2023年4月9日 イースター礼拝「あの方はよみがえられたのです」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌257「キリストは生きておられる」
      新聖歌157「墓の中に」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜6節
讃  美  讃美歌147「よろこびたたえよ」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌148「すくいのぬしは」
聖書朗読  マルコの福音書16章1〜8節
説  教  「あの方はよみがえられたのです」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌533「くしき主の光」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マルコの福音書16章6a節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マルコの福音書16章1〜8節

説教題

「あの方はよみがえられたのです」

今週の聖句

青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。……」

マルコの福音書8章6a節

説教「あの方はよみがえられました」

マルコの福音書16章1〜8節

私は毎朝、5時前には家を出て外を歩いたり自転車に乗っています。先日のイエス様の十字架を深く覚える受難日(7日・金曜日)の朝、外に出るとすでに日が上り始め、東の空は雲が朝焼けで赤く染まっていました。「今日はイエス様の受難日だもんなぁ」とあれこれ思いながら自転車を漕いでいました。ゲッセマネの園で弟子たちはイエス様に「霊は燃えていても肉は弱いのです」と言われたっけ。少し疲れを覚えていた私は、あれは本当に本当だなと思いました。皆イエス様を見捨てて逃げてしまったっけ。そろそろ鶏が鳴く頃だろうか。弟子たちやペテロのことを覚えながらそんなことを考え、私も同じだなと思いました。今ごろイエス様は縛られてピラトに引き渡された頃だろうか。「十字架につけろ、十字架につけろ!」宗教指導者たちに扇動されたかわいそうな群衆の恐ろしい声、イエス様の鞭打たれ痛めつけられる音、葦の棒で頭を叩かれ、顔を平手で叩かれる音、唾をかけられ「ユダヤ人の王様、万歳!」イエス様を馬鹿にする声が、家々の明かりがつき始めた世のそこかしこから聞こえてきそうな感じがして、私は天を仰ぎました。朝焼けで赤く染まった雲。あれはイエス様が流された血潮だろうか。こんな罪人である私を愛し、私の罪を赦すためにイエス・キリストは十字架にかけられたのだ。本当に感謝なことです。おかげで私は父なる神と仲直りできた。すべての罪が赦されて、怒りは完全になだめられて、父なる神との「完全な平和な関係が回復し、今こうして神にすべて守られ導かれ、満たされて、幸せに暮らすことができている。苦難があろうとも、以前のようにただの絶望ではなく、そこに希望と将来の確信が持てる。本当に幸いで、感謝で、喜びです。けれども、朝焼けの赤い雲を見て、私はやはり悲しかったのです。辛かったのです。喜べなかったのです。皆さんもそうではないでしょうか。十字架にかけられ、死なれ、葬られたイエス様を思う時、心から喜び踊れるでしょうか。やはり自分の胸を打ちたたくのではないでしょうか。そのような私のために、私たちのために、私たちが本当にすべての罪が赦され、神との平和をいただいたことを心の底から喜んで生きることができるために、私たちの救いを完成されるために、イエス・キリストはよみがえられ、よみがえりの朝、私たちに「おはよう」と声をかけられるのです。主はよみがえられ、今も生きておられ、私たちのすぐそばで「シャローム、平安があなたがたにあるように」と声をかけてくださるのです。

逆転サヨナラ大勝利! 私はあまり野球は見ませんが、先日のWBCでも侍ジャパンの逆転大勝利のシーンがありました。「野球はドラマだ、人生だ」などと良く言われます。確かどこかのプロ野球チームの応援歌の歌詞だったような気がします。負けている時は暗い気持ちだったのに、それが一転して、飛び上がらんばかりのもの凄い喜びに変わる。ドラマチックな展開。

本朝与えられましたみことば、先ほどもご一緒にお読みしましたイエス様の復活の朝を記すマルコの福音書16章4節に「ところが」という劇的、ドラマチックなひと言があることに目が留まります。「ところが」。これは予測に反することを伝えるばかりか、イエス様はむごたらしくはりつけになり、死んで、弟子たちは逃げ去り、すべては終わった、深い悲しみと絶望失望という現実を見事に逆転させる一語です。イエス・キリストのドラマの最後の最後になって、誰もが予期しなかった大逆転が起こりました。それがイエス・キリストの復活なのです。復活の朝、最初にお会いした婦人たちも、その知らせを聞いた弟子たちも、初めはそれが信じられませんでした。しかし、それが揺るがない事実だと知り、その意味を悟った時に、彼らは大きな喜びに満たされたのです。それまでの敗北は一転して勝利となり、挫折感は確信にかわり、敗北の悲しみは逆転勝利の大きな喜びに変えられました。そして彼らはイエス・キリストの復活の証し人として立ち上がったのです。

マルコの福音書は、復活の朝の出来事をマリアたち3人の婦人に焦点を合わせて記しているのですが、それは彼女たちが復活のキリストにお会いした最初に人であったことにもよりますが、やはり彼女たちの体験が非常に強烈であったためでもあったのでしょう。そしてその強烈さというのは、8節の「恐ろしかったからである」というみことばによって表されています。しかも、本来マルコの福音書はこの「恐ろしかったからである」で不自然に終わっているのです。8節後半から20節の括弧でくくられている箇所は、不自然な終わり方を補うために後になって追加されたものだとか言われています。また8節で終わってしまっているのは、マルコの病気や迫害といった事情で完成できなかったためだとか、あるいは本来あるべき末尾が何らかの事情によって失われたのだとか、様々な説がありますが、確実な答えは隠されたままなのです。しかしこれもまた神の摂理なのでしょう。「恐ろしかったからである」といった、このような不自然な閉じられ方がされているところにも、何か私たち読者に対する神の御心があり、私たちはそれをしっかりと受け取らなければならないという気がします。

16章1節      さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16章2節      そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。

イエス様が十字架の上で息を引き取られたのは金曜日の夕方でした。アリマタヤのヨセフはピラトに願い出て、イエス様のご遺体を十字架から下ろし、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、ニコデモが持って来た香料と一緒に亜麻布で巻きました。ユダヤの1日は日没によって終わり、日没から始まることは以前にも申しました。そうこうしている内に日没となり、金曜日が終わると同時に土曜日が始まってしまいます。ユダヤの土曜日は安息日と呼ばれる日でした。何も仕事をしてはいけない日でした。それで急いで安息日に入る前に、イエス様が十字架につけられた場所の近くにまだ誰も葬られたことのない新しい墓があったので、彼らはそこにイエス様を納めました。3人の婦人は安息日(土曜日)が終わるとすぐに、夕方のわずかな時間に香料を買いに行きました。そして週の初めの日(日曜日)の早朝、日が昇るとすぐに油と香料を揃えてイエス様の体が納められている墓へ急ぎました。彼女たちがどれほどイエス様を慕い、時を惜しんで励んだかが分かります。この日曜日がやがてイエス様の復活を記念する主の日となり、クリスチャンの礼拝の日になりました。私たちもイエス様を慕い、時を惜しんで励み、主を礼拝する者でありたいと思わされます。

ところで、1節の原文を直訳すると「『彼に油を注ぐかもしれない』と、香料を買った」となります。まさに預言的ではないでしょうか。そこの辺りが少し引っかかり、引っかかった所は調べなさいというのが神学校での教えでしたので少し調べたところ、この「香料」にもまた預言的な意味があることが分かったのです。横道に逸れてしまうかもしれませんが、この機会にお分かちさせていただきたいのです。

「香料」、それはヨハ1939によると「没薬と沈香(じんこう)を混ぜ合わせたもの」です。新改訳第3版までは沈香を「アロエ」と訳していますが、訳す過程での複雑な事情により、間違いのようです。新改訳2017の通り「沈香」が正しいです。没薬に関しては私たちも良く聞く言葉ではないでしょうか。没薬は植物の樹脂で、古代エジプトでは王のミイラ作りには欠かせないものでした。そして聖なる注ぎの油の作り方(出3023-25)にある通り、没薬は聖なる注ぎの油、王や大祭司の任職のために注がれる油に使われました。また死体に没薬を塗って葬る習慣はイエス様の時代にも行われており、イエスの葬りの際にも行われました(ヨハ1939-40)。そして「沈香」ですが、これは沈香樹と言う木から出る香料です。この沈香樹は不思議な樹木なのです。老木や倒木、枯れ木、虫に食害された木が土の中に埋没して、細菌類の作用で傷の内部に樹脂が分泌され、それが蓄積して香木となります。傷つけられ、土に埋もれ、防御のために樹脂がしみ出し、それが燃やされた時に強く甘く心地よい香りを放つのだそうです。それは心の病に効果を表します。つまり人間の内なる人、霊を元気にする香りです。自らが傷を負い、人を癒やす。まさに苦難の僕、イエス様を思い起こさせます。【イザ532-5】「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。…彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」。沈香、それは神の栄光を捨てて人の形をとり、自らを低くして死にまで、それも十字架の死、身代わりの死にまで従い、罪人を救われた主の愛の心、柔和さを表している姿ではないでしょうか。そしてこの救い主にあって新しくされる人の祝福の姿ではないでしょうか。イエス様はご自身が傷つけられ、葬られ、沈香のように、その香りを放つお方となってよみがえられたのです。今も生きてキリストのかぐわしい香りを放っておられます。イエス様が傷つけられ、死んで、墓に葬られ、そしてよみがえらされたのは【イザ5715】「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすため」だったのです。

さて、日曜日の早朝、日が昇ったころ、イエス様を心から慕い、時を惜しんで励む婦人たちはイエス様が葬られた墓へと行きました。イエス様の十字架から葬りまで、墓の入口を大きな石が転がされて塞がれた、その一部始終を見ていた彼女たちは、間違いなくイエス様が納められた墓へと行きました。

16章3節      彼女たちは、「だれが墓の入口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

彼女たちは墓に近づくと、新しい心配が起こってきました。墓が大きな石で塞がれていることを思い出したのです。イエス様が以前に語られていたことは思い出さずに。

16章4節      ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。

「ところが」。劇的なひと言です。ところが、彼女たちが目を上げて見るとどうでしょう。石はすでに取り除かれていました。ここでも私たちは、いつも人間の思いを遙かに越えて障害を取り除かれ、必要な備えをしてくださる神の御手を見るのです。そして、最も取り除かれるべき障害は「不信仰」という、私たちの心の入り口に転がされて、それを塞いでいる大きな石ではないでしょうか。常識では考えられないことに対する不信仰ではないでしょうか。いつもは信じていても、本当の危機の時にはその信仰が働かない。私たちの信仰生活では「石がすでに転がしてあった」という、神の私たちの生活への介入に出会わなければなりません。神に介入していただいて、不信仰という大きな石を取り除いていただかなければなりません。そしてそこからよみがえりの主に出会わなければなりません。「おはよう、シャローム。平安があるように」との生の生きた御声を聞かなければなりません。その経験がなくては、その信仰はどこか借り物で、役には立たず、表面的なものにしかすぎないのです。

16章5節      墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。

この青年は神の御使いです。神の御使いを見て婦人たちは非常に驚きました。びっくり仰天、信じられない、意外な成り行きに驚き呆然としてしまいました。そして同時に、圧倒的な神秘的現象に対して畏れた(畏敬の念を抱いた)のでしょう。そして神からのメッセージを伝える御使いの言葉を聞きました。

16章6節      青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」

御使いは言いました。神からのメッセージを伝えました。「驚くことはない。信じられない出来事にびっくり仰天、呆然としてしまう必要はない。あなたがたの愛する主、イエス・キリスト=油注がれた者は、沈香のようによみがえられたのです。あなたの目でしっかりとご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所に違いないでしょう? 婦人たちもまた「しるし」を求めるユダヤ人でしたから、神は恵みによってしるしを見せられたのです。神は私たちの不信仰を取り去るために、時に恵みによってしるし(奇跡)を見せてくださるのです。皆さんも1つや2つの経験がおありでしょう。

そして神は「十字架につけられたナザレ人イエス」とわざわざ言及しています。これはもしかしたら、私たち人間に不信仰の頭をもたげさせる汚れた霊に対して言われているのかもしれません。マルコの福音書では、もう一人「ナザレ人イエス」と呼んだ者がいました。マルコの福音書の1章で「汚れた霊」がこう叫んでいるのです。「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です」(マコ124)。イエス様はこう叫んだ汚れた霊を叱って言われた。「黙れ。この人から出て行け」。すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った」(マコ124-26)。私たち人間に不信仰の頭をもたげさせる汚れた霊は、イエス・キリストがどのようなお方であるのかを私たちよりもはるかに良く知っています。その権威も知っています。神のメッセージはこの汚れた霊に対して語られたのかもしれません。

同時に婦人たち、後に弟子たち、さらに後には私たちに対しても語られているでしょう。汚れた霊が「ナザレ人イエス」と叫んだ場面は、イエス様が「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われ、十字架に向かわれる公生涯を始められた所です。そしてペテロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟が弟子として召されたところ。イエス様の12弟子もほとんどがこの地方の出身者でした。そこからイエス様と弟子たちとのすべての歩みが始まったのです。復活のイエスは紛れもなく十字架のイエス様でした。弟子たちとともに歩まれたあのイエス様でした。弟子たちとともに福音を宣べ伝え、病を癒やし、悪霊を追い出し、貧しい者、悲しむ者を憐れみ、どこまでも味方となり、優しく語り、福音を宣べ伝えられ、ご自身のみもとに罪人を招かれたあの主イエス様です。最後まで弟子たちを愛し、私たちを愛し抜かれる主イエス様です。「あの方はよみがえられました」。神的受動態が用いられ、復活が神ご自身の働きによることを暗示しています。

16章7節      さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」

主イエス様は復活の後、ガリラヤで待っていると言われていました。弟子たちの、あなたがたの「ホーム」で待っていると。逆転サヨナラホームランを打って、内野ベースを勝利のガッツポーズで一周し、ホームベースに戻り、そこに立ち、両腕を広げてそこで弟子たちが駆け寄ってくるのを待っている。赦しと恵みを施そうと待っている。弟子たちとペテロに伝えなさい。ペテロが名指しされている意味は良くお分かりでしょう。

「あなたがたより先に行かれます。そこでお会いできます」。主イエス様はこれまで通り、弟子たちの先頭に立つ主です。私たちが従って行く主です。ご自身の十字架を前にして弟子たちが散り散りになると予告された時から、回復の予告はすでになされていました。「あなたがたはみな、つまずきます。…しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」(1428)と。そこで会おうと。会ってくださると。かつて生活を共にし、教えられ、数々の奇跡を体験したガリラヤに、彼らは再び集められ、そこからよみがえりの主に従う新しい生活が始まるのです。しかもこのことは「弟子たちとペテロに」とあるように、3度「そんな人は知らない」とイエス様を否定し、自責の念に駆られるペテロを意識して語られました。いや、これまでイエス様を何度も否定し、自責の念に駆られているすべての弟子に語られているのでしょう。

婦人たちは神からのメッセージを聞いてどうしたでしょう。逃げ去ったのです。

16章8節      彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

御使いを通して神は重要な二つの知らせを告げました。あなたが捜している主イエスはよみがえられたこと。わたし(神)がよみがえらせたのだということ。そして主イエスが生前に語られたように、ガリラヤで弟子たちを待っておられ、そこでお会いするのだということ。この知らせを聞いた婦人たちは恐ろしさのあまり震え上がり、墓を飛び出してそうそうに逃げ帰って行きました。彼女たちにとって、この朝の体験はすべてが全く予期しなかったことでした。入り口の石が取り除かれていたことは喜べました。しかし墓が空っぽであり、かわりに御使いがそこにいたとなると、もう彼女たちの限界を越えていました。それにもまして御使いの語ったことばを、彼女たちはどう受け止めたら良いか分からずに、言いようのない不安に襲われてうろたえたのです。そのために3人はすっかりおびえて逃げ帰り、そのことを「だれにも何も言わなかった」のです。

そしてこの8節前半でマルコの福音書は不自然な形で終わるのです。しかし8節後半に付け加えられた補足のような一文は、他の福音書記者が記録してある通り事実です。彼女たちは時が経ち、気が静まってからは、すべてを告げたのです。その間に彼女たちの中で何が起こったのかは分かりません。

復活を信じることと、その教理を知っていることとは違うのです。そして復活は人間の考えを超えたものです。イエス様の誕生も、そして復活も、御使いによって告げられました。それは天からの、神からの使いの声です。それは神からの宣言なのですから、私たちが頑張って証明したり理解しようとしてもできるものではありません。私たちはただそれを聞き、認め、受け入れるだけなのです。神の使い、イエス様を通して天から送られる聖霊によって石が取り除かれなければならないのです。彼女たちはある程度の時を過ごし、神に愛され、愛の中にとどまり、かつて語られたよみがえりの主のみことばを一つ一つ思い起こし、聖霊に扱われ、不信仰という心の入り口を塞ぐ大きな石が取り除かれていったのでしょう。そして彼女たちの告げたことを聞いた弟子たちもまた、同じようにして不信仰という石が取り除かれていったのではないでしょうか。そこから一人、二人と立ち上がり、復活の主にお会いするためにガリラヤへ、ホームへ、主イエス様が両腕を広げて、赦しと恵みを施そうと待っておられるホームへと駆けて行ったのです。私たちもクリスチャン生活を長い間しておりますから、復活の教理は何度も何度も聞いてきたことでしょう。しかし先ほども申しました通り、復活を信じることと、その教理を知っていることとは違うのです。主イエス様の語られたいことばを一つ一つ思い起こし、聖霊の取扱いをいただいて、不信仰という大きな石を取り除いていただきましょう。私は大丈夫。そのような人は一人もいません。イエス様がいなければ、聖霊が注がれていなければ、大丈夫な人は誰一人いないのです。神によって、恵みによって本当に救い主イエス・キリストの復活を信じる者としていただきましょう。なぜなら、復活を信じないなら、イエス様とは何の関係もないからです。私たちの信仰は借り物のようなものだからです。イエス様は今も生きておられる。私たちとともにおられる。今も生きておられるからこそ、日々私たちの負い目を赦し、弱さをとりなし祈ってくださり、常に私たちを見守られ、すべてをご存じでおられ、その時々にかなった生きた御声を聞かせてくださり、私たちはその声を聞き、一歩一歩主に守られ導かれて、平安の内に歩んで行くのです。主が待っておられるホーム、天の御国へと向かって、今も生きておられる主とともに、主に守られながら歩んで行くのです。主が生きておられる。だから私たちは今日も、明日も生きられるのです。復活を本当に信じていないなら、賛美の歌詞にもありますが「イエスがいるから明日は怖くない。イエスがいるから恐れは消える。イエスがいるから人生はすばらしい」と心から賛美できないのです。歌いつつ喜びつつ歩んで行けないのです。罪の悲しみ、絶望失望の中を歩んで行かなければならないのです。

神は人を愛された。そのひとり子をこの世に送られ、私たちの罪のために十字架につけてくださった。イエスは死んで墓に葬られ、三日目の後によみがえらされました。私たちの救い主は今も生きておられるのです。私たちへの愛を示されるために。私たちが罪からの救いを心から喜ぶことができるように。朝焼けの赤く染まる雲を見て、自分の罪が赦されたことに胸を打ちたたいて悲しむのではなく、天を仰ぎ、朝焼けの雲の向こうに生きておられる主を見上げ、罪からの救いを、神を、神の愛を心から喜ぶことができるように。今日も、明日も、主の生きた御声を聞き、主に守られ導かれながら、ホームに向かうその道を希望をもって歩み続けることができるように。そのためにイエス様はよみがえられたのです。主のみことばによって、聖霊によって不信仰という石をのり除いていただきましょう。今日からの歩みも主にお取り扱いいただき、一日一日、朝ごとに、よみがえりの主への信仰を新たにしていただきましょう。主の恵みの内を歩き続けてまいりましょう。イースターおめでとうございます。私たちはイースターを喜びましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す