2023年3月12日 主日礼拝「求めれば与えられる」
礼拝式順序
礼拝前賛美
報 告
開 祷
讃美歌 16番「いときよきみかみよ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照)
使徒信条 566番「我は天地の」(参照)
讃美歌 68番「ちちなるみかみに」
聖 書 マタイの福音書7章1〜12節
説 教 「求めれば与えられる」佐藤隆司牧師
讃美歌 499番「みたまよくだりて」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
本日の聖書箇所
マタイの福音書7章1〜12節
説教題
「求めれば与えられる」
今週の聖句
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
マタイの福音書7章7節
今週の祈り
自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。
(ローマ12:18)
愛の父よ。私はあなたの敵でしたが、あなたは友と呼んでくださいました。私を平和をつくる者にしてください。そうすれば、あなたの恵みを人に示せるでしょう。
説教「求めれば与えられる」
マタイの福音書6章25〜34節
ジュースの自動販売機で、たまに「ミステリー・?」のボタンがあるものを見かけます。お金を入れてそのボタンを押して、さあ何が出てくるのかはお楽しみという、人の好奇心を煽るようなゲーム感覚のものです。恐らく大抵は、自分が一番期待していたものや予想していたものとは異なる飲み物が出てくるでしょう。そしてがっかりするのです。しかし飲んでみたら、実に美味しくて、渇きを覚える今の自分に最善の飲み物だったら最高です。信仰者であれば「なんと幸いなことよ!」と、思わず神さまに感謝するかもしれませんね。
聖書の中にはキラリと光るみことばが多く登場しますが、本朝与えられました箇所にも私たちの大好きなみことばがあります。7章7節の「求めなさい。そうすれば与えられます」。有名なみことばであるが故に、そのみことばが独り歩きしてしまっている場合もあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」。これはひとつの文脈の中でイエス様が語られていることであり、文脈を無視してしまうと神さまに対する理解を間違ってしまいます。神さまは自動販売機のようなお方ではありません。ボタンを叩けば大好きなジュースを出してくるようなお方であると考えてはならないのです。今日の箇所でも父なる神さまは私たちにこれを与えたいと願われているものがあるようです。私たちにこれを求めなさい、探しなさい、たたきなさいと願われているものがあるようです。ですからここで教えられていることは、自分が望んでいるものが出て来るまでボタンを叩き続けなさいではなく、大切なのは、熱心な求めに応え天の父が与えてくださるものが何かであるのです。
7章1節 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7章2節 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
5章1節から始まった山上の説教も、いよいよ終わりにさしかかってきました。そこでイエス様は「さばいてはいけません。さばかれないために」と言われました。実はイエス様はここで、やがてこの地上での日々、人生の総決算があることを覚えて歩むようにと弟子たちに教えておられるのです。
この「さばく」には色々な意味がありますが、ここでは「強く非難する」という意味合いで用いられています。非難とは、誰かの欠点やあやまちなどをとがめることを言います。そして「さばかれる」、また「量り与えられる」という受け身の語が出てきますが、これは聖書の中で“神的受動態”という文法が用いられており、イエス様はこの語を用いることによって、神さまご自身がそのさばきをなさることを示しておられます。さばかれる方はただおひとり。私たちはみな、人生の総決算の時には、神さまのさばきの座に立つことになるのだということをイエス様は言われるのです。
「最終的に神さまにさばかれないために、他人をさばいてはいけない」。イエス様は、誰かの悪いところを目をつぶって放っておきなさいと言われるのでしょうか。そうではありません。イエス様は後に「兄弟の罪を責めるように」と勧めておられます(185)。その兄弟が罪によって神さまにさばかれないためにです。また兄弟の罪を放っておいたその人がさばかれないためにです。神さまは「その悪しき者は自分の咎のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う」(エゼ338)と言われます。「赦す者を神さまはお赦しになる」と6章14節で教えられましたが、それとちょうど同じように「さばく者を神さまはおさばきになる」のです。ですから誰かをさばくのだとしたら、それは本当に正しい公平な、真実な愛によるさばきでなければなりません。弟子には大きな責任が伴うのです。誰かを本当に赦すことも難しいことですが、誰かをさばく(良い所、悪い所をはっきり見わけ、評価判定する)ことも、私たちは案外簡単にしてしまいますが、本来ならば本当に難しいことなのです。自分の将来のいのちに関わることなのですから。
イエス様の視界の中には、いつも律法学者やパリサイ人たちの姿がありました。彼らは自分のことを棚に上げて、民衆が律法を守らないと言って批判し見下げていました。そして自分こそは神の前に義とされる正しい人間であると自負していました。イエス様はいつも彼らを「偽善者」と呼び、そのような彼らを厳しく責めておられました。しかしイエス様の弟子であっても「偽善者」になりかねないのです。イエス様は弟子たちに何度も「偽善者たちのようであってはならない」と注意喚起されました。私も含め人間というのは、互いに他人のあらを探して批判し合ってしまう者ではないでしょうか。いつも自己中心で、自分が善の基準や標準であると思い違えて、その基準や標準で他人をさばく者となりやすいのです。しかし他人をさばく自分の基準で、実は最終的に自分もさばかれることになるとイエス様は弟子たちに教えられます。パウロはこのイエス様のお言葉を分かりやすく、そしてさらに厳しく言っています。「すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神の裁きが下されることを、私たちは知っています。そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか」(ロマ21−3)。私たちはこのみことばの前にひざまずかされるのです。
ここで羽鳥明先生がある本の中でこのように言われていたことを思い出します。「おかしくはないか。他の人があることをするのに長い時間をかけていると『あいつはのろい』と言い、自分が同じことをすると『忙しいから仕方ない』と言う。他の人が言わないことを勝手にすると『でしゃばり』と言い、自分が言わないことを勝手にすると『私は積極的だ』と言う。他の人が自分の意見を強く主張すると『がんこ』だと言い、自分のときは『しっかりしている』と言う」。本当にそうだと思わされます。車を運転していて、先頭に右折車がいて渋滞している時に、「なんでこんなところで曲がるんだ」と怒りながら、ちょっと進んで自分も右折しようとして渋滞を引き起こすのです。「どうしてもここで右折しなければならないのだから仕方ないじゃないか」と言うのです。あの人には神と隣人とを愛する愛が足りないと非難しながら、果たして自分にはその愛があるのでしょうか。
7章3節 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
7章4節 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
イエス様がご覧になる私たちの真実な姿でしょう。この例話は、大工の仕事に深く関わっておられたイエス様ならではの例話と言えるのかもしれません。「ちり」とは木を切るとき出るおが屑のことです。私たちは他人の目の中にある小さなおが屑を見逃さないほど他人の欠点にはよく気がつくのに、自分の目にある梁には少しも気がつかないのです。そのような人たちにイエス様はこう言われます。「偽善者よ」と。
7章5節 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。
「偽善者よ」とのイエス様の呼びかけにドキッとさせられます。この厳しい呼びかけは、この箇所だけ律法学者やパリサイ人たちに対してではなく、弟子に対して厳しく言われているのです。私たちもしっかりと聞かなければならないお言葉です。
他人を批判する前に、まず自分をしっかりと見つめ、神さまの前に徹底的に自己批判をして、自分が罪人であることを認めなければならないとイエス様は言われます。それはとても難しくて苦しいことかもしれません。しかし、自分を正しいとする者は、神の国から最も遠い者であるというのが一貫したイエス様の教えです。自分を正しいとする者は、神の国に入れないのです。なぜなら、神の前に高ぶる者、自分を正しいとする者は、実はイエス様を憎むからです。主を愛していると言いながら、実は憎んでいる。まさに偽善者、演技をする者です。
イエス様に厳しく偽善者と言われた律法学者、パリサイ人たちは、イエス様が語られた福音(罪が赦され、神の国に生きること)の素晴らしさが理解できずに、かえってイエス様を批判し攻撃したではありませんか。彼らは徹底的に自己批判をして自分の罪を素直に認めるようにと迫るイエス様を放っておくことができなかったのです。彼らはイエス様を殺そうと相談し、ついには十字架に架けて殺してしまいました。私たちはどうでしょうか。私たちも、自分のことを棚に上げて他人のことばかりを批判しているなら偽善者です。まず苦しくても自分の罪を見つめて、認めて、悔い改めなければならないのです。そうでないと神の国に入ることはできないからです。自分の罪を認め、神の前に謙虚になる者は、十字架に架けられたイエス様の足もとにひざまずくのです。私たちの目はただそこから真の救いを求めてイエス様を見上げるのです。神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われた(ピリ26−8)、このへりくだりの主の前にさらにへりくだり、主を仰ぎ、主にすがり、主を信じる者となれるのです。罪や罪による苦しさから本当に解放されて、神さまが愛をもってすべてをご支配なさる神の国、天の御国を慕い求め、飢え渇きを覚えて求める者となれるのです。求める者にこそ神さまは与えられるのです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(53)とのイエス様のおことばはどこまでも真理なのです。
「まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうしたら今、直面している事態を正しく見ることが出来、他の人も真に滅びから助けることができる」。そうであってこそ、イエス様の真の弟子なのです。
7章6節 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。
6節から唐突に話題が変わるように聞こえますが、やはり同じ文脈の中で語られていることを覚えなければなりません。
「聖なるもの」「真珠」はイエス様の伝えた福音のことです。「犬」や「豚」はユダヤ人によっては軽蔑すべき存在であったことから、暗に律法学者やパリサイ人、つまり偽善者(他人をさばき、自分をさばかない人。自分を義とする人)を指して用いられた言葉でしょう。そのような人は、先ほども申しましたがイエス様と福音を憎み敵対するのです。そのような人には福音を与えてはならないと本当に厳しいことを言われるのです。私たちがもしそちらの立場に立っていたとしたら恐ろしいことだと思われないでしょうか。
また、福音というのはただ伝えれば良いのではなく、口汚くののしり暴言を吐く人たちに対して、足のちりを払い落として立ち去ったパウロのように、相手を見極めて、毅然とした態度をとることが必要なのです。自分の信仰を貫くために、また与えられた永遠のいのちを守るために、時には福音に真っ向から激しく敵対し、私たちの信仰を捨てさせようとする人の試みや危険から逃げなければならないかもしれません。それが神さまの御心である場合もあるのです。自分は強い、大丈夫だと思い込んで、自ら試みや危険の中に入っていっては危ないのです。私たちには、福音を伝える相手や状況、危険度合い、そこから立ち去るべきか、あるいは福音を伝えなければならないのか、そのことを見極める力、御心を見分ける知恵や洞察力が必要なのです。しかしこれもまた、目の中に梁がある私たちには難しいことなのです。
御心であるならば危険から遠ざかることは敗北ではありません。「復讐はわたしのすることである」と主は言われるのです。だからあなたが復讐する必要はないと言われるのです。福音に猛反対する相手であっても、主はその人のいのちをも顧みておられるお方です。そのような人たちでさえ神さまは救いたいと願っておられるのです。ですからきっと、私たちが伝えたほんのひと言の福音であっても、主がそれを用いてくださり、いつの日か主の時に救いへと導かれるかもしれません。救いは究極的には主のみわざです。そこに主にすべてをお委ねする信仰が必要なのです。主に委ねるとは、自分の手から手放すことです。そして心から赦すことでしょう。そして彼らを真実に愛し、彼らが罪を認め悔い改めて救われることを心からとりなし祈る。これもまた私たちには難しいことなのではないでしょうか。
ここでイエス様は言われます。
7章7節 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7章8節 だれでも、求めるものは受け、探す者は見いだし、たたく者には開かれます。
「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」、「求める」「探す」「たたく」はいずれも、文法的には「し続けなさい」というニュアンスが含まれており、これらはすべて祈りを指しています。祈り続けるならば必ず答えられ、祈り続けるなら「だれでも」もれることなく答えられることを教えておられます。
イエス様はここで、積極的に求める心を持つべきであると強調しておられます。求めても与えられないからと言ってあきらめてはならない。もっと積極的に探してみなさいと言うのです。それでも見つからなかったら門を叩いてみなさいと言われます。そうすれば、うるさくてたまらなくなって開けてもらえるだろうと。こうなると積極的というのを通り越して執念です。しかし私たちはこのことを他人事のように感心していてはいけません。これこそイエス様が弟子に求めておられる、ご自身に求め続ける積極的な姿勢なのです。なぜなら、先ほども少し申しましたが、求め続け、探し続け、たたき続ける者に与えられる。これが神さまの法則だからです。イエス様も福音を語られましたが、決して聞く人にそれを無理に押しつけたりはなさいませんでした。どこまでも聞く相手の自由意志による決断にゆだねられました。律法学者やパリサイ人のように、自己満足している者にまで福音を押しつけるようなことは決してなさいませんでした。神さまはご自身に真実に求める者に必要なものを与えてくださるお方なのです。ですから私たちは神さまに真実に求めなければならないのです。おごり高ぶり、もう満足だとして求めないものには与えてくださらないのです。
では、イエス様は私たちに何を求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさいと言われるのでしょうか。求めても与えられないからと言ってあきらめてはならない。もっともっと積極的に探してみなさいと言われるのは何なのでしょうか。
7章9節 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
7章10節 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
7章11節 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。
イエス様はここで、子どもの求めに応じる父親のたとえを用いておられます。同様に、父なる神さまは「求める者たちに、良いもの」をくださらないはずはないと言われます。人間の父でさえも、大抵は息子が喉を渇かして飲み物を求めているのに、役に立たないものや、ましては有害なものを代わりに与えたりしないでしょう。できるだけ渇きを癒やす良いものを与えたいと願うものです。父なる神さまは私たちをご自分の子として愛してくださっています。それゆえに、求める者にはすべての物を惜しまず与えてくださるお方です。確かに私たちが求める前から、私たちの霊と肉に必要なものすべてを知っておられるでしょう。しかしここで、イエス様は私たちに何を求め続け、探し続け、叩き続けなさいと言われるのでしょうか。求めても与えられないからと言って諦めるなと言われるのでしょうか。情熱、執念をもって何を祈り求めなさいと言われるのでしょうか。偽善者のように自己満足に陥らないで、積極的に神さまに求めなさいと言われるのでしょうか。
それは「聖霊」です。ルカの福音書ではこの「良い物」はもっと具体的にされており、「聖霊」となっています。
【ルカの福音書】
11章13節 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
私たちにとって最も重要で、最も慕い求めるべきもの。私たちが飢え渇きを覚えて祈り求めるべきもの、そして神さまが求める者に与えたいと願われるものとは「聖霊」なのです。これまでの文脈の中で何が言われてきたでしょうか。人を真実に愛さなければならないこと。真実に愛し、正しく公平に裁かなければならないこと。そのために、まず自分をしっかりと見つめ、神さまの前に徹底的に自己批判をして罪を示していただき、苦しくとも自分の罪に真正面から向き合い、自分の罪や足らなさを認め、真実に悔い改めなければならないこと。自己中心、高慢から解放されなければならないこと。神の前に謙虚になり、十字架のイエス様の足もとにひざまずくこと。自分の目をただイエス様でを見上げる。主を仰ぎ、主にすがり、主を信じる。人々の間で毅然とした態度をもって福音を宣べ伝える。福音を伝えるべき相手、また状況、神さまの御心を見極めることのできる知恵、洞察力。敵を真実に愛し、敵を神さまに委ね、敵を真実に赦すことのできる信仰。敵のための真実なとりなしの祈り。すべて私たちの内には持ち合わせているものではなく、すべて聖霊が注がれ、聖霊に満たされ、常に私たちのうちにとどまられる主の御霊によって導いていただかなければ不可能なことばかりではないでしょうか。私たちにイエス様が飢え渇きを覚えて情熱、執念をもって祈り求めなさいと言われるのは、聖霊なのです。もし私たちが祈り求めるならば必ず与えられ、祈り求めるならばだれでも受けることができるのです。主は今、どうしても私たちに聖霊を祈り求めさせ、そして聖霊をどうしても与えたいと願われているのです。狭き門を通って天の御国に入れられるために。今日、私たちは心をひとつにして、その御声に聞きたいと願います。使徒の働きではイエス様が天に上られた後、弟子たちが集まって心一つにして祈っていた時に聖霊が注がれたではありませんか。そこから弟子たちは力に溢れ、神とすべての隣人を愛する愛に溢れ、人々の間に、身近なエルサレムから始まって全世界へと宣教に出て行ったのです。
7章12節 ですから、人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。
人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。逆を言うならば、「人にしてもらいたくないことは何でも、あなたがたも同じように人にしてはならない」ということでしょう。これこそ、律法と預言者、つまり聖書、神さまの御口から語られ命じられたみことばです。私たちは真実に人から愛されたいのではないでしょうか。私たちは人から不当にさばかれたくないのではないでしょうか。
イエス様は言われました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」(マタ2237-40)。さらにガラテヤ書でパウロはこのように言っています。「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです」(ガラ514)。ヨハネの福音書でイエス様はこう言われました。「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です」(ヨハ1415-16)。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」(ヨハ157)。今日の箇所では、それは私たちにとって一番必要なものであり、私たちにどうしても与えたいと父が願われる「聖霊」です。私たちは神さまの戒めを守り、心を一つにして祈り求めるならば、ますます聖霊が注がれ、満たされることになります。兄弟姉妹が心を一つにして聖霊を祈り求め待ち望む。また、私自身の心を一つにして一心に聖霊を祈り求め待ち望む。地上で心を一つにして祈り待ち望むなら、天におられる父はそれをかなえてくださいます。父は祈り求める者に助け主なる聖霊を注ぎ、満たしてくださいます。聖霊が弱い私たちを助け、天の御国に至るまでいのちを守ってくださいます。身近なところから始まって世界にまで福音を宣べ伝える者、そこで神さまの栄光を現す者としてくださいます。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(633)。今の私たちに神の国と神の義、つまり神さまが愛をもって完全にご支配なさる国(領域)と罪の赦し、永遠のいのちはどのようにしてもたらされるのでしょうか。それは聖霊によるのです。まず聖霊を求めなさい。そうすれば、これらのもの(何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといったもの)はすべて、それに【加えて】与えられるのです。聖霊に満たされる人は愛と喜びに満たされるでしょう。そのような人の周りには人が集まってくるでしょう。そしてそこに助け合いが起こり、神の国の片鱗が現れるのです。「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ1721)とイエス様は言われたのです。
私たちは今日、聖霊の満たしを心一つにして真実に祈り求め、ますます聖霊に満たされてまいりましょう。聖霊によってすべて導いていただき、助けていただき、愛に満たされて、任された場所場所へと出て行き、神さまの栄光を現し、キリストの香りを放ち、福音を宣べ伝えてまいりましょう。教会に、家庭に、職場に、ご近所に神の国を現してまいりましょう。そしてやがて天の門が開け、人生の総決算の時、天の御国に入り神さまの御前に立つその時、私たちは何も恥じることのない者でいたいと願います。