2022年12月11日 主日礼拝「その名はインマヌエル」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  7番「主のみいつと」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  94番「久しく待ちにし」
聖 書  マタイの福音書1章18〜25節
説 教  「その名はインマヌエル」佐藤伝道師
讃美歌  39番「日くれて四方は暗く」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書1章18〜25節

説教題

「その名はインマヌエル」

今週の聖句

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

マタイの福音書1章23節

今週の祈り

主よ、わが巌(いわお)、わが砦(とりで)、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。
(Ⅱサムエル22:2-3)

神よ、「怖い」と思うとき、あなたを信頼することを忘れませんように。あなたに頼り、御名を賛美できますように。

説教「その名はインマヌエル」

マタイの福音書1章18〜25節

アドベント3週目に入りました。今朝は「羊飼いのキャンドル」と呼ばれる3本目のキャンドルに「喜び」の火が灯されました。喜びの知らせ、救い主の降誕が最初に告げられたのは、まるで社会の片隅に追いやられ、人々に無視され忘れられてしまっていたかのような毎日を生きる羊飼いたちでした。彼らはどのような思いで野の暗闇の中、羊たちを見守っていたのでしょうか。「どうして。自分が何か悪いことをしたのだろうか…」。そこに御使いが現れ、彼らに言いました。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。

今朝与えられましたみことばは、マタイの福音書1章18〜25節です。ここには救い主イエス・キリストの誕生についての記述があります。先週のルカの福音書1章では、主にマリヤの身に起こった出来事が記されていましたが、今朝のマタイの福音書では主にマリヤの夫ヨセフの身に起こった出来事に焦点が当てられ記されています。

1章18節      イエス・キリストの誕生は次のようであった。

ここに「誕生」と訳されている語ですが、一応調べてみるといくつかの意味を持つことが分かりました。1つはまさに「誕生」。そして何よりも興味深いのは「高い所から降りる・下る」、「降臨」という意味。さらに驚くのは「転落」という意味をも持つところです。イエス・キリストはまさに天から降られた、しかも転落された。そのような大変重要な語であることを覚えたいと思います。そして、このイエス・キリストの誕生(降臨、転落)についての話しは、まず受胎、新しいいのちが母親の身に宿る、妊娠から始まります。ここからイエス様の地上での生涯が始まったのです。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ26−8)。ここに神の愛と救いが始まるのです。

1章18節      ……その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

前回はキリストの系図を見ましたが、栄えあるダビデ王の家系も、バビロンによってユダヤの国が滅ぼされると、王位を追われ、時の流れとともに落ちぶれてしまいました。ダビデの子孫ヨセフも、ガリラヤのナザレというさびれた村で大工となっていました。王の子孫が大工になるなど、およそ考えられないことではないでしょうか。しかしそこが神の愛、神のご計画の計り知れないところだと思わされます。救い主は計り知れない神の愛、そしてご計画により、それらが満ちて、ついに天より降られたのです。

ヨセフはマリヤと婚約していました。当時のユダヤ人の習慣によると、婚約した二人は法的には夫婦として取り扱われていました。それでヨセフは夫と呼ばれたのでした。婚約法には強い拘束力があり、婚約を解消するには相手が死ぬか、あるいは正式な離婚手続きが必要でした。この婚約の期間は一年ほどで、その期間が満ちたら花婿ヨセフは友人を伴って花嫁マリヤを迎えに行き、婚礼を挙げ、ようやく夫婦生活に入るはずでした。そこからはじめて二人は交わることが許されたのでした。

ところが不思議なことが起こったのです。実際の夫婦生活に入っていないはずのマリヤが妊娠したのです。ここには、妊娠したのは「聖霊によって」であると説明されていますが、これはマタイが加えた説明であり、この時点でヨセフはマリヤからあの御使いの告知を伝えられていたのかどうかは分かりません。しかし後の記述を見ると、恐らくヨセフはマリヤからまだ何も聞かされていなかったことがうかがえます。ヨセフは当惑したに違いありません。何かの間違いだろう、マリヤの純潔を信じよう。しかしそのような思いとは裏腹に、マリヤが妊娠したという事実は日ごとに明らかになっていくのです。

19節にあるとおり、夫ヨセフは正しい人でした。彼は真に敬虔なユダヤ人で、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた人でした。ですから、自分の身に覚えなく妊娠したマリヤと婚礼を挙げることなど到底考えられなかったことでしょう。しかし本当の「正しさ(義)」には、あわれみも含まれるのです。ヨセフの中にマリヤに対する怒りは感じられません。かえってマリヤに対する愛のある深い気遣いが感じられます。律法の中で最も重要なものは、正義とあわれみと誠実であると聖書は言っています(マタ2323)。その意味において、ヨセフは本当に正しい人でした。あわれみの心を持ち、優しくて、誠実で思慮深い人でした。私は個人的にヨセフに対しては、あまり目立つ人ではないような、おとなしい人、内向的と言いますか、いつも自分の内で何かを問い続けている、求め続けている、そのような印象を持ちますがどうでしょう。真剣に神と人とを愛し、そして神と人とをとことん信じたいと願い、あわれみの心、優しさを持つゆえに悩み格闘している人。時には正しい人であるがゆえに周囲から疎(うと)まれた、面倒くさい奴だとか思われたのかもしれません。しかし、そのような人だったからこそ、神は多くいるダビデの子孫の中からヨセフに目を留められ、ご自身の栄光を現されるためにヨセフという器を選ばれたのだと思います。そう考えてみると、ヨセフはキリストに似た者だったのでしょうか。私たちもヨセフのようにキリストに似た者とされていきたいと思います。

当時のユダヤ人の法律によれば、婚約中の女性が婚約者以外の男性と姦淫するなら、二人とも石で打ち殺されなければなりませんでした。しかしこれはマリヤを公然とさらし者にし、マリヤを殺すことになってしまいます。正しい人、そしてマリヤを愛するヨセフはそうするのに忍びなかったのでしょう。そこでかつてモーセによって許容されたもう一つの方法である離婚を選択し、最小限の二人の証人の前で離婚状を与えて、内密に去らせる、つまり密かに離婚するという方法をとることに決めたのでした。

1章20節      彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

ヨセフは思い巡らしていました。今起こっているこのことは何なのか。自分の決断は正しかったのか。その決断によってこれから何がどうなっていくのだろうか。神の御心は何なのかを熟考(デボーション?)していたのです。そこに神が介入されました。夢を用いてマリヤの妊娠が聖霊によるものであることが知らせました。日本語でも夢と言えば、眠りの中で見るものであったり、あるいは将来に対する夢、願い事、ビジョンであったりしますが、神はヨセフが熟考する中で、眠りの中で見た夢だったのか、デボーションの中で見た夢(ビジョン)だったのか、その“夢”の中に御心、また神の御業をはっきりと示され、彼に確信を与えました。喜びの知らせが、御使い、神からのメッセンジャーを通して告げられたのです。2章に進んでもヨセフは2度、夢の中で御使いから御告げを受けています。このことから、ヨセフはやはりデボーションの人だったのでしょう。私たちも神の御心がはっきりと神からのメッセンジャーを通して示されるまで、諦めずに粘り強く信仰に留まっていたいものです。絶えず神に問い続けていたいものです。神に上よりの知恵と理解力、洞察力を与えてくださいと切に祈り求め続けたいものです。夢、ビジョンが御心だとはっきり分かるには訓練が必要でしょう。ヨセフのように思い巡らすことが習慣のような人は素晴らしいと思います。神からのメッセンジャーはヨセフの“夢”の中で、マリヤが妊娠したのは他の男性との姦淫によるのではなく、聖霊によるのであるから、彼女を妻として受け入れるようにとお命じになりました。このことを伝えられた時、ヨセフはどうしたでしょうか。疑えばいくらでも疑うことはできたでしょう。悪い夢を見たのだとか、あれは勘違いだったのだと、そう思うこともできたでしょう。とにかく常識では納得のいかないことではありました。しかしヨセフは、神からのメッセージを受け入れました。その結果、すばらしい救い主の誕生を迎えることができたのです。ヨセフがこのことを真剣に信じていたことは、「子供が生まれるまで彼女を知ることがなく」ということばと、命じられたとおり、救い主にふさわしい「イエス・キリスト」という名をつけたことによっても示されていると思います。

このようにしてイエス様は降誕したのです。処女であるマリヤを通しての降誕であり、いわゆる「処女降誕」です。なぜ神はこのような奇跡を起こされたのでしょうか。それは21節に述べられているイエス・キリストの使命と深い関係があります。

1章21節      マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

神からのメッセンジャーは、生まれて来る子に「イエス」という名をつけるようにとヨセフに命じました。このイエスという名は、旧約聖書に見られるヨシュアという名前をギリシャ語化したもので、その意味は「主は救いである」というものです。「主は救いである」という名前がつけられなければならなかったのは、イエスこそ「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」であったからです。昔から「名は体を表す」と言われているとおり、名前はその人物を表すものです。聖書の時代にあってはなおのこと、名は単に人と人とを区別するだけでなく、その名を持つ人の本質や性格と密接に関連するものでした。「鶏が先か、卵が先か」ではないですが、名が体を表すのか、体が名を表すのか? 聖書ではまことにその名にふさわしい生き方をした人たちが登場します。「イエス」命名に関しては、神が命じられたことであり、それはつまり神の約束であるということです。「イエス、主は救いである」。まことに「ことば(神のことば、約束)は人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハ114)のです。その後、何人の人がイエス様を指さして「イエス、イエス」「主は救いである、主は救いである」と呼んだでしょうか。両親の愛情に満ちた呼びかけ。親類や友達、ご近所さん、仕事仲間からも「イエス、イエス」と呼ばれたことでしょう。公生涯を始められてからも、人々は何度も「イエス、イエス」と叫びました。最終的には、蔑みをもって人々はその名を呼びました。果たしてどれだけの人が、自分たちの身近に生きておられ、イエス、主は救いであるという名で呼ばれるこの方が「真の救い主」であったことに気付いていたのでしょうか。

また、イエス様が救い主、「民をその罪から救う方」としての使命を果たすためには、どうしても奇跡的な処女降誕が必要でした。もし単なる人間として私たちと同じように生まれたのなら、イエス様も私たちと同じように罪があり、その刑罰をうけなければなりません。そのような罪人が、他の人を罪から救うことはできません。聖書は、すべての人は罪を犯したために、神の刑罰を受けなければならないと教えています。ですから、罪のある人を救うためには、どうしても罪のない人によらなければならないのです。ヨセフのようにどんなに真面目で、どんなに道徳的に立派な人であっても、ダビデの血統を継いでいたとしても、人間である以上はその刑罰から逃れられません。それではどうした良いのでしょうか。唯一の方法は神が人間の姿をとってこの世に降臨し、転落し、人間の代わりに神がその罪の刑罰を受けることです。そのためには普通の人間の誕生とは異なった、神による奇跡的な誕生が必要でした。それが処女降誕なのです。人が救われる唯一の方法、救われる唯一の道は、聖霊によって宿り、処女マリヤからお生まれになったイエス様なのです。イエス様の降誕、神の転落。それは神の永遠の昔からの愛、救いの約束の成就でした。同時に神の永遠の昔からの約束、救いの完成への始まりでもありました。

1章22節      このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1章23節      「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

「主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」ということばは、マタイの福音書の特徴です。この定型句で旧約聖書を引用し、イエス・キリストの生涯、イエス・キリストによる人類の救いが、旧約聖書の預言の成就であることを何度も言及します。ここではイザヤ書7章14節を引用します。この預言はイエス様が降誕する約700年も前に語られたことばです。しかも、処女から産まれるだけでなく、「男の子を産む」と、その性別まで言っています。医学は進歩していると言っても、男女を希望通りに産み分けるということは依然として不可能です。神のみわざに任せるしかありません。まして700年も前に「男の子を産む」と預言されて、その通り男の子が産まれたのは、あまり言われていませんが、処女降誕と並んで驚くべきことではないでしょうか。真に神は、ご自身の口で語られるみことば、ご自身の約束、誓いを完全に守られ成就されるお方です。イザヤの預言は文字通り成就し、また私たちに対する神の約束、救いの誓いも文字通り必ず成就するのです。

神の救いは必ず成就するのですが、ここでは真に重要なことが教えられています。それは神が成就される「救い」がどんなものであるかということです。それが分からないと、目の前にいる「イエス」と呼ばれる方が真の救い主であることが分からないのです。

少し考えてみたいと思います。ユダヤ人の考える神はどのような神だったのでしょうか。ユダヤ人の長い歴史を通して、彼らは潜在的に神をどのようなお方だと思っていたのでしょう。それは厳しい、恐ろしい、裁く神だったのかもしれません。良いことには報いてくださるお方だけれども、悪いことに対しては徹底的に裁かれるお方。400年もの中間時代、暗黒時代をも過ごし、その間、ユダヤ人はいくつかの国の支配下に置かれ本当に辛くて苦しい状況の中にいました。その時彼らは何を思ったでしょう。この悪い状況の原因。それは私たちが何か罪を犯したからだ。だから神は私たちを裁かれたのだ。私たちから離れ去ってしまわれたのだ。私たちはどうでしょう。何か悪い状況に陥ってしまった時、私たちは何を思うでしょう。人間だれしも何かしら負い目があるものです。また聖書は、すべての人は罪人であると明言します。ああ、この悪い状況は、私が罪を犯したからだ。私が負い目に感じているあのことによるのだ。だから神は私を裁かれるのだ。私は神に見限られてしまったのだろうか、見捨てられてしまったのだろうか。神よ、私がお嫌いですか。何故ですか。どうしてですか。いつまでですか。

しかし今日の所で主の御使い、神からのメッセンジャーはヨセフに言うのです。「『イエス、主は救いである』と名づけなさい。この方が、ご自分の民をその罪からお救いになるのです」。どうして神の子がこの世に産まれてきたのか。それは罪から人々を救うためだと言われているのです。それは辛い、苦しい、そのどん底にあった人々にとって、意外なことだったのではないでしょうか。神は人の罪を裁くのではない、人を罪から救おうと願われる神であった。これが救いなのです。彼らにとって、また私たちにとっても、これが神からのメッセンジャーを通して知らされる喜びの知らせなのです。

しかし、恐らく人々はもっと他の救いを期待していたでしょう。救い主が来るということは信じていましたが、それは自分たちを政治的支配から、ひどい支配者、敵を撃退し、苦しい状況から救い出してくれるのがメシヤ、救い主だと考えていました。今の辛い状況から一発逆転、自分たちが解放されることが救いだと考えていました。考えてみると、人間はずっとそのことを期待して生きているのではないでしょうか。悪い状況からパッと救い出される、解放される。それこそが人間の救いだと。ところがどうでしょう。救い主イエス・キリストはこの世に降られた。それで彼らを、私たちを、私を取り巻く悪い状況はすべて解決され、何も問題がない、悩みもない、不足もない、敵もいない、平和で、平安で、素晴らしい人生となったでしょうか。そうではないでしょう。2000年前からずっと今に至るまで、人間は悩み、時には絶望し、行き詰まりの繰り返しではないでしょうか。そうだとしたら、誰も救われていないということでしょうか。

神の救いは、罪から私たちを救うということです。「罪から民を救う」と言っていますが、人間の一番大きな問題は罪であるのです。人間の中にある罪。その罪が神と人間を隔てている高い壁のように邪魔をして、神としっかり繋がることができない。罪が邪魔をして、人間のいのちを真に慰め、支えることのできる神との関係、神との繋がりが切れてしまっている。人間の一番大きな問題は罪。具体的な様々な問題以前に、罪。自覚があろうが無かろうが、すべての人が抱えている罪から救うために、御子イエス・キリストはこの世に降られたのです。転落してくださったのです。人間の体をもってこの世に来られ、「主は救いである」という名を持つお方は、からだをもって人間の罪を背負って苦しんで十字架に架かり、人間を救われる。罪から私たちを救われるのです。それが神の約束される救いなのです。そこからすべてが始まるのです。

人間の悩みや苦しみの根っこというのは、神と繋がっていなければ真に生きられない人間が、その繋がりが罪によって切れてしまっていることによるのです。十字架の縦棒と横棒。天の神と地の私との関係が罪によって壊れてしまっていることにより、真の慰めがない、支えがない。そのことによって地の私と隣人との関係に影響が及び、関係が壊れてしまっている。平和がない、平安がない。悩みがあり、苦しみがある。絶望があり、行き詰まりがある。しかし罪から救われ、罪から解放されて、神との繋がりがしっかりしたものとなるならば、自ずとすべての道が開かれて行くのです。

また、イエス・キリストによって罪から救われ、神との繋がりが回復される。そして主はその名を「インマヌエル」訳すと「神は私たちとともにおられる」と呼ばれることになる。名は体を表す。その名の通り、神が私たちとともにいてくださる。それが救いです。悩み、時には絶望し、行き詰まりを感じ、弱さ、不安を抱えて生きる、そのような繰り返しのような人生であったとしても、「神は私たちとともにおられる」、「わたし(主)はあなたとともにいる」、これが神の約束される救いなのです。「ともに」と訳される語ですが、これは上にも下にも、右にも左にも、そんな意味を持つ語なのです。私たちは絶えず何かしらの問題を抱えているでしょう。一生懸命生きたとしても、どこかで弱ったり、行き詰まったり、時には迷いながら間違った選択をし、失敗してしまうことでしょう。でも救われているのです。神が私たちの上下左右、全方向におられるのですから。それでも神はイエス・キリストの十字架による罪の赦しのゆえに、私たちとともにおられるのです。それが神の約束される救いなのです。神とこれほどまでに密接に繋がっている人生であるのですから、神はそこからまた道を開いてくださるのです。私たちが助けてと叫ぶならば、神はそれをすぐ近くで聞いてくださるのです。私たちの祈りは決して空しいものではない。私たちは神に祈りながら、願いながら、問い続けながら生きることができる。そして神は門を1つ、また1つと開いてくださり、その先に続く道を進ませてくださるのです。それは終わることがありません。永遠に続くのです。それぞれの地上での歩みの終わりまで、また世の終わりまで、「わたしが門である」「道である」「いのちである」「真理である」と言われ、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」そう約束される主は、決して約束を破られることなく、私たちの目の前に立ちはだかる門を一つ一つ開き、道を開いてくださり、永遠に至るまで守り導いてくださるのです。これが救いです。

先週、NaECのクリスマス会がありましたが、そこに一組のご夫婦が参加してくださいました。このご夫婦は、実は教会が大嫌いな方たちだったのですが、何故か参加してくださいました。ご主人が大変な病気の中を通られたそうですが、そのようなこともあって来てくださったのかもしれません。ステージから1つの証しがありました。「私たちは人生において、色々なシーズン、季節を通らされます。楽しい時もあれば、本当に辛くて苦しい時もありました。そんな季節が巡って今があります。私もそうですし、皆さんもそうではないかと思います。インマヌエルと呼ばれるイエス・キリストは、いつもどんな時でも私たちとともに人生を歩んでくださるお方。これまでも、そしてこれからも永遠に」と。その証しを聞いてどこかご自分たちと重なるところがあったのでしょう。証しを通して主に心を触れられたのでしょう。ご夫婦はお電話をくださり「本当に感動しました」と仰ってくださいました。主がいつもともにおられるのだという、神からのメッセンジャーを通して知らされたメッセージが、ご夫婦にとって本当に喜びの知らせとなったのだと思います。

「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」。

「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」。

アドベントを過ごしている今は特に、救い主イエス・キリストがこの世に来てくださった。インマヌエルと呼ばれるお方が今も生きておられ、ともにおられる。その救いの恵みを心から覚え、神との深い交わりの時を過ごしてまいりたいと思います。まもなく再び来られる主を待ち望む信仰を深めてまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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