2023年3月26日 主日礼拝「2つの土台」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  546番「せいなるかな」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  121番「馬槽のなかに」
聖 書  マタイの福音書7章24〜8章1節
説 教  「2つの土台」佐藤隆司牧師
讃美歌  517番「われに来よ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書7章24節〜8章1節

説教題

「2つの土台」

今週の聖句

ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

マタイの福音書7章24節

今週の祈り

ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。
(Ⅰサムエル記18:3)

神よ、自分で壁を作らず、相手を愛し、誠実な友情を育むことができるよう助けてください。

説教「2つの土台」

マタイの福音書7章24節〜8章1節

先週から続いてマタイの福音書は、イエス様が山上でされた説教、山上の垂訓としても良く知られていますが、その全体の結びの部分を記しています。「垂訓」というのは、教訓(人生において役立つ教えのことですが)を後世の人々に残すことを言います。また、何か損失が起こった時に、次回からの戒め(同じ失敗を繰り返さないように)として前向きにとらえる表現のことも教訓と言います。例えば自分が何か滅びに至る大きな門をくぐろうとしている時には「狭い門から入りなさい。いのちに至る門はなんと狭いことか」というイエス様の声を聞くのです。耳ざわりの良い話しを聞いたなら「羊のなりをしているけれど実は貪欲な狼である偽預言者の言っていることに用心しなさい」というイエス様の声を聞くのです。

この時のイエス様の周りには大勢の群衆がいました。彼らは様々な世の迫害、貧しさや生き難さのある時代に生きて、苦しみ、悩み、時には絶望し悲しむ群衆をご覧になって、イエス様は何を思われたのでしょうか。迷える羊が導く牧者を求めるようにしてご自分に付き従って来た多くの人々をイエス様はどのような目で見つめられ、何を感じられたのでしょうか。憐れみと慈しみでしょう。福音書にはイエス様の罪人、病人、貧しい人、弱い人に対する憐れみと慈しみに満ちた眼差しが多く記されています。一人ひとりの苦しみや悲しみに深く同情され、一人ひとりに深い愛情を抱かれたのです。一人ひとりを愛され、一人ひとりのいのちを大切に思われたのです。群衆を見てイエス様は山に登られ、そして腰を下ろされ、みもとに弟子たちを招き、弟子たちに向かってこの垂訓を語られました。しかしだからと言って決して群衆が取り残されている訳ではありませんでした。7章28節にはこの群衆もまた弟子たちとともにイエス様の垂訓を聞いていました。そのようなことを覚えつつ、改めて5章のはじめからイエス様のお言葉に聞いてみてください。イエス様がご自分の弟子たちに求めておられることが伝わって来るのではないかと思います。

先週は21・22日と私たちの教会が属している日本同盟基督教団の総会がありました。そこで改めて、日本同盟基督教団は宣教の団体であることを確認し、出席者一同が聖霊に満たされ、心を一つにされ熱く燃やされました。難しいことを言われると分からなくなってしまうような私が、自分でも分かるように同盟教団の特色についてまとめたものがありますので、少しずつ何らかの形で分かち合っていきたいと考えておりますが、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが“行って” “実を結び”、“その実が残るようになる”ため…」(ヨハ1516)と主は言われます。私たちが長野聖書教会を選んだのではないのです。主が私たちを同盟教団に属するこの長野聖書教会に招き、任命してくださったのです。そこに主の計り知れないご計画があるのです。宣教というのは、個人的に福音をお伝えすることももちろん含まれますが、もっと広く、地域や社会に対する貢献であったり、私たちの生き方、生き様、私たちのすべてを通して素晴らしい神さまの愛を表現し伝えていくことです。まさに肉の思いに支配されていては無理なことですし、聖霊、御霊の実に満たされているのでなければ不可能なことでしょう。ですからイエス様は山上の説教の最後のパートで、決してあきらめずに聖霊を祈り求めるように、そして「人にしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」(712)と教えられたのではないでしょうか。

さて、先ほどご一緒に拝読しましたが、イエス様は前回から続く山上の説教全体の結びのところで一つの喩えを語られました。ここで重要なことは、2種類の土台があるということです。

前回は21節のところで、父なる神さまの御心を行う者、それはつまり、山上の説教をそのまま実践する者の姿が描かれました。父の御心を行う者が御霊の実を結び、「その日」人生の総決算の時には幸いな結実を見るのだということです。

前回に続いて改めて確認しなければならないことは、私たちは世の多くの道が教えているような、決して良い行いによって救われるのではないということです。その声に惑わされてはなりません。主イエス・キリストを信じる者はすでに確実に救われているのです。聖書の言っていることは「すべての人は罪人である」。神さまのお眼鏡にかなう良い行いなど誰一人決してできません。そのような救われようのない私たち罪人を憐れみ慈しまれる神は、永遠の昔から救いの道を備えてくださっていました。神を信じ、罪を悔い改めて神が遣わされる御子イエス・キリストをただ信じるならばすべての罪を赦そうという、嘘のような真実な約束、受けるに全くふさわしくない者が受けることのできる恵みの約束をされたのです。罪人はその恵みの約束にすがることしかできません。世では絶望する人が「その手があったか」などと言いますが、まさに神は「その手」を示されたのです。本当に罪に苦しみ悲しむ人は、その恵みの約束、父なる神の愛の心、その手にすがりつくのです。「その手」とは、良い行いではなく、ただ罪を悔い改めて神の約束を信じることのみ。世の偽預言者たちは「信じる者は救われる」と馬鹿にしたように言いますが、しかしそれこそが真の神の約束であり、救われるための真実で唯一の「手」「道」「方法」なのです。神は人間の罪の一切を、神ご自身のひとり子イエス・キリストに負わせ、十字架に架けられ死なせました。罪の悲惨さは、人間の罪を身代わりに負われ十字架に架けられたイエス・キリストの御姿を見るならば明らかです。イエス・キリストは人々に痛めつけられ、傷つけられ、踏み付けられ、蔑まれ、身も心も貧しくされ、悲しまれ、絶望し、十字架の上では魂の飢え渇きを覚えられ、血を流し、死なれたのです。イエス・キリストの十字架によって、神はすべての罪人に対する刑罰を成し遂げられました。それで神と人間との間に隔たりとなっていた壁は取り壊されました。神と人とを隔てていた幕が上から下へと真っ二つに切り裂かれました。すべての罪はイエス・キリストの十字架によってすでに解決されたのです。神の人間の罪に対する怒りは完全に宥められたのです。神と人間との壊れていた関係が、完全に平和な関係へと回復されたのです。人は自分の罪を悔い改めて、このイエス・キリストを信じるならば救われる。それが神さまの約束、神との関係を回復するための真実で唯一の「手」「道」「方法」です。罪人がその罪のどん底で自分の罪を悔いて、顔を天に向けて「神さま」と心から助けを求めて神に手を伸ばした瞬間に、神は「待ってました!この時を待っていたよ!お帰り!」とばかりに手を伸ばされ、私たちの手を握って罪の泥沼から引き上げてくださるのです。私たちの側にほんの少しばかりの信仰と神に求める心があり、私たちの側から神に求めて手を伸ばすならば、神はすかさずその手を握り引き上げてくださるのです。逆を言うならば、信仰と求める心がない者に、全能なる神であってもそれはおできにならないのです。握る手が引っ込められてしまっているのですから。その姿を見て、神は本当に心を痛めておられるのです。

手が握られ掴まれ引き上げられた者は、神との平和な関係が回復し、それは父と子の関係にまでされるのです。父は子を真実に愛するのです。たとえ子が失敗したとしても、父なる神は両腕を力いっぱい広げ、赦しと恵みを施そうと常に待っておられるのです。しかも広げられた両腕は決して閉じられることはないのです。イエス・キリストの手にすがりつこうと決めたその瞬間に、永遠のいのちが与えられ、聖霊が注がれ、信仰が与えられ、天の御国に至るすべての道を守り、導かれ、すべての出来事をすべて働かせて益としてくださるのです。私たちは罪の苦しみの中から神が差しのばされた御腕、御手であるイエス・キリストにすがりついた者たちでしょう。そこからの歩みはどのような歩みだったでしょうか。私たちはこれまで自分が歩んで来た道を身をもって証しするのです。そしてこれからもその道を歩いて行くのです。しかし、道を迷い出ることもまた人間の意志であり決断なのです。父なる神は決してそう願っておられないのに、人間がよそ見をして、惑わす声にそそのかされ、神に背を向け迷い出ようとしてしまうのです。その先は滅びです。永遠の滅びです。迷い出た者が迷い出たままで「その日」を迎えてしまうならば、そこで滅びてしまうのです。今日の箇所のみことばで言うならば「その倒れ方はひどいもの」なのです。神が造られ、ご自分の息・霊を吹き込み生きる者とされたすべての人間に対する父なる神のお心はいかばかりでしょう。ましてや、ご自身の約束を一度信じて、ご自身の大切なひとり子イエス・キリストのいのち、血の価によって罪の苦しみから解放し「我が子よ」と御腕に抱き寄せられたその一人が滅びでしまうことなど耐えられるでしょうか。

神の子とされ、神の子であるという自覚を持つ者、神に愛されていることを自覚し、神を愛する者がその目を一心に父に向け、父が待っておられる天の御国へと真っ直ぐに続く、狭く細い道を、決して滅びの道に迷い出ることのないように「用心(警戒する、注意を払う、偽預言者のいうことに注意を払う)」しながら進み続けることができるのです。迷い出ることのないようにするにはどうするのか。父の御心を行うことによって、それはつまり山上の説教をそのまま実践し続けることによってです。その人は御霊の実をどんどん結んで行き、「その日」には本当に幸いな結実を見るのです。父はそれを心から望んでおられるのです。

従って、イエス様の言葉、山上の説教に従うことが最も重要です。主の祈りを祈り続けなさいと聞いたなら、そうし続けるのです。「何も心配いらない、わたしを信じ、わたしにすべて任せよ。いつでもどんな時でも喜んでいなさい。他人をさばいてはいけない。聖霊を祈り求め続けよ」という御声を聞いたなら、その通りにし続けるのです。そうする者としない者とでは決定的な違いが生じてしまうのです。

24節からのたとえ話に登場する二人がしたことは実によく似ています。共に自分の家を建て、同じ嵐にあったのです。雨も洪水もみな同じなのです。しかしそれでいて結末が全く異なるのです。一方は嵐にあっても平気なのですが、他方は壊滅的な打撃を受けるのです。それは土台が違っていたからです。

7章24節      ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

「それを行う者」とは、イエス様の説教を聞いて神を信じてその教えに従う者のことを指しています。神を信じて神の言われていること、神の御心に従っているということは、神の完全な支配のもとにあるということなのです。神の支配というのは何か恐ろしいものではありません。まったく逆で、愛の神の支えと完全な配慮の中で、御国の民の一員として生活する本当に幸いなことです。それを行う者、イエス様の説教を聞いて神を信じてその教えに従う者、神の御心に従っている者、つまり神に従っている者、そのような者は神の完全な支えと配慮の中に置かれているということなので、もうそれだけで安心して良いのです。守られているのです。

7章25節      雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。

雨、洪水、風、これらは恐らくこの世での生活の中で味わう様々な苦難や試練、苦しみや悲しみのことを言っているのでしょう。また神のさばきという「その日」に味わう究極的な試練を象徴して言っているのかもしれません。いずれの場合のいずれの時も、神から与えられた土台、礎だけが持ちこたえることができるのです。イザヤという預言者はこう預言しています。「それゆえ、神である主はこう言われる。『見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない』」(イザ2816)。試みを経た石、堅く据えられた礎、尊い要石。これはもう十字架で苦しまれたイエス様を預言したものであることは明らかです。マタイの福音書4章で、人間が味わうすべての試みを荒野で経験されたイエス様。そして十字架で究極的に試みられたイエス様こそ堅く据えられた礎、尊い要石。このイエス様とイエス様が語られたみことばに信頼して従う者は、決してその時、この世での試練の時、また「その日」神のさばきの前で、決して慌てふためいたり、揺るがされることはないのです。

7章26節      また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
7章27節      雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

イエス様の言葉に聞き従うことをせず、自分の生き方に満足して神の支配に服従しない者は、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」と喩えられています。どちらも家が建っている点においては同じでした。しかし、洪水が押し寄せ、嵐が来るとその結果の違いは明白になるのです。岩の上に土台が据えられ、その上に建てられた家はびくともしないのに、砂の上に建てられた家は押し流されて倒れてしまうのです。しかもその倒れ方は「ひどいものでした」とわざわざ付け加えられているのです。ひどい倒れ方、壊滅的な倒れ方。挫折、絶望、究極的には滅び、永遠の滅びです。「ひどい倒れ方」「ひどい」は、軽く受け止めて良い警告ではないのです。

さて、5章3節にあったかぎ括弧は、ここ7章27節でついに閉じられました。ここまでイエス様が一気に語られて来た山上の説教、山上の垂訓は終わりました。イエス様のみことばに耳を傾けていた弟子たち、そして弟子たちを囲む群衆の間に、おそらく束の間の静寂があったのではないでしょうか。一人ひとりがそれぞれに色々なことを思い巡らせていたのではないかと思います。

7章28節      イエス・キリストがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7章29節      イエス・キリストが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

イエス様は弟子たちに向かってこれまでの説教をされました。しかしマタイは、イエス様の教えに対する一般大衆の反応に注目するのです。そしてその群衆が驚いたのは、イエス様の「権威」についてでした。イエス様が権威ある者として話されたからでした。ユダヤ人にとって「権威ある者」とは、神を指すことばでした。群衆はイエス様とイエス様が語られたみことばの中に神の権威があると直感的に感じたのでしょう。イエス様が神ご自身であるとこの時は瞬間的に心に感じたのです。私たちはどうでしょうか。群衆の多くの者は、この時感じ取ったものを心に持ち続けることはできませんでした。やがて一度は神と信じたこのイエス様を「十字架につけろ!」と叫び殺そうとしたのです。殺してしまったのです。

8章1節        イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。

大勢の群衆がイエス様に従いました。けれども少数の人は「これは聞いていられない」とイエス様から離れてしまいました。大勢の群衆はこの後もイエス様に従っていきましたが、最後までついていった人はいたのでしょうか。私たちもイエス様の説教を聞いてそれをどのように受け止め、どのとうな反応を示すでしょう。後に弟子の中からもイエス様の言葉につまずき、多くの弟子たちがイエス様から離れてしまったという事件が起こりました。「信仰の薄い者たちよ」とイエス様は嘆かれました。12弟子でさえ、何もなければ「主よ、主よ」と信じて従っていながら、危機に直面するとその信仰が働かなくなってしまったのです。私たちもイエス様のみことばに心燃やされ、信仰が与えられながらも、そのようであってはなりません。教会を出たらイエス様のみことばに従う事を忘れてしまってはいけません。私たちは信仰という岩の上に、みことばを聞いて実践するという土台をしっかりと据え、その上にそれぞれが堅く建て上げられていきましょう。またその上に教会を堅く建て上げてまいりましょう。

イエス様は山上の説教で、父なる神が求めておられることが何であるかを教えてくださいました。そして聖霊の力によって、神の愛に照らされて、自分の罪を素直に認めて神のもとに立ち返り、神の支配、愛の神の支えと配慮に服従して神の国の民となるように招いておられます。「ただわたしを信じ、わたしの言うことに聞き従うように」と語りかけておられます。信仰が結ぶ実はみことばの実践です。山上の説教の実践です。そしてみことばの実践が結ぶ実は御霊の実です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実です(ガラ522-23)。これらの実を生きている間に豊かに実らせ、「その日」には喜んで神の前に、イエス様の前に立つことができるように、そして天の御国に入ることができるように、今、目の前に置かれている幸いな道をひたすらに主を見上げ、ともに主の御声に聞き従ってどこまでも歩んでまいりましょう。

今日はこの後に教会総会が行われますので、少し早いですがここで終わりたいと思います。けれども総会に向けて一つだけ申し上げておきます。教会の岩、土台の土台はやはり「イエス・キリストを信じる信仰」であるということです。同じマタイの福音書を少し先に進みまして、16章のみことはを本朝のみことばと併せて聞きたいと思います。

【マタイの福音書】
16章15節    イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16章16節    シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16章17節    すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16章18節    そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(ペトロス・訳すと石)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上に、わたしの教会を建てます。…」

教会の岩、土台の土台はイエス・キリストを信じる信仰です。そして信仰の実はみことばの実践、山上の説教の実践であること。冒頭でも申しましたが、この時のイエス様の周りには大勢の群衆がいました。様々な世の迫害、貧しさや生き難さのある時代に生きて、苦しみ、悩み、時には絶望し悲しむ群衆をイエス様は憐れみと慈しみの眼差しをもってご覧になり、一人ひとりの苦しみや悲しみに深く同情され、一人ひとりに深い愛情を抱かれました。そこでイエス様は腰を下ろされ、みもとに弟子たちを招き、弟子たちに向かってこの垂訓を語られました。イエス様がご自分の弟子たちに、教会に求めておられることが何であるのかを今一度覚えつつ山上の説教を思い返し、教会総会に臨みたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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