2023年5月21日 主日礼拝「使徒派遣のきっかけと任命」
礼拝式順序
賛 美 プレイズ「見よ、わたしは新しいことを」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇23篇1〜6節
讃 美 讃美歌162「あまつみつかいよ」
信仰告白 使徒信条 讃美歌566
主の祈り 讃美歌564
祈 祷
讃 美 讃美歌354「牧主わが主よ」
聖書朗読 マタイの福音書9章35節〜10章4節
説 教 「使徒派遣のきっかけと任命」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌224「勝利の主イエスの名と」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書9章38節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書9章35節〜10章4節
説教題
「使徒派遣のきっかけと任命」
今週の聖句
だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
マタイの福音書9章38節
説教「使徒派遣のきっかけと任命」
マタイの福音書9章35節〜10章4節
「類は友を呼ぶ」と申します。気の合った者や似た者同士は、自然に寄り集まるものだという意味があります。また趣味や好みが似ている人が自然と集まり、仲間がつくられるさまを指します。実はこれ、心理学的にも本当なのだそうです。「類似性の法則」と言われるそうなのですが、私たちは自分と共通点が多い人に対して親近感を持つ傾向があるのだそうです。性格や考え方、価値観などが似ていたり、育ってきた環境や経験などに共通点がある似た者同士だと、親しくなり安いのです。似たような言葉として「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」というものがありますが、これは「同類のすることは、その方面の者にはすぐ分かる」という意味のことわざです。「同じ穴の狢(むじな)」というものもあります。一見別なように見えても、実は同類であることのたとえです。いずれの言葉も良い意味でも悪い意味でも用いられますが、今朝は良い意味で捉えたいと思います。人間はコミュニケーションにおいて共感を大切にしますので、同じようなものの考え方や感じ方をしている人と一緒にいた方が、自分を肯定してもらえたり、悩みに共感し合うことができたりするため、安心する傾向があるようです。そのような雰囲気の中で心を開き、相手の声に耳を傾け、互いに受け入れ合うことができるのではないでしょうか。ところが、一番身近で一心同体であるはずの伴侶に限っては、なぜか見た目も内面も正反対ということが多いような気がします。もしかしたら教会、神の家族という共同体も似たようなところがあるのかもしれません。しかし「信仰」というしっかりした岩のような土台の上に建てられているのですから大丈夫です。様々な人が主によって招かれ、呼び集められている。これは教会、ひいては神の国の成長、拡大、完成のためには必要なことであるからだと思います。神はまことに偉大で不思議なことをなさいます。
さて、マタイの福音書は9章の終わりから10章へと入って行きます。10章5節からはイエス様のいわゆる「派遣説教」となるのですが、それに先立って、使徒の派遣のきっかけと12使徒の任命が記されています。
9章35節 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
35節はマタイの福音書4章17節から始まったイエス様の公生涯の働きを要約するみことばです。イエス様は公生涯において、まさにこのことをなさって来たのです。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」(912)と言われました。そしてイエス様は真に良い医者でした。良い医者であるイエス様は、ガリラヤの多くの町や村を巡りました。人々が集まってくるのを待つのではなく、自分から出向かれ、そこに人々が集まって来たのです。そして会堂で神のみことばを教え、御国の福音を宣べ伝え、御国の到来、メシア救い主のしるしとしてあらゆる病気を癒やされました。そしてあらゆるわずらい、心の奥底にある心配や不安をも癒やされたのです。じっくりと一人ひとりに向き合い、深く耳を傾け、その人が癒やされるために必要な癒しをなさいました。「わたしにそれができると信じるのか」、相手に信仰を問われ、「はい、主よ」との信仰告白へと導き、「しっかりしなさい。元気を出しなさい。勇気を出しなさい。あなたの信仰のとおりになれ。あなたの信仰があなたを救ったのです」、信仰によって真に癒やされました。そして癒やされた人はその時から生き生きと生きることができるようになりました。
しかし、そのように一人ひとりにじっくり向き合い、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされる世の良い医者がいつも混んでいてなかなか順番がまわってこないように、イエス様おひとりではすべての人々の必要には応えられませんでした。またイエス様はご自身に対する信仰を通して癒やされる、救われるお方です。世にはイエス様を受け入れる人と受け入れることのできない人たちがいました。恐らく取税人マタイの家に集まった同じ取税人仲間、罪人たちもイエス様を受け入れることのできない人たちであったのかもしれません。しかし同じ取税人仲間、同じ罪人仲間であるマタイを通して、「あのマタイが言うのだから。あいつの招待だから」と、彼らはイエス様を受け入れ、共に食事までするようになったのではないでしょうか。そこでマタイの証しを聞き、イエス様と交わり、福音を聞くことができたのではないでしょうか。そして彼らもまた癒やされ、救われ、主を信じ主に従う者とされたのです。イエス様は神であられますから、何でもおできになるお方です。しかし唯一おできになれないことがありました。不信仰のところではみわざをなさることができないのです。そういった意味においても、イエス様はおひとりではすべての人々の必要には応えられませんでした。
9章36節 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
ガリラヤ地方の各地を歩いてイエス様がご覧になったのは、弱り果てて倒れている群衆でした。世の中の弱り果てて倒れている人々の姿をご覧になって深くあわれまれました。彼らの状況と心の中の思い、心に感じ思っていることに共感されたのです。また「深くあわれむ」とは、内臓が揺り動かされるという意味の語であり、日本でおなじみの表現をするならば「断腸の思い」でしょうか。
イエス様が深いあわれみ、断腸の思いを抱かれた群衆の姿とは、羊飼いのいない羊の群れのように弱り果てて倒れている姿でした。羊は羊飼いがいなければ生きて行けない動物です。先立って出て行き、草地へ導き、水のほとりに導き、そして先立って帰る真実な導き手がいなければ迷い出て、ついには滅んでしまうのです。「弱り果てて」と訳されている語は、皮を剥がされるという強い意味のことばで、外部の圧力によって追い詰められて疲れ果てる、困難や苦しみを受けることを意味しています。また「倒れている」という語は、強圧的な力や暴力などで投げ倒されている、放り出される、打ちのめされているという意味になります。当時の群衆の実際の状況と言えば、ローマの圧政によって貧しい庶民たちがずっと苦しめられて、厳しい環境に置かれてきた状況と重なります。また、そのような苦しみの中、彼らは真の指導者、羊飼いを求めてついて行ったその人が、真の指導者、羊飼いではなかったという悲惨さを見るのです。旧約において羊飼いは王、祭司、預言者たちを指し、羊は民にたとえられていました。羊である民が求めてついて行った羊飼い、王、祭司、預言者たちが偽物だった。羊飼いなる彼らが、養うべき民衆を養わず、民衆が苦しみの中にいることを分かっていながらも、自己の利益を求めて羊を顧みることもせず、自分たちは贅沢をして良い暮らしをしていた。弱った民衆を励まし力づけるどころか、律法を押しつけ、献金をだまし取り、民衆を苦しめる。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを探さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で羊を支配する。彼らは牧者がいないので散らされて、あらゆる野の獣の餌食となってしまっていた(エゼ341-6)。野の獣とは注目すべき語です。羊飼いだと信じてついて行った相手が、実は偶像に仕える者で不法を語る者であったり、偽りを見る占い師であったり、空しい慰めを与える者であったり。それゆえに、人々は羊のようにさまよい、真の羊飼いがいないので弱り果てて、皮が剥がされ、身ぐるみ剥がされ、苦しむのです。全世界がそのような状況。現在もまた同じでしょう。なぜなら聖書は、この世は野の獣、サタンの支配下にあるかのような状況にあると言っているからです。サタンは人間を神に背かせ、神に背を向け神から遠く離れ去るように仕向け、そして投げ倒し、放り出し、打ちのめすのです。
イエス様はこのような群衆、人々、世の姿をご覧になり、深くあわれまれました。真の羊飼い、真の王、祭司、預言者であるイエス様は、偽の羊飼いに翻弄される者たちをご覧になり、共感し、断腸の思いを抱かれる、胸が張り裂けるような思いを抱かれる。これこそ、イエス様の宣教の動機なのです。
「ご存知のとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました」(Ⅰコリ122)。かつてはこのような状況の中にあった私たちをイエス様はあわれみ、選び、召し、その悲惨さの中から救い出してくださいました。宣教を通してです。そしてイエス様のお考えは、羊飼いの働き、王、祭司、預言者としての働き、宣教の働きをお一人で行われるのではないということです。ペテロの手紙第一2章9節にはこのように記されています。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています」(Ⅰペテ29)。私たちを召してくださった方。それは私たちの罪の解決のために十字架に架けられ死なれ、3日目によみがえられた主イエス・キリストです。十字架の贖いによって、十字架の福音を信じる信仰によって、恵みによって、私たちは神の民、神の子とまでしていただいている。サタンに弄ばれあわれみを受けたことがなかった者であったのに、今は神の支えと配慮の中に置かれ、主の深いあわれみを受ける者とされている。この喜びを、私たちは黙っていられるでしょうか。過去の私たちと同じ状況と心情の中にある多くの人々に対して、共感せずにはいられないのではないでしょうか。
9章37節 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9章38節 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
ここで注目すべきは、イエス様は人々の「羊飼いのいない羊」のような極限状態、悲惨な状態ではありますが、けれども彼らの心が福音を受け入れるのに良い準備がされていることと見ておられます。しかし宣教する手の少ないことを指摘され、弟子たちにチャレンジを与えられます。まず、羊飼いのいない羊の群れのような人々のために、神が働き手を遣わしてくださるように祈ることを弟子たちに勧めるのです。
宣教はまず初めに、収穫の主である神に祈り求めることから始まるのです。祈りなしには始まらないのです。自分の情熱だけで走ってしまうならば、どこかで肉の思いに支配されてしまうのです。心一つにして神に祈り求めるのです。イエス様は天に昇って行かれる前に約束されました。「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と(ルカ2449)。主が送ってくださる力。それは聖霊です。宣教の力である聖霊です。そしてイエス様が天に昇られて後、弟子たちは心一つにして祈っていました。そこに聖霊が降り、肉の思いは一掃され、愛と力に満たされて、御霊に燃やされて宣教へと出て行ったのです。
収穫の働き手のために祈るチャレンジを受けた弟子たちは、その収穫のために出て行く者たちとされました。旧約のイザヤは祈りの中でどのような応答をしたでしょうか。「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください』」(イザ61-8)。
収穫の時。それはまさに今でしょう。終わりの時の神の収穫であり、今はその終わりの時なのです。その日その時、神は一人ひとりの内に実があるかなしかで判断されます。ご自分のものとして収穫されるのか、それとも実の入っていない籾殻として燃える火の中に入れられるのか。その実とは、イエス・キリストを信じる信仰です。神がイエス・キリストを世に遣わし、神の判断の基準はこのイエス・キリストを信じるか信じないか、信仰のあるかなしかというはっきりとしたものとなりました。神に祈り、収穫の働き手とされる私たちは、御霊によってイエス・キリストの福音を宣べ伝え、神のみことばを教え、悪霊を追い出し、病わずらいを癒やしていくのです。宣教、福音伝道はこれらの働きを通して成し遂げられて行くのです。信仰の実は、誰かの口や手を通して結ばれるのです。後の記事にも出てきますが、弟子たちの内に肉の思いがあった時、どれ一つとしてうまく行きませんでした。
さてマタイの福音書は10章へと入ります。ここに12弟子が選ばれ、使徒に任命される場面が記されます。ルカの福音書6章12-13節によると、イエス様は徹夜で祈り、その12人を選ばれたことが分かります。イエス様はご自分が真剣に祈り、責任をもって選ばれた12人を呼ばれ、汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。それは霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためでした。ここでは汚れた霊を制する権威が強調されていますが、しかしイエス様はこの世に来られてなされた働きは、みことばを教え、御国の福音を伝え、悪霊を追い出し、病。わずらいを癒やすことでした。イエス様はどこに行かれてもそのどれ一つとして不足なく、バランス良くなされたのです。ですからご自分が選ばれた弟子たちに対しても、同じ働きを望まれていたのです。宣教、福音伝道は弟子たちを通して、弟子たちのこれらの働きを通して成し遂げられて行き、神の国は弟子たちを通して、弟子たちのこれらの働きを通して成長拡大して行くからです。
9章2節 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
9章3節 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
9章4節 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
2節で権威を授けられた弟子が使徒と呼ばれています。これは「遣わされた者」という意味で、マタイの福音書ではここでのみ用いられている語です。
それにしても、使徒に任命された12人の名を見ると、その中には色々な人材が含まれていたことが分かります。まず第一にペテロがあげられていますが、これはペテロが使徒の中でも筆頭の者であったことを示しています。彼はすでに家庭を持っており、相当の年配であったかと思われます。年長者だったのでしょう。それ故にペテロは常に使徒たちの代表として発言しています。そのペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネはガリラヤ湖の漁師でした。ペテロとアンデレは父親とともに家業として漁師をしていたようです。ヤコブとヨハネも同じ漁師でしたが、こちらは雇い人がおりましたから、会社組織で漁業を営んでいたのでしょう。また大祭司の知り合いであったとありますから(ヨハ1816)、相当な家庭であったかと思われます。ピリポは職業が不明ですが、ガリラヤ湖のベツサイダの出身でした。バルトロマイについての詳細は不明です。トマスも職業は不明です。取税人マタイはすでに知らされています。アルパヨの子ヤコブについても詳細は不明ですが、マルコの福音書ではアルパヨの子レビ(マタイ)と同じ父親の名が記されていることから、取税人マタイとヤコブは兄弟であったのかもしれません。だとしたら変化した兄の姿を見てヤコブもイエス様を信じたのかもしれません。タダイもまた聖書にはほとんど登場しないので詳細は不明です。熱心党シモンもまた詳細は不明ですが、熱心党という肩書きが多くを語っているところです。熱心党というのは、ユダヤの愛国的政党で、祖国をローマ政府の圧政から救い出すために結成された政治団体です。この党は熱狂的で、ローマからの自由を勝ち取るためには暴力も死も辞さないと考えていました。したがってシモンも熱狂的な愛国主義者だったのです。しかし彼がこのような運動の限界を知り、イエス様の弟子となったことは非常に興味深いところです。そしてイスカリオテのユダ。イスカリオテとは「ケリオテの人」という意味で、ケリオテというのはユダヤ地方のいわゆる都会的、文化的な町でした。その町出身のユダは、自分も都会人、文化人の部類であるという自覚があったのかもしれません。イエス様は本当にいろいろな過去の経歴を持つ者たちを十二使徒に任命されました。
経歴ばかりではありません。性格や才能もまたバラエティに富んだものでした。ペテロの性格は良く知られています。彼は情熱の人であり、誠実に尽くす心のある人でした。また欠点も多い人でした。直情的な性格であるがゆえに色々と失敗をしでかして、イエス様からもよく叱られていました。弟のアンデレは兄のペテロとは対照的に、真面目で謙虚な性格だったと言われています。兄に比べてどうしても地味な印象がありますが、イエス様と人とを繋ぐ重要な役割を担いました。いわばアシストのプロです。ヤコブとヨハネ兄弟。彼らは気性の荒い性格で、イエス様からは「雷の子」と呼ばれていました。声が非常に大きかったとも言われています。この兄弟のことを実際に知っているある大司教の著書にはこう記されています。「悪人どもをふるいあがらせ、怠惰な人々を目覚めさせ、その深遠さに誰もが驚嘆しないではおれなかった」。声が大きくて気性も荒いとなると怖すぎます。私だったら寄りつかないと思いますが、しかしやはり類は友を呼ぶではないですが、気が合う仲間は集まって来るものなのでしょう。ピリポは親しみやすくも気弱な性格であったと言われています。また聖書を見ると天然発言が多くて面白いです。癒やし系でしょうか。一方で、イエス様に人を紹介するという才能がある人でした。トマスは不名誉にも「疑いのトマス」や「不信のトマス」といった性格を表す呼び名がつけられてしまっています。そして取税人マタイと熱心党シモンは仲が悪かったようです。かたやローマを憎んでいた過激集団に属していた人、かたやローマの手先となっていた人。かたや正義感が強く情熱的な性格の持ち主、かたや罪人たちと酒を酌み交わす人。仲が悪いのは仕方がなかったのでしょうか。しかし二人は互いに影響し合い、互いに研がれるようにして整えられていったのだと思います。アルパヨの子ヤコブですが、これも彼を良く知る偉人の記述による人物像なのですが、「彼はただ一人で神殿に入って膝まずき、民の罪のゆるしを祈るのだった。そして、絶えずひざまずいて神に祈り、民のためにゆるしを乞うために彼の膝頭はらくだのように固くなった」。膝がらくだのように固くなるまで祈り続けるなど凄いです。この短い文章を見ると、彼の信仰熱心でストイックな面が垣間見えます。彼は確かに12弟子の中では目立たない存在ですが、その信仰の強さは確かだったようです。イスカリオテのユダは裏切りのせいで悪人のイメージが強いですが、以外にもその素顔は非常に真面目な常識人だったそうです。都会的なクールさとでも言えるのでしょうか。そのせいか会計係も任されていました。何のためにユダはイエス様に付いてきたのかは不可解な謎ではありますが、そのようなユダをもイエス様は徹夜で祈り、選ばれたのです。
このように、イエス様は様々な過去の経歴や、異なった性格の人物を十二使徒に任命し、彼らを宣教のわざに派遣されました。優秀な人たちばかりではなく、むしろ欠点があり、完璧ではない人間くさい人たち。イエス様はこういった弱さを持った人をあえて弟子として選ばれました。また人には良く知られていない(私たちには良く分からない)人をも選ばれました。世では小さな者として見られていても、主はその人の人となり、心の内の思いもすべてをご存知で、目を留め、そして選ばれたのです。
イエス様は今日でも、私たちの様々な経歴や才能、あるいは多種多様な性格を、福音宣教のために生かして用いようとしておられます。適当に選ばれたのではありません。真剣に祈られ、ご自身のいのちをかけてまで選び召されたのです。私たちの経歴や性格など、決して誇れるものではないでしょう。しかし主は私たちを選び召してくださいました。そのお方が、私たちの弱さも足りなさも、すべてを聖めて、幾倍にも増して用いてくださるのです。
類は友を呼ぶ。蛇(じゃ)の道は蛇(へび)。同じ穴の狢(むじな)。その人にしか入って行けない所があるのです。その人にしか伝えられない人がいるのです。教会には働き手が不足しています。聖徒はみなイエス・キリストの弟子です。主の御声に耳を傾け、それに従う必要があります。主の真剣な祈り、選び、召しに対して、私たちも真剣な祈りで応えたいものです。神の国は人材を必要としています。収穫のための働き手を送ってくださるように真実に祈り、イザヤのように応答する者となりたいものです。主が行けと言われたときに出て行き、主がせよと命じられたことを果たして行くのです。まず祈り求めるのです。色々と足りないものは惜しみなく与えてくださる主に祈るのです。何よりも御霊の満たしを祈り求め、御霊の実に満たされ、正しい宣教の力をいただくのです。私たちも神の愛とあわれみに応えて、喜んで神の国を建設するための人材として、神に聖めて用いていただこうではありませんか。イエス様がこの世に来られてなされたように、みことばを教え、御国の福音を伝え、悪霊を追い出し、病・わずらいを癒やす。イエス様はどこに行かれてもそのどれ一つとして不足なく、バランス良くなされたように、私たちもなして行くのです。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのだ」。ご自分が選ばれた弟子たちに対しても、同じ働きを望まれているのです。主を信じて。信仰によって。宣教、福音伝道は主を信じる弟子たちを通して、弟子たちのこれらの働きを通して成し遂げられて行き、神の国は弟子たちを通して、弟子たちのこれらの働きを通して成長拡大して行くのです。教会に問題が生じる時には、このバランスが崩れていることが多いのかも知れません。病と癒しと悪霊を追い出す賜物があるという教会は、みことばを教えて福音を伝えることが弱いことがあります。また、みことばの教育は熱心だけれども、癒やしなどのみわざを敬遠しているということもあります。主の働きはどれ一つもおろそかにはできません。原始教会ではこれらの働きがすべて行われたことによって、福音が力強く証しされ、教会、神の国は成長拡大していったのです。
私たちは主の深いあわれみをいただき、素晴らしいイエス・キリストの救いにあずかった者たちです。私たちキリスト者は、また教会は神の国のためにキリストの使節として、それぞれ現在おかれている場所や状況に派遣されているのです。私にしか入って行くことができない場所、私にしか伝えられない人のところに、確かなご計画をもって遣わされている。そこでみことばを教え、御国の福音を伝え、悪霊を追い出し、病・わずらいを癒やす。主は私たちを通して栄光をあらわすことができることを期待して待っておられます。そのことを覚え、今から主に祈ってください。祈りによってすべての必要を満たしていただき、御霊に満たしていただき、祈りの中で「はい、主よ。アーメン。」と信仰をもって応答し、その信仰告白の上にしっかりと自分自身を立たせ、元気を出して、勇気を出して御霊によって宣教へと前進してまいりましょう。主はまず私たちを身近な人々のところへ出て行くようにと命じられます。