神との関係がまったく断たれてしまったかのように見えていたのですが、神は再びイスラエルの民をバビロン捕囚から聖なる都エルサレムへと連れ戻してくださいました。なぜでしょうか。神はご自身がイスラエルの民と結ばれた愛と信頼に満ちた契約をお忘れではなかったから。お忘れになることなど、かつての契約を破棄することなどできなかったから。「子をあわれむ父の愛」をもって、それでも神はあわれみ深く、情け深くあられ、その御顔を向け、御顔を背けずに、何度も転んで怪我をして痛がっている我が子イスラエルにじっと目を注がれておられたのです。怒るのに遅く、断腸の思いでじっと待っておられたのです。
ついに捕囚の地で絶望し、頼れるものもすべて失い、本当に自分が悪かったと、心から後悔し、そして悔い改める姿。偶像から向きを変えて、真の父、神のもとに帰りたいと、心からそう願い、やっと真の神、主を頼って手を伸ばしたその手を主はすかさず掴まれ、「待っていたよ」とばかりに「子をあわれむ父の愛」をもって、本当に喜んで受け入れ、救ってくださいました。そして不思議な方法で元の場所へと戻されたのです。そこでこの詩篇が歌われました。
しかし、捕囚の悲惨から救い出され、故郷に帰還した彼らの目の前には、修復されたとはいえ、以前の繁栄とはまるで程遠い、荒れ廃れた都の姿がありました。彼らの目に映る現実によるならば、何一つほめたたえられるものなどなかったかもしれません。しかし彼らはほめたたえたのです。
「ほめたたえる」。実はこれは、ヘブル語では「ひざまずく」という語です。「ほめたたえる」と聞くと、称賛するとか、いかに素晴らしいかを言葉を尽くしてほめる、賛美するというようなことを思い浮かべますが、「ひざまずく」なのです。そして彼らはひざまずきました。現実を目の前にして、がっかりして膝から崩れ落ちたのでしょうか。そうではありませんでした。この現実を目の前にして、やはり彼らは主なる神、主のすばらしさを、言葉を尽くしてほめたたえたのです。では、人をひざまずかせるほどの主の素晴らしさとは何だったのでしょうか。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」。
たましい、霊。それは人間の感情の座。人間が飢え渇きを覚えるところ。「私のうちにあるすべてのものよ」。それは「外なる人」に対する「内なる人」でしょうか。捕囚の悲惨から解放され、故郷に帰還した民は、全身全霊でこの主の素晴らしさの前にひざまずき、ひれ伏し、礼拝し、そして賛美したのです。
その理由は何でしょうか。先ほども見ました。主を捨てた私たちを、それでも主は「父がその子をあわれむように」私たちを愛し、お見捨てにならなかった。私たちが気付いていなくとも、主はいつでも、どこでも、どんな時でも自らの罪でもがき苦しむ私たちに御顔を向け、断腸の思いで私たちをご覧になり、ご自身に助けを求めて来ることを今か今かと待っておられた。「見よ。主の手が短くて救えないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神とのしきりとなっていたのだ」(イザ591−2)。イザヤの声が聞こえます。
今日、主は私たちのいのちを穴から、墓の穴から、危険から、死から救い出してくださった。思い返せばあの時も、あの時だって、実は守られていたのではないか。怒りや罰ではない、恵みとあわれみを注いでくださっていた。そのようにして、私たちはこれまで「父がその子をあわれむように」して、父なる神、主に守られて来たのではないか。そのような主であるから、これからも私たちの一生を、私たちの一日一日を、天の御国に至るまでの地上の歩みを、良いもので満たしてくださるお方であると、そのように全身全霊で主の素晴らしさの前にひざまずき、ひれ伏し、罪を告白し、悔い改め、礼拝し、そして聖霊、御霊に満たされて主なる神をほめたたえたのです。
聖霊、御霊とは神の霊であり、霊とは感情の座、お心、それは私たちに対する愛であり、父なる神が子に注がれる親心です。そのあたたかな愛、親心にいっぱいに満たされて、目が開かれ、主なる神をほめたたえ、ひざまずき、賛美したのです。
詩篇103篇の6節から14節をご一緒に味わいつつ声を出して読みましょう。
103篇6節 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。
103篇7節 主は、ご自分の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
103篇8節 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
103篇9節 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
103篇10節 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
103篇11節 天が地上よりはるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
103篇12節 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
103篇13節 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
103篇14節 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
私たちの目の前には何が見えるでしょう。何があるでしょう。戦争があり、分断があり、疫病がある。貧しさや飢餓がある。愛する人を亡くされ、悲しみの中におられる方がいる。病気や痛みに悩み苦しむ方がいる。心にずっしりとした重荷を負っておられる方がいる。何もうまく行かずに絶望の中におられる方がいる。もしかしたらそれは別の誰かではない、自分かもしれない。そのような中で、そのような人たちの中で、どうして私たちは主をほめたたえ、何を賛美することができるのでしょうか。
主の素晴らしさは、それでも私たちとともにいてくださる主であること。インマヌエルの神、「私たちとともにおられる」神。「あなたを捨てて孤児にはしない」と約束される主。いつでも、どんな時でも、どのような状況であっても、主は私たちを見捨てておらず、忘れておらず、ここにおられ、私たちとともにおられ、親心を注がれ、私たちをあわれまれ、共に涙を流し、共に苦しみ、そこから贖おう、何としてでも救いだそう、恵みとあわれみ、赦し、癒やしを与えようと、手を差し伸べておられ、それをやめられない。私たちはそのような主の素晴らしさをすでに経験し、知っているのではないでしょうか。
「子をあわれむ父の愛」、あなたを絶対に諦めない、絶対に見放さないという神の愛、親心は、ついにイエス・キリストとしてこの世に現れました。イエス・キリストが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた、あの姿を通して、私たちに対する愛とあわれみをはっきりと示してくださいました。そしてイエス・キリストは私たちの神に対する背き、罪のすべてを、私たちの代わりにその身に負われ、死んでくださいました。3日目に死からよみがえられました。そうなさった理由は、「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです」(Ⅰテサ510)と聖書に書かれてある通りです。インマヌエル、いつも私たちとともにいてくださる、その約束のためだったのです。そしてその約束は今、聖霊が、父なる神の親心が私たちの内に注がれ、住まわれていることによって実現しています。皆さんは聖霊が私たちのうちに住まわれていること、親心が注がれていることに気付いておられるでしょうか。満たされているでしょうか。それを望まれるのであるならば、私たちは罪を悔い改め、聖く生きることです。罪は御霊と対立するからです(ガラ517)。また聖霊を切に求めることです。天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます(ルカ1113)。聖霊に満たされる時、私たちは主の前に心からへりくだり、ひざまずくでしょう。主をほめたたえるでしょう。
神の愛は私たちが神の国に至るまで、決して私たちから離れることはありません。私たちは、このインマヌエルの主を、聖霊に満たされてほめたたえるのです。この世の人々の間で、ほめたたえるのです。