2023年1月15日 主日礼拝「そこに信仰はあるか」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 5番「こよなくかしこし」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 73番「くすしきかみ」
聖 書 マタイの福音書6章7〜9節
説 教 「そこに信仰はあるか」佐藤伝道師
讃美歌 270番「信仰こそ旅路を」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
マタイの福音書6章7〜9節
説教題
「そこに信仰はあるか」
今週の聖句
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
ヘブル人への手紙11章6節
今週の祈り
私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。
(ハバクク書3:18)
イエスよ。あなたがどのようなお方で、私に何をしてくださったのかを思い出させてください。
説教「そこに信仰はあるか」
マタイの福音書6章7〜9節
前回からマタイの福音書は6章に入りました。6章1節からのところでイエス様は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」と言われました。ここでの善行とは、宗教的な良い行いのこと。敬虔(神を深く敬い、つつしんで仕えるさま)を表す行為のことを言っているとのことでした。
ユダヤ人には敬虔を表す行為として、施し、祈り、断食の3本柱があったことをご紹介しましたが、まず6章1節からはその中の一つ、施しと祈りについてイエス様は言及されました。人に義と認めてもらう、良しとしてもらう、あの人はとても敬虔な人だと認めてもらうことを動機とした善行。あるいは自分で自分自身を義としようとすることを動機とした善行。イエス様はそれを偽善だ、神に対する本当の信仰ではなく、演技だと言われました。そこに真実はないのだと。イエス様がパリサイ人たちに向かって“白く塗られた墓”と厳しく言われたことが思い起こされます。
「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」(ホセ66)。喜びとする。それは神が満足されること、心地よく感じられ、うれしいことだとして受け入れられるということだと申しましたが覚えておられますでしょうか。神に対する真実ではない愛。真実ではない敬虔。神を深く敬い、つつしんで仕える自分を演じる。実は表面上の形だけのもの。それは神が喜ばれないこと。そこに神からの報いは期待できないと言われました。なぜなら、他人や自分自身に義と認められることを目的とする善行は、他人や自分自身に義と認められることによってその目的は達成されたことになり、それでもう十分な報酬を得たことに満足してしまうからです。もともとそれが目的でしたから、目的が達成されてしまえばそれ以上、神に報いを期待しなくなってしまうからです。神に求めなくなってしまうからです。そんなことはないと私たちは思うかも知れません。他人や自分自身に認められるためになどしていないと思うかも知れません。しかしイエス様は「気をつけなさい」と言われるのです。施しであれ、祈りであれ、どのような善行であっても、誰に見せるのではなく、どこまでも隠れた所で、人に見せるためでなく、偽善、演技ではなく、真実をもって行い、神にのみ喜んでいただくために、神に心地よいと感じていただくために、うれしいことだと受け入れていただくために行いなさい。そうすれば神が自由に与えてくださる報いを受け取ることができるのだとイエス様は教えてくださいました。イエス様は私たちに対して宗教的高慢になることに対して厳しい注意喚起をすると同時に、誤解を恐れずに言うならば、もっと大胆に神に報いを求めなさいと教えてくださっているのではないでしょうか。これはすごいことです。もの凄い恵みです。あなたがたは、もっともっと大胆に神を信じ、唯一まことである全知全能なる神に信頼し、もっともっと大胆に神が自由に与えてくださる報い、つまり恵みを慕い求めなさい、大胆に祈り求めなさいということを私たちに教えてくださっているのだと思うのです。神の恵みこそ、私たちにとって最も良いものだからです。
神は天におられる私たちの父です。父の愛をもって、子に最も良いものを与えたいと願われている神です。親が子に何か良いものを与えたいと願う時、子の良い行いの度合いに応じて、その報酬のようにして与えるでしょうか。ただ我が子を愛し、我が子の幸を願う一方的な愛があるでしょう。自分に対して悪態を突くような我が子であっても、自分を困らせる我が子であっても、それでも愛し、守り、導き、良いもので満たしてあげたいという愛があるのではないでしょうか。不完全な人間の親でさえそうなのですから、天におられる私たちの父の愛はどれほど完全なものなのでしょう。行いに応じて支払われる報いはご利益です。しかし神からの報いは決してご利益ではなく、どこまでも父の愛に基づく、神の自由によるもの、恵みなのです。神はその恵みを、「あなたの口を大きく開けなさい。わたしがそれを最も良いもので必ず満たすから」(詩8110)と、そう仰ってくださっているのです。これもまたもの凄い恵みです。私たちは思わず「人とは何ものなのでしょう。あなたが心を留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(詩84)、そう恐れ、喜び叫んでしまうのではないでしょうか。
今週の聖句に挙げておりますが、ヘブル人への手紙11章6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません(神に受け入れていただくことはできません)。神に近づくものは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。私たちが神に近づくのはどのような時でしょう。みことばを味わう時、祈る時、そこに神がおられることを心から信じているでしょうか。神が私たちの心に目を留められ、湧き出る思い、祈りを一言一句聞き漏らさずに聞いてくださっていることを心から信じているでしょうか。そしてその神は、必ず私たちに報いてくださるお方であることを信じているでしょうか。口を大きく開いて、満たしてくださいと大胆に、演技ではなく真実に求めておられるでしょうか。私たちの内の奥まった部屋、秘密の蔵からすべてを注ぎだし、罪の告白、自分の弱さや足りなさを告白し、真実に神の愛と恵み、そして赦しとを祈り求めるならば、神は確実に罪を赦してくださり、神と私たちとの間にあるパイプの通りを良くして、豊かに恵みを注いでくださることを確信しておられるでしょうか。もし私たちが神の愛、御霊に満たされ導かれ、素直に自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださり(Ⅰヨハ19)、自由に愛と恵みを注いでくださいます。
イエス様は善行としての施し、そして祈りについて言及したところで、善行の3つ目である断食についての言及を前にして、唐突に、しかしゆっくり、じっくりと、神に喜ばれる祈り方について教えてくださっています。
6章7節 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
皆さんは神に祈っていますか。もちろん祈っているでしょう。毎日毎日、熱心に私たちの神に祈っていることと思います。そうであって欲しいと願っています。多くの日本人が初詣等で、無病息災、家内安全、商売繁盛等を祈っていると言われています。私たちも祈って良いと思います。毎日毎日祈って良いし、祈るべきなのではないでしょうか。ただしイエス様は私たちが祈る時に、異邦人のように祈ってはならないと教えておられます。異邦人、それは偶像を拝む人々のことを指すものですが、異邦人のように同じことばをただくり返してはならないと。同じ事を何度も何度も、つまり熱心に祈ってはならないと言っておられるのでは決してありません。別の箇所でイエス様は熱心に祈ることの大切さを丁寧にいくつかのたとえをもって教えておられます。ここで戒めておられるのは、同じことばを「ただ」くり返してはならないということ。原文のギリシヤ語では擬声語が使われています。ある音を真似て造った造語です。日本語で言うならば「ぶつぶつ」「ごにゃごにゃ」「すらすら」とでもなるのでしょうか。別の訳では「空しいことばを積み上げる」となっています。つまり、何も考えずに、そこに全知全能なる神に対する何の信仰も信頼もなく、偽善的な、演技のような、機械的のような祈りをしてはならないということをイエス様は教えておられるのです。神が喜ばれる祈り、神が満足され、心地よいと感じられ、受け入れてくださる祈りというのは、習慣的、機械的な祈りではなく、祈りを聞いてくださる神に対する信仰、心からの信頼、依り頼む態度による、空しくない熱心で大胆な祈りです。「彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」。私にも身に覚えがあります。今でも般若心経であれば唱えられます。昔は般若心経を覚えるために、その意味も分からずに一生懸命一言一句暗記しようと頑張ったことを思い起こします。また、これは何回くり返して祈るのだとするご真言も規定通りに唱えていました。そのように、日本のみならず世界中の偶像礼拝の世界ではしばしば、祈りというのは形式的な祈祷文や、魔術の呪文を唱えることが特徴のような気がします。そこでは正確にくり返すことが重要であって、礼拝者の態度や意識はそれほど重んじられていないように思います。そしてイエス様は弟子たちに「気をつけなさい」と言われましたが、気をつけなければ、私たちキリスト者、教会の祈りもそのようなものになりかねません。
どうして彼らの祈りが形式的な祈祷文や呪文のようなものの繰り返しになってしまうのでしょうか。詩篇の記者はこう歌います。「彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず目があっても見えない。耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ」(詩1154−8)。自分たちの祈りが聞かれていないのではないかという予感によって、彼らの祈りは次第にくり返すための祈祷分や呪文となったのでしょう。「ぶつぶつ」「ごにゃごにゃ」「すらすら」「空しいことばを一生懸命積み上げる」ものとなったのでしょう。そしてそれは予感ではなく、現実のことでした。しかし「私たちの神は天におられ、その望む所をことごとく行われる」(詩1153)神です。私たちは今も生きて働かれる、すべてをご存知で、すべてを成し遂げることのできる力ある神を信じ祈っているのです。だからこそ熱心に、大胆に祈ることができるのです。
6章8節 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
ですから、彼ら異邦人、偶像礼拝者と同じようにしてはいけません。
イエス様はここで全知全能なる神を「あなたがたの父である」と紹介されています。あなたがたは、あなたがたの神、父のお心をお持ちの神を真実に信じ、心から信頼し、心を注ぎだし、あなたがたの必要を祈り求めなさいとイエス様が教えてくださっているのです。私たちはこの地上で一生懸命生きていて、生きている以上、様々な必要が生じ、様々な苦労、思い煩いがどうしても生じます。表面上は何の苦労もなく、何の悩みもなく、幸せそうに生きているように他人には見えるかもしれませんが、実のところはどうでしょうか。自分の奥まった部屋、秘密の蔵はどのようなもので満ちているでしょうか。しかし「耳を植えつけた方が聞かないだろうか。目を造った方が見ないだろうか」(詩949)と詩篇の記者は言っていますが、耳を植えつけ、目を造られ、また私たちの内にある心をも創造された創造主なる神は、秘密の蔵、心に満ちている声にさえならない、ことばにならないうめきさえも聞かれ、隠れたところですべてをご覧になり、時にはあわれみの心で胸を痛めておられるお方です。そして、そのお方はあなたがたの父、父なる神であるとイエス様は言われます。父なる神は、親心をもって私たちに常に関心をもっておられ、愛をもって良いものを与えたいと願われているのです。そして、私たちがお願いするよりも先に、私たちが必要としているものを知っておられるのです。私たちが必要としているものをご存知で、しかも私たちにとって本当に必要なものをご存知のお方なのです。
皆さんは何を熱心に祈っているでしょうか。どのようなものを求めているでしょうか。それを得るためにどんな努力をしているでしょうか。しかし、私たちが大切と考え、価値があると思い、自分を幸せにしてくれると信じて祈り求めているものは、どうしても必要で大切なもので、私たちを本当に幸せにしてくれると信じて祈り求めているものは、どうしても必要で大切なもので、私たちを本当に幸せにし、永遠に価値があるものでしょうか。多くの人々が祈っているものや求めているものは、一時的な喜びや満足感、表面的な見せかけだけの幸福感しか与えないものかもしれません。また、多くの人々は、様々な問題や悩み等に対する解決、苦しみや恐れ等からの救いを求めて祈っています。私たちも解決や救いを求めているのではないでしょうか。父なる神は、一時的な喜びや満足感、表面的なみせかけだけの幸福感、一時的で表面的な解決や救いではなく、本当の喜び、満足、幸福、解決、救い。永遠の喜び、満足、幸福、解決、救いを与えたいと願われているお方です。
前回も申しましたが、だからと言って、神は無理矢理に口をいっぱいに開こうとされる神ではないのです。本当に良いもの、必要なものであっても、無理矢理に揺すり入れようとされる神ではないのです。私たちが自ら口をいっぱいに開き、それを神に満たしていただくことを真実に求めることを期待し、待っておられるお方です。父なる神は私たちを支配される神ではない。私たちといつもともにおられ、完全に支え配慮されるお方です。私たちの弱さを助けてくださいますが、私たちの弱さを奪い取るような神ではありません。弱い者の側で導きをもって助けてくださるお方。ずかずかと心の奥深くに踏み込んでくる神ではありません。人の心を操作されない。私たちの弱さにさえ敬意を払われ、尊ばれ、時には差し控え沈黙を保たれるお心を持っておられるお方。しかし決して諦めることなく、私たちに何度も何度も語りかけ、沈黙の内でも語りかけ、何度も何度もご自身に対する信仰、信頼を求めてくださり、わたしに求めよと迫ってくださる神です。だからこそ、私たちが偽善によって自分を義とし、それで満足して口を閉ざしてしまうことを戒められるのです。
「だから、あなたがたはこう祈りなさい」とイエス様は言われます。天におられすべてをご覧になりご存知である父なる神に、心から信頼して、空しいことばを積み上げるのではなく、ことば数を少なくしてこのように祈りなさいとイエス様は言われます。
6章9節 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
いよいよイエス様が弟子たちに教えられた祈り、今朝も私たちが声を合わせて祈った「主の祈り」が教えられて行きます。
今年の元旦の主日礼拝でも主の祈りを学びました。主の祈りは共同体の祈り、つまり全世界の聖徒たち、教会の兄弟姉妹、イエス・キリストの恵みによって罪赦され、救われ、全知全能の神の子どもとされたすべての人たちが、自分のためだけでなく、すべての神の子ども、兄弟姉妹たちのために祈る祈りです。そして何よりも、イエス様が私たちに、「私たちの父よ」と祈り始めることを教えてくださっているところにイエス様の愛を覚えるのです。「私たち」とは、主イエスと私。主イエスとあなた。主イエスと教会です。インマヌエル(訳すと神我らとともにいます)と呼ばれるお方、イエス・キリストは、今日も罪人である私、また私たちとともにおられ、罪人と同じ立場に立って「私たちの父よ」と、ともに祈ってくださるのです。罪深い私たちの罪のために十字架に架けられ死なれたお方。その死によって私たちの罪に対する神の怒りを完全になだめてくださったお方が、今も私たちとともに、私のすべてをご存知である神の前にご自身の十字架を示され、とりなし、「私たちの父よ」と、父なる神に愛と赦し、あわれみと恵みを請い求めて祈ってくださっているのです。そしてさらに、私たちの方に向かって、わたしがついているのだから、信じ、信頼し、心から本当の喜び、満足、幸福、解決、救いを期待して、ことば数を少なくして、大量に空しいことばを積み重ねるのではなく、熱心に、大胆にこのように祈りなさいと言われ、「主の祈り」と呼ばれる祈りを教えてくださるのです。イエス様はわたしがともにいて、わたしがともに祈るのだから、熱心に、大胆に、このように祈りなさいと「主の祈り」を教えてくださいました。教えていただいたならば、それをそのとおり実行しなければなりません。しかしやはり気をつけなければならないのは、それが彼ら偽善者、パリサイ人たちのように見せかけの、自分を立派に見せるだけのもの、それで満足してしまうことになりやすいこと。また彼ら異邦人、偶像礼拝者のように、ただくり返すだけの祈祷文や呪文のようになってしまうこと。イエス様はこの祈りを暗記して、ただくり返すように教えられたのではありません。意味もよく考えられないで習慣的にくり返すように教えられたのではありません。そうならないために、私たちはここでもう一度、主の祈りの本来の意味を考えてみる必要があるのかもしれません。
今朝はここまでとし、次回から主の祈りの中身へと入って行きたいと思います。皆さんも今週、日ごとに祈る主の祈りについて、色々と思い巡らせつつ祈ってみていただきたいと思います。きっと主はそのことを喜んでくださり、心地よく感じられ、満足され、皆さんにたくさんの恵み、また良いもの、聖霊を注がれ満たしてくださることでしょう。