2022年12月18日 主日礼拝「私たちが待ち望むもの」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 8番「きよきみつかいよ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 97番「朝日は昇りて」
聖 書 ヨハネの黙示録22章1〜5節
説 教 「私たちが待ち望むもの」佐藤伝道師
讃美歌 112番「もろびとこぞりて」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
ヨハネの黙示録22章1〜5節
説教題
「私たちが待ち望むもの」
今週の聖句
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
ヘブル人への手紙9章26節
今週の祈り
貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。
(箴言30:8)
与え主なる神よ、あなたの下さる全てのもので満足できるように助けてください。
説教「私たちが待ち望むもの」
ヨハネの黙示録22章1〜5節
今朝はアドベント4週目を迎え、最後の4本目の「ベツレヘムのキャンドル」に「愛」の火が灯されました。今年はクリスマス礼拝がちょうど日曜日と言うことで、例年ですとクリスマス礼拝の日に4本目のキャンドルに火が灯され、ベツレヘムに現れた神の愛の成就、クリスマスを覚えるのですが、今年は少し変則的に感じます。もうアドベント、そしてクリスマスは終わってしまった感はないと思いますが、4本すべて灯されたキャンドルを心に覚えながら過ごすこの1週間、今年は少し違った気持ちでアドベント(待降節・主を待ち望む時)を過ごすことができるのではないかと思います。神の愛、約束はその先にもあり、それはクリスマスと同様に必ず成就するのだということを覚える良い機会ではないかと思います。
先週はマタイの福音書1章の終わりまで見ました。イエス様が降誕するまでの経緯を見たわけですが、今朝は続けて2章に入ろうと考えていたのですが、先週のマタイの福音書1章後半で覚えましたインマヌエル(訳すと「神が私たちとともにおられる」)という私たちにとっての本当の救い、神が私たちに成し遂げたいと願っておられる真の救い、すべての罪から私たちを救い、私たちばかりではなく、すべての罪からすべての人が救われることを願われ、そして永遠に私たちとともにいてくださるのだという、神の救いの約束の根幹(核心)を覚えながら、「あなたがたは今、何を待ち望んでいるのか」という主の御声。また「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束される主は、今を生きる私たちをどのように慰め、励ましておられるのか、その御声に今一度聞かせていただき、今年のアドベントの残された最後の週を過ごしたいと思います。聖書は一気に進みまして黙示録を見たいと思います。
何度か確かめておりますが、アドベントとは、主を待ち望む信仰を深める特別な期間です。初臨はクリスマス。初臨の約束は成し遂げられました。私たちは今、主の二度目の来臨、再臨の約束が成し遂げられることを待ち望んでいるのであり、この時期クリスマスを待ち望むことを通して、私たちは主の再臨を待ち望む信仰を深めて行くのです。信仰の姿勢を正すと言っても良いのかもしれません。ある先生は仰いました。「クリスチャンで、キリスト再臨の信仰がないとすれば、それはハンドルのない車と同じである。再臨信仰は、私たちを正しく神の国へ導くハンドルの役目を果たしている」。ハンドルを握っているのは私たちです。行き先は私たちの意志に、大部分が委ねられていると言って良いでしょう。ですから私たちがハンドルを別の方向にきってしまうこともあり得るのです。そこで主は、聖書のみことばを通して絶えず私たちを励まされるのです。
主は励ましておられる。主が励まされる相手というのはどのような人かと申しますと、当然、恐れていたり、元気をなくしてうずくまっている人でしょう。主は慰めておられる。主が慰めを語られる相手とは、当然、落ち込んでいる人でしょう。またクリスマスは喜びの時でもあり、御使い(神からのメッセンジャー)は「喜べ」と言います。これもまた当然、悲しんでいる人に向かって言われる言葉ではないでしょうか。今朝は黙示録を通し、今年のアドベントに、恐れている私たち、元気をなくしている私たち、落ち込んでいる私たちに向かって語られる主の励まし、そして慰め。悲しんでいる私たちに喜びなさいと言われるみことばに聞いてまいりましょう。人は先が見えないと不安になるものです。道の先にトンネルが見えてきたら、私たちは何の迷いもなくトンネルの中に入って行くのではないでしょうか。それはトンネルには出口があると信じているからです。そう信じていなければ、怖くてトンネルの中へと入っては行けません。またカーナビではトンネルは全長何キロで、出口まであと何メートルなどと丁寧に教えてくれるものもあります。何度も申し上げておりますが、ヘブル語で預言者のことを「ナーヴィー」と言います。カーナビはまさに預言者のようです。しかし私たちが預言者の教える情報を聞くだけでなく、信じなければ何の訳にも立たないのです。そして主のみことばは真に、私たちの道の先を照らし、危険から守り、確実に目的地へと導く光なのです。
さて、創世記1章から始まる聖書は、今朝の黙示録22章で完結します。ここは使徒ヨハネが主によって見せられた幻の一場面です。この幻が与えられたのは、ドミティアヌス帝の治世(AD81〜96年)における皇帝崇拝の拒否ゆえの大規模な教会の迫害があった時代でした。教会にとってはまさに暗黒のような時代。黙示録全体は主が直接ヨハネに命じ、命を脅かす患難や迫害と戦いながら信仰を守り、神の約束してくださった真の王である主の再臨、そして真の王である主が治める神の国の完成を心から待ち望んでいる教会に対し、それはすぐにも起こるべきこととして、教会を励まし、神の国の完成の時を信仰と忍耐をもって待ち望むようにとの激励のために書かせたものです。ヨハネの黙示録22章1節から5節は、黙示録全体の主要部分である幻の一番最後の部分です。21章ではいよいよ神の国完成の幻が記されますが、その喜びの幻の最後のパートが今朝の箇所です。実に長いトンネルの出口に見える光です。主はこの光を、ヨハネに幻をもって、近い将来、神によって確実に起こる出来事として啓示してくださり、後世に伝えられるように記録させたのです。それは先ほども申しました通り、信仰者として生きるには厳しすぎる世で、患難や迫害と戦いながら必死に信仰を守り、神の約束、主の再臨、主が治める神の国を待ち望んでいる教会を慰め激励するためでした。主は今もこの記録を通して、読者である教会に大きく息をつかせ、労をねぎらい、ご自身の約束を確認させ、私たちの信仰を励まされるのです。
ところで、私たちはこう思うかも知れません。私たちはそんなに激しい迫害には遭っていないではないかと。特に日本で比較的安全に暮らしている私たちです。しかし黙示録の幻が書き送られたのは、黙示録の冒頭を見ると分かるように、7つの教会に対してでした。その中には命の危険にさらされるほどの迫害に苦しむ教会もありましたが、実は様々な形の迫害によって、初めの愛から離れてしまった教会、死んでいた教会、富や豊かさの中にまどろみ、主に「生ぬるい」と言われてしまった教会もあったのです。当時の迫害、信仰に留まっていることが困難な状況、信仰から離れさせようとする、信仰を捨てさせようとする状況には地域差があったのです。その様々な状況下で、信仰的に眠ってしまっているキリスト者への励ましをも、黙示録は記していることを覚えておかなければなりません。
22章1節 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22章2節 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
「御座」とありますが、これは玉座を意味する語です。国家の君主、国王や皇帝が座すところです。皇帝崇拝ゆえの迫害がある時代において、この神と子羊キリストが座す玉座を信者たちに指し示される。その玉座から、水晶のようにきらきら輝く、見るにもきれいで、まことに渇いた喉を潤しそうな、いのちの水の川が流れ出ていました。
この「いのちの水の川」は、創世記2章10節にある川と関連がありそうです。創世記2章10節を見てみましょう。「一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた」。この「エデン」という語ですが、「歓喜」または「隅々までよく潤された所」を意味します。興味深いことに「たましい」というヘブル語はもともと「喉」という意味です。たましいは人間が生きる上で重要な部分であり、そこに人は飢え渇きを覚えるのです。そもそも聖書が言う「生きる」とは、ただ動物的に生きるということではなく、たましいも肉体もともに潤されて生き生きと生きること。そのように人間が生きる上で重要な部分、たましい、喉を潤すいのちの水の川は、エデンから湧き出て川となり、神の園(庭園)を潤していました。
「いのちの水の川」はまた、エゼキエル書においても預言されていました。47章1節から12節のところです。ここでは水は神殿の下、祭壇の南から流れ出ています。その水は深さや広さを増して行きます。この川が入るところでは、「すべてのものが生きる」と預言されています。そして「川のほとりのあちら側にもこちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実を付ける。その水が聖所から流れでているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる」、このように預言されていました。
黙示録で川が流れ出るエデンという場所は、神殿の中の祭壇、さらに神と子羊の御座であったことが分かります。そして神の園(庭園)は都となっており、都の大通りの中央をその川は流れています。流れ出る水は深さ広さを増す川となり、都全体を潤している。はじめ1本だったいのちの木があちらこちらに見られ、多くの実を結ばせている。まさに神の国が完成に向かって成長し、ついに完成された様子がうかがえるのではないでしょうか。ヨハネは聖書を貫く神の御心、ご計画の確かな成就をここに見ているのです。
実はヨハネはヨハネの福音書で、すでにこのいのちの水の川が具体的に何であるかを主によって教えられています。ヨハネの福音書7章38節からです。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエス・キリストは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである」。ですから黙示録でのいのちの水の川も、聖霊を象徴的に表現したものなのです。人を真に生かすいのちは、神と十字架と復活において栄光を受けられたキリストの御座から流れ出る御霊によってもたらされるのです。そして御霊によって育ついのちの木から得る実、それは御霊の実でしょう。その御霊の実、愛。聖霊を通して私たちに注がれた神の愛は、私たちに永遠のいのち、たましいも肉体も生き生きと生かす永遠のいのちを与えるのです。
ヨハネは黙示録2章7節でこのような主のおことばを聞いています。「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある」。その永遠のいのちは、御国の完成のなる時に、勝利を得た者が神からいただけるものなのです。では、勝利を得る者とはどのような者なのでしょうか。先ほども7つの教会の中に見ましたが、様々な種類の信仰の戦いを戦い抜いた者でしょう。この世の患難、迫害に勝利した者。また自分自身との信仰の戦いにおける勝利。いずれも最後まで信仰を守り通した者。主はその報いとして、いのちの木の実、御霊の実、永遠のいのちを報いとして与えてくださるのです。すべてが報われる。大きな慰め、励ましです。
この世で私たちは様々な患難、迫害、またこの身に染みついて離れない罪との激しい戦いを経験しながらも、最後まで信仰から離れず、最後まで主に依り頼むのであるならば、神の御国の完成のなる時にその報いとして御霊の実、永遠のいのちを真に食べることが許され、それが私たちの身になるのです。永遠のいのちによってこの肉体のからだは栄光のからだによみがえらされ、たましいも肉体もともに永遠のいのちをもって、主が玉座に座しておられる御国において、主の完全な支配、完全な支えと配慮の下で、永遠に生き生きと生きられるのです。
さらにいのちの木の葉は諸国の民を癒やしたとあります。エゼキエルは薬となると預言しました。これは病気を治すという意味よりも、ビタミン剤のように元気を与える、生きる喜びをさらに助長するということでしょう。いのちの水によって成長する木は根を張り、枝を伸ばし、青々とした葉は御国中隅々まで茂り、民族の壁を越えて都に入れられたすべての聖徒たちを、たましい、喉に渇きをもたらし、死をもたらす日照りから霊肉ともに守り生かすのです。神の御国において主の支配、これほどまでの主の支えと配慮の中で守られ、生き生きと生かされる。主はそれを信仰の戦いを戦い抜いた者への報いとして与えるとの確かな約束の成就を、幻をもって見せてくださり励ますのです。
22章3節 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22章4節 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
神の御国において、もはやのろわれるものは何もありません。神の祝福だけがあるのです。すべてが神の御心にかなうものとなるのです。アダムが罪を犯し、大地はのろわれてしまいました。人の労働がただ疲れるだけのもの、しかも働いた分に見合った報いがない、本当に空しいものになってしまいました。しかし神の御国では、人は実りのない労苦はもうしなくてもよくなるのです。迫害下にあって、少しの希望を持ってもすぐに奪い取られてしまうような時代を生きた人々にとって、働いた分、信仰に生きた分に見合った祝福が与えられるということは、本当に喜ばしい約束、励ましだったのではないでしょうか。
また、神の御国での労働は、神への奉仕、神への礼拝となります。神の園は都となり、神殿はなく、都全体が神と子羊の御座が据えられる神殿となる。それはつまり、主がいつでもどこでも聖徒らとともにおられるということです。右にも左にも、前にも後ろにも、上にも下にも主がおられるということです。これこそ「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」という、私たちの救いの完全な成就です。確かに主は今も、イエス・キリストの十字架による罪からの救いによって、私たちとともにおられます。しかしそれは天に帰られた主のもとから助け主、慰め主である聖霊が注がれ、聖霊が私たちの内に住まわれるというかたちでの成就です。主が再臨なさる時、インマヌエルの救いは完全に成就するのです。その時、聖徒らは全員が祭司となり、いつも三位一体の神に仕え、主を礼拝するのです。そして私たちは直接神に近づくことができ、主の御顔を直接仰ぎ見ます。私たちは直接その目で神を見る、そして神をはっきりと知るのです。地上での不完全だった人生、矛盾や不条理。経験した患難や迫害。そのすべての中に、神の計り知れない愛の御心が注がれていたこと、それでも守られ、それでも最善に導かれてきたことをはっきりと知るのです。私たちの地上での叫び「主よ、どうしてですか」という叫びは、「主よ、そうだったのですね」という喜びの叫びとなるでしょう。私たちの身も魂も真に慰められ、涙はことごとくぬぐい去られ、悲しみも叫び声も、苦しみもすべてなくなるのです。麗しい主の栄光の御姿に満ち足りるのです。
そのような彼らの額には神の御名が記されています。昔、大祭司の額の上には「主への聖なるもの」と彫られた札が付けられていました。神を礼拝する彼らの額にはその名が記され、まさにその名の通り、主への聖なるものとされます。このたましいも肉体もすべて世とか悪、罪から取り分けられ、完全に神のものとされる。神の懐の中に安らぎ憩う。世で本当に辛い様々な戦いの中にある人にとっては、それがどれほど喜ばしいことでしょうか。
22章5節 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
夜、闇がない。脅かすものは何もない。神である主が私たちを照らされる。この世の光は陰をもたらします。この世では誰かが富むために誰かが貧しくさせらます。誰かが喜ぶために誰かが泣かされます。誰かが生きるために誰かが死ななければならない。しかし主が照らされる光の国には陰はないのです。神の国が完成するならば、神がすべてをご支配なさる国となり、神が完全な支えと配慮をされる国となり、誰かが誰かを支配することもなく、それ故に、支配による抑圧、苦難、迫害もないのです。空しくて、苦しくて、悔しくて、そのような嘆き悲しむ日が完全に終わるのです。また、自分が誰かを支配する必要もなくなるのです。自分が支配されることは嫌ですが、自分も誰かを支配しなければ生きられないなど、本当に辛く嫌なものではないでしょうか。弱肉強食が当たり前のような世。その中で死に物狂いで生きなければならない。自分の身が危険にさらされてしまうから。本当に辛く厳しい世です。しかし神の国では安全も保証されます。いかなる敵も、彼らをその王座から引き下ろす者はなく、いかなる悪も、彼らを脅かすことがない。たましい、肉体、すべての戦いは終わり、勝利、そして平安は永遠となるのです。
長い時間を患難や迫害とともに生きている信者たちに、長い出口の見えないトンネルの中を通らされているような信者たちに、私たちに、神はこのような素晴らしいご自身の約束の完成形を見せられるのです。そして言われるのです。「これらのことばは真実であり、信頼できるのだ」と。預言者に霊を授ける神である主は、「すぐに起こるべきこと」をこのように示され、ヨハネに記録させたのです。その御心は何でしょうか。慰めでしょう。苦難の中にある信仰者たちに大きく息をつかせ、信仰の戦いの労をねぎらい、励ますのです。うずくまっているその人を再び立ち上がらせるのです。そして正しい唯一の方向へと視線を向けさせ、ハンドルを戻させるのです。
しかしここで、私たちが覚えておくべきことは、イエス・キリストの再臨、世の終わり、御国の完成の時。それは素晴らしい霊的、物質的な祝福、そして喜びではありますが、同時に生ける者と死ねる者とが分けられるという厳粛なさばきの時ともなるということです。今のままでは御国に入ることが許されない者たち、永遠に死せる者たちもいることを忘れてはなりません。「見よ、わたしはすぐに来る」と主は言われます。その主は「この地に住み、神と隣人とを愛しなさい」と命じられ、そして宣教をも命じられました。ここに終末の確実性、緊急性、緊迫感を覚えないでしょうか。新しい天と新しい地、それはいつ訪れるか分からない世界の更新の時です。人間も世界も「新しい」と呼ばれるほどに大きく変わりますが、決して一度完全に無に帰して、それから再創造されるのではないのです。最後の審判と悪い者の追放の後に世界の更新が来るのです。それは盗人のようにと言われます。生ける者にとっては喜びですが、死ねる者にとっては絶望です。突然来られる主の御姿に絶望しないためには、生きている間に福音を聞き、信じ、悔い改めて救いを得ることです。罪から救われて、神との平和な関係を築いておくことです。救われておくことです。「彼らの行いが、彼らとともについて行くから」(黙1413)です。終わりの時の1秒前の生き方が、その後の永遠の生き方を決定するのです。
救い主イエス・キリストがクリスマスにこの世に降られた。それは降臨であると同時に、神の転落、へりくだりです。それが神の真の祝福です。祝福と訳された語は「膝を折られる」という意味であると以前申し上げました。神はこれほどまでに膝を折られ、かがんでくださり、人間と、罪人と同じ目線に立ち、罪人とともに生きて下さるために天より転落してくださったのです。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ26−8)。処女マリヤの胎に宿り、ここからイエス様の地上での生涯が始まり、ここから神の愛と救いが始まったのです。インマヌエルと呼ばれるイエス様は言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。クリスマスに、この世に降ってくださった神を十字架につけた、そのような私たちの間に神の国があるのです。そして十字架を仰ぐ私たちの間に、神の国は存在するのです。神の国はもうすでに始まっているのです。しかしまだ完成されてはいません。イエス様が再び来られる日に、神の国は完成するのです。インマヌエル(主が私たちとともにおられる)と呼ばれる、私たちにとっての真の救いは完成するのです。
主は黙示録を通して主の再臨の時に至るまでの“様々な”迫害下にある“今”の読者を慰めると同時に、信仰と宣教を励ますのです。様々な迫害。実際に命の危険にさらされるほどの辛く苦しい迫害があります。しかし一方で、比較的安全に暮らし、迫害を対岸の火事として傍観していたり、苦しみの最中にある人々、そのままでは滅び行く人々への関心もなく、熱くも冷たくもない、自己満足な信仰や礼拝に熱を入れている教会に対しても、この地に住み、近づいている神の国、神の国の完成の時を信仰と忍耐をもって待ち望むようにとの慰め、激励、そして警告をされるのです。
私たちは主の御心をしっかりと信仰をもって受け取り、心から信じ、それを力として一歩一歩近づいている神の国、その完成の日を目指して、正しい方向にハンドルを切って前進して行くのです。主は私たちが信仰をもって前進し、確実に報いを得るようにと望んでおられます。
今年のアドベント最終週、私たちは主を待ち望む信仰をまた新たにし、深めるように過ごしてまいりたいと思います。主の真実の約束を見つめ直し、慰めと励ましをいただき、聖霊に満たされて、主の愛に満たされて、心新たにしていただきましょう。